12月1日(3) 大英博物館と緩衝材としての長髪
同時2話更新の1話目です。
徒歩5分の場所にバス移動はしない。このホテルは大英博物館と地下鉄の駅との距離で選んだ。
「あの大きな建物はなんだ? 女神の神殿か?」
「違います。博物館です。これから中に入ります」
まあ、ギリシア神殿へのオマージュ成分はあるかもしれないが。
さて、いよいよ本題の大英博物館だ。
大英博物館は入場料無料だが、事前にチケット予約をすると、優先的に入場できる。予約チケットを2枚とってキャンセルしなかった私、先見の明だろうか。いや、美丈夫を現地調達できるかもしれないと思ったことは一度もない。
「なんだこの部屋は!どういう魔法だ!」
「ああ、こういうガラスの天井は大歓迎ですよね。とりあえず、私、こっちの部屋にある聖遺物見たいんですけどいいですか」
「聖遺物?」
「イエス・キリストや聖母マリアや聖人の遺品です。昔の教会ではそういう聖遺物がないと聖餐を行うことができなくて……」
「イエス・キリストとは誰だ」
あ、タイムリープ説、完全棄却。いや、洗浄魔法でほぼ棄却してましたけどね。
そういえば昨日から「どういう魔法だ」と叫んでいたな。魔法の存在自体には問題を感じていなかったらしい。
「このあたりの者の不思議の一つだ。一人残らず文字を読むことができるのに、誰一人魔法を使おうとしない」
「使おうとしないのではなく、使えないのです。私も家族も友達もみんな魔が使えません」
「なんということだ。生活が不便でならないだろうが。用を足した後の片付けも、身を清めるのも、食事の支度も魔法なしではできないだろうに。と言うか、あれを水で流す器は魔法ではないのか?」
「流す器?あ、トイレのことですね。あれは魔法ではなくて水を管で引いて来たのを流しているので魔法ではありません」
「ではお湯が大量に出る魔法は?」
「建物の端の方で引いて来た水を火で温めています」
「そう、このあたりの男は皆、髪が短いのだが騎士はいないのか?髪が短いと洗うのが楽で便利そうだな」
「騎士はいません。っていうかそれ以前に馬が少ないです。兵士を含め、長距離移動は馬ではなく車に乗るのがほとんどです。っていうか騎士は髪が長いのですか?」
「ヘルムをかぶるとき、頭に巻きつける。衝撃吸収に便利だ」
中世騎士の長髪は西洋鎧用ヘルメットの緩衝材だったのか。
大英博物館の正面玄関を入ってすぐの右手の部屋には、ロスチャイルド男爵が収集したルネサンス時代の芸術作品が展示されている。
「あ、これです、私が見たかった聖遺物」
「宝石と金の細工がすばらしいが、多少古ぼけているな」
「600年前のものですから」
「これが聖人の持ち物だったのか?」
「死んだ時に身につけていたものですね。ここで多くの人が信じている宗教を創始した人はイエス・キリストといいます。イエス・キリストは当時一般的だった宗教と違うことを言ったのでに死刑にされました。死刑になったときに茨の冠を被せられたという話でして」
「死刑囚だから甚振られたということだな」
「そうですね。そしてその茨の冠の棘の一つがこの中に収められているということになっています」
「死刑囚が死んだ時に身につけていたものが、か? ああ、これが茨の棘か。血痕が見えないのだが」
「まあ、これもイエス・キリストの死後1400年経ってから作られたものなので、真偽を断定するのは難しいですよね」
「死刑囚だったら寝台の上で静かに息を引き取ったわけではないのだろう?そのような痕は特に見えないとはいえ、これほど物騒なものをこれほど美しいものに収めるのは、変わった趣味だな。」
「聖遺物はもとは教会にあったものです。イエス・キリストや聖母マリアや聖人の遺品を収めてある場所で行われる儀式に正当性があるという決まりがあったので、信者は挙ってそのような聖遺物を手に入れようとしたとのことです。手にいれたからには大切にして、祭り上げたでしょうね」
「リリカ嬢はその神を信じているのか?」
「信じているかいないかと言われたら、信じていません」
「そうか。信じている者は多いのか?」
