12月1日(2) イングリッシュブレックファーストと異世界転移
同時2話更新の2話目です!
このホテルの朝食はセルフのビュッフェ方式だ。ホール担当に彼の分は部屋につけてほしいと伝えると、席に案内される。このような場所のコーヒーに期待はしない。席に案内してくれたスタッフには紅茶を頼み、料理をとりに行く。皿にスクランブルエッグ、ベーコン、マッシュルーム、ハッシュドポテト、ベークドビーンズ、焼きトマトにトーストを盛り付けていくと彼も真似をする。席に戻るタイミングで長身美女のホール担当が熱い紅茶をカップに注いでくれる。ミルクを足して飲むと濃くておいしい。
「美しき乙女」
「昨日からそうおっしゃいますけどどうも違和感があります。私はスズキ・リリカと言います」
「では美しきリリカ嬢」
美しくないし、嬢というのもやっぱり違うような気がするけれども、結婚式場で打ち合わせをしていたときはブライダルプランナーにお嬢さんと呼ばれていたからこのあたりが妥協点なのかもしれない。
「感謝を伝えたい。ひもじい時に食事を恵んでもらい、暖かな寝床と……その……部屋……」
「トイレです。トイレと言います」
「すばらしいトイレだ。すばらしい服も用意してもらった。そして今、すばらしい食事を口にしている。いや、先ほどの食事もすばらしかった……」
「テイクアウトのサンドイッチが、ですか?」
「そうだ。白いパンは言うまでもなく、あのような味の肉は初めてだった」
「ああ、コロネーションチキンサンドですね」
「瓶詰めの果汁も美味だった。服を用意してもらい、この素晴らしい食事も用意してもらった。本当に感謝しかない。このソーセージは美味だな」
「そうですね。豚肉のソーセジです」
「この赤い実も美味だ。ほどよい酸味がソーセージによくあう」
「トマトです。私も焼いたトマトは初めてです」
「すばらしい。このカリカリしたものは?これもまた美味だ」
「ハッシュドポテトです。ジャガイモを細かく切って焼いた物です」
「ジャガイモというのも初めてだ。異国の食べ物なのだな。異国の服、異国の食事、異国の部屋。惜しみなく私に与える美しき異国の乙女」
だから美しくないし乙女ではない。そしてこれは普通のホテルの、この国では普通の朝食ビュッフェで、一律15ポンドくらいだ。まあ、確かに美味しいけど。
「リリカ嬢が力ある名家の聡明な娘であることは火を見るよりも明らかだ。心から感謝している。だが––」
フィリップさんの表情が少し厳しくなった。
「––リリカ嬢が用立てる路銀で目指すようにと言うファルコンブリッジ村は、昨夜、私が自分の寝室を抜け出した時に目指していたファルコンブリッジ村ではない。そうであろう、リリカ嬢?」
あ、私と同じ結論に到達している。
ちなみに私はフィリップさんと日本語で話している。すくなくとも私としては。朝食中に確認したところ、昨日の店員やレストランのホールスタッフや他の客の言葉も、私の言葉も同じに聞こえるとのことだ。ホールスタッフとのやりとりは、店員の英語にフィリップさんが日本語で答えているように聞こえて違和感がすごかったが、相手はまったく気にしていなかった。おそらくフィリップさんにはこの世界の人の言葉は自分の母語に聞こえて、こちらの世界の人間もフィリップさんの言葉が自分の母語に聞こえるのだろう。
昨日のDVシェルター名刺もそうだ。店員さんからすれば、片言英語を話す小柄な東アジア系女性が、大柄な白人男性に言語能力をなじられているように見えて、不安になり、念の為と安全確保の方法を伝えた。フィリップさんからすれば、今まですらすらと第一言語を話していた私の言葉のレベルが突然低下した。
つまり、フィリップさんには受信と送信双方向の言語チートが作動している。
言語チート。
洗浄魔法。
騎士。
これ、異世界転生ラノベの基本事項ではないか。
「そうですね。昨日私が言ったファルコンブリッジ村の西の端には馬小屋もフィリップさんの着替えもないと思います」
「では、ここはどこなのだろう?」
簡単な問いだが、この状況では哲学的ですらあるかもしれない。
「私にとっては旅先です。ロンドンという、英国連邦という国の首都です。ここは観光客向けの宿の食堂です。宿代は特別高くもなく特別安くもなく、中くらいです。でもフィリップさんが知りたいのはそういうことではありませんよね?」
