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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第四部 星火燎原(せいかりょうげん)

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ソールドールへ

 皇王シーファスは、絶え間なく続く体を包むような振動の中で目を覚ました。


(………ここは……?)


 心中でそう呟いて、ゆっくりと開いた瞳のその視線だけを、くるりと回してみる。闇に閉ざされているところを見ると、まだ日は昇っていないのだろう。振動と共に耳に届くガタガタという音の中に、時折車輪が軋む音が聞こえるという事は、ここは馬車の荷台だろうか。


(………油断したな…)


 自嘲気味に嘆息を漏らして、シーファスは記憶をたどる。


 あの後、隠れ家を出てすぐリュシアの街の外に止めてあった馬車に乗り込んだ。目立たぬよう路地裏に止め、布を被せて隠すように止めていた馬車だ。

 乗り込む際、シーファスは間違いなく皇族専用の馬車である事は確認した。だが、御者の顔を確認する事を失念した。馬車に描かれた君子蘭の紋章を見て、つい安堵してしまったのだ。


 馬車に乗り込んですぐ、窓から何やら薬のようなものを散布され、シーファスはそのまま気を失った。

 我ながら情けないほどの大失態だと思う。すぐに殺されなかったのは不幸中の幸いだろうか。


 いつもならこのような失態を演じる事は決してない。

 だがあの時の自分は誰から見ても隙だらけだっただろう。息子であるユルングルに強く拒絶された事ばかりが頭を支配していた。あのユルングルの怒気を含んだ表情が、脳裏に焼き付いて離れなかったのだ。


 どうすればまた会ってもらえるだろうか。

 どう申し開きをすれば、ユルングルの機嫌が直ってまた以前のように話してもらえるだろうか。


 そんな事ばかり考えて、周りを警戒する事を怠ってしまった。

 自分が今、命を狙われているという事を承知しておきながら____。


(…アレインがいなくて助かったな……)


 いれば間違いなくアレインは気づいただろう。

 そしておそらく、アレインは自分を庇って殺されていたのだ。あるいは、自分がアレインを庇って死んでいただろうか。


(…だからアレインを隠れ家に残したのか……)


 ユルングルに教皇と同じく未来を見る力がある事は、アレインから聞いた。それが教皇と同じくすべてを見通すほどのものか、あるいは少し先が時折見える程度のものなのかは判らない。だが今回の事に関しては、紛れもなくアレインの命をユルングルが拾ってくれたのだろう。


 心中で人知れずユルングルに感謝の意を述べて、シーファスは横たわったままの体を起こそうと試みる。だが体を起こそうと動かした腕に、軽く鈍い痛みが走った。

 両の手が離れない。片方を動かそうとすると、手首の辺りが引っ張られて強制的に一緒に動く。足も同じような状況である事を鑑みると、どうやら腕も足も縄で縛られているのだろう。それでも体を起こそうと動かす自身の体が、妙に重たく感じる事をシーファスは怪訝に思った。


(…何だ…これは……?)


 物理的に何かをされているわけではない。

 痛みがあるわけでも苦しいわけでもなかったが、体だけが普段と違って嫌に重たかった。まるで肩に見えない何かが重くのしかかっているような、そんな気分だろうか。


 その重たい体を何とか持ち上げて、シーファスは何やら柔らかくカサカサとした何かにもたれかかった。


(……これは干し草…か…?)


 肩で息をしながら、怪訝そうに手を伸ばして周囲を確認する。

 どうやら自分の周りには、干し草を四角く固めて縄で縛ったもので埋め尽くされているらしい。これは逃亡防止の為だろうか。


(……そもそもこんな体では、動く事すらままならないだろうに……)


 この嫌に重たい体も、おそらく何かを施されたに違いない。それでも安心できず、念には念を入れたのだろうか。


 シーファスはひどく気怠い体を干し草に預けて、ついでに頭も預けるように顔を上にあげる。

 正直座っているだけでも辛い。この重たい頭を支えるだけの余力が首にはなかった。そうして脱力するように上げた視界の中に、わずかに開いていた小窓から夜空が垣間見えた。


 意識が外に向いたからか、遠く鳴り響く鐘の音がようやく耳に届いて、あれが自分の死を告げる弔いの鐘だと気づく。

 この鐘の音が聞こえるという事は、まだそれほど遠くまで来ていないのだろう。


(……この馬車は、どこに向かっている……?)


