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11月30日(2) 999番と水洗トイレ

「美しき乙女、ここがどこだか教えてくれないか」


 美しくないし、乙女じゃないし、ホテルのクローゼットから知らない男が出てくると、ここがどこだかこっちが聞きたくなる。


「ここはどこだろうか?ファルコンブリッジ村からは遠いのか?」

「ごめんなさい、私、観光客なのでこのあたりの地理に明るくなくて」


 謝るべきは私ではなく、ネットで予約したホテルのクローゼットから出て来たそっちだろうけど。


「通路の出口はファルコンブリッジ村の西の端にある馬小屋のはずだ。ここは美しき乙女の私室か?」

「私が泊まるホテルの部屋です。ここは村ではなくてロンドン市内です。ファルコンブリッジ村は存じておりません。道に迷ったのでしたら、ホテルのフロンドに一緒にいきましょうか?あと、警察に相談してもいいと思います。警察、呼べば来ると思いますけど……私、観光客だからよくわからなくて……」


 謝る以前にまともに相手にしてはいけないのだろうけれども。知らない男がホテルの部屋のクローゼットから出てきたら、普通は犯罪者か変質者か両方と認定して、駆け足で逃げて然るべき機関に通報するのが正しい。ホテルの警備とか、警察とか、消防とか。ロンドンだから110番とか119番ではなく999番か。このスマホで繋がるかなあ。


「警察とは警邏のことか?警邏は叔父上に繋がっている可能性がある。面倒なことは避けたい」


 知らない街の知らない女の知らないクローゼットから出てきて、これ以上どう面倒になるというのだ。そんなこと言われてもという私の表情を読み取ったのか、男は跪いた。跪くとちょうど目の高さが同じくらいになる。どんだけ脚長いんだ。腹立たしい。私の傷心欧州旅行の初日(注:食って寝る)を邪魔しているだけで十分腹立たしいのに。


「失礼。私はフィリップ・エセックス。事情があって寝室を脱出したらここにたどりついた」

 夜這いが彼女の家族にバレたのか。

「脱出したのは自分の寝室だ」

 夜這いではなかったのなら……

「私が望まない女性が寝室に潜んでいたというわけでもない」

 また頭の中がバレている。この人がすごいのか、私の考えが顔に出過ぎているのか。

「刃物を持った男が寝室に入ってきた。おそらく叔父上の手の者だ」

 叔母さんを誘惑したのか。

「叔母上は14歳で、会ったことはない。多くは知らないと思うが、最近男児を産んだので、欲が出ているかもしれない」


 やっぱり考えはバレているらしい。そして叔父さんはロリコンらしい。14で子供産ませたら警察沙汰じゃないのか?


「叔父上のことは恨んではいないし、父上の跡取りが叔父上であっても別に良いのだ。私としては叔父上を一領民として支えたいのだが、私を父上の後継にと考える者がいるようで……」


  あ、叔父さんロリコンという考えはバレなかったのね。

 ふうん、お家騒動か。いつの時代の話か。昭和か。いや、元禄か。元禄案件で私の傷心欧州旅行の予定(注:食って寝る)が邪魔されているのか。


「そして叔父上を跡取りにという者もまた多い。警邏には双方の関係者がいると思う。私の命を奪う者がいたということが公になれば、全面的に争うことになる。それだけは避けたい。叔父上と会って話がしたい。そのためにもファルコンブリッジ村に行かねばならないのだ。美しき乙女、ファルコンブリッジ村はどの方向だ?」


