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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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それぞれの旅路 シーファス編・死出の旅路

 皇王シーファスは、意外に快適な旅を送っていた。


 荷馬車の狭い空間の中で干し草の壁に囲まれ、寝る時は固い床の上で初日は体中が痛んだが、明るくなって毛布がある事に気付いてからは、それもなくなった。

 干し草をほどいて床に敷き、その上に毛布を掛けて即席のベッドを作る。寒い時期ではあったが、この干し草が保温材の代わりになって荷馬車の中は意外に暖かい。床に敷き詰めた事もあって、下から来る底冷えもなくなった。


 おまけに三食昼寝付きだ。それも、いつも暖かい食事が提供される。

 空腹のままソールドールまで連行され、ソールドールに着いた後も美味しい食事など決してありつけないだろうと思っていたシーファスには、この上なく有り難い話だった。


 その上、この狭さが与えてくれる安心感と、馬車の定期的な揺れが眠りも誘ってくれる。

 あの居心地の悪い皇宮で不眠症に陥っていたのが嘘だと思うほど、ここではよく眠れた。

 不自由な事を除けば、シーファスにとっては驚くほどここは居心地がよかった。


(……死出しでの旅路にしては悪くない…)


 満足そうにそうひとりごちて、シーファスは自前のベッドに寝そべりながら、いくらか動かす事がましになった腕を上にあげる。

 その腕に、縄はない。足を縛っていた縄も、もうお役御免だと言わんばかりに荷馬車の端に追いやられている。

 快適な旅を送れている一番の要因は手足が自由になった事だろう、と満足そうに一人笑みを落として、上にあげたその指の隙間から落ちる太陽の光を眩しそうに視界に入れながら、シーファスはおもむろに口を開いた。


「…今日は暖かいな、フォルッシモ」

「はい…!ポカポカ陽気ですよ、シーフさん」


 返って来た声の主は、他ならぬこの馬車を動かしている御者のフォルッシモ=カールソンと名乗った男だ。

 彼の顔はこの干し草の壁で確認できずにいるが、その声の調子から見て、お人好しで気立てのいい人物なのだろう。そう思えるほど、彼はシーファスをよく気遣ってくれた。


 そんな彼と初めて言葉を交わしたのは、拉致された翌朝だった。


「……えっと……朝食を持ってきました。……食べられそうですかね……?亅


 遠慮がちにかけられたその声に、わずかに微睡みの中にあったシーファスの意識が引き戻される。ようやく訪れた眠りを邪魔された事と、拉致しておいて何やら申し訳なさそうなその声音が、シーファスの嫌悪感を盛大に刺激した。


「…誰だ?」

「…え…っ!?いや…!その…っっ!!……お、俺…!!フォルッシモ=カールソンって言います…!!」


 不機嫌さを隠すどころか盛大に表現するように、低く怒気を含んだシーファスのその声音に怯えて、フォルッシモはうわずった声で素直に自分の名前を告げる。その朴訥ぼくとつさがデリックとどうしても結びつかず、シーファスは怪訝そうに眉根を寄せた。


「……あ、あの……お食事用意しましたけど……食べませんか…?…今ならまだ温かいですけど……」


 おずおずと盆に乗せられた食事が出てきたのは、干し草の壁にわずかに開いた空間からだった。食事を通せるように、前もって空間を作っておいたのだろう。

 シーファスは気怠い体を何とか動かしてそれを無言のまま受け取ると、その空間から外の様子を窺った。


 小さく切り取られた空間から垣間見えるのは、ただの荒れ野のみ。フォルッシモと名乗った男の姿すら見えず、シーファスは小さく舌打ちする。


「……食べろと言われても、腕が上手く動かせない。……中に入って食べさせてくれ」

「…え…っ!?いやいや…!無理です…!!むりむり…!!中に入るどころかあんたの顔すら見るなって言われてるんです…!!」

「…?……私が誰か知らないのか?」

「し、知りません…!余計な事はしちゃならねえし、知ってもだめだって言われてるんです…!!」


 姿は見えないが、その狼狽しきった台詞から盛大にかぶりを振っているのだろう。その一挙一動がやはりデリックの手の者とは明らかに違うようで、シーファスは軽く思議するように押し黙った。


(……何も知らない人間を雇ったのか……?わざわざ私を運ぶために…?)