 夜空の端に見える木々の影が絶え間なく後ろに流れていくのを、何とはなしに視界に入れる。淀みなく進むさまが、いかにも目的地がある事を如実に語っているようだった。


 その向かう先の思い当たる場所は、ソールドールしかない。

 以前、ユルングルとの会話で出てきた街の名前。ソールドールならば謀反に必要な兵力を、周りに疑われることもなく集めることが出来る。ユルングルもそう思って、キリア=ウォクライをソールドールに潜入させたのだろう。


(…だが、なぜ私をわざわざソールドールに連れて行く必要がある……?)


 弑逆したいのであれば、すぐさま殺せばいいのだ。その機会は十分にあった。にもかかわらず、殺す事よりもソールドールに連れて行くことを優先している。その意図が掴めず、底気味が悪い。


 未来が見えるユルングルには、その意図が判っているのだろうか。

 そう思うのと同時に、教皇に告げられた己の最期を思い出す。


 デリックに殺されるか、それともユルングルに殺されるか_____。


 未来が見えるユルングルにも、この二択は見えているのだろうか。

 シーファスは憎しみを込めたユルングルの瞳を再び思い起こした。


 あの会話が、ユルングルとの最後の会話になるのだろうか。

 あの憎しみを向けるユルングルの顔が、最後の記憶になるのだろうか。


(……最悪の別れだな……)


 もう一度、会いたいと思う。

 だがその時はおそらく、ユルングルが自分を殺す時だろう。


 ユルングルに親殺しの罪を着せても会う事を望むか、それとも最悪の別れのまま生を終えるか。

 どちらを選んでもあまりいい終わりではない事に、シーファスはたまらず嘆息を漏らした。


**


「…ユルングル様、お体に不調はございませんか?」


 馬車の荷台で揺られながら、ダリウスは目の前の主に小声でそう問いかける。

 ユルングルを抱きかかえた状態で荷台に乗り込みそのまま座り込んだので、ユルングルは未だダリウスの腕の中だ。


 この馬車は各地に文や荷を届ける配達専用の荷馬車だった。もちろん人を輸送する乗合馬車にも荷を積んでいる場合は多々あるが、この馬車は完全な配達専用だ。


 この夜夜中よるよなかでは乗合馬車は走っていない。特に皇都を出る馬車は、皇都に向かう馬車に比べて本数も少ない。なので配達人に無理を言って何とか乗せてもらったのがこの荷馬車だった。もちろんそのために、少なからず金銭を積んだ事は言わずもがなだろう。


 文や荷を多く積んだ荷台に大の男が五人も乗り込んだので、すし詰め状態とまではいかないまでも何とか五人が座ってやっと、という中で膝を突き合わせている。正確にはユルングルは未だダリウスの腕の中にいるので、四人と言った方がいいだろうか。


「……ああ、問題ない。…それよりもお前たちに怪我はないな……?」


 ユルングルの問いかけに、皆一様に頷く。


 遁甲の出入り口である森の入り口で、デリックの手の者と思われる暗殺者たちと対峙した。

 ユルングル側の動きを監視していたのだろう。出てくるや否や攻撃を仕掛けてきたが、ユルングルからその存在を聞いていたダリウスとアレインによって、いとも容易く処理された。


 遁甲の入り口で死なれては困るので、彼らに仕込まれていた毒をすべて排除して手足を縄できつく縛り、猿轡さるぐつわをして、いかにもユルングルたちの仕業と判るようにこれ見よがしに放置した。こうしておけば、ユルングルがもう遁甲の中にはいないという事がデリックに伝わるだろう。


「……ことごとく裏をかかれて、デリックはさぞご立腹だろうな…」


 彼の顔を知らないので想像する事はできないが、生まれる前からずっと自分の命を狙っていた相手だと思うと笑いが止まらない。くつくつと笑いながら、受けた仇は何倍にもして返してやる、と心中で人知れずひとりごちるユルングルを、アレインは物言いたげな表情で見つめていた。


「……?……どうした、アレイン…?」

「……申し訳ございません、ユルングル殿下___いえ、ユルングル様。……先ほどは何も存じ上げなかったとは言え、感情に任せてあのような暴言を____」

「謝る必要はない……」


 アレインの謝罪の言葉を遮るように、ユルングルはぴしゃりと言い放つ。


「…あれが逆の立場だったら、このダリウスはもっと食って掛かっただろう……」


 くつくつと笑いながらダリウスの顔をちらりと見上げるユルングルが視界に入って、ダリウスは的を射ているだけに何も言えずバツが悪そうに閉口する。


「…ですが……」

「……悪いと思うなら…ソールドールまでの道中、俺たちを手助けしてくれ……。…ダリウスだけで……俺を抱えながらこの二人を守るのは骨が折れるからな……。……それで貸し借りなしだ……いいな…?」


