それぞれの旅路 ユルングル編・一編
「だからもういいって言ってるだろう…!ダリウス兄さん…!!」
乗合馬車の中から鳴り響く辟易としたような声に、同じく馬車に乗り合わせた乗客たちはくすくすと失笑を漏らしていた。
「ユルン…!頼むから体を暖めなさい…!」
「もう十分、暖まってる…!これだけ毛布でぐるぐる巻きにされているんだぞ…!その上、兄さんの外套まで被せないでくれ…!」
「だが手足がまだ冷えているだろう…!冷やされた血液は心臓に悪い…頼むから言う事を聞きなさい…!」
隠れ家を出てからもう三日。
目的地までほとんど顔触れの変わらない乗合馬車では、心臓の悪い病弱な弟を心配し過ぎる兄に心底辟易して、眉根を寄せながら、だがどこかしら面映ゆそうに声を上げる弟の姿はもう乗客にとってお馴染みの光景だ。
「本当にお兄さんに愛されているのねぇ、ユルンは」
「もう観念なさいな、ユルン。兄の愛は海よりも深く広いのよ」
くすくすと笑いながら揶揄してくる女たちを睨めつけるように、ユルングルはぎろりと視線を向ける。
「勝手を言うな…!俺が苦労するんだぞ…!!お前たちも笑っていないでダリウス兄さんを止めてくれ…!」
突然矛先が自分たちに向けられて、ラン=ディア達三人はただ苦笑を落としてどうしたものかと困惑する。
隠れ家を出た翌朝、荷馬車から下りて乗合馬車に乗り換える際、ラヴィとダリウス、そしてユルングルを兄弟設定にしようと言い出したのは、他ならぬユルングルだ。侍従をぞろぞろと引き連れて平民たちが使う乗合馬車に乗れば弥が上にも目立つ上に、上流階級にいい感情を持たない者たちに受けなくてもいい危害を加えられるかもしれない。平民の中で育ったユルングルはそういう輩が一定数いる事を承知していた。
無用な争いを回避するための処置だということはラン=ディア達も重々承知しているつもりだが、兄弟として振る舞う彼らがあまりに生き生きとしているように見える事に、どうにも失笑を禁じ得ない。特に彼らが兄弟であった当時を知っているラヴィは、その仲睦まじい姿に懐古の念が胸に広がって、つい頬が緩んでしまうほどだった。
「ラヴィ兄さんも笑ってないで、ダリウス兄さんに言ってくれ…!」
ただ一つ、ラヴィにとってはどうにも耐え難いこの状況を除けば___。
(…仮にも第一皇子を弟扱いするなどできるはずもない………)
ユルングルとダリウスは元々兄弟として育ったからこそ、このように振る舞えるのだ。彼らにとってこれは演技ではない。ただ、かつての関係を再現しているに過ぎないのだろう。
だが自分は違う。確かにユーリシアの補佐官ではあるが、爵位はただの伯爵だ。立場で言っても、ダリウスはユルングルと同じ皇族で従兄弟にあたる。本来ならば敬語を使う必要すらない。それに比べて自分はただの侍従なのだ。そんな自分が、第一皇子を呼び捨てにするどころか兄として振舞うなどできようはずもない。
ユルングルがそういう事に一切頓着しない性分だという事は承知しているが、貴族社会が染みついた自分にはかなり難易度の高い要求である事をそろそろ認識してもらいたい、と思わず嘆息を漏らして、ラヴィは助けを求めるようにラン=ディアとアレインを視界に入れた。
彼らは、態度を崩す事を免れた組だ。
ラン=ディアとアレインは旅に同行した神官と護衛という立場で、二人に対して敬語を使っても不自然ではない。できれば自分もそちら側に行きたかったが、取り柄も肩書もないのだから仕方のない事だろうか。
そんなラヴィの視線に気づかぬふりをする二人を見咎めて、ラヴィは再び盛大にため息を落とした。
「……ユルンもダリウス兄さんも少し落ち着きましょう。ユルンを興奮させては逆に心臓に悪いですよ…」
敬語を使う事だけは何とか承諾してもらったので、まだましな方だろうか。
「ラン=ディア様、やはり暖めた方が心臓にはいいのですか?」
「そうですね。ダリウス様が仰る通り冷やされた血液が心臓に流れるのはできれば避けたいところです。…ユルン様の心臓はかなり弱っておいでですから」