 そんな危険をわざわざ冒すだろうか。

 人を増やせば増やすほど、皇王が生きているという事が誰かに知られる危険が増すのだ。何よりもこの彼が、自分に情を抱いて逃亡を手助けする可能性だってないわけではない。どう考えても、信頼のおける自分の手の者を使った方が理に適っているだろう。


 わざわざ危険を冒してまで人を雇う意図が判らず、シーファスは怪訝に思うよりも底気味の悪さを感じて仕方がなかった。


「……やっぱり……食べられそうにないですか……?」


 やはり申し訳なさそうな声が耳に届いて、今度は何やら自分が彼をいじめているようでいたたまれなくなる。朴訥ぼくとつとした人物なだけになおさらだろうか。


 拉致された側である自分がなぜ罪悪感を抱かねばならないのだ、と理不尽さを感じながら、だがシーファスは自身の縛られた腕と足を視界に入れて、にやりと笑った。


「…ならせめて、ナイフをくれないか?手足が縛られて自由が利かないのだ。…これでは食事を摂るどころではない」

「え…!?は、はい…!!待っててください…!!!」


 思った通り慌ててバタバタとどこかに向かって、すぐさま戻ってくる足音と同時に、先ほど食事が渡された空間からナイフが差し出される。


「だ、大丈夫ですか…!?一人で切れそうですか…!?俺、手伝うので言ってください…!!!」

「……いや、大丈夫。一人でできる」


(……素直で扱いやすい男だな)


 彼の性格を判った上で利用しようと思ったのだが、ここまで素直で純朴だと騙している自分が極悪人になった気分で、なおさらいたたまれない。


 シーファスはバツが悪そうにナイフを受け取って腕と足の縄を切ると、ついでに周囲の干し草を結んでいる縄も同時に二、三個切っておいた。こうしておけば、何かの折に役立つだろう。

 本当は壁になっている干し草の方も縄を解いてしまいたかったが、例え逃げ道を作ってもこの体では満足に逃げられないだろうし、早々に縄を切って干し草が崩れでもしたら、いくらこの朴訥とした男でも警戒して二度とナイフを渡すようなことはしてくれないだろう。


 おそらくこの男なら、何かと理由をつければ怪しむこともなくナイフを渡してくれると踏んで、シーファスは素直にナイフを返した。


「……ありがとう。助かったよ、これで食事にありつける」

「…!」


 しばらくして食事を摂る音が荷台の奥から聞こえてきて、フォルッシモは悄然と肩を落としながら小さく口を開いた。


「…………礼を、言わんでください……」

「…!」

「……俺は、あんたが拉致されていると判った上で、この仕事を引き受けたんです……。…そんな俺に、礼なんて言わんでください……」


 その言葉の端々から罪悪感と後悔の念が手に取るように判って、シーファスは押し黙る。

 この短い会話だけでも、彼がいかに善人であるかは見て取れた。その彼がこんな仕事を請け負ったのは、何かしらの理由があったからだろう。それは金か、あるいは脅迫されているのだろうか___。


「……どうして、この仕事を?」

「……金です。…俺、低魔力者でまともな仕事にありつけないし…でも家族を養うためにはどうしても金が必要で……」


(……低魔力者なのか)


 デリックの事だから、あえて低魔力者を雇ったのだろう。それも、彼のような朴訥な人物をわざと選んだのだ。

 そう思った時、なぜデリックがわざわざ危険を冒してまで彼を雇ったのかを理解した。


 彼は、自分をこの荷馬車に縛り付けるための鎖なのだ。


 もし自分がここから逃げ出せば、おそらく彼の命はないのだろう。

 だからこそ、彼のような低魔力者で純朴な人間を選んだのだ。彼が善人であればあるほど、自分は逃げることが出来なくなる。簡単にほどける鎖だと判っていても、決して振りほどく事はできなくなるのだ。


(……嫌になるほど、私の性格を熟知しているな…)


 干し草の壁や、この嫌に重たい体よりも、彼の存在が自分を縛り付けるには一番効果的だろう。

 人質を取って動きを封じる、そのやり口がいかにも粘着気質なデリックらしい。


 シーファスは大きく嘆息を落として、外で罪悪感に苛まれているであろう男に穏やかな声をかける。


「…気にするな、フォルッシモ。お前がこの仕事を引き受けなくとも、他の誰かに変わるだけだ。それなら私は、お前がいい」

「…!」

「…この仕事を引き受けてくれたのがお前でよかったと思っているよ、フォルッシモ」

「……っ!!」


「…………?……フォルッシモ…?」


 しばらくフォルッシモからの返事を待っていたシーファスは、一向に何も言ってこない彼を訝しく思って小さく名を呼んでみる。その返答の代わりに、すすり泣くような声が耳に届いて、シーファスはたまらず苦笑を落とした。


