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11月30日(3) クレカ決済とロンドン旗艦店

 フィリップさんの言う通り、本当に膝丈シャツ一枚で大丈夫だった。寒そうなのに。パンツ履いていないのに。(まあ幸いそのあたりは見えないけど)


 廊下ですれ違ったホテルスタッフには軽く挨拶されるだけ。

 ロビーにいる他の観光客には見向きもされない。

 日本人みたいに他人のことを気にしないのかな。


 フィリップさんはというと、かなり興奮している。


「部屋が動いた! どういう魔法だ!」

「エレベーターです」


「天井が光っている! どういう魔法だ!」

「照明です」


「ガラス窓が勝手に開いた! どういう魔法だ!」

「自動ドアです」


「馬なしで馬車が走っている! どういう魔法だ!」

「ええと、燃料の油を燃やして車輪がまわります」

「道の舗装も滑らかだ。あの大きな馬車も油を燃やしているのか?」

「あ、バスのことですか?そうですね。あの、えーと、馬車は乗合です。あれに乗って服屋に行きましょう」


 フィリップさんには予備のクレカを渡し、ホテルを出てすぐのバス停でバスにのる。絵に書いたような赤い二階建てのロンドンバスだ。ロンドンの公共交通機関は大手クレカが使える。入り口でIC付きカードをかざして乗車すると、フィリップさんも真似をする。


「なるほど、大きな乗合馬車はこのようになっているのだな。乗車賃は降りる時に払うのか?」

「そのカードをさっきの装置にかざした時に払ったことになっています。このバスの路線内は一律の金額なので」

「ツケの証明の母印のようなものか」


 少し違うけど完全にはずれているわけではないので良しとしよう。


 目指すは日本大手衣料量販店のロンドン旗艦店だ。商品を20分程度で選べば、在来線への乗車を見届け、地下鉄でホテルまで戻り、シャワーを浴びて日付が変わる前に寝ることができるはずだ。


 ロンドン旗艦店は私が思い描く日本大手衣料量販店とかなり違った。五階建の建物の造りはどことなく古風で威厳がある。何も知らない日本人はここで保温インナーが買えると想像しないだろう。館内のディスプレーも革張りのソファーやペルシアっぽいカーペットが使われていて、日本の地方都市にある店舗とはあきらかに違う。夜8時近いのにそれなりに賑わっているのは、ここの服がロンドンでもそれなりに人気ということだろう。


「階段が動いている! どういう魔法だ!」

「フィリップさん、行きましょう」


  エスカレーターに乗って男性服売り場に向かう。商品自体は同じだが、サイズは違っていて、店舗でも190 cm以上でアスリート体型のフィリップさんにあうサイズが買える。シャツとセーターと、日本では販売終了になったニット地のジーンズに、保温肌着とボクサーブリーフと靴下と靴とダウンぽいけどダウンではない上着を選び、フィリップさんを試着室に送り込む。


「美しき乙女」


 美しくないし乙女ではないけど、試着室の中から声をかけられたので、着替えたフィリップさんを見てみる。


 シャツとニットとジーンズのサイズはあっているようだった。

 だがニットの上に白の長袖の保温下着を着る成人男性は初めてみた。

 カムフラ柄のボクサーブリーフをジーンズの上から履く人も。


 美丈夫がやると「幼稚園児の自力お着替えの再現」ではなく「前衛的なファッションに」なるから不思議だ。


「これでは違うのか? 緩めの服が肌着であろう」

「フィリップさんの服はそうなのですね。このあたりの服は逆がほとんどです。ピッタリした肌着で汗を体から離して、体の周りに一定の空間をつくって暖かさを保ちます。」


「なんと」

「フィリップさんが一番外側に来ているこのシャツと下履きが肌着です。ブルーのシャツとグレーのジーンズはその上に着ます。グリーンのニットはその上です」


「ニットとはなんだ」

「セーターです。フィリップさんはジャンパーって言うのですか?」


「ジャンパーとは何だ」

「その緑色の服です。それを一番上に着てください」


 正しく着用すると謎のパジャマ男フィリップはは大手量販店のトータルコーディネートになった。なったはずなのだが、この男が着るとハイブランドの雑誌広告にしか見えない。


 見惚れていると、フィリップさんは眉を顰める。


「おかしいか? この街の女性のようか?」

「女性?」

「美しき乙女の服に近いだろう?」


 美しくないし乙女ではないが、そういえば自分の今日の服装もチノパンとシャツとニット。しかも同じブランドだから、当然色合いも被る。


「このような服は男女ともによく着ますよ。ここまで来る間に見たでしょう? フィリップさん、とてもお似合いです。どう見てもこの街の人間です」


 かなり高スペックの。


「そうか」

「そうですよ。ちょっと待ってください。店員さんを呼んできます」


 店員さんを呼んで、英語で伝える。

『彼はこの服が全部好きです。私は全部買いたいです。タグを全部切ってください』


 フィリップさんは首を傾げた。

「美しい言葉を話せるのなら、なぜそわざと下手に話す。異国の姫の趣を意図して求めているのか?」


 店員さんの顔が一瞬こわばるが、すぐに元に戻る。プロだ。

『お連れ様の英語は上手ですよ。少々お待ちください。お連れ様はこちらへどうぞ』


 試着室のすぐ外に案内された。ハサミを持った別の男性店員とすれ違う。タグを切ってくれる店員さんだろう。


『何か困ったことがありましたらいつでもご連絡ください』


 最初の店員さんに名刺を渡された。量販店なのに。すべてが日本と違う。


 服一式と靴は意外と高く、円安もあり、日本の倍はした。それでもこの時間であれくらい賑わっていたのだから、かなりの人気なのだろう。ロンドンで売っている他のメーカーの男性服はわからないので、素早く必要なものを手に入れるのには最善の選択だ。


