11月30日(1) 婚約破棄と新婚じゃない旅行
初めての投稿、ドキドキです。よろしくお願いします。
「俺は婚約を破棄する」
「はい?」
婚約破棄って確か、乙女ゲームの舞踏会で悪役令嬢が王子にされるやつ。日本の地方都市のファミレスで給与所得者の私が同じく給与所得者の彼にされるやつではないはず。そもそも近所のファミレスに呼び出して自分の予定を語っている段階で、それは婚約「破棄」ではなく婚約「解消」だと思うのだが、ここは話を折らない方がいいだろう。
「李梨花とは結婚できない」
この男との出会いは彼が就職し、職場の先輩にあたる私が指導をするようになったことだ。翌年のある日、可愛らしく顔を赤らめ、好きだと言ってくれた。2年間一緒に過ごし、この人とだったらずっと一緒に楽しく生きていけると思って、私から言った。
結婚しよう、と。
それは自分から言いたかったと少し悔しそうに、そして嬉しそうに言っていた。あの顔に偽りがあったとは今でも信じられない。信じたくない。追い詰めたいわけではないのだが、言っている内容が内容なので一通り話を聞きたい。
「何があったの?」
「他に好きな人ができた」
「いつから?」
「話せば長くなるが、3ヶ月ほど前からだ」
お互いの家族に挨拶し、挙式とか新婚旅行とか新居とかの準備を始めたのは半年ほど前だ。その頃から既に不倫していたということか? いや、婚約はしていたけど結婚はしていないから浮気か? それとも、私が浮気相手なのか?
が。
「子供ができたんだ」
どうやら偽りがあったか否かは小さな問題のようだ。
***
「機体は間も無く着陸体制に入ります。背もたれをあげ、フットレストとテーブルは元の位置にお戻しください」
午前9時55分発のフライトに乗るために、7時に羽田に行った。14時間近いフライトの着陸予定時刻はロンドン時間で16時ごろ。フライト中は読書や映画鑑賞やゲームで一睡もせず、着陸後は睡魔と格闘しながら入国し手荷物を回収しロンドンのホテルまで移動、チェックインして軽く食事をしてシャワー浴びて寝落ちする予定だ。一発で時差を解消し、爽やかな目覚めとともにイングリッシュブレックファーストをとって、博物館巡りで1日を過ごす、完璧な計画だったが、少々睡魔に負けてしまったようだ。
楽しい一人旅のはずなにに、嫌な夢をみてしまった。
読んでいた新聞をきれいにたたんで座席ポケットにしまう隣の席の中年男性はおそらく日本企業の海外駐在員だ。本来だったらこの席に婚約者、いや、夫がいるはずだった。子供ができたと言って、挙式予定1ヶ月前に新居を去った男。
これは新婚旅行のはずだった。
目的地のロンドンもパリも昔から行ってみたかった場所だ。他人(になった人)の裏切りで人生の楽しみを減らす義務はない。婚約破棄の慰謝料で一人部屋追加料金を払い旅を楽しむことにした。
日系航空会社パイロットの着陸は円滑。日本人の入国審査は専用の列で、質問も簡単だ。
「入国の目的は」
「観光です」
「何日滞在しますか」
「三日間です」
「短いですね」
「パリにも行きたいので」
「パリもいいですけど、英国にもたくさん素敵な場所がありますよ。滞在をお楽しみください」
入国審査官がスタンプを押したパスポートを受け取り、手荷物受け取り所に向かう。今回は一人旅なので主な移動手段は公共交通機関。着替えを含め荷物は少なめにまとめた。いざとなったら肌着などの着替えはホテルの洗面で手洗いして、日用品はドラッグストアで現地調達だ。ロンドンは普通に都会。たいていのものは手に入る。しかもカード決済で。
手荷物を回収し、税関を通り、空港の地下鉄の駅に向かう。駅にはエスカレーターがあるのでキャリーケースは苦にならない。大手海外カード会社のIC付きクレカを地下鉄の改札にかざすと、ゲートが開く。ロンドンの地下鉄に特別な交通系カードはいらない。ここから正しい路線に乗車すれば、1時間ほどでホテルの最寄り駅に到着する。乗り過ごすとそれなりに面倒なので、今回こそは寝ないように注意する。
キャリーケースや巨大なリュックを持った観光客のような乗客も多いが、ロンドン中心部に近づくにつれ荷物が少ない普段着姿の乗客も増える。今日は土曜日だが、平日だと通勤ラッシュもあるのだろうか。そんなことを考えているうちにラッセルスクエア駅が近づいてきた。キャリーケースとトートバッグを手に下車し、クレカを再び改札にかざしてゲートを通る。地図アプリの指示通り駅を後にすると、外は少し寒い。トレンチコートの下に薄手のダウンを仕込んだのは正解のようだ。
明日から12月だから外はもう暗いが、人通りの多い観光地なので治安は良く、怖さは一切ない。宿泊先は地下鉄の駅から5分ほど歩けば到着する。ここはイギリスなので、車の左側通行は日本と同じだが、道路標識や看板や車のナンバープレートから日本語の文字が完全に消えていることから海外に来たのだなとわかる。道ゆく人もヨーロッパ系、アフリカ系、南アジア系、そして私と同じ東アジア系と様々だ。
庶民派観光客向けホテルのチェックインはシンプルで、宿泊カードの記入を済ませ翌日の朝食の大体の時間をつたえると自分でキャリーケースを部屋まで運ぶ方式だ。当初の予定で泊まるはずだった高級ホテルだったら、美青年のポーターが荷物を運んでくれたのだろうか。
カードキーをドアにかざすと、クイーンと開錠の音が聞こえる。カードを入り口のスロットに差し込むと、照明がつく。このあたりは出張時に使う国内のビジホと変わらない。
あとはネットで読んだ、海外一人旅の時に最初にする作業だ。
コートを着たまま、靴を履いたまま、部屋の一番奥のカーテンを全開にする。
よし。見えるのはロンドンの街並みではなく隣の建物の壁だ。
ベッドの下を覗く。
よし。掃除は行き届いているようだな。
バスルームを開け、中をチェックする。
よし。ロンドンのお手頃ホテルには珍しく、バスタブ付きだ。明日あたり、王室御用達の入浴剤でも買おうか。
クローゼットを全開にし、中をチェックする––
そう、この事態の対策として、靴と上着と貴重品をを身につけたまま、部屋をチェックしろということになっている。
なので、この一連の作業は意味があったということだ。
だが、実際に想定されている事態に出くわすと、思考はやはり停止する。
クローゼットから出てきたのは長身の美丈夫。長髪は燃えるような赤、目は翡翠色。顔は恐ろしく整っていて、西洋甲冑を着て白い馬に乗って映画に登場しそうだ。だが彼が身につけているのはプレートアーマーでもローブでもなく、膝丈のシャツだ。
「美しき乙女、ここはどこだか教えてくれないか」
私、美しくないし。
私、乙女じゃないし。
私、確かロンドンの観光客向けホテルにいるんだけど、長身の美丈夫に見下ろされていると、この状況、異世界転生?