どうやらダリウスに軍配が上がった事を自覚して、ユルングルは盛大に渋面を取る。
「……ユルン」
「…なら発光石を出してくれ。ダリウス兄さんの外套は必要ない」
若干、窘める色合いを載せて名を呼んだダリウスから視線を外して、ユルングルは不機嫌そうに外套をダリウスに突っ返す。その様子に目に見えて気落ちするように肩を落とし、悄然と外套を受け取るダリウスを見咎めて、ユルングルはバツが悪そうにため息を落とした。
「…そうじゃない。……だから…!…こんなに寒いのに兄さんの外套を俺が取ったら困るだろう…!風邪でも引いたらどうするんだ…!」
自分の態度がいらぬ誤解を生んでいる事をもどかしく思いながら、だがひときわ言葉にするのが面映ゆくて仕方がない、と言った風に言い訳をするユルングルに、またもや馬車の荷台から失笑の渦が巻き起こる。
これもまた、彼らにとってはもうお馴染みの光景だった。
心配性の兄に辟易しつつも、最後は必ず弟が折れて兄を気遣う。その様子に本当に仲がいい事が見て取れて、誰もがつい微笑ましく思って頬が緩むのだ。
(…そういえば、まだお二人がご兄弟だった頃は仲が良すぎるくらいだったとシスカが言っていたな)
何とはなしにシスカの言葉がラン=ディアの頭をよぎる。
自分は主従関係になった彼らしか見たことがないが、それでも二人の仲の良さは見て取れた。これ以上に仲が良い事などあるのだろうかと思ったが、なるほど、これは確かに仲が良すぎると評したシスカの言葉に得心がいった。
(…ダリウス殿下がおられるからこそ、ユルングル様の周囲は穏やかな空気が流れるのだろうな)
そして誰もがその穏やかな空気に、魅了されるのだ。
自分もその一人であることを思い返して、ラン=ディアは馬車の中で微笑ましく目を細めている乗客たちを視界に入れた。
彼ら乗客と旅路を共にしたのは、まだたったの三日だ。
そのたった三日で、ユルングルは彼らの心を容易く開いて、まるで昔からの知己であるかのように気安い関係を築いてしまった。それが故意であるのか偶然であるのかはさておき、ユルングルと言う人物に人を惹きつける何かがある事は、疑いようのない事実だろう。
(…警戒心のお強い方だと聞いていたわりに、相手の警戒心は容易く解いてしまわれるんだな……)
いや、警戒心が強いからこそ、どうすれば警戒されないかを無意識に心得ているからかもしれない、とラン=ディアは何とはなしに思う。
「…もう、寒くはないか?ユルン」
相変わらず胸に抱いたままのユルングルを見下ろして、ダリウスは穏やかに問いかける。
熱を帯びてきた発光石の温かさで眠気が誘われたのか、ユルングルは少し恍惚そうな瞳をゆっくりとダリウスに向けた。
「……ああ、暖かくなってきた……ありがとう、ダリウス兄さん……。…あんた達も、騒いですまなかったな……うるさかっただろう……?」
言って、ユルングルは乗客たちに視線を移す。
病弱なユルングルに困惑気に謝罪されて、思わず皆恐縮するような仕草を見せた。
「いやいや…!構わんよ!ユルンのおかげでこの乗合馬車には護衛だけじゃなく神官様もいてくださるからね」
「もう…!お父さんったら恥ずかしい事言わないでよ…!」
「何だ?みんな、同じこと思ってるだろう?」
「思ってても言わないのよ!!そういう事は…!!」
「……現金な親父さんだな」
父娘のその会話に、ユルングルはくつくつと笑う。同じく笑いを落としているラン=ディアは、その父娘を振り返ってさもありなんと告げた。
「構いませんよ。同じ馬車に乗った縁です。まとめて私が面倒を見ましょう」
その言葉に父親は目を輝かせて、反面娘は面映ゆそうに肩をすぼめる。
「…ほら、神官様が気を遣われたじゃない」
その言葉に、三度馬車の中に失笑の渦が巻き起こった事は言うまでもない。
そんな和やかな雰囲気を見るともなしに視界に納めて、ユルングルはその視線をおもむろに外に映した。
隠れ家を出てから三日。次第に起きている時間が長くなってきたとはいえ、まだ一日の大半を眠って過ごすユルングルには、今どこを走ってどれくらい進んだのかさえ、よく判ってはいない。