(……泣かせるつもりはなかったのだが)


 それほど人がいい、という事だろうか。

 そんな彼が自分の死出の旅路を先導してくれるのなら悪くない、と心中でひとりごちて、いつまでもすすり泣く男を鼓舞するように声を張る。


「いつまでも泣くな、フォルッシモ。男だろう」

「……は、はい……!!」


 何とか返事だけを返して、フォルッシモは鼻をすする。

 しばらくして落ち着いたのか、それでもまだ鼻声でシーファスに声をかけた。


「…あ、あの……名前……。…名前だけでも……聞いたらだめですか……?」

「…!……私は……私はシーファ____」


 そこまで告げたところで、シーファスは口を噤む。


 皇王の顔は知らなくとも、名前は誰もが知るところだ。特に今は弔いの鐘が鳴った直後。シーファスという名を聞けば否が応にも皇王と結びつく。

 彼の気質を考えれば自分が皇王誘拐に関与していると判った時、彼はもっと罪悪感に苛まれるだろう。下手をすれば逃亡の手助けをすると言いかねない。そうなれば彼の命を危険に晒す事になるのだ。ここは偽名を使った方がいい。


 そう結論付けた直後、急に口を閉ざしてから一向に声が聞こえなくなったシーファスを怪訝に思って、フォルッシモはおずおずと声をかけた。


「……えー…っと…?…シーファ…さん…?……それとも、シーフさん…ですかね?」


 都合よく勘違いをしてくれたようなので、シーファスは迷わずそれに乗る事に決める。


「……シーフだ。これからよろしく頼むよ、フォルッシモ」


 あれから三日、シーファスとフォルッシモはこうやって荷台と御者台に分かれたまま会話を交わすようになった。


 いつも交わす言葉は他愛のない話だ。好きな食べ物や家族の話、今のように天気や気温について話す事もある。そのほとんどがフォルッシモが話すばかりで、シーファスはそれに答える形だった。


 それは他でもないシーファスが、そう望んだからだ。

 素性を隠すとなれば、どんな話になっても彼に嘘をくしかない。できればそれはしたくはなかったし、あまり自分の事を知り過ぎて、なおさら罪悪感を抱かれても困る。だからあえて自分に関する話は振らないように、フォルッシモに念を押していた。


(……できれば彼にはこれ以上深入りしてほしくはない)


 それが今の自分にできる唯一の、彼への恩返しだろうか。


「シーフさん。今日は何が食べたいですか?」

「…そうだな。……フォルッシモが作るものなら何でもいい」

「またですか?シーフさんはいつ訊いてもそれしか返ってこないですね」


 呆れたように、そして残念そうに嘆息を漏らしているのが判って、シーファスは笑いを落とす。


「それほどお前が作る料理が美味しいという事だよ、フォルッシモ」

「…はは!それは料理人冥利に尽きるってもんですよ!」


 フォルッシモは皇都で料理人として働いていたらしい。

 低魔力者でありながらその料理の腕を買われて雇ってもらったという話だったが、その実は影武者と言う名の奴隷だった。彼の料理で評判は上がったが、決してフォルッシモを料理人として表には出さず、それどころか彼を奴隷のようにこき使うだけこき使って、客に彼の存在を知られるや否やさっさと店から追い出したという。結局その店は最終的に潰れたようだが、シーファスなどは自業自得だと思う。