 元より共に行動するつもりだった。

 ユルングルが皇王を助けるために動くと言うのなら、アレインに選択の余地はない。むしろ、ついてくるなと言われても頭を下げてついていくつもりだっただけに、これで貸し借りがなくなったとは到底言えないだろう。これでは自分にばかり利があるような気がして、アレインはなおさら恐縮するように困惑げな表情を向ける。


 そんなアレインに、ダリウスはおもむろに鞄を差し出した。


「アレイン様の荷物も準備しております。…どうか手をお貸しくださいませんか?」

「…!」


 あれほど不愉快にさせてしまったダリウスは、まるでもう終わった事のように穏やかな顔を浮かべている。それどころか逆に申し訳なさそうな表情で、今にも頭を下げそうな勢いだ。そんなダリウスの様子に、アレインはたまらず目を瞬いた。


 失態を演じたのは他でもない自分なのだ。

 なのに暴言を吐かれた側である二人は、まるで何もなかったかのように振舞ってくれる。

 その二人の気遣いが嬉しく、謝罪が出来ない事が心苦しい。


(…この償いは、これから行動で示せばいい……)


 人知れずそう心に誓って、アレインは笑顔と共にダリウスから鞄を受け取った。


「…用意周到ですね」

「ですから万全だと申し上げたでしょう?」


 馬車の荷台の中で小さな笑いが起こって、わずかに穏やかな空気が流れる。そんな中、ふとラン=ディアがユルングルの様子に気づいた。


「…ユルングル様……?大丈夫ですか…?」


 そのラン=ディアの言葉に弾かれるように、皆慌ててユルングルに視線を向ける。


 不調がある、と言う感じではないが、もう体が疲れ切っているのだろう。力なくダリウスの胸に頭を預けて、その瞳はもう微睡みの中にあるのか恍惚としていた。


「………すまない……少し……眠っても…いいか………?」


 呟くように、ぽつりぽつりと何とかそれだけを告げる。

 倒れて以降、ずっとベッドの上で一日のほとんどを眠って過ごしていたのだ。いくら手術をして心臓がとりあえずの機能を取り戻したとはいえ、そう容易く体力が戻るわけではない。


(…無理もない。今日手術を終えたばかりのお体でずいぶんと無理をされた……)


 心中でそうおもんばかったダリウスは、返答を待って何とか意識を保っているユルングルに穏やかに答える。


「…お休みになられてください、ユルングル様」


 ダリウスのその声が耳に届くと同時に、ユルングルは耐えきれなかったのか力尽きるように瞳を閉じて眠りに落ちる。すぐさま寝息を立て始めるユルングルを、皆一様に不安そうな表情で見つめていた。


「…このようなお体で、ソールドールまでの長い旅路を耐えられるのですか…?」


 眉根を寄せて、不安げにそう訊ねたのはラヴィだ。


「…正直、神官としてはやめろと言いたい気分ですよ」


 不承不承とため息を落として、ラン=ディアは答える。


 ソールドールまでは十日ほどの道のりだ。

 だが、ユルングルの体をおもんばかりながらの旅となると、もう少しかかるだろう。そして時間がかかればかかるほど、ユルングルの体力はさらに削られていくのだ。

 それを考えると、正直頭が痛い。


「…あのデリックのことです。おそらく追手を差し向けるでしょう」


 痛むラン=ディアの頭をさらに悩ませる言葉を、アレインは告げる。

 腹立たしいが、アレインの言葉は十中八九、現実に起こるだろう。一度逃げられたくらいで諦めるのなら、何度もユルングルの暗殺を画策したり、ましてや謀反など起こさないはずだ。

 ラン=ディアもデリックという人物と面識があるわけではないが、彼が今まで起こしてきた数々の悪行を思い起こせば、粘着気質の人物であることは容易に想像ができた。


「……頭が痛いことばかりですね…」


 考えれば考えるほど問題ばかりで正直匙を投げ出したい気分だ、とラン=ディアは盛大に溜息を落とす。


 この旅は決して、物見遊山するような悠々自適な旅になる事はない。それどころか無事ソールドールにたどり着くのかさえ疑わしいほどだ。こうやってソールドールへの旅路の不安材料を挙げ連ねれば、おそらくきりがないだろう。