目覚めるたびに外の景色が変わっているような気もしたが、皇都を出た事のないユルングルには、その変化すらよくは判らなかった。
「……ダリウス兄さん。…もう……皇都は出たのか……?」
外を見つめながら呟くように訊ねてくるユルングルを視界に入れて、ダリウスは頷く。
「…昨日の昼頃に」
短く答えたダリウスに目を向けることなく、ユルングルは小さく驚嘆の息を落としながら言葉を続けた。
「……そうか……こんなに簡単に、皇都を出られるんだな……」
その言葉が、ユルングルにとってどれほど重みがあるのかを、ダリウスとラヴィ、そしてラン=ディアとアレインもまた、痛いほど痛感していた。
____『皆に等しく、自由はある』
数百年ほど前、街の出入りを規制する関所を撤廃した当時の皇王が掲げた言葉だが、その言葉が示すように誰でも好きなところに行ける自由があった。貧しい低魔力者でさえ、旅をして各地を回る者も少なくはない。例え馬車に乗る旅費がなくとも、歩いてだって好きな場所に行ける自由が確かにあった。
にもかかわらず、ユルングルが皇都を出る事が出来なかった最たる要因は、何よりも暗殺を警戒しての事だろう。
ユルングルは、生まれる前からその命を狙われていた。
暗殺者の手から逃れるために、今まで身を隠すように生きてきたのだ。その暮らしに決して自由はなかっただろう。あの遁甲が、身の安全を保障してくれると同時に、ユルングルにとっての鳥籠であることは言うまでもない。
加えて、この体の弱さなのだ。到底、長旅には耐えられない。
皇都を出るだけでも馬車で一日半はかかる。彼の行動範囲はどうしたって皇都の中___それも、中心街を少し出るくらいがせいぜいだろう。
乗客たちも、その体の弱さ故に出た言葉だろうと悟って、誰もがかける言葉を失い憐憫の情を向ける。
だがただ一人、すべての事情を知っているダリウスだけが、ためらいもなく微笑みをユルングルに向けた。
「……もうすぐだ、ユルン。…もうすぐ、どこでも自由に行けるようになる。どこでも好きな場所に、だ。私と一緒に望む場所に行こう、ユルン…」
「……そうか……それは…楽しみだな………」
呟きと共に小さな笑みを見せて、ユルングルはそのままゆっくりと瞳を閉じる。
そんなユルングルの様子を、ダリウスは何か胸につかえるものがあるように、訝しげに視界に入れた。
最初、ダリウスはいつものようにただ眠りについただけだと思った。
発光石の温かさに、眠りを誘われたのだろう、と___。
だが、何かが違う。
明確に違いを把握していたわけではないが、ただユルングルの寝顔にダリウスの胸の内が嫌にざわついたのだ。
「………ユルン……?」
小さく名前を呼んで、ユルングルの頬に手を添える。
温かさはあったが、唇がわずかに赤みを失っているように思えた。そう思って見てみると、顔色もやはり血の気を失っているような気がして、ダリウスはひと月ほど前に発作を起こして倒れたユルングルの姿が否応なく頭をよぎった。
「……ユルン……っ!?ユルン……っっ!!?」
「…!!?」
蒼白な顔で突然声を上げるダリウスに驚いて、ラン=ディアは慌てて二人を振り返る。
これほど大きな声を上げているにもかかわらず目覚める気配のないユルングルに異常を察して、ラン=ディアは弾かれるようにユルングルの傍に寄って診察を始めた。その最中でも、顔から少しずつ赤みが消え失せる症状を見て、ラン=ディアのみならずダリウス達も何が起こったのかをすぐさま理解した。
「発作です…!!!!ダリウス様…!ユルン様をゆっくり寝かせてください……!!!」
ラン=ディアに言われるがまま、ダリウスは胸に抱いていたユルングルをゆっくりと寝かせて、自身の外套を枕代わりに頭の下に置く。鞄から出した輸液を行うための道具一式をラン=ディアから無言で受け取って、ダリウスは誰に何を言われるまでもなく、すぐさま毛布の中からユルングルの腕を出して輸液の準備を始めた。
(なぜ、こんな時に……っ!!)
