第7話:俺は戻る
部屋に戻ると、俺はそのままベッドに身を投げ出し、天井を見つめた。
俺はこの世界を救うために送り込まれた――
だが、どうやって?
指示はない。明確な敵もいない。始める場所すら示されていない。
あるのは、壊れきった巨大な世界と、その真ん中に放り出された俺だけだった。
ベッドの上で体を起こし、縁へ移動し……やがて立ち上がると、少女たちの寝室へと向かった。
少しでも頭を整理したかった。もしかしたら、彼女たちなら何かヒントをくれるかもしれない。
部屋の前に立ち、ノックをする。
まだ起きていたのか、ヴェクサが立ち上がり、扉を開けた。
小さな笑みを浮かべ、ドア枠にもたれかかる。
「ご自分の屋敷で、ノックする必要はありませんよ、我が主」
「じゃあ、次からはしないよ」
リリはすでに眠っていた。静かな寝息を立て、穏やかな表情で。
まるで、ほんのひとときだけでも、すべての悩みから解放されているかのようだった。
「……安らかそうだな」
俺はそう言いながら、リリから目を離さなかった。
「あなたは?」
ヴェクサが尋ねる。
「眠れないのですか?」
「ええ」
彼女は小さく頷いた。
「体は疲れているのに、どうしても眠れなくて……」
「何か、怖いものでもあるのか?」
「眠ると……夢の中で、誰かが私を待っているのです」
ヴェクサは囁くように言った。
「姿ははっきりと見えません。ただ、その“存在”だけで息が詰まるのです。
考えや理屈から生まれた恐怖ではありません。
それは、古傷がどうやって刻まれたかを、体が覚えているような――そんな感覚です」
彼女の指が、ぎゅっと強く握り締められる。
「彼が私に害をなすとは思っていません。
それでも……本能が、思考よりも先に拒絶するのです。
理解してはならない何かを、知っているかのように」
喉を鳴らし、彼女は言葉を続けた。
「怖がりたくないのです。
心の闇が、彼の正体を決めてしまうのは……嫌なのです」
俺は視線を落とした。
二人の間に流れる沈黙が、やけに重く感じられた。
「ヴェクサ」
ゆっくりと口を開く。
「君の夢に出てくるその人物……俺は、怖いか?」
顔を上げ、彼女を見つめる。
「……俺が、その人物なのか?」
彼女の息が詰まった。
「えっ……? そ、そんな……! ありえません!」
「あなたが、我が主が、そんなはず……!」
「嘘だ」
俺は静かに、だが断定的に言った。
その一言が、彼女を打ち砕いた。
「……はい!」
涙が堰を切ったように溢れ出す。
「……はい……怖いです」
その答えは、想像以上に胸に響いた。
「……そうか」
俺は小さく呟いた。
「……分かった」
ヴェクサは膝をつき、震えながら言葉を絞り出す。
「誤解しないでください、我が主……!
それは、憎しみではありません。ただ……あのダンジョンが……」
「もし、あの時……命乞いをしなければ……
もし、あなたが私を拾ってくれなければ……
ファルドラムは、私を殺していたでしょう」
「その恐怖が……消えないのです。
だから……どうか、あなたのせいだとは思わないでください……」
俺は一度、目を閉じた。
再び口を開いた時、声は冷たく、はっきりしていた。
「……あのダンジョンで起きたことは、二度と繰り返させない」
目を開く。
「あの時は、必要だったからやった。
だが、今は違う」
一歩、前へ出る。
「今、俺の下にいる以上――
俺は、ファルドラムにできなかったことをする」
言葉に刃が宿る。
「お前を守る。
リリも守る。
誰にも、二度と指一本触れさせない」
ヴェクサの目が見開かれた。
その誓いの重さに、言葉を失っている。
「……それなら……」
彼女は静かに頭を下げた。
「この身、この心、すべてをもって仕えます。我が主」
「……ああ」
俺は視線を逸らした。
「……分かった」
「そうだ、忘れるところだった」
首の後ろを掻きながら言う。
「いくつか、聞きたいことがあって来たんだ。
……答えられるだけの余力はあるか?」
「もちろんです、我が主。
何でもお尋ねください」
言葉を選びながら、俺は問いかけた。
「かつて……国境や領土争いじゃない理由で始まった戦争はあったか?」
「裁きとか、救済とか……そういう概念に関わるものだ」
「うまく言えないが――」
「……ありました」
ヴェクサが、俺の言葉を遮った。
彼女の表情は引き締まり、いつもの柔らかさは消えていた。
「始まりは知りません。
ただ、遥か昔……人類と、その向こう側の存在との大戦がありました」
「冥界の王すら巻き込み……
“大公家”までもが動いた戦争です」
