第12話:私の従者たち
私はルシアンの顔面に向かって拳を叩き込んだ――警告なし、躊躇なし。
ルシアンは軽やかに身をかわした。両手は背中に組んだまま。
私の拳が空を切る中、彼は静かに言葉を発した。
「……ふむ」
ルシアンはじっと観察するように呟いた。
「なるほど。良いですね、我が主よ。もう少し経験を積めば……あなたは、さらに素晴らしい存在になる。――いや、“素晴らしい”を超えた何かに」
チッ。
無意味だ。
私は地面を強く踏みつけた。
足元の岩が砕け、粉塵が爆ぜるように舞い上がり、視界を覆い尽くす。
私は、その中へと消えた。
次の瞬間――
私はルキウスへと飛びかかった。
彼は元いた場所に立ったまま、こちらを見ていた。
……笑みを浮かべて。
そして、すべてが止まった。
私は空中で止められていた。
衝撃もない。掴まれてもいない。
ただ……拘束されている。
身体が、動かない。
ルキウスは小さく首を傾げ、楽しそうに微笑んだ。
「少し待っていてください、我が主よ」
軽い口調で言う。
「靴ひもを結ばないといけないので」
そう言って、ゆっくりと靴に手を伸ばそうとした。
拘束が弾けた。
筋肉が悲鳴を上げる中、私は無理やり身体を動かす。
「……へぇ。思ったより強く結んでなかったみたいだ」
ルキウスが小さく囁いた。
私は一瞬の隙を逃さず突進した。
間を与えない――与えるわけがない。
跳びかかり、連続した蹴りを放つ。
ルキウスは最小限の動きで全てをかわした。
私が拳に切り替えた瞬間、彼はその拳を掴み、その勢いを利用して私の頭上を跳び越えた。
着地する前に捕まえる。
私は身体を捻り、そこにいるはずの位置へと向き直った。
……いない。
感覚が鋭く弾ける。
引き寄せられるように意識が向いた先――
前ではない。
背後だ。
さっきまで、彼が立っていた“同じ場所”。
……どうやって?
ルキウスは私のシャツを掴み、わずかに顔を近づけた。
「まだ靴ひも、結び終わってなかったんですよ。我が主よ」
軽やかに言う。
「……ケッ」
次の瞬間、ほぼ全力で――
私は空へと投げ飛ばされた。
地面が一瞬で消えた。
山が急速に小さくなり、空気を引き裂くように上昇する。
耳元で風が咆哮し、視界が白に染まる。
雲だ。
私は、すでに雲に到達していた。
「……何かがおかしい」
ルシアンが静かに言った。
風化した岩に腰掛けていたミレイユは、足をぶらつかせながら彼を見た。
薄く、すべてを理解しているような笑みが浮かぶ。
「……やっぱり、あなたも気づいているのね」
「ええ」
ルシアンは頷いた。
「ハバート様は、意図的に魔力を使っていない。意識的に、です。……なぜか、考えざるを得ない」
ルキウスが髪を整えながら答えた。
その表情に動揺はない。
「我々に、主の思考が読めるとでも?」
淡い光が瞳に宿る。
「……とはいえ、軽い刺激で何か見えるかと思いましたが」
ミレイユは小さく息を漏らした。
「……ふふ。その機会は、もう過ぎたわね」
私は落下し始めた。
一瞬、恐怖が身体を支配した。
――飛べることを忘れていた。
風が咆哮し、地面が凶悪な速度で迫る。
だが、私は意識を集中させた。
世界が、遅くなる。
私の表情は凍りついたように静まり返った。
風の音は遠くなり、世界は沈黙に包まれる。
空を舞う鳥たちが、無関心に翼を打ちながら横切っていく。
数瞬前の混乱など、存在しなかったかのように。
激しい落下は、静かな下降へと変わる。
姿勢を整え、私は空を滑るように降下していく。
空そのものが、私に道を譲ったかのように。