輸血用の血液は、当然ない。
輸液は血液の代わりをするものではなく、ただ循環血液量を保持するだけだ。過剰な量を輸液すると電解質が過剰になり心臓や腎臓への負荷が大きくなるし、出血が多くなれば酸素運搬能力が落ちて、輸液でもどうにもならなくなる。大量に出血すれば、もう助かる見込みはなかった。
和やかだった馬車の中は一転、緊迫した状況に空気が張り詰めている。
呼吸をする事さえ躊躇うような状況の中、一向に動かないユルングルの姿がなおさら、乗客たちに言いようのない緊張感を与えていた。
彼らは言葉を交わす事もできず、ただ不安な眼差しを向けて、二人阿吽の呼吸で何をするべきかを悟ったように淀みなく進む治療を、固唾を呑んで祈るように見守るしかなかった。
**
「…ユルンをゆっくり休ませてあげてね、ダリウスさん」
その日の夕方、次の街に到着して馬車を降りていく乗客からしきりに声を掛けられたダリウスは、返答する言葉を失って何とか弱々しい笑顔だけを彼らに返した。
そうして誰もいなくなってから力なく横たわっているユルングルの体を抱きかかえ、その日の宿を手配したアレインに案内された一室のベッドに、ユルングルをそっと寝かせる。その道中、ずっと無言のままユルングルを見つめ、不安と恐怖が窺えるダリウスのその背中にかける言葉を失って、アレイン達は互いに目を見合わせていた。
その様子にラン=ディアだけが嘆息を漏らして、重たい空気を払うように口を開いた。
「……ダリウス殿下、ユルングル様の容体は安定しております。それほど気落ちなさらないでください」
そのラン=ディアの言葉にすら、ダリウスは沈黙を返す。
ラン=ディアの言う通り、発作は起こったものの出血量は500mlと少なかった。弱ったユルングルにとっては大きな数字だが、悲観的になるような数字でもない。
顔にはもう赤みが差して、手足も暖かい。脈にも異常は見られなかった。おそらく、もうすぐにでも意識を取り戻すだろう。
それはダリウス自身もよく理解していたが、ただそれよりも強く心に引掛かるものがあった。
「………ユルングル様は、発作が起きることを予見しておいでだったのでしょうか……?」
「………え?」
だからこそ、あれほど体を暖めることを頑なに拒絶していたのかもしれない。
ダリウスには、そう思えて仕方がなかった。
通常、寒い冬の時期は血管が収縮するため発作が起きても出血は少なくて済む。だが今回、発光石で体を暖めた直前だったこともあって、寒い時期にもかかわらず500もの出血があったのだ。自分が余計な口を挟まなければ、もっと出血は少なくて済んだだろう。
そう思うと、いかに自分が愚かな失態を犯してしまったのかが、まざまざと思い知らされるようでいたたまれない。何も知らなかったとはいえ主を危険に晒した自分が、ダリウスは許せなかった。
(……そういうことか)
押し黙ったまま眉根を寄せるダリウスの姿にその内心を悟って、ラン=ディアは再び嘆息を漏らした。
「…貴方の選択は間違っておりませんよ」
「…!……ですが…」
「あの時体を暖めずにいれば、今度は心臓の発作が起きていたでしょう。弱った心臓に冷たい血液はそれほど危険なのです。もしダリウス殿下が仰るとおりユルングル様が発作の予見をしていたとしたら、きっとその両方の未来を見ておられたのでしょうね。そして、どちらがいいか決めあぐねていた。……そう、お考えになってはいかがです?」
「……そう、でしょうか……?」
「そもそも貴方が発作にお気づきにならなければ、もっと出血していたでしょう。お恥ずかしい話ですが、俺にはまったく判りませんでしたから。…よく、お気づきになられましたね?」