 そう思えるほど、この旅に不安の種は尽きなかった。その最たるものがユルングルの体調なのだ。デリックの追手よりも何よりも、ユルングルの体がソールドールまで持つのかが一番の難問だろうか。


 他の皆も同じことを思ったのか、一様に痩せ細った弱々しいユルングルを不安そうに見つめて、前途多難な旅路に誰からともなく嘆息を漏らす。


 そんな不安ばかりが漂う空気の中、ダリウスだけが一人、何の不安もない笑顔をたたえていた。


「…ご安心ください。ソールドールには無事たどり着きます。ここにいる誰一人、欠ける事はございません。…ユルングル様がそう、おっしゃってくださいました」


 そう穏やかに告げるダリウスを、三人は目を瞬きながら視界に入れた。


 おそらくこの中で一番ユルングルの体を憂慮し不安に駆られているのは、他ならぬダリウスだろう。それは隠れ家を出て以降、決してユルングルを離そうとしないダリウスのその姿からも容易に想像ができた。


 それでも、信じると決めたのだ。

 ユルングルの言葉を。そしてそれを実現するために、何があっても皆を守ると心に誓って___。


 そんな覚悟を決めたダリウスを見咎めて、三人は互いに目を見合わせた。


 ユルングルが言う『誰一人欠ける事なく』の『誰一人』にユルングル自身が含まれていない可能性は多分にある。彼が自分の身をないがしろにする気質である事は、ダリウスも含めここにいる全員が持つ共通の認識だ。それでもダリウスが信じると決めたのなら、自分たちが疑うわけにはいくまい。


 そう覚悟を決めた三人は誰からともなく頷き合って、不安げな表情に覚悟を載せた笑顔をたたえた。

 そんな彼らを満足そうに視界に入れて、ダリウスは告げる。


「…さあ、皆さん少しお休みください。長い旅路になりますから、休める時に休まれておかないと体がもちませんよ」


**


 夜中に鳴り響いた弔いの鐘によって半ば強制的に起こされた騎士たちは、すぐさま練兵場に集められた。闇夜を照らすように、練兵場の周囲に灯った洋灯ランプの蝋燭の揺らめく光が、なおさら緊張感を漂わせている。


 白宮で身柄を拘束されたゼオン達も同じく練兵場に連れてこられて、他の騎士たち同様デリックの動向を不安と苛立ちを含んだ瞳で注視していた。

 中でもやりきれない気持ちで沙汰を待っていたのは、謀反人に仕立て上げられたユーリシアだった。


 ユーリシアは、生まれてからただの一度も父に対して反感を抱いたことはない。どれほど強くたしなめられたとしても、父を疎ましいとさえ思ったことはなかった。

 それはどの言動にもすべて、自分に対する愛情がうかがえたからだ。


 そんな敬愛して止まない父を、他でもない自分がしいしたとうそぶくデリックが憎くてたまらない。

 たとえそれが嘘であっても、いや、嘘だからこそ、それが事実として語られる事が耐え難く、腹立たしかった。


 憎しみと、そして少なからず殺意をたたえた瞳で近衛騎士に周りを固めさせたデリックだけを注視するユーリシアに、ゼオンは小声で呟く。


「…頼むから暴れてくれなよ、レオリア。…せっかく…ゴホッ、ケホッ…!……せっかくこうしてあいつらの目を欺けられたんだ。それを無駄にするな…ゲホッ…!」


 軽く咳き込むゼオンを一度小さく視界に入れて、ユーリシアは肯定も否定もなく再び視線を逸らす。


 そもそも、ユーリシアの姿を取れない事がまた腹立たしい。

 今までどれほど非難され後ろ指をさされようとも、ユーリシアはそれから背を向けたことはなかった。いつも必ず真っ向から立ち向かい間違いを正す姿勢を崩さなかった事は、自身の中で誇ってもいい数少ないものの一つだ。