「大公家?」
彼女は頷く。
「冥界を支える四つの柱。
王の血を引く《ルレス家》。
《サリエル》《ゼイラ》《ドレヴァス》」
「冥界のすべては、この四家によって統治されています。
王座に就けるのも、その血を引く者だけ」
「四家のうち、三つは立ち上がりました。
戦い、そして……代償を払いました」
顎に力が入る。
「……ドレヴァス家だけは、違いました」
「戦わなかったのか?」
「逃げたのです」
彼女は冷たく言い放った。
「戦争が始まると同時に、領地を捨て、戦場から完全に姿を消しました。
責務よりも恐怖を選んだ、支配家系……」
失望を隠そうともしていない。
「それ以来、ドレヴァスの名は“恥”として語られています」
「行き先は分かるか?」
「いいえ。
ですが……彼らが“住んでいた場所”なら」
俺は彼女を見つめた。
「教えてくれ」
ヴェクサは頷いた。
「私たちが最初に出会った、あのダンジョン。
その奥に、封鎖された出口があります」
「西側拘束区画のさらに先。
崩れた鉄門の裏に隠された、管理用通路です」
「そこを力ずくで開け、進めば……
石の質が変わります。
壁は古く、冷たくなっていく」
喉を鳴らす。
「その道は、冥界ではありません」
俺は耳を澄ませた。
「外に出ると、森があります。
枯れているのに倒れない木々。
焼け焦げたように黒い幹」
「地面は常に湿っていて……
音が、正しく届かない場所です」
情景が、はっきりと脳裏に浮かぶ。
「森を振り返らず、まっすぐ進めば……
崖に辿り着きます」
「その岩壁に埋め込まれるように、巨大な屋敷がある。
――かつての、ドレヴァス家の邸宅です」
“かつて”。
「戦争以前の場所。
今も手つかずで、門は封じられ、結界は生きています」
声が低くなる。
「誰も近づきません。
盗賊も、悪魔も……」
「なぜだ?」
「屋敷が……“覚えている”からです」
「自分を捨てた者たちを」
沈黙が落ちた。
――いい。
そこから始められる。
ヴェクサは目を伏せた。
その失望は、隠しきれていない。
「冥界が最も必要とした時に、逃げた家です」
「生き残ることを選んだだけの、大公家……」
拳を握り締める。
「私は、ドレヴァス家を尊敬しません」
「……そうか」
そして――
この世界に来て初めて、俺の中に“方向性”が、はっきりと形を成した。
「今日は、もう十分だ」
「ありがとう。
……もう一度、休め」
俺は踵を返した。
「待ってください」
足を止める。
「……今すぐ、行くつもりではありませんよね?」
彼女の声には、明らかな不安が滲んでいた。
振り返る。
「……なら、なぜ道を教えた?」
彼女は一瞬迷い、首を振った。
「せめて……朝まで待ってください」
しばらく、沈黙。
「……分かった」
ダニエルは、正しかったのかもしれない。
俺は……最初の存在じゃない。
朝が来た。
部屋を出ると、ヴェクサとリリが並んで立っていた。
しばらく前から、待っていたかのように。
「おはようございます、ヒューバート様」
二人が揃って言う。
「おはよう、二人とも」
リリを見る。
「よく眠れたか?」
「はい、我が主」
彼女は柔らかく答えた。
次にヴェクサへ。
「お前は?」
「ちゃんと眠れたか?」
「はい、我が主」
そう答えてから、首を少し傾げる。
「……あなたは?」
「ははっ」
俺は軽く笑い、話題を逸らした。
「朝食は?」
「はい。下で準備しています」
「じゃあ、冷める前に行こう」
キッチンへ向かい、席につく。
食器の触れ合う音だけが、静かに響いていた。
やがて、俺が口を開く。
「リリ。
しばらく、出かける」
彼女は即座に顔を上げた。
「どこへですか?」
「ドレヴァス家を探しに」
「ひえっ?!」
椅子から立ち上がりかける。
「ひ、一人で?!
危険です! 見つけたら、何が起きるか……!」
俺は落ち着いた目で、彼女を見返した。
「違いはない、リリ」
「相手が強すぎれば……
誰が行こうと、全滅だ」
「……分かりました、我が主」
リリは視線を落とす。
「……どうか、生きて戻ってきてください」
「ああ。
戻ってこないと困るからな」
椅子を引き、立ち上がる。
キッチンを出て、屋敷を後にした。
足音が、背後で反響する。
扉の向こうで、リリとヴェクサが並んで見送っていた。
不安を抱えながらも、主を信じて。
「……本当に、戻ってくると思う?」
リリが小さく尋ねる。
ヴェクサは即答した。
「ええ」
「マスターは、約束しましたから」
「……必ず、戻ってきます」
一秒も無駄にせず――
「――《シフト》」