「そう言わんでください。低魔力者の俺を雇ってくれたのは、後にも先にもあの店だけだったんですから」


 憤慨するシーファスにあっけらかんとそう言ったのは、他ならぬフォルッシモだ。

 自分の作った料理を食べてくれるだけで嬉しかった、と続けた彼の表情は、おそらく笑顔だったのだろうとシーファスは思う。


「…お前の料理を毎日食べられる家族は幸せだな」

「そう思ってくれていると、嬉しいんですけどね」

「…確か、去年子供が生まれたのだったな?…娘か?」

「息子です。三つ上の息子が弟が出来たって大はしゃぎで…!」

「……兄弟か。…いいな」

「仲のいい兄弟になってくれるといいんですけどねえ…。シーフさんはお子さんは____」


 そこまで訊いて、フォルッシモは慌てて口を塞ぐ。

 つい話の流れで思わず口が滑ったが、彼の事に関して何も聞くなと約束をしていたのだ。


 ふいに訪れた沈黙に、余計な事を言ってしまったとバツが悪そうにしているフォルッシモを想像して、シーファスは寝そべっていた体を起こして小さく笑みを落とした。


「……私にも息子が二人いる」

「…!」

「…フォルッシモのところとは違って、もう二人とも成人しているが、二人ともいい子に育ってくれた……。親の欲目だろうがな」


 くすくすと笑い声が荷台から聞こえて、フォルッシモは安堵したように言葉を続ける。


「…そんな事はないですよ…!シーフさんが育てた子ならいい子に育って当然だ」

「…お前は私を持ち上げるのが上手いな、フォルッシモ」

「違いますよ…!本心で言ってるんです…!」


 慌てて言い添えるフォルッシモに、シーファスは小さく失笑する。


「仲がいいですか?息子さんたち」

「…!………どう、だろうな。…二人が一緒にいる所を見たのは一度きりだからな…」

「……え?」


 思わぬ切り返しに、フォルッシモは思わず荷台の方を振り返る。


「……訳があって、上の子は離れて暮らしていたのだ。……あの子と会えるようになったのはつい最近……あの子は私に捨てられたものだと思って、今も私を憎んでいる……」


 シーファスの脳裏に、最後に見たユルングルの怒気を含む表情がよぎる。

 あの表情には、怒りだけではなく憎しみも間違いなく込められているのだろう。仕方のなかった事とは言え、二十四年もの間、彼を放置し続けたのだ。たったひと月半ほどの間に数回彼の元に通っただけで、その憎しみが消えるとは思えない。


 それでも命が潰えるまでの短い間だけでも心を通えたら、と淡い期待を抱いてユルングルの元を訪れていたが、それも彼にとってはおそらく苦痛を与えられただけに過ぎないのだろう。


(………愚かな事だな…)


 あの時ユルングルに振り払われた手を、シーファスは悄然と視界に入れる。


 あとどれほど先の事かは判らないが、近い未来に自分が殺される時、その目前に現れるのは愛する息子かもしれない。それを甘んじて受け入れる覚悟はあるが、彼に親殺しの罪を背負わせて今以上の苦痛を与える事になるのがたまらない。

 それでもなお、最後に彼の顔を見たいと願ってしまう自分があまりに身勝手で、救いようのないほど愚かだと思えて仕方がなかった。


「………すまない、ユルングル……」


 欲を捨てられない愚かしい自分を誰からか隠すように、シーファスは大きく俯いて手で顔を覆う。


 この謝罪に、意味はない。

 もうどれほど謝罪しても、彼の耳には届かないのだ。

 それでも、謝らずにはいられなかった。


「……………すまない……っ」


 消え入りそうなほど小さなその謝罪が辛うじて耳に入って、フォルッシモはかける言葉を失い、ただ悄然と手綱を握っていた。


**


 シーファスは、荷馬車の中に差し込む茜色の光に目覚めを促されて、ゆっくりと瞼を開いた。


(………いつの間にか、眠っていたのか……)


 いつ眠って、どれだけ寝ていたのかは定かではない。だが日が大きく傾いているところを見ると、ずいぶんと寝入ってしまったのだろう。


 シーファスは気怠そうに体を起こして、ふと気づく。あれほど耳にうるさかった音がない。絶え間なく聞こえてきた蹄と車輪の音が止んで、シーファスの周囲は静寂だけがあった。


「………フォルッシモ…?」


 名を呼んでみたが、返ってきたのはやはり静寂だけだ。

 おそらく街へ食料の買い出しにでも行ったのだろう。つい二日前の夕方にも、こうやって街に買い出しに出かける際、フォルッシモは街の外に馬車を置いて出かけて行った事を覚えている。


(……街には入るなと指示されているのだろうな…)


 シーファスは小さくため息を落として、小窓から見える夕日を視界に入れた。


 辺り一面、茜色に染まり、空は藍色に、そこに漂う雲は夕日から遠ざかるにつれて茜色から紫にその色を変えている。夜を迎えるまでの、この短い幻想的な空間がシーファスはたまらなく好きだったが、どことも知れぬ場所にただ一人取り残された事と耳に痛いほどの静寂が相まって、胸にわずかな寂寞せきばく感が沸き起こった。