ミレイユは岩の上から空を見上げていた。
ゆっくりと立ち上がり、私が雲を背に降りてくる姿を見つめる。
「……なんて、壮麗な光景」
彼女は息を呑むように呟いた。
「ええ、ミレイユ。まさに、圧巻です」
ルシアンが妖しく微笑んだ。
私の靴底が地面に触れる直前――
ミレイユ、ルシアン、ルキウスの三人は、完全に同時に片膝をついた。
深く頭を垂れ、跪く。
私の足が静かに地面に降りた瞬間、ルキウスが口を開いた。
「我が主よ……あなたが境界を越えた瞬間、我々は理解しました。
骨の奥で、魂の奥で“感じた”のです。
それはすでに定められていた運命でした。
その瞬間から――我々は、あなたに従うと」
ゆっくりと息を吸う音が、静寂を裂いた。
「遥か昔――冬灰のような髪を持つ一人の女が、未来を視て語りました。
“特別な存在”が現れると。
その言葉は、ただ一人にしか当てはまりませんでした。
至高の存在。
裏切りなど、最初から存在しない。
あなたを拒むという発想そのものが、我々には存在しないのです」
初めてだった。
ルキウスの顔から、あの不敵な笑みが消えたのは。
そこにあったのは、真剣さと、誠実さと、わずかな脆さ。
「どうか、もう一度……我が主よ。
我々を、お受け入れください」
私は沈黙したまま立っていた。
何も表情に出さず、ただ彼らを見下ろしていた。
誓約の重みが、煙のように降り積もる。
やがて、私は静かに言った。
「ルキウス、ルシアン。
家の皆を守れ。
……俺には、少し行く場所がある」
「ありがたきお言葉」
ルシアンは胸に手を当て、外套を強く掴んだ。
抑えきれない笑みが、歪んだ形で滲み出る。
「その評価を受ける資格は、まだありません」
ルキウスも言ったが、口元は喜びで歪んでいた。
「行け」
私は静かに言った。
「皆が、家で待っている」
「御意のままに」
その言葉は、誓いそのものだった。
私は、彼らの背中を見送った。
ルキウスが先頭を歩き、細い山道を下っていく。
ルシアンが、そのすぐ後ろを静かに続く。
そしてミレイユ。
小さく、か弱く見えた。
迷子の子供のように、山を下っていく姿。
彼女は道の曲がり角で立ち止まり、振り返り、
小さな手を、控えめに振った。
私はしばらく動かなかった。
冷たい風を受けながら、ただ見つめていた。
やがて、ゆっくりと手を上げ、短く応えた。
それは不思議なほど、重い動作だった。
彼らは霧の中へと消えていった。
足音が、砂利を踏む音が――
やがて、それすらも消えた。
私は、その場に立ち尽くした。
ここが、場所だ。
この平坦な岩場。
ルキウスとルシアン――
“自分の従者”と向き合った場所。
私は荒く息を吐いた。
「……完全に、やらかしたな」
震える声で呟く。
「自分の部下の前で、盛大に恥かいた」
怒りと混乱が言葉になって溢れ出る。
「どう振る舞えばよかったんだよ……
屋根の下で暮らしてる“悪魔”たちが、
人生最大の脅威に見えた時にさ。
理不尽だろ。異常だろ。
反射だったんだよ、全部。生存本能だ。
……俺は人間なんだぞ」
私は膝をつき、
そのまま、冷たい岩の上に仰向けに倒れた。
両腕を広げ、
夕空を見上げる。
群青と黄金が溶け合い、
星が、傷のように浮かび始めていた。
風は静かで、無関心だった。
「……簡単じゃない」
かすれた声が、空に溶ける。
狂気が消え、
悲しみが、静かに沈殿する。
私はただ、空を見つめていた。
痺れるような疲労と、空虚な静けさの中で。
山は、古代の沈黙のまま――
何も語らず、ただ私を抱いていた。