 だが現状、それはできなかった。

 まるで逃げるようにレオリアの姿を取り、こうやって成り行きを見守る事しかできないことが何よりもどかしい。


 頭では判っているのだ。今はそれが考え得る限り最善の行動であると。今は鳴りを潜めて、時宜を見定める必要がある、と。だが自身の強すぎる正義感が邪魔をした。


 決して見過ごしてはならない。

 今すぐ間違いを正すべきだ。


 頭の中からその考えが離れない。気を緩めればすぐにでもレオリアの姿を解いて、デリックの嘘を暴いてやりたい衝動に駆られて仕方がなかった。


 ユーリシアはその考えを振り払うようにかぶりを振って、どうしても収まらない怒りを何とかこらえるように眉間にしわを寄せ、拳を握る。

 そんなユーリシアの両頬を突然軽くつまんで、彼の意表を大いに突いたのは他でもないユーリだった。


「…!?……にゃにをしているんだ…?……ユーリ」


 両頬を左右に引っ張られている事で上手く発音できないユーリシアを、ユーリはくすくすと笑う。


「あんまり眉間にしわを寄せていると、ユルンさんみたいになっちゃいますよ」

「…!」

「…例え他の人たちが謀反人だと信じても、僕たちは無実である事をちゃんと知っています。だから、いつもの穏やかなレオリアさんでいてください。僕はそんなレオリアさんの方が好きです」


 言ってユーリシアの頬をつまんだ手を離しながら屈託なく笑うユーリの姿に、ユーリシアは目を瞬いた。

 あれほど荒んでいた心が、波が引くように驚くほど容易く静まり返るのを自覚した。苦痛にも似た心の重しが取れると、途端に先ほどまでの自分が滑稽に思えて思わず笑いを落とす。


「…私がユルンのように眉間にしわを寄せるのは似合わないか?」

「似合いません!あの顔はユルンさんだけで十分です!」


 その返答に、またもや笑みがこぼれる。


「…そうか、なら善処しよう」


 言って場違いなほど穏やかな表情を見せるユーリシアに、内心ひやひやしていたゼオン達はようやく胸を撫で下した。


 あれだけ痛いほどのとげとげしい雰囲気を纏っていたユーリシアはもういない。彼の怒りをこれほどいとも容易く納めてしまうのは、おそらくユーリ以外にはいないだろう。彼が___いや、彼女がいなければ、いずれユーリシアは現状に耐え切れず、愚行を冒していたはずだ。


 ここにユーリが居てくれた事に心底感謝しながらも、だがゼオンは一抹の不安も胸をかすめた。


(…ユーリに何かあれば、間違いなくユーリシアは平常心を保てないだろうな…)


 これからの事を思えば、間違いなく危険が付きまとうだろう。そんなユーリをユーリシアの傍から離して安全な場所で匿うか、あるいはユーリシアが暴走しないための抑止力として傍にいてもらうか、どちらを選ぶかは悩ましいところだろうか。


 ゼオンは頭に浮かんだその悩みを隅に追いやるように一度ため息を落とすと、おもむろにシスカを振り返った。


「…シスカ。シーファスの魔力が健在かどうかは判らないのか?」


 小声で問われたその質問に、シスカは悄然とかぶりを振る。


「…先ほどからずっとさぐってはいるのですが見つかりません。通常亡くなっていてもしばらくは大気に魔力が漂うものですが、それすら見つからないのです……」

「…私の魔力が原因か?」

「いえ、それもありますがそれだけではないでしょう。…おそらく、陛下の魔力は封じられた状態になっている可能性が高い…」

「…魔力を封じられる…?どういう事だ?」


 怪訝そうに問うユーリシアに返答したのはゼオンだった。


「魔力が体外に出ないようにしゅを施された魔装具を付けられている状態だ…ゲホッ、ゴホ…!…これを付けられると魔力が放出されないから神官に感知される事はないし、疑似的に低魔力者と同じような体になる…コホっ!」

「…?低魔力者と同じ…?では瘴気に体が蝕まれるのか……?」

「それはない。魔力自体は体内にちゃんとある。ただ…ゴホッ、ゴホッ…!…ただ、魔力で増幅された身体能力がなくなるだけだ。高魔力者であればあるほど、体が重くて身動きが取れなくなる」

「…!…では、私も注意しなければならないな……」


 父が生きているかどうかは判らないが、これを付けられているのだとすればたとえ生きていても逃げる事は叶わないだろう。そうして自分も、いつ何時それを付けられるかは判らないのだ。


 だが警戒するように眉根を寄せたユーリシアを、シスカは失笑と共に一蹴する。


「ご冗談を。貴方の膨大な魔力を抑えられる物などこの世に存在いたしませんよ。…貴方を見くびってそんな物で拘束できると本気で思っているのでしたら、あの男は救いようのないほどの愚か者でしょうね」