(……私の事は何一つ、話すつもりなどなかったのにな…)


 フォルッシモの子供の話を聞いて、シーファスの脳裏に二人の我が子の姿がよぎってしまった。

 もう二度と、会う事の叶わない息子たち。別れの言葉を告げる事さえできなかった。

 そう思うと、ただただ寂しさだけが心に募って、あの子たちの事を話題にするだけでもわずかに繋がっていられると愚かにも錯覚してしまった。


(……どれだけあの子たちの事を話したところで、私はこうやって一人である事に変わりはないのにな)


 自嘲じみた笑みを一つ落として、シーファスはおもむろに右腕に視線を落とす。

 そこに付けられた、麻糸で編まれた身に覚えのない腕輪。中央に付けられたガーネットが夕日の光を反射するように妖艶な光を放っている。この嫌に重たい体の原因は、おそらくこの腕輪だろう。


 拉致された翌朝、明るくなってからすぐ、この身に覚えのない腕輪の存在に気が付いた。

 高魔力者の魔力を封じて、疑似的に低魔力者と同じ体になる魔装具があると聞いた事があったシーファスは、すぐにこの腕輪がそれだと理解したが、これがなかなかの難物だった。


 すぐに引き千切れるだろうと思っていたこの腕輪は魔力を有しているためかびくともせず、三日経った今もこうやって忌々しく腕に納まっている。内出血を起こしているのか、腕に残された真っ赤に腫れた痕が、何度も力任せに引き千切ろうとしたシーファスの悪あがきを如実に物語っていた。


(……低魔力者と言うのは、これほど重たい体を動かしているのだな)


 魔力が高ければ高いほど、体を動かすのに筋力を必要としない。何をするにも魔力がすべてを手助けしてくれるからだ。それがないと言うだけで、体は鉛のように重たい。この三日でずいぶん体を動かせるようにはなったが、それでもやはり、横になっているのが一番楽だった。


(…ユルングルはこんな体で、さらに心臓まで弱いのか……)


 せめて心臓だけは健康な状態に戻ってほしい、と無意識に魔朱ましゅを施された自身の左胸に手を添えたその時、荷馬車の外で羽音が聞こえて、シーファスは弾かれるように俯いた顔を上げた。


 これは鳥の羽音だ。

 それもかなり大きい。


 そう思った時、この羽音の主が誰かを悟って、シーファスは慌てて小窓から顔を覗かせた。


「……ルーリー……!!…よくここが判ったな、賢い子だ」


 留まる所がなく、小窓の周りを所在なさげに飛び回るルーリーの足に文が結ばれている事を見咎めて、シーファスは小窓から腕を差し出して止まる場所を作ってやる。持ち上げるのも億劫な重たい腕に、さらにルーリーの体重まで合わさってシーファスはたまらず顔を歪めたが、何とか持ちこたえてルーリーの足にある文を取り外した。

 それを確認してからルーリーは一旦、傍の木の枝に場所を移して、まるでシーファスからの返事を待つように、ただじっと小窓から見えるシーファスを見つめていた。


(…本当に頭のいい子だ)


 くすりと笑みを一つ落として、シーファスは折りたたまれたその文を広げる。そこに書かれていた文字は、いつも見慣れたダリウスの筆跡ではなく、初めて見る誰かの文字だった。


『ソールドールで待て。すぐに行く』


 その短い文章に名は書かれていなかったが、その無遠慮なほど不遜な文面と素っ気ない内容がいかにも誰かを彷彿とさせて、シーファスはすぐに誰の文字であるかを理解した。


「……ユルングル…!」


 これが、何を意味しているのかは判らない。

 殺しに行くから逃げずにソールドールで待て、とも取れるし、助けに行くからソールドールで待て、とも取れる。

 最後に見たユルングルの表情を見るに前者である可能性が高いが、それでも初めて送られた息子からの文であるという事が、シーファスは何より嬉しく、思わず顔がほころんだ。


 シーファスは返事を書こうと急いで周りを見渡したが書く物も紙も見当たらず、その代わりの物をすぐさま用意する。自身の服の裾を破って紙替わりとし、躊躇いなく指を噛み切って血をインク代わりに、そして干し草を束ねてペンの代用とした。


