第8話:冥界
世界が折り畳まれるように歪んだ。
瞬きする間もなく、俺はそこにいた。
――冥界――
ダンジョンには、俺が戦った際に流れた血が、まだ生々しく残っていた。
誰も掃除をしていない。
おそらく、この場所を埋めていた者たちが消えたことすら、気づかれていないのだろう。
ヴェクサに教えられた通りに進む。
空になった牢獄の列を通り過ぎるたび、足音が虚しく反響し、空気は次第に冷たくなっていった。
……彼女の言った通りだ。
やがて、外へと辿り着く。
そこから真っ直ぐ進むと、ほどなくして森が見えた。
まるでホラー映画に出てくるような森だった。
歪んだ木々、濃い影、四方から押し潰すように迫る静寂。
冷静さを保っていた俺も――門の前に立った瞬間、それを失いかけた。
その向こうにそびえ立つのは、古びた屋敷。
壁はひび割れ、今にも崩れそうで、窓は暗く、虚ろだった。
庭には無数の骨が散乱している。
おそらく、この場所に足を踏み入れた愚か者たちの成れの果てだ。
俺は答えが欲しかった。
だから――引き返す選択肢はない。
一歩、踏み出した。
それだけで十分だった。
背筋を這い上がる不快感。
誰か――いや、何かに見られている。
一つの判断ミスで、即死してもおかしくない。
ここでは、慎重さを欠くことは許されない。
たとえ、目の前に子供が現れたとしてもだ。
この場所は危険だ。
だが、弱さを見せるわけにはいかない。
俺は進んだ。
本能が引き返せと叫び続ける中、無理やり足を前に出す。
近づくほど、空気は重くなり、胸を圧迫してくる。
入口に辿り着き、中へ足を踏み入れた瞬間――
確信した。
……誰かがいる。
《結論:敵意は検出されません》
……は?
俺は即座に、まだ鞘に収まったままの剣の柄に手を伸ばした。
握り締めた指が白くなる。
屋敷を満たす気配は、圧倒的だった。
重く、濃く、まるで膝をつかせようとしてくるかのようだ。
敵意なし……それで、この圧か?
片手を剣に添えたまま、階段を上る。
表情は平静を装いながらも、内側では全神経を研ぎ澄ませていた。
最上階に辿り着くと、そこは書庫のような部屋だった。
壁一面に並ぶ本棚。
薄暗いが、内部を確認するには十分な明るさがある。
そこに――四人いた。
まず目に入ったのは、瓜二つの男が二人。
彫像のように動かず立っている。
背は高く、整った顔立ち。
蒼白な肌、鋭い眼差し、完璧に仕立てられた黒のスーツ。
執事……だろう。
ただし、人の仕える存在ではない。
次に、女。
深紅のワインをグラスで揺らしながら、悠然と寛いでいる。
その動きは、あまりにも余裕に満ちていた。
美しく、洗練され、
この空間のすべてが自分に従うと知っている者の自信を纏っている。
そして――少女。
玉座と見紛う椅子に腰掛け、脚を整えて組み、
半眼の視線は、まるで世界そのものに退屈しているかのようだった。
年は十五にも満たないだろう。
それでも、その存在感が空気を押し潰している。
四人の視線が、同時に俺へ向けられた。
誰一人、動揺しない。
完璧な落ち着き――だが、警戒が空間を満たす。
ここで得る情報は、タダでは済まない。
一言一言が、代償を伴う。
――人間?
しかも、普通。
少女の目が細められる。
思考が、そのまま視線に滲み出ていた。
やがて、彼女が口を開いた。
「どうやって、ここへ入った? 人間」
落ち着け。
この圧に飲まれるな。
「俺のことも知らないのに」
俺は平静な声で返す。
「侵入経路が、そんなに重要か?」
……ちっ。
このガキ、やるな。
「ふふ……無礼を許してあげましょう」
彼女は小さく笑った。
「私はミレイユ。ドレヴァス家の女王」
「で、あなたは?」
「身の程を知らぬ人間ですね」
隣の女が静かに言った。
「女王に跪かず、名乗らせるとは。首を刎ねても構いませんよ」
「口を挟むな、セレスティーヌ」
ミレイユの声は低く、だが絶対的だった。
「……俺はヒューバートだ」
視線は、ミレイユから逸らさない。
彼女はわずかに身を預け、俺を見据える。
「目的は?」
「人間は、吸血鬼にとって上等な食料なのだけれど」
「……お前を探してた」
彼女の目が鋭くなる。
「何を望む?」
「情報だ」
「内容は?」
「……タダでくれるのか?」
彼女は薄く笑った。
「見返りに欲しいものが、思いつかないわ」
「それに……どうせ私は、ここで死ぬ」
「……システム?」
《結論:彼らはこの場所に拘束されています。
外部空気組成より、封鎖結界を確認。
屋敷の劣化状況と照合――結論:監禁状態。
誇り高き存在が自発的に住む理由は存在しません》
「……解放できるか?」
《結論:肯定。可能性を確認》
「なら――解放する」
セレスティーヌは疑わしげに眉をひそめた。
可能なのか、それは。
双子の執事は、ただ薄く笑った。
「できるなら」
ミレイユは落ち着いた声で言う。
「どうぞ」
俺はそれ以上何も言わず、屋敷を後にした。
「ミレイユ様……本当に、あの男が?」
セレスティーヌが問う。
ミレイユの表情は変わらない。
「成功するなら――」
「“あの人”と一致するわ」
屋敷を出た直後、空高く――
黒い球体が浮かんでいるのが見えた。
脈動し、異様な陰を大地へ落としている。
俺は、それに向かって飛び上がった。
……あれが、結界の核か。
「思いつく方法は一つだな」
右手を掲げ、五指を広げる。
「――《曲がれ》」
指を、ゆっくりと握り込む。
球体は抵抗しながらも、少しずつ縮んでいった。
補強された魔力は強固で、一撃では壊せない。
空気が震え、地面が激しく揺れる。
やがて――
拳が、完全に閉じた。
黒い球体は、砕け散った。