「やはりリリカ嬢は聡い。先ほども話したが、刺客が寝室に入って来た。護衛と揉み合っている隙にワードローブに逃げ込み、その場ではことなきを得た。私のワードローブはベッドフォード村にある秘密の出口につながっている。道は迷路のようになっていて、出口に辿り着く方法は一族の者しかしらない。だが逃げている私を追うことができれば話は別だ。途中で追手がかなり近づいて来たので、巻くために袋小路に入ったら、美しき––」
「李梨花です。李梨花と呼んでください」
「リリカ嬢のもとに来た次第だ。リリカ嬢も見た通り、戻る道のようなものは見当たらない。先ほどの部屋と、この服とこの食事を見て、ずいぶんと遠くに来たということはわかった。だが、ここに来た方法も戻る方法もわからない」
どう考えても彼が言っていることはおかしいのだが、どう見ても彼が嘘を言っていたり妄想を語っているように思えない。視線は目の前にあるものをしっかりと捉えているし、程よく低い声が紡ぐ言葉は道筋よく思考を共有する。
まあ、私が美しくなくて乙女ではないということは別として。
ラノベの読みすぎと言われそうだが(実際、元婚約者にはよく言われていた)フィリップは異世界転移(私から見れば逆転移)したのだろう。そうすると水洗トイレや大手量販店の涼感素材やトマトに馴染みがないのも、言語チートと洗浄魔法も説明がつく。
「何か身に覚えはありませんか?予想外の部屋に入ったとか、不思議な道具を手にしたとか、魔法使いの恨みを買ったとか」
「追っ手を巻くための袋小路は別に特別なものではなく、道具も仕掛けもない。私が身につけていたのは麻の寝着とこの指輪だけだ。恨みなら、叔父の手の者がいくらでも抱いているだろう。魔法は、まあ、私を含め使える貴族は多いな」
来た道を戻ればなにか手がかりがあるのかもしれない。でも来た道そのものがないなら、元の場所に戻る方法が全く思いつかない。そもそも元の場所がどこなのかわからない。それこそブックマーク登録3件くらいのウェブ小説家が生み出した中世と近代と魔法が同居する、ピンク色の髪のヒロインが待っている場所かもしれない。そして仮に元の世界に戻れたとしても、刺客とやらに追われている。しかも刺客を放ったのは叔父もしくは関係者。
気の毒としか言いようがない。
誰に相談したらいいのだろう。
地元警察に相談だろうか。
ホテルのフロントに事情を話し、警察に出頭する方法を教えてもらい、フィリップさんを受け渡し、先方にはわかる範囲で説明する。
その場で然るべき筋に相談しなかったのは浅はかだったが、身の危険は一切感じなかったこと。
空腹そうだったので食事を提供し下履きなしのパジャマは気の毒だったので量販店で服を見繕ったこと。
彼は紳士的な善人だから、自分の家に帰れるよう、協力してあげてほしいということ。
うーむ。
そんなことをしたところで、フィリップさんが元の世界に戻れる道筋が見えない。それどころか、善良な常識人として扱われる未来すら見えない。
そして私も同時に回収および長時間拘束されることが予想される。
冗談じゃない。私は大英博物館とバッキンガム宮殿に行くのだ。ロンドン観光を堪能して、明後日パリに行くのだ。
こうなったら、今やるべきことは一つ。
「フィリップさん、今は帰るのちょっと厳しそうなので、とりあえず息抜きしませんか?」
「息抜き?」
「そうです。これ以上ここで考えても、戻る方法は見つからなさそうです。遠くまで来てしまったということは追手も来ないということですよね?ここはロンドンです。世界的に有名な観光地で、面白いものを見て、美味しいものを食べて、楽しく過ごしたら何か新しい考えが生まれるかもしれないし、生まれなくてもその間は楽しいからそこからまた頑張れますよ」
「だが、私は着の身着のままで逃げて来た身だ。ここの貨幣の持ち合わせがないのだが––」
「いいの、いいの、フィリップさんはそんなこと気にしないで。私、この街は明後日までいる予定です。それまでは一緒に楽しく観光しましょう。それ以降のことはこれから考えましょう」
婚約破棄されたので勘違い美丈夫と楽しくロンドン観光します、なんて小説投稿サイト作品のタイトルみたいだ。
それこそブックマーク登録数3件くらいの。