『承知した。ソールドールで待つ。

 私は無事だ。怪我もない。

 体には気を付けて。決して無理をしないように。


       シーファス』


 本当は書きたい事は山ほどあったが、時間も物もない。

 この即席のペンでは、それほど多くを書けないし、何よりあまり時間をかけ過ぎるとフォルッシモが帰ってきてしまう。シーファスは不承不承と短い文章で我慢をして、それを再び自身の腕に留まらせたルーリーの足に結わえ付けた。


「ルーリー、頼んだぞ。…必ず、ユルングルに渡してくれ」


 ルーリーはまるで返事をするように小さく鳴いてから、身を翻して飛び立つ。

 次第に羽音が小さくなるのを耳に入れながら、シーファスはユルングルの文を大事そうに懐に入れた。


「…シーフさん?…もう起きてますか……?」


 遠慮がちなフォルッシモの声がかけられたのは、ちょうどそんな時だった。街で色々と買い出して来たのか、フォルッシモの足音と一緒に紙袋がカサカサと音を立てている。


「……ああ、起きている。また、色々と買ったのだな」


 くすくすと笑いを落とすシーファスの明るい声に、フォルッシモは安堵したように小さく息をいて笑みを落とす。


 図らずも触れてはいけない話題を振ってしまった事で、シーファスを暗澹あんたんたる気分に突き落としてしまったのではないかとフォルッシモは気に病んでいた。あれから何か励ましの言葉を、と思ったが何も思い浮かばず、何より拉致された彼を運んでいる立場の自分が何を言っても空々しいだけだと思うと、なおさら何も言葉が思い浮かばなかった。

 ここまでの道中ずっと沈黙だけが続いて居心地の悪い思いをさせてしまったと思っていたが、どうやら一眠りして落ちた気分も何とか戻って来たらしい、とフォルッシモは心底安堵する。


「…あっ!そうだ!シーフさんにお土産があるんですよ…!」

「……?…お土産?」


 カサカサと紙袋の中をまさぐるような音がしばらく聞こえた後、干し草の開いた空間からフォルッシモの腕が差し出される。その手には、何やら握られているようだった。

 シーファスはそれを訝し気に受け取って、手のひらにあるそれを視界に入れた。


 これは紐細工で作られた飾りだろうか。

 紐で編み込むように作られた花と、その先に付けられた小さな巾着に鈴が付けられている。

 どう見ても女性向けに作られたであろうそれを、シーファスは小首を傾げて見つめていた。


「……これは?」

「願いが叶うって有名なお守りなんです…!その巾着に願い事を書いた紙を入れておくと、願いが叶うって」

「…ずいぶんと可愛らしいお守りだな」

「…た、確かに女性が多かったですけど…!!でも本当に願い事が叶うって有名なんですよ…!!」


 失笑と同時に落としたその言葉の言外に、女性向けだろうと言われているのが判って、フォルッシモは言い訳をするように声を上げる。それがまたシーファスの失笑を誘ってくすくすと笑い始めるので、フォルッシモもたまらず吹き出すように一緒になって笑い声を上げた。


 そうしてひとしきり笑いあったあと、フォルッシモは小さく息を吐いてから静かに告げる。


「…息子さんと仲直りできますようにって紙に書いて、巾着に入れてみてください」

「…!」

「いつか必ず、息子さんもシーフさんの気持ちを理解してくれます。騙されたと思って試してみてください、シーフさん」


 シーファスはフォルッシモの言葉に目を瞬いて、再び紐細工のお守りに視線を落とす。


 この明らかに女性向けのお守りを、わざわざ自分のために買ってきてくれたのだろう。ほんの少し、口を滑らせただけの些細な言葉を気にして____。


 女性の多い中でただ一人、大の男がこのお守りを買う姿を想像して、シーファスは小さな失笑と最上級の謝意を含む笑みを落とす。


「…ありがとう、フォルッシモ。生涯、大切にするよ」


 たとえ願い事が叶わなくとも、これは大切な友からの贈り物だ。残された時間は少ないが、生きている間はこれを肌見離さず持ち、できれば死んだ後もこれを持ってあの世に逝きたい。


