第1章 第1話 裏切り
「この人痴漢です!」
痴漢冤罪が絶望的だと言われたのは昔の話だ。逃走や証拠採取、弁護士の介入など対処法が広く知られ、かつてのような敗北確定のイベントではなくなった。だがそれは。
「日車英司くんが痴漢しました!」
身内の犯行以外では、という話である。
「……は?」
「日車くんが突然お尻を触ってきて……それで……!」
学校のイベント、社会見学の帰り道。クラス全員で電車に乗っていた時のこと。突然隣にいた尾歳文香が俺の腕を掴み叫びだした。
「自分は日車グループの御曹司だから黙ってろって……金なら払うから触らせろって……ひどい……!」
流れていない涙ながらにそう叫ぶ尾歳。他のクラスメイトたちが俺を非難の目で睨む。他の乗客たちが日車グループの名前を聞いてざわつく。まずい。まずいなんてものではない。
「俺は触ってないし今後何も触らない! 弁護士を呼んでください! 俺のスマホに番号が登録されています!」
そんな絶望的な状況でも正しい判断ができたのは日ごろの努力のおかげだろう。日車グループは日本でも有数の大企業の集まり。その会長の血筋を引く俺は、将来のために努力を重ねてきた。学力は全国1位だし、運動だってできる。だがそれをひけらかしはしない。謙虚に誰かのために尽くしてきた。全ては失敗しないために。こんな風に、裏切られないために。
グループ内企業の社長である父にも、会長である祖父にもよく言い聞かせられてきた。人は利益ある方に流れると。だから決して隙を作るなと。全ての者に恩を売り、自分に逆らえないようにするのだと。そしてその通りに生きてきた。なのになんでこんな……!
「日車、とりあえず電車を降りろ。話はそれからだ」
「先生……俺は何も……!」
担任の俺を全く信じていない目が俺を突き刺す。そして俺の対処法を無駄にするように俺の手を取ると、ちょうど駅についた電車を下ろす。他のクラスメイトたちも引き連れて。
「とりあえずこの件は保護者の方に連絡させてもらう」
「……そうしてください」
駅のホームの片隅に追いやられ、そう告げる担任。だがそれでいい。父さんや母さん経由で弁護士に連絡してくれれば何とでもなる。
「尾歳……何のつもりだよ……!」
こうなれば俺の勝ちは揺るぎない。俺を逃がさないため。俺を追い詰めるために囲うクラスメイトたちの中、女子に慰められている尾歳を睨みつける。
「こう言うのもなんだけど……お前らしくないだろ……!」
尾歳文香。間違いなくクラスの中心人物で、明るく優しく。誰にでも気を遣える美人。俺とも仲が良かったし、こんな酷い裏切りをするようなタイプではない。
「もしかして本当に触られてたのか……? 俺以外の奴に。それで勘違いして俺を……だったら悪かった。でも俺は本当にやってないんだ。一緒に犯人を捕まえよう。いや、それも辛いよな。俺が犯人を見つけてみせるから……」
「……ふふ。なに言ってんの? 英司くん。犯人なんていないよ。強いて言うなら先生も含めた私たち全員?」
だがその答えは俺の想定を超えた最悪なものだった。
「持ち掛けられたんだよね、英司くんのよく知ってる人から。痴漢をでっちあげてくれたらお金くれるって」
「……は?」
「英司くんはいい人だよ? 全然嫌いじゃないし、むしろ心が痛くて張り裂けそう。でも100万円に比べたら……ねぇ?」
「な……なに言って……」
尾歳だけではない。俺以外の全ての人が、笑っている。嬉しそうに。幸せそうに。
「日車、お父様から電話だ」
クラスメイトたちと同じ笑顔を浮かべた担任が俺にスマホを渡してくる。どうすることもできずそれに出ると。
「英司、お前は勘当だ」
俺は家族からも裏切られていることを知った。
「な……なに言ってんだよ父さん……! 俺は痴漢なんてやってない!」
「そんなことは知っている。お前に人を傷つけるのはできない。だがそんなことはどうでもいい。裏切られた時点で終わりなんだ」
「どういうことだよ!?」
「事実なんてどうでもいいという話だ。たとえ裁判でお前の無罪が認められたとしても、痴漢していたかもしれないという疑いが晴れることはない。そうだろう?」
父さんの言葉はひどく冷たく、そして事実だった。
「わかるか英司。痴漢をしようがしまいがどちらでもいい。金で黙らせればよかったんだ。何のために多額の小遣いをやっていると思っている。他人に恩を売りつけるためだ。裏切る意思を奪うだけの金でクラスを買わなかった。それがお前の敗因だ」
「だ……だって……そんな……」
「お前は小遣いを貯金しているな? 将来のために何も考えず貯めている。だからお前は駄目なんだ。勉強をがんばっているのも同じ。勉強は凡人が這い上がるための手段。既に全てを持っているお前が取り組む意味などない。そういう取捨選択ができない者はいずれ全てを失う。それがたまたま早かっただけの話だ」
「…………」
これ以上何を言い繕っても無駄だ。父さんはそういう人間。跡取りは俺以外にもいる。俺を捨てて、他を生かす。ただそれだけのこと。
「お前は遠方の高校に転校した、ということにする。今後二度と会うことはないだろう。今までご苦労だった」
ご苦労だった。それが父親が息子に言う台詞か。そんなことも言い返せないまま電話は無情にも切られた。
「じゃーねー、英司くん。今まで楽しかったよ。楽しかっただけだけど」
そして人も俺の傍から消えていく。残ったのは身一つ俺一人。全ての買い物は電子マネーで行っていた。スマホを解約されれば使用することはできなくなる。一応現金も持ち合わせているが、駅から出るだけで消えるだろう。この家から遠く離れた駅から出るだけで、消えてなくなる。
「……そうか。俺は捨てられたんだな」
そして俺は、ホームレスへと成り果てた。
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