  ここからセント・パンクラス駅に直行したいところだが、スマホのバッテリーがかなり減っている。地図アプリを酷使したせいだろう。モバイルバッテリーはトートバッグの中で、トートバッグはホテルにある。ここで一旦ホテルに戻らないと、セント・パンクラスからの帰り道が危うい。


「フィリップさん、忘れ物をしたので、一旦ホテルに戻ります」

「ああ」


 行きでは興奮気味だったフィリップさんだが、帰りはかなり無口だ。渡したクレカで一緒に乗車し、席に座ってバスの外の景色を眺めている。憂のある表情も美しいこの人だが、色々とやばい。膝丈のシャツという実質パジャマ姿で自室(というのも怪しく、閉鎖病棟の個室だったかもしれない)から秘密の扉(というのも妄想かもしれない)100キロ離れた場所のクローゼットまでどうやって辿り着いたと言うのだろう。ファルコンブリッジ村が目的地というのも妄想で、近くの精神病棟から来たのかもしれない。どんなに顔が良くても、とりあえずご引き取り願いたい。


 ロンドンって交番あったっけ?

 このままスコットランドヤードに向かうべきなのだろうか?

  あ、無駄な検索するとバッテリーが切れる。とりあえずホテルに戻ろう。


 先ほど店員にもらった名刺を見てみる。店員の名刺ではなく、「女性援助」のようなことが書かれている。よく見てみると、DVホットラインのようなところらしい。


 フィリップさんが私の英語を悪く言っているように聞こえなくもない言葉を発したら、店員はフィリップさんを軽く窘めて、私は女性支援センターの案内を渡された。


 そしてフィリップさんの服のタグは切り取られ、私は会計をし、今ホテルに戻るためバスに乗っている。


 私の英語は店員に通じた。


 私の英語はフィリップさんに通じた。そして(なま)って聞こえた。


 フィリップさんの日本語は店員に通じた。そこにはなかったDVの可能性まで拾い上げられた。


 日本の衣料量販店のロンドン旗艦店の店員にもなると、日本語ができるのだろうか。


 フィリップさんは英語も話せるのだろうか。

 っていうか、むしろあの顔で日本語が話せることが不思議なのだろうか。


 だめだ、眠気で思考が停滞気味だ。


 フィリップさんも眠いのだろうか。行きではあんなに騒いだバス停からの帰り道も、通りかかったサンドイッチ屋で適当にサンドイッチを買った時も、ホテルの自動ドアを通る時も、ロビーを通過するときも、エレベーターに乗るときも、言葉少なかった。


「フィリップさん、バッテリーあったから、出発しますよ。トイレは大丈夫ですか?」

「ああ、あの魔法の部屋か。大丈夫だ」

「買ったサンドイッチは乗り換えた後の列車で食べてください。お腹すいているんじゃないんですか?」

「ああ、感謝する」


 ふと鏡を見ると、ひどい顔になっている。14時間のフライトの前にアイメイクなんかしたくせに羽田から髪を一度も結び直していない自分が悪い。バスルームの鏡の前で軽く化粧直しをして髪をとかす。この姿で店員とやりとりしていたのか。確かに何かあったと思われてもおかしくない。


 バスルームを出ると、フィリップさんは片方のベッドにうつ伏せで寝ていた。


「フィリップさん?起きてください!フィリップさん!」


 叫んでもゆすっても叩いても死んだように眠っている。


「フィリップさん!」


 私はシャワーを浴びてサンドイッチを食べて寝るのだ。起きたらイングリッシュブレックファーストを食べて大英博物館に行くのだ。


「フィリップさん!」


 地下鉄に乗せたら適当に巻くのもいいかもしれない。


「フィリップさん!」


 私はシャワーを浴びるのだ。


「フィリップさん!」


 そして寝るのだ。


「フィリップさん!」


 引き摺り出すにはでかすぎる。


「フィリップさん!」


 だめだ、起きない。


 日本標準換算で4時起きの徹夜をした私の集中力は途切れた。体が勝手に隣のベッドに潜り込む。頭部が枕に接触するのとほぼ同時に意識は途切れる。


 私のロンドン初日は人生最高の美丈夫のいびきを聞きながら終わった。


 いや、もしかしたら聞こえていたのは自分のいびきだったのかもしれない。

某有名衣料メーカーのロンドン旗艦店には27.5 cm以上のシューズはありません。これは異世界ファンタシー小説です。ご了承ください。


いや、つっこむところは他にいくらでもあるのは承知しております、はい。

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