 シーファスは愛おしそうにそのお守りを握り、祈るように額に当てた。


「……へへっ!…あ…!…お腹…!お腹空いたでしょ、シーフさん!今から急いで作りますね!」


 はにかんだような笑い声を出していかにも照れ隠しをするように話題を変えるので、シーファスはまたもや失笑して言葉を返す。


「…ああ、またお前の美味しい食事を頼むよ」

「はい…!待っててくださ____」


 そこまで聞こえて、突然フォルッシモの言葉を覆い隠すように大きな物音が鳴り響いた。

 金属や硬い物、あるいは柔らかいものが勢いよく地面に叩きつけられた音と、人一人が地面に乱暴に叩きつけられたような音、それと同時に小さくうめき声のような苦しそうな声も聞こえて、シーファスは慌てて小窓に顔を寄せた。


「フォルッシモ………っ!!?フォルッシモ…っ!!どうした!?何があった……っ!!?大丈夫なのか…!?」

「…そこまで大きな声を上げなくとも、よく聞こえておりますよ。…シーフさん」


 帰ってきた声は、フォルッシモではない。

 誰とも知れない冷たく静かな声が返ってきて、シーファスは全身の血の気が引くのを感じた。


 すぐさまフォルッシモの安否を確認したかったが、どれだけ小窓から身を乗り出さんばかりに周りを探っても、ちょうど死角になっているためか男はおろかフォルッシモの姿さえ見えないもどかしさでシーファスは舌打ちをする。


「……誰だ…っ!?フォルッシモに何をした……っ!!?」

「何も。ただ逃げられないように地面に押さえつけているだけですよ。…と言っても、すぐに首を切り落としますがね」

「…!?…何を………何を言っている……?」


 平然とむごたらしい言葉を吐く男に、シーファスは目を見開いて茫然自失と問いかける。

 地面に顔を押さえつけられているフォルッシモも同じく、信じ難いその言葉に恐怖で体が硬直して、奥底から沸き起こる体の震えを抑える事もできなくなっていた。


「…デリックの手の者か……!…フォルッシモは何もしていない…っ!!お前たちの指示をちゃんと守っているだろう…!!」

「そのようですね。貴方の御名を聞いたようですが……まあ、偽名を使われたのは賢明ですね。貴方が本名を名乗っておられたらその場で首を切り落としておりましたよ」

「なら今すぐフォルッシモを放せ…っ!!私はここにいる!!逃げるつもりも反抗するつもりもない…っ!!」


 荷馬車の中から聞こえるシーファスの言葉に、男は呆れたようなため息をいかにもシーファスに聞こえるように大げさに落とすと、その無感動なまでに冷たい声を響かせる。


「貴方は何か思い違いをなさっておいでだ。我々は、失態を犯したからこの男を殺すのではない。雇った時点で三日後に殺すと決めていたのだ」

「…!?何を…言っている…っ!!?殺すことを決めていただと…!?何のためだ…っ!!?一体何のためにそんなことを…っっ!!?」

「それはもちろん、貴方を苦しめるためですよ」

「…!?」

「これが極楽への旅路だと思っておいででしたか?辛い事など何もないと?…そうではない。この先にあるのは苦しみのみ。…お間違えなきよう、陛下。これは貴方の、死出の旅路なのですから」