 言って、ようやく近衛騎士たちの壁から出て騎士たちの前に姿を露わにしたデリックを見咎める。そのシスカに促されるように、ユーリシア達も同じくデリックに視線を移した。


「…聞け!騎士たちよ!貴殿らは皆、何が起こったのか判らず不安に駆られている事だろう!…私も未だ、事実を受け止められずにいる!…だが!弔いの鐘が鳴ったのだ!その意味を、ここにいる者全員が知っているはずだ!」


 突如として始まったデリックの演説に、喧噪の中にいた騎士たちはその口を噤み固唾を呑んでデリックの言葉の続きを待っている。


「我らが偉大な皇王、シーファス陛下が崩御された!!それも謀反を起こした者によって、無惨にも弑逆しいぎゃくされたのだ!!」


 その言葉に騎士たちはたまらず目を丸くして、納まったはずの喧騒が再びどよめき出した。


「…弑逆…!?」

「一体誰がそのような事を…!?」

「…あの陛下を弑する事の出来る者などいるのか……?」


 彼らの口から出るのは、一様に誰が皇王を弑したか、だ。

 その答えの矛先を知っているユーリシア達は、騎士たちの喧噪が起こる中ただ静かにデリックの続く言葉を待っていた。


「…皆、一番気になるのは誰が謀反を起こしたか、だろう!それが誰であるか、私も聞いた時は我が耳を疑った!だが、これは事実である!!…貴殿らもなぜ、皇太子がこの場にいないのか不思議に思っている事だろう。本来であれば、ここで演説をしているのは私ではなく皇太子であったはずだ。…その皇太子がいない理由は、一つしかない」


 その持って回った言い方に、言葉の先を予感した者たちから小さなどよめきが起こる。その顔は皆、信じられないと言った風だった。


 あの皇太子が謀反など起こすはずがない。

 それもよりによって父を手にかけるなど、あり得ない。

 まるで自分が予想した相手ではない事を祈るように、皆デリックの言葉を待った。


 そうして、長い前置きを終えてデリックは告げる。


「…そう、謀反を起こしたのは今まさに貴殿らが想像したその人…皇太子ユーリシア=フェリシアーナである!!!!!」


 高らかと宣言したその名に、皆一様に我が耳を疑った。


 ひと際大きなどよめきが沸き起こって、皆互いに目を見合わせる。その顔はデリックの言葉を怪訝に思ってかぶりを振る者たちがほとんどであった事に、ユーリシアは内心、心が救われたような気がしたが、中にはデリックの言葉も理に適っていると、皇太子がこの場にいないことをいぶかしむ声も聞こえた。


 あの正義感の強い皇太子が、自分の無実をただ指を加えて見ているはずがない。本当に無実であれば、真っ先にこの場に姿を現して事実無根である事を正々堂々と告げるだろう。それをせずに姿をくらましている事自体が、謀反人である事の証左ではないか。


 そんな憶測が耳をかすめて、ユーリシアはたまらず内心で失笑する。

 それは他ならぬ自分自身が嫌と言うほど承知している事だ。誰に言われるでもなく自覚している。それだけに反論する術を失って、ユーリシアは自嘲にも似た笑みを無意識に落とした。


 そんなユーリシアの視界にひょっこりとユーリが顔を覗かせてにこりと微笑むので、ユーリシアもつられて笑顔を見せる。


(…これでは怒る暇もないな)


 笑っている時ではないはずなのに、こうやって心を和ませてくれるユーリの気遣いが嬉しくてたまらない。

 心が再び落ち着きを取り戻したことを自覚して、ユーリシアは再び演説を続けるデリックを視界に入れた。


「皆それぞれ思うところはあるだろうが、謀反人が皇太子である事は覆しようもない事実である!!婚約者を二度もリュシテアに奪われ、未だ行方不明なのだ!!その心中は決して穏やかではなかっただろう!!…そのことに関して陛下と口論をしていたという話も聞いている。積もり積もった不満が爆発したとしてもおかしくはない」