「………胸騒ぎがしたのです」
これもやはり、ユルングルが幼い頃、暗殺者に殺されかけた時と同じ感覚だった。
言いようのない胸騒ぎと不安感が心を支配して、どうしようもないほどの恐怖がユルングルの安否を確認しろと自分を脅迫するのだ。
ユルングルのような勘の鋭さや予見する力はないが、ユルングルの命の危機にだけは敏感に反応するこの能力は、ダリウスにとって唯一誇れる力だった。
「ダリウス殿下がユルングル様のお命を救われたのです。その貴方がそのように肩を落としては、まったく気付けなかった神官の俺の立つ瀬がなくなるでしょう?」
嘆息を漏らしながら大げさなほど肩を竦めるラン=ディアのその様子が、いかにも自分を気遣ったようでダリウスの失笑を誘う。ダリウスはその気遣いに小さく微笑みを返して、ベッドで眠ったままのユルングルに視線を落とした。
そのダリウスの視線に呼応するようにユルングルの瞳がゆっくりと開かれるのを、皆同時に目撃する。
「ユルングル様……っ!!?」
すぐさま駆け寄ってベッドを取り囲む四人を、ユルングルは恍惚な瞳で、だが訝しげに見つめていた。
「…………どうした……?…何かあったのか……?」
一度皆の顔を確認するように視線だけを見回して、呟くように言葉を落とす。
自分の置かれた状況を何一つ理解していない様子のユルングルに、ダリウスは不安が頭をもたげて仕方がなかった。
「……血友病の発作を起こされたのです」
「………そうか……。……出血量は…?」
「…500です。それほど多くはありません。…ご不調はございますか?」
「……少し眩暈がするだけだ…大したことはない…。……よく気づいたな…?」
「…ユルングル様は、お気づきになられなかったのですね?」
そのダリウスの言葉に、ユルングルは自分が失言した事を悟って軽く目を見開く。
そうして取り繕うように一度視線を右に泳がせてから、もう一度ダリウスの顔に視線を戻した。
その一連の動きが何を意味するのか、ずっと共に暮らしてきたダリウスだけが理解していた。
「……未来が見えると言ってもすべてが見えているわけじゃない…。…見えない事もあるし、見えていても気付かない事もある……。…何せ、見えている未来は万を超えるからな……」
それでも気づいてしまうのが、ユルングルだ。
異常なほど勘の鋭いユルングルは、例え体に不調があっても決して見逃さない。
それを承知していたダリウスは、自身の中で一つの仮定が生まれた事を自覚した。
ユルングルに問いただそうと開いた口は、だが弱々しくベッドに横たわるユルングルの姿に思わず口を閉ざす。
(……今のユルングル様に、余計な心労を与えたくはない……)
ユルングルが黙っているのは、おそらく言えば自分が心配する事を危惧しているからだろう。いつも自分の事より他人を憂慮するユルングルは、心配されることを何よりも嫌って重荷に感じてしまう。
ダリウスは言いたい気持ちに蓋をするように小さく頭を振って、落とした視線をユルングルの顔に戻した。
「……ソールドールに到着するのは遅れますが、二、三日この街に滞在いたしましょう。ユルングル様の体調がお戻りになられてから____」
「…だめだ。明日また彼らと共にあの馬車に乗る…」
億劫そうに話していたユルングルは、だが突然ダリウスの言葉を遮って強く言い放つ。見れば恍惚とした瞳は消え、強い意志を載せた視線だけが返って来て、ダリウスのみならず後ろに控えて二人の会話を聞いていたラン=ディア達も思わず目を瞬いた。
「何を仰っているのです…!発作が起きたのですよ!!まずはご自分のお体を休める事をお考え下さい…!」
「…あの馬車は盗賊に襲われるぞ。…それでもお前は見過ごすのか…?」
