第一話 指先の追伸
店内に流れる時間は、古い琥珀の中に閉じ込められた羽虫のように、粘り気を帯びて静止していた。窓外の帝都は、家路を急ぐ馬車の轍音や、どこか遠くで響くお針子の笑い声を運んでいたが、この店を隔てる厚い煉瓦の壁は、それら全ての卑俗な喧騒を撥ね退けている。
久世彰人が座る卓の上に、西日が最後の一条を投げかけていた。彼は翻訳の途上にある原稿を前に、万年筆を休ませている。その指先には、夜の色を溶かしたような青黒いインクが、勲章のように、あるいは拭い去れぬ罪過のように付着していた。
小夜は、銀の盆を胸元で抱き締め、彼から数歩離れた位置に立ち尽くしていた。彼女の視界の中で、彰人の背中が微かに上下する。それは、彼が今この瞬間も、命という名の空気を吸い込んでいる証だった。小夜は自分の胸に手を当て、耳では捉えられぬ彼の呼吸の「旋律」を、視線だけでなぞった。
不意に、彰人が顔を上げた。眼鏡の奥の、翳りを帯びた瞳が小夜を捉える。小夜は心臓を、冷たい氷水に浸されたように跳ねさせた。
「音のない世界」に生きる彼女にとって、彼の唇の動きこそが唯一の言葉だった。
「……小夜さん。こちらへ」
声という実体を伴わぬ、唇の柔らかな動き。小夜は、絹擦れの音さえ立てぬよう、吸い寄せられるように彼の傍らへと歩み寄る。一歩進むごとに、彼が纏う煙草の葉と、異国のインクの、そして男の肌が持つ微かな熱の匂いが強まっていく。
彰人は、卓の上に置かれた詩集の、ある一頁を指差した。そこには、異国の言葉で愛の苦悩が綴られている。彼は万年筆を持ち直し、原稿の余白に、日本語という名の優雅な鎖でその詩を繋ぎ止めていった。
「この箇所を、どう思いますか」
彼は小夜を見上げ、問いかけた。小夜は唇の動きを読み、ゆっくりと卓へ身を乗り出す。二人の距離が、決定的なまでに縮まった。
小夜の着物の袖が、彰人の外套の肩に掠れそうになる。彰人の指が、原稿用紙の上で静止した。
小夜は、彼の指先を見つめた。彼の万年筆を握る右手の、人差し指の第二関節にある小さなペン凧。そして、白磁のように滑らかな手の甲を走る、微かな蒼い静脈。小夜は、自分の右手をそっと卓の上に置いた。
――小夜の指先と、彰人の指先。
そこには、数ミリメートルという、けれど海よりも深い断絶が横たわっている。もし、この指先を、あとほんの少しだけ滑らせれば。彼のインクに汚れた指に、自分の指を重ねることができたなら。
彰人の呼吸が、一瞬、止まったのを小夜は見逃さなかった。彼は、小夜の指がすぐそばにあることを、その皮膚の産毛が触れ合うほどの至近距離で感じていた。彼の視線が、原稿から小夜の指先へと移り、そして、彼女の白い手首へと這い上がる。
小夜の手首に巻かれた、細い組紐。彰人は、それを解きたいという衝動に駆られたのか、それとも、その紐の先にある彼女の心臓の鼓動を確かめたかったのか。彼の右手が、無意識のうちに小夜の方へと、震えながら動いた。
――指先が、空気を掻く。
触れるか、触れぬか。その瞬間、店内の柱時計が「五時」を告げる重厚な音を立てた。床を伝わる微かな振動。小夜はその震えを足の裏で感じ、夢から覚めたように指を引っ込めた。彰人の指もまた、行き場を失ったまま、虚空で微かに屈折する。
「……美しい、訳だと思います」
小夜は、実際には聞こえていない彼の訳文に対し、声を震わせながら答えた。彰人は、力なく自嘲気味な笑みを浮かべ、視線を落とす。
「美しいものは、いつも手に届かない。そう思いませんか、小夜さん」
彼は、万年筆を静かに置いた。卓の上には、重なり合えなかった二人の影だけが、長く、寂しく伸びていた。
小夜は、彼に注いだ珈琲のカップを下げようとして、その縁に触れた。それはまだ、彼が口をつけた余熱をはらんでいた。その僅かな温度だけが、小夜にとって、彼から許された唯一の「抱擁」だった。
窓の外では、雪が舞い始めていた。帝都を白く塗り潰すその欠片たちは、まるで行き場を失った二人の言葉の塵のようだった。小夜は、冷えていく珈琲の香りを胸一杯に吸い込み、視界を滲ませた。
彼は、いつか行ってしまう。このガラス細工のような静寂を、その重い外套で薙ぎ払って。
「白昼夢」の扉の真鍮の鈴が、冷たい風に吹かれて、ひどく寂しげな音を立てていた。