 美しくないし乙女じゃないし地元民じゃないんだけどなあと思いつつ、スマホを手にして地図アプリを開いてしまう私は低姿勢の人に弱いらしい。

 美丈夫だと特に。


「あ、あった。ファルコンブリッジ村。お城があるんですね」

「そう、行きたいのは城を出て村の西の端の馬小屋だ」

「ファルコンブリッジ村は、ここからだいたい100 km…ええと、60マイルです」

「そんなには歩いていない」


 そんなこと言われても。


「タクシーだと1時間くらいですが10万円、ええと、500ポンドくらいです。ちょっと高いですね」

 出て行ってくれるなら交通費くらい出そうかなと思ったけど10万は出さない。


「美しき乙女、つかぬことを聞くが、タクシーとは何だ?」

 だから。美しくないし乙女ではないしタクシーはタクシーだ。

「車です。お金を払うと行きたいところに連れて行ってくれます」

「辻馬車のことか?金の持ち合わせはない」


「お金がないなら、公共交通機関ですよね。ここから歩いて5分の地下鉄ラッセルスクエア駅で乗車して、セント・パンクラス駅まで一駅、そのあと在来線に乗り換えて1時間ちょっとです。地下鉄の切符代くらい、私が払いますよ。なんだったらセント・パンクラス駅の乗り換えまで一緒に行きましょうか?今から出発すれば…」

「今何時だ」

「8時です。いまから出発すれば9時半くらいにはつきます。あ、その前にもう少しパジャマっぽくない服を着しましょうか。私が適当に用意しますよ」

「古着を用立ててくれるのか。それは助かる。大きさをあわせられるよう、私も参ろう」


 考えているのは古着ではなくて、話の種として行ってみようと思っていた大手日本衣料量販店のロンドン旗艦店なのだが。このホテルから20分のところにある。


 パジャマでロンドンの街中を歩いて不審者認定されてしかるべき機関(警察とか消防とか保健所とか)に回収されたら、それはそれでいいのか?いや、一緒に歩いている私も同時回収される。それは嫌だ。フィリップさんの服は言ってみればただの膝丈シャツ。下に短パン的なものがあるかどうかも怪しい。かと言って確認したくないけど。


「目立ちませんか、その服」

「大丈夫だ」


 大丈夫なのか?


「その前に美しき乙女に大切な相談がある」

「美しくありませんし乙女じゃありませんが何でしょう」

「用を足したいのだが、この部屋ではどうすればいい?」


 それは確かに大切な相談だな。


 バスルームの通常型洋式(温水便座なし)トイレを指差すと、首をかしげたので、実際に座って見せた。もちろん着衣で。

「ここに座って、液体でも固体でも出してください」

「液体と固体––あー、わかった」

「実際には下履きをさげてください」

「下履きは履いていない」


 その情報は不要だ。


 立ち上がってトイレの水を流して見せると、大きな翡翠色の目をこぼれ落ちそうなくらいに見開いた。

「ごゆっくり」とやや不本意な言葉とともにバスルームのドアを閉じて荷解きを始めた。


「拭くのはどうすれば」とドア越しに恥ずかしそうな声がした。

「右にある紙です」

「紙? これか?」


 カラカラと音がする。


「そう、それです」

「塊をちぎりとるのか?」

「薄くて柔らかい紙が巻物になっています。必要な分を巻き取って使ってください」


 カラカラカラカラという音がした。使い方がわかったらしい。


「使った紙はどこに置けばよい」

「出た物と一緒に水で流します」


 水が流れるのとほぼ同時に「どういう魔法だ!」という声がした。


 そしてそのまま扉が開いた。


「手は洗いましたか」

「あの水で手は洗えない」


 あ、トイレの水のことか。

 確かにあの水では洗えない。

 洗面の蛇口と備え付けのハンドソープを解説することになった。蛇口を捻ってお湯が出てくるとトイレを流したのと同じくらい目を丸くしたが、手をハンドソープ洗わせてバスルームから追い出した。


 私だってトイレ使いたい。

日本の110番案件も119番案件もロンドンでは999番にかけます。もちろん携帯電話でも繋がります。ファルコンブリッジ村というのはイギリスには実在しませんが、話の設定上近くにそういう名前の村が在来線で1時間ほどの場所にあることにしました。実際にはニュージーランドに同じ名前の村があるようですが、フィリップが目指しているのはその村ではありません。

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