 よくもまあ次から次へとでまかせを、とユーリシアは呆れたように嘆息を漏らす。ここまでいけば怒るどころか呆れてものも言えない。

 大仰な立ち居振る舞いを見せるデリックに、まるで演劇でも見せられているような気になって、ゼオンたちもたまらず失笑を漏らした。


「弔いの鐘が鳴って我々はすぐさま白宮に乗り込んだが、すでにもぬけの殻だった!計画的犯行であったことは明白だ!!その謀反人の居場所は杳として知れないが_____」


 その言葉を待っていたかのように、まるで計ったように彼の侍従であるラットが演説をしているデリックに何やら耳打ちをする。


「…!…今その皇太子の逃亡先がようやく判明したと報告があった!!彼は元要塞都市であるソールドールに向かったそうだ!!」

「ソールドール…!?」

「なぜあんなところに…?」


 ざわめく騎士たち同様、思いがけない名前がここで上がって、ユーリシア達は目を丸くした。


(ここでソールドールの名が出てくるのか…!)


「皆も知っての通り、あそこは死の樹海が近いために魔獣の絶えない土地柄だ!!それゆえ傭兵を雇って私設軍を作る事を許可した唯一の都市である!!皇太子はそこに目を付けたのだろう!!ひと月ほど前にソールドールの領主であるベドリー=カーボン辺境伯から、内密に傭兵を今の三倍は募るようにと皇太子から命ぜられたと報告が上がっている!!」

「…!?まさか…!?」

「皇太子はその傭兵たちを使って、謀反を成し遂げるつもりなのだ!!」


 ひと際声を張り上げた後、デリックはおもむろにゼオン一行に視線を移した。


「そこで…だ。ゼオン殿、貴殿らは以前から陛下同様、皇太子とも懇意にされていたな?…特にそこにいるユーリ=ペントナーは皇太子の口から直々に親しい友人だと聞いている」

「…!」


 レオリアに扮するユーリシアは、すぐさまユーリを庇うように前に立ちふさがる。


「…何が言いたい?」


 言ったのはユーリシアだ。

 めつけるように鋭い視線を向けるユーリシアに、デリックは嘲笑を含んだ顔で鼻を鳴らした。


「…疑いを晴らす機会を与えようと言っているのだ。貴殿らがシーファス陛下の弑逆の手助けを、あるいは皇太子逃亡の手助けをしていないと言うのなら、彼ら騎士団を引き連れ見事皇太子ユーリシア=ファリシアーナを討って見せよ!!」

「…!?」


 そのデリックの言葉に、ユーリシアは目を見開いた。


 よりにもよって、自分レオリア自分ユーリシアの討伐に向かう事になるのか。

 それも騎士団を引き連れて、だ。


 まだ内情を知っている自分たちだけでソールドールに向かうのなら、何とでも欺きようがあった。早い話、この変化の魔装具を使って手頃な死体に自分の姿を取らせることも可能だろう。だが騎士団が共についてくるのであれば話は違う。彼らは証人だ。間違いなく皇太子を討ったという証人が、デリックは欲しいのだ。


 反論しようと口を開きかけたユーリシアは、だが手で制して前に出るゼオンに思わず口を噤んだ。


「…願ってもない申し出だ。俺たちも疑われたままじゃ枕を高くして眠れないからな…ゴホッ、ゲホ…っ!」

「…どうやらゼオン殿は体調が優れないようだ。何ならそこのユーリ=ペントナーと共にこの皇宮で待っていても良いのだぞ?…貴殿の侍従たちは優秀なようだから、ゼオン殿がいなくともきっとよい報告を手土産に、戻ってくることだろう」