 そのどこまでも冷たい声音が、シーファスに否応なく現実を叩きつけてくる。


 そう、これは死出の旅路なのだ。

 決して物見遊山の旅などではない。


 これまでの道中、フォルッシモが何かと世話を焼いて不便のないよう尽くしてくれたから、快適な旅を送れていたのだ。だからこそ、失念してしまった。

 デリックが、どこまでも卑劣な男であるという事を____。


「……い…嫌だ…っ!死にたくない……っ!助けて……!…生まれたばかりの息子がいるんです……!!まだ……まだ死ねない……っ!!!」


 男は、体を震わせながらも涙を流し懇願するように言葉を落とすフォルッシモの髪を掴んで顔を上げさせ、涙と土で泥だらけのフォルッシモの顔を見る。


「…貴方は愚かだ。貴方がここまで連れてきたあの方が、一体誰かを教えてやろう」

「…!?よせ…っ!!やめろっ!!!」


 シーファスの声など一切意に介さず、男は言葉を続ける。


「あの方の御名は、シーファス=フェリシアーナ様。この国の、王だ」

「…!!?……皇……王…さま……?」

「そう、貴方は皇王を拉致してここまで運んだのだ。それは、万死に値する」

「!?何を戯言を…っ!!私を拉致したのはお前たちだろう…っ!!!!」


 責任転嫁も甚だしいその言葉に、シーファスの怒りがこみ上げる。


「……そんな……っ、俺は……俺はなんてことを……っ!!」

「フォルッシモ…っ!!この連中の言葉に耳を貸すな…!!フォルッシ___」

「逃げてくださいっっっ!!!皇王さま…っっっ!!!!!!」

「!!?」


 シーファスの声を遮って、フォルッシモは彼とは思えないほど明確でよく通る声を上げた。

 それはつい先ほどまで恐怖におののいて体を震わせていたフォルッシモではなく、覚悟を決めた人間の声音のように思えて、シーファスはたまらなく不安と恐怖に駆られた。


「俺のことはいいですからっっ!!すぐに逃げて…っっ!!」

「…!!?おいっ!!大人しくしろ…っ!!!」


 身をよじらせて自分を捕らえている手を振り解こうとしているのだろう。フォルッシモを取り押さえている別の男が慌てて声を荒らげるのを聞いて、シーファスもまた声を荒げた。


「フォルッシモ……!!!お前が逃げろっっ!!!私に構うなっっ!!!!お前が逃げるんだ……っっ!!!!」

「嫌だ…!!!俺はシーフさんに生き延びてほしいんです…!!!シーフさんは低魔力者の俺にも優しくしてくれた…っ、貴方は死んじゃだめだ…っ!!シーフさんのような王が______」


 そこで、ぷつりと声が途切れる。

 同時に聞こえたのは空を切るような音と、その後に聞こえたゴトリと何かが落ちる生々しい重い音。

 それが何を意味しているのか、シーファスは瞬時に理解してしまった。


「……………フォルッシモ……?………返事をしろ……フォルッシモ……」


 手に持っていた紐細工のお守りが、力なく落ちる。

 返事の代わりに乾いた鈴の音だけが、シーファスの耳に届いた。


「……フォルッシモ………っ!!!!!!!!!」


 血反吐を吐くように、シーファスはフォルッシモの名を叫ぶ。

 この声がフォルッシモの耳に届くことも、そしてこれに返ってくる返事はもう永遠にないと判っていても、名を呼ばずにはいられなかった。


 そんなシーファスを嘲笑うように、男は心底呆れたようなため息をいた。


「…低魔力者の声は本当に耳障りだな。こんな奴らの肩を持つ貴方の気が知れない」

「……なぜフォルッシモを殺した……!私を苦しめたいのなら私を痛めつければいいだろう……!!!」

「…デリック様は貴方をとても熟知しておられる。貴方はご自身の痛みよりも他人の痛みをより強く感じられる方だ。これが一番、貴方には効果的でしょう」

「…っ!?……デリック……っっ!!」


 シーファスの脳裏に、十日ほど前に交わしたデリックとの会話がよみがえる。


 あの時自分は、デリックを失いたくはない、と言った。

 この言葉に、嘘はない。幼い頃から共に育ち、命を救ってもくれた。どれだけ思想が違っても、いつかまた分かり合える時が来ると愚かにも理想を抱き、彼に情を見せた。


(だが、間違いだった…っ!!)


 わずかに残った彼への情が、非情な選択を妨げた。


 情など捨てて、断罪すればよかったのだ。証拠など後でいくらでも捏造すればいい。彼の所業である事はもう調べがついている。証拠がなくて逡巡した手を緩めるべきではなかったのだ。


 フォルッシモを殺したのは、そんなデリックへの情を捨てきれなかった自分自身だ。

 フォルッシモは、そんな自分の犠牲となったのだ。


 いつか、この罪は必ずあがなう。

 だが、その前に______。


「……お前の声は覚えたぞ。たとえどこに逃げようとも、お前だけは必ず私の手で殺してやる…!!デリックにもそう伝えろ……っっ!!!!」


 もう、その声にかつての皇王の面影はない。

 どこまでも高潔で気高い、王の姿はなかった。

 ただただ憎しみと怒りで低く仄暗いその声に、男はまるで歓喜に震えた声を上げる。


「…貴方からそのような台詞が聞けようとは…!!身に余る光栄です、シーファス陛下。…では私は、その時を心待ちにいたしましょう」


 そうして男は、うやうやしくこうべを垂れる。

 その声はやはり、どこまでも冷たく静かだった。


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