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玻璃のまどろみ、言の葉の塵 ―音のない世界が触れる言葉―  作者: 初 未来


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第三話 言葉のない辞書

 冬の入り口、帝都を濡らす雨は、氷を溶かしたような冷たさを含んでいた。喫茶「白昼夢はくちゅうむ」の窓には、細かな雨粒が幾千もの水晶のように張り付き、歪んだ街の景色を映し出している。小夜さよは、カウンターの上で、古びた真鍮しんちゅうの計りを見つめていた。針は揺れず、重みだけがそこにある。


 彰人あきひとが、いつになく憔悴しょうすいした表情で現れたのは、そんな日の夕暮れ時だった。彼の外套は雨を含んで重く、いつもの誇り高い背中が、わずかに丸まっている。彼は挨拶もそこそこに、いつもの席へ腰を下ろすと、何も手に取らず、ただ自分の両手を見つめていた。


 小夜は、彼が「言葉」を失っていることに気づいた。翻訳が進まないのではない。言葉という、彼と世界を繋ぐ唯一の鎖が、今、千切れようとしているのだ。小夜は熱い白湯を淹れ、彼に差し出した。湯気の向こうで、彰人の眼鏡が白く曇る。


「……小夜さん。僕は、自分が何を書きたいのか、わからなくなってしまった」


 唇の動きは小さく、頼りない。小夜は彼の言葉を拾い集めようと、無意識のうちに身を乗り出した。


「異国の言葉を日本語に置き換える。それは、ある魂を別の肉体へ移し替える作業だ。……だが、僕にはもう、その『肉体』の温度がわからないんだ」


 彰人は、自分の右手を卓の上に投げ出した。ペン凧のある指先が、わずかに震えている。彼は、自分が綴る「愛」や「哀しみ」という言葉が、虚空を掴むような、空虚な記号に思えてならないのだという。


 小夜は、胸の奥が痛んだ。言葉の天才である彼が、言葉に絶望している。彼女は、何も言わずに彰人の傍らへと歩み寄った。そして、生まれて初めての勇気を振り絞り、彼の震える右手に、自分の左手をそっと添えた。


 ひやりとした冷たさが伝わる。雨に濡れた彼の肌は、まるで死者のように凍えていた。彰人が、驚いたように顔を上げる。小夜は首を振り、彼の手のひらをそっと上へと向けさせた。


 彼女は、自分の指先を、彼の掌の真ん中に置いた。そして、ゆっくりと、祈るような足取りで指を滑らせる。文字を書くのではない。ただ、彼の皮膚の溝を、生命の線を、慈しむようになぞる。


(ここに、熱があります)


 小夜は心の中で、強く念じた。耳が聞こえない彼女にとって、肌が触れ合う感覚は、何万文字の美文よりも雄弁な「言葉」だった。指先が、彼の掌の上で円を描く。それは「温もり」という名の、形なき辞書。


 彰人の呼吸が、次第に深くなっていくのを、小夜は指先から伝わる脈動で感じ取った。


 ――ドクン、ドクン……


 それは、紙の上には決して記述されることのない、生の調べだった。


「小夜、さん……」


 彰人の指が、小夜の指に、微かに絡みついた。逃げることも、追うこともできない、絶妙な均衡。小夜は、彼の掌に、今度は一点の強い力を込めた。


(あなたは、生きている)


 その確かな重みを、彼に届けたかった。彰人の瞳から、鋭すぎる光が消え、代わりに、滲んだような柔らかい潤いが宿る。彼は、小夜の手のひらをじっと見つめ、そして、自分の左手を重ねようとして――。


 指先が、空を斬った。触れ合おうとする瞬間に、小夜は本能的な恐怖で手を引いてしまったのだ。あまりにも強く繋がりすぎれば、彼が去った後、自分という存在が粉々に砕けてしまうことを、小夜の魂は予見していた。


 彰人の手は、虚空で寂しげに彷徨い、やがて力なく卓へと戻った。けれど、彼の瞳には、先ほどまでの絶望は消えていた。


「……目に見える言葉だけが、真実ではないのですね。小夜さん。君の指先が、僕の知らない言葉を教えてくれた気がします」


 彰人は、傍らにあった万年筆を手に取った。それは、彼が再び「死の世界」から「生の世界」へと戻るための、細い杖のように見えた。彼は原稿の余白に、一言だけ、書き記した。それは小夜には見えなかったが、彼の筆圧は、卓を突き破るほどに力強かった。


 外の雨は、いつの間にか、静かなみぞれへと変わっていた。窓を打つ音が消え、世界はより一層、小夜の領域である「静寂」へと傾いてゆく。二人の間にある「言葉のない辞書」は、ただ一回だけの接触で、決定的な一頁を開いてしまった。


 その白濁した静寂の中で、小夜はただ、再びペンを走らせ始めた彰人の背中を見つめ、祈るように、またいつか、次の瞬間が訪れることを待っていた。

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