「多いですね。このあたりは特に多いと思います」
「リリカ嬢は違う神を信じているのか?」
「あまり信じていませんが、両親に恥じない生き方をしたいと考えているので、私にとっては家族が神のようなものかもしれませんね。フィリップさんの故郷は? 神様を信じている人が多いのですか?」
「だれもが女神様を信じている。すべてが女神様の思召であり、女神様を信じる者のみが死後天界で生活できるという考え方で、女神様を敬う者が祝福される。不幸なことがおこると女神様を敬う心が足りなかっただとされる。近年はどうもその考え方を利用する生臭い聖職者が増えているような気がしてならない」
どこかで聞いた話だな。
1号室は啓蒙思想の時代に収集されたものの部屋だ。他の部屋と比較するとあまりまとまりがない。
「これはなんだ?人魚の死体?いや、人魚にしては小さい」
「日本の近海で捕まえられた人魚という触れ込みで収集されたようですが、実際にはサルと魚を縫い合わせたみたいです」
「日本とはどこだ?」
「私の国です」
「遠いのか?」
「六千マイルくらいでしょうか」
「リリカ嬢はここまでどうやって来たのだ?転移魔法でも使ったのか?」
「違います。ええと、空を飛ぶ乗り物に乗ってきました」
「ここの人は魔法が使えないと言うが、空を飛ぶ乗り物というのは魔法ではないのか」
いわゆる一般教養は身につけているつもりだが、立ち話として航空力学を説明できるほどの知識はない。
「あそこの人だかりには何がある」
「イースター島のモアイです。南の島の先住民がつくった、祖先を祀る石像です」
「この裏にある彫り物は鳥と……うむ、大切なものだ。大切なものだから、その、祀る異国があっても不思議はない」
言語チート、文字も読めるのね。そして異世界転生美丈夫は意外と恥ずかしがりなのね。落ち着いて見えるけれどももしかして実は若い?いや、こういう世界観だと十五歳くらいで成人して結婚して十七歳くらいで子供ができるのでは?そういえば叔母さんが十四歳で甥っ子を産んだと言っていたよね。
「フィリップさんはお子さんいらっしゃるんですか?」
「いや、子はいない。それどころか、まだ身を固めていない。父上の跡取りの揉め事があり、関係のない令嬢を危険に巻き込むわけにいかず、この年まで遅れている」
「この年って何歳ですか?」
「次の誕生日で二十歳になる」
「なんだ、まだ若いんですね」
「リリカ嬢は、その……」
「先日三十歳になりました」
「……どういう魔法だ。どう見ても叔母上の年にしか見えない」
「いくらなんでもそれは言い過ぎでしょう」
日本人は若く見られるのは知っているが、実年齢の半分以下はありえない。南欧の男性のようにとりあえず褒めるのだろうか。っていうか十四歳に見えるって褒め言葉なのか?
次に見たい展示は4号室にある。大広間はもとは中庭のような構造にする計画もあったようだが、実際にはガラス張りの天井の下に展示物と土産物屋とカフェコーナーがある造りが採用された。
「フィリップさん、こういう絵があったらトイレがある場所です」
「トイレ?ああ、あの水で流す魔法の器か」
「そう、手を洗ってはいけない方です。男性用と女性用があるので、男性用に入ってくださいね。カフェコーナーの物を食べたり飲んだりしたくなったら私に言ってください」
「言えば店員が用立てるのか」
「私がお金を払えば」
「高貴な身分だと献上されるということはないのか」
「この国に身分制度は……あ、イギリスは貴族いるんだった。高貴な身分でも買い物をしたらお金は払います。あと、身分制度は普段はあまり大切じゃありません」
「金を払わずに持ち去る者はいないのか」
「店員さんが見ていますし、ここは博物館の警備員もいますから。警邏の世話になりたくなかったんですよね。あ、他の店でもダメですよ。そこのお土産屋さんは最後に入る予定です。欲しいものがあったらとりあえず私に言ってください」
手癖が悪いことをしてスコットランドヤードのお世話になるのは嫌だ。
嫌だと思っていることは非合理的だと気づいたのは数時間後だった。