「…はっ!…御免被るな。…護衛もなしにこんな魔力至上主義者が跋扈するところで休めるか…!」

「…ふん、言ってくれる。…好きにすればよい」


 まるで虫けらでも見るような目線をゼオンに送った後、デリックは再び騎士たちに向き直って高らかに宣言する。


「今すぐ出軍の準備をせよ!!出立は三日後!!向かう先はソールドール!!見事謀反人である皇太子ユーリシア=フェリシアーナを討ってみせるのだ!!!!!」


**


 ユルングルは軽く白んできた陽の光に目覚めを促されて、ゆっくりと目を覚ました。


 その微睡みの瞳に真っ先に入って来たのは、白んだ空を見つめ陽の光に照らされた、見慣れたはずのダリウスの顔だった。その顔が、なぜか遠い昔を彷彿とさせた。


「……あの時のようだな…」


 己の腕の中で眠っていたはずの主の声が聞こえて、ダリウスはユルングルに視線を向ける。


「お目覚めになられたのですか?ユルングル様」


 それにはただ頷いて、ユルングルは言葉を続けた。


「……覚えているか?…あの時も、お前はこうやって俺を離そうとしなかった……」

「…!」


 そこでようやくいつの事を言っているのかを悟って、ダリウスは遠い昔の記憶を思い起こす。


 ユルン=フォーレンスと呼ばれていた弟が死んでユルングル=フェリシアーナに戻ったあの日、森にたどり着くまでの五日間をこうやって胸に抱いたまま行動した。

 もう、十九年も前の話だ。


「…あの時はユルングル様をお守りする事だけで頭がいっぱいでしたから」

「……だが、今は違うだろう…」


 言って、座ったまま寝入っているラン=ディア達を視界に入れる。


 フォーレンス邸を出たあの時、互いに互いしか信じられるものがなかった。

 たった二人、不安と恐怖を胸に秘めて、拠り所を求めるように身を寄せ合った。

 あの時の記憶は、まぎれもなく自分の苦難の始まりを告げた記憶だろう。


 だが、今は違う。

 今はこうやって、自分について来てくれる者たちがいる。

 自分に信頼を寄せ、そして自分も信頼を寄せられる相手がいる。

 あの時の不安や恐怖を思えば、彼らがいると言うだけでこれほど頼もしい事はない。


「…そうですね。今は私たち二人だけではない」


 ユルングルに促されるように彼らを視界に入れて、ダリウスもまた頷く。


「…少しはラン=ディア達を頼れ。ソールドールまでは長い。…あの時みたいにずっと俺を一人で抱えるわけにもいかないだろう…」

「問題ございません。今の貴方は軽すぎるくらいです」

「……5歳の頃と一緒にするな。…いくら痩せていてもあの頃よりは重いだろう…」

「あの頃に比べれば、私も力が付きましたから」


 頑なに承知する事を拒むダリウスに、ユルングルは眉根を寄せる。


「……お前、ソールドールまでずっと俺を離さないつもりか……?」


 その問いかけに、ダリウスは困ったような笑みを落としながら返答した。


「私が一番、適任なのです。ラン=ディア様やラヴィでは貴方を抱えて行動する事は難しいでしょう。かと言ってアレイン様と交互に貴方を抱きかかえていては、有事の際、腕がしびれて動かない事にもなりかねない。…貴方を抱えるのは一人に絞った方がいいのです。だとすれば、彼らの中で一番力のある私が適任でしょう」


 そのあまりに的を射た返答にユルングルは反論できず、渋面を取って思わず閉口した。


 確かにこの中では、疑いようもなくダリウスが一番力があるだろう。それは高魔力者というだけではなく、彼は体格的にも恵まれていたからだった。


 ダリウスの身長は二メートル近い。

 自分もずいぶん身長が伸びたほうだったが、ついぞダリウスを抜く事はなかった。自分の身長が伸びれば伸びるほど、ダリウスもまた同じように成長したからだ。おかげで二人並ぶと、頭半個分の差がある。


 いつもは口下手なダリウスは、自分の意見を通す時だけは別人のように雄弁になる事をユルングルは知っていた。これ以上の押し問答は時間の無駄だろうと、ユルングルは不承不承とため息を落とすと、めつけるようにダリウスを視界に入れる。


「……お前は本当に頑固だな」

「申し訳ございません。これが性分なのです」


 判ってはいたが、それでも言わずにいられなかったのは長い道中、自分を抱えたままになる事への罪悪感からだろうか。


 ユルングルは再びため息を落とすと、さらに明るくなった陽の光を眩しそうに見つめた。


 すべてが始まった十九年前のあの日、胸の内にあったのはただただ不安と恐怖だけだった。

 だが今は、何もできず怯えるだけの幼い子どもではない。現状に対抗し得るだけの力を手に入れ、何より信頼できる仲間もできた。それが一番、心強い。


「……ダリウス、終わらせるぞ。すべてをだ」


 自分からすべてを奪った者から、何もかもを奪い返してやる。そして受けた苦難と屈辱は、何倍にもして返してやるのだ。


 そう心に誓うように、弱々しい体に似つかわしくないほどの強く鋭い眼差しを陽の光に向ける。

 ダリウスはそんな陽の光を浴びた己の主を一度視界に入れて、同じように光をその瞳に入れた。


「…はい、必ず」


 そうしてダリウスもまた、覚悟を胸に刻んで強く頷き返したのだ。


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