「…!?」
食って掛かるように声を上げたラン=ディアは、だがユルングルのその言葉に返す言葉を失って口を噤む。
そんなラン=ディアの代わりに、ダリウスは冷静に口を開いた。
「…それは、明日起きるのですか?」
「……いや、まだ先の話だ…。…ソールドールに近い森の中で襲われる…」
「……死傷者は?」
「…全員。……あの馬車に乗り合わせた全員が殺される」
中でも父娘で乗っていたあの娘は、酷い死に方をした。
何とか森に逃げ込むも結局捕まり、輪姦されて弄ばれるように暴行を受け殺されるのだ。その死に様がユニを彷彿とさせて、ユルングルはたまらなく不快だった。
ダリウスとユルングルのやり取りを聞いていたアレインとラヴィは言葉を失うように呆然自失と聞き入っていたが、ただ一人ラン=ディアだけが、承服でき兼ねると言わんばかりの視線を向けていた。
「……貴方は…!そうやって目に見える者すべてを救うつもりですか…!?」
「…そうだ。…腹が立つが、それが獅子の役目だろう……」
「それはただの偽善に過ぎない!目の前の者だけを救って何が変わるのです…!」
「…それは詭弁だな。……目の前の者すら救えなくて、一体何を守るんだ…」
「それこそ詭弁です!これから未来を予見するたびに助けて回るのですか…!?その立つ事さえままならないお体で!?できないでしょう…!そのような事…っ!……貴方はもっと大局を見るべきだ…!目の前の事ばかりに捉われていてはキリがありませんよ…!」
「……それはお前だろう、ラン=ディア…」
「…!」
静かに返されたその言葉に、ラン=ディアは思わず閉口する。ユルングルが言いたい事を、瞬時に悟ったからだった。
「……悪いな…俺がこんなだから、お前も焦るし危険から遠ざけたいんだろう……。……お前は目の前の重病人を、放っておけない性質だからな……」
ラン=ディアはどうしても、目の前で苦しむ者を看過する、という事が出来なかった。
重病人や無茶をする人間を見ると、どうしても助けたくなるし止めたくなる。それは自分でも歯止めが利かない感情だった。
シスカがユルングルの為に輸血用の血液を採血していた時もそうだ。
その血液がユルングルにとってどうしても必要な物だと頭で判ってはいても、止めずにはいられなかった。
だからラン=ディアはあの時、隠れ家を出る選択をしたのだ。離れてしまえば、もう自分ではどうにもできなくなる。ユルングルの血液をシスカが採血できるように、ラン=ディアはその弊害になり得る自分を排除したのだ。
(……そんな俺の性格まで、見抜いているのか……)
ユルングルの正鵠を得た言葉にラン=ディアは反論する術を失って、ただ黙ってユルングルの言葉を聞いていた。
「……目の前の俺ばかりに捕らわれるな。…その先にある命を救う事を優先しろ。……それが一人でも二人でもいいだろう……彼らが生き延びれば、その先彼らから生まれるいくつもの命が救われるんだ…。そう考えろ、ラン=ディア……」
「……貴方を守る事が、より多くの命を救う事だとは思われないのですか?」
「…!」
思ってもみないラン=ディアの切り返しに、ユルングルはたまらず目を瞬いて思わず失笑する。
「…言ってくれるな、ラン=ディア……。……だが悪いが、俺はこれをやめるつもりはない。……偽善でも何でも好きなように言え…。…俺は死ぬと判っている者を見捨てる真似はするつもりもないし、その所為でお前たちに心配や迷惑を掛けようが気にするつもりもない。……助けると決めた者は、どんな手を使おうが助けてやる。…お前たちがどれだけ止めようともな」
そう、決めたのだ。
花園に囚われたユーリシアを迎えに行くと決めたあの日、獅子としての運命を受け入れると決めた。そして、せめて自分の手が届く範囲だけは決して命を取りこぼさないと、そう心に誓ったのだ。
弱い自分がどれほどできるか判らないが、命を賭してもその誓いを守ると心に決めた。それが自分の命を救ってくれたダスクと、何も言わずにずっと傍にいてくれたダリウスへの恩返しになる。そして、命を取りこぼしてしまったユニへの贖罪だと自分を戒めて______。
「………だがまあ…偉そうに言っておいて何だが、実際に盗賊を掃討するのはダリウスとアレインだがな…」
いかんせん体が動かないのだから、二人を頼っても仕方のない事だろう。
「………………貴方と言う人は…」
「……仕方がないだろう…。俺を見ろ……ベッドで体を起こす事すらできないんだぞ…。…俺は指示を出すだけだ…あとは二人に託す…」
悪びれることなくそう言い放つユルングルにラン=ディアは心底呆れたようにため息をついて、そんなラン=ディアにラヴィとアレインは苦笑を落とす。ただ一人ダリウスだけは、申し訳なさそうな表情を落としていた。
「……申し訳ございません、ラン=ディア様」
「…ダリウス殿下が謝罪なさる事ではないでしょう」
「…そんな事はないぞ……自慢じゃないが、俺はこのダリウスに甘やかされて育てられたんだ……。…俺がこんな性格になった責任の一端はダリウスにもある…」
「だそうですので、お気遣いは無用です」
(………本当に仲がいいな、この二人…)
責任転嫁も甚だしい台詞をいけしゃあしゃあと口にするユルングルにも動じず、笑顔でそう返すダリウスの姿に、三人は思わず心中でそうひとりごちる。
くつくつとひとしきり笑いを落としたユルングルは、仕切り直すように小さく息を吐いた後、もう一度ラン=ディア達三人に視線を向けた。
「……意に賛同しない者を強制的に従わせるつもりはない…。……どうしてもと言うなら他の方法を考えるが……どうする…?…俺についてきてくれるか……?」
ダリウスを数に入れなかったのは、何も言わなくても必ず自分に賛同すると判っているからだ。
問われたラヴィとアレインは互いに目を見合わせて頷き、そうしてラン=ディアの顔を窺うように見返した。その視線に気づいたラン=ディアは、諦めとも取れるため息を盛大に落とす。
「…この空気で俺だけ拒否できないでしょう。もう観念いたしましたよ。…貴方がそのおつもりでしたら、俺は何が何でも貴方のお命を守るために全力を尽くすだけです。俺は口うるさいですからね。覚悟はしておいてください」
そう不機嫌そうに意趣返しをしてくるラン=ディアに、ユルングルは再びくつくつと笑みを返す。
歯に衣着せぬ、は、もうラン=ディアの専売特許だと認識済みだ。
ユルングルは一度ダリウスと頷き合って、再び視線を彼らに向ける。
本当は、心底申し訳ない、と思う。
自分のままならない体が、ダリウスだけではなくラン=ディアやラヴィ、そしてアレインにまでいらぬ心配と苦労を掛けているのだろう。その上こうやって、我儘を通すために彼らを振り回すのだ。
それが例え人助けに由来するものであっても、迷惑をかけている事に違いはない。
それでも自分について行こうと思ってくれる彼らの優しさと心遣いが、心底有り難い。
思いのほか多く会話を交わしたからか、再び微睡みに落ちそうになる意識を何とか保ちながら、ユルングルは弱々しい体に微笑みを落として、呟くように彼らに告げる。
「………俺は本当に……恵まれているな……」
何に対しての言葉かは、聞くまでもないだろう。
返答の代わりに彼らからの微笑みを受けて、ユルングルは満足そうにそのままゆっくりと眠りに落ちた。




