弔いの鐘
「まだユルングル様は落ち着かれておられないかもしれません。アレイン様はしばらくここでお待ちいただけますか?」
そう言って応接室にアレインを残したまま、ダリウスは処置室にいるユルングルの元へと急ぐ。
処置室の扉を軽く叩いて開くと、まだ苦しいのか肩で息をしながらベッドの上で横になるユルングルと、その傍らで神官治療を施しているラン=ディアの姿があった。
ラン=ディアは入って来たダリウスを振り返ると、目配せするようにユルングルを小さく一瞥してからダリウスに頷いて見せて、そのまま部屋を辞去する。ユルングルが完全に落ち着くまで、ダリウスと二人にした方がいいと判断してくれたのだろう。
ダリウスは扉が完全に閉まったことを確認してから、ベッドに横たわる己の主を視界に入れた。
「……アレインを皇王から引き離せたか……?」
閉じていた瞳をゆっくりと開いて、吐息交じりにそう問いかける。その顔色は悪く、額には汗が軽く浮き出ていた。先ほど暴れたせいだろう。
「…はい、問題なく」
答えながら、ダリウスは額に浮かんだ汗をタオルで拭う。
「……少々、無茶をなさりすぎです。手術をなさったばかりなのですよ」
「……なぜ皇王にあんな事を言ったのか…お前は訊かないんだな……俺がまた反旗を翻したと不安にならないのか……?」
その問いかけに、ダリウスは小さく笑う。
「貴方は人を怒鳴る事が苦手なお方ですから。あのような態度を取るには何かしらの理由がおありなのでしょう」
「……その理由が、皇王に対する逆心からだとは思わないのか……?」
「ユルングル様はご自分の身の内に内包した者を見放される事は決してございません。…何があっても、です」
「……俺が…皇王に気を許したと言いたいのか…?お前は……」
「それはユルングル様が一番よくご存じでしょう?」
何の疑いも不安もなくこちらを見つめ返してくるダリウスに、ユルングルは辟易したように、それでいて面映ゆそうにため息を落として視線を逸らす。
「……お前は嫌な奴だな…」
あのラン=ディアですら神官治療を施している間、もの言いたげな不安な視線を送っていた。結局口を噤んで何も訊いてこなかったのは、再びユルングルを刺激してまた暴れられては困るからだろう。
そんなラン=ディアとは対照的に、どこまでも自分を信頼して疑わないダリウスの態度が妙に面映ゆく、くすぐったい。普段は鈍いくせに隠そうと思ったことは何でも見通してくるのは、やはり赤子の頃からずっと自分を見てくれているからだろうか。
かつての兄には頭が上がらない、とバツが悪そうな表情を取るユルングルにダリウスは軽く失笑して、体調を窺うように顔を覗き込んだ。
「ご気分はどうです…?少しは落ち着かれましたか?」
「……ああ、ラン=ディアが治療してくれたからな……だいぶ楽になった」
「次に無茶をなさる時は事前にご報告ください。これでは私の心臓が持ちません」
それを心臓の悪い俺に言うか、と思わず吹き出して、ユルングルは笑顔で告げる。
「……善処する」
**
ユーリシアは、皇王の帰りが遅い事を訝しく思っていた。
ユルングルの手術がどうなったか気になってずっと父の帰りを待っていたが、もう夜夜中だというのに帰ってくる様子はない。デューイも不安に思ってユーリシアと共に待っていたが、夜半を過ぎた頃、皇王は自分が待つのでもう休むようにと言われて、ユーリシアは不承不承と部屋に戻った。
(…ユルンの身に何かあったのだろうか……?)
遅くなる理由など、それしか思い当たらない。
ユーリシアはレオリアの部屋のベッドに腰を下ろしながら、悄然とため息を落とす。
ユーリとライーザの拉致騒動があってから、ユーリシアは自室には戻らずレオリアの部屋で寝泊まりするようになった。それはユーリの身の安全を図るためだ。
レオリアの部屋はユーリの隣に用意されている。何かあってもすぐ対処できるよう、そして不穏な空気をすぐに察知できるよう、誰に言われるでもなくユーリシアはレオリアの部屋で寝泊まりする事を選択した。
そんなレオリアの部屋で、ユーリシアはざわつく心を持て余すように再びため息を落とす。
これは帰ってこない父を心配しているのだろうか。それとも、何かあったかもしれない兄を心配しているのだろうか。あるいはその両方かもしれないが、どちらにせよこれでは休めと言われてもそれを行う事は難しいだろう。
(……眠れそうにない)
三度ため息を落として、やはりデューイと共に父を待った方がまだ気が紛れる、と立ち上がったところで、耳をつんざくほどの大きな鐘が鳴って、ユーリシアの鼓動は大きく跳ね上がった。
それは大きな音に驚いたからではない。
この鐘は、通常決して鳴らない事を知っている。
この鐘が鳴る時は、皇族────それも皇王が崩御した時にしか鳴らない弔いの鐘だからだ。
ユーリシアは弾かれるように立ち上がって、すぐさま部屋を出ようと駆け出す。だがそれよりも早く部屋に飛び込んできたのは、蒼白な顔をしたシスカだった。
「ユーリシア殿下…!ご無事でしたか…!!」
「シスカ…!?一体何があった…!?」
「判りません…!ですが念のためレオリアの姿を取ってください…!」
「レオリアの…?だが何かあったのだ。有事の際に皇太子の私が不在では────」
「いけません…!…陛下に何かあったのであれば、次に狙われるのは皇太子であるユーリシア殿下です…!」
「…!」
そう、謀反が起こると言われて弔いの鐘が鳴ったのだ。それの意味するところは一つしかない。
「……父が……弑されたというのか……?」
呆然自失と呟いたが、声がかすれて上手く出てこない。
手が震えて視線が定まらず、胸を強く打つ鼓動の音が嫌になるほど耳にうるさかった。
信じたくはない。
父が弑逆されたなど信じたくはなかった。
それはあの誉れ高き父が、デリックに屈服したも同然なのだ。
それだけはどうしても、認めることが出来なかった。
憮然とした表情で立ち尽くすユーリシアの腕を、シスカは鼓舞するように強く掴む。
「しっかりなさってください!!ユーリシア殿下…!!陛下が生きておられる可能性はまだ残っております…!!!」
そのシスカの言葉で、ユーリシアは失いかけた我を取り戻す。
「そう……そう、だな。まだ決まったわけではない…!」
皇太子の自分が真っ先に希望を捨ててどうする。
ユーリシアは自分を鼓舞するように、そして噛んで含ませるようにそう呟くと、何に対してか一つ頷いて真っすぐシスカを見据えた。
「…他の皆────ユーリ達はどうした?」
「もうすぐ異変に気付いて出てくるでしょう。…もう廊下にいるかもしれません。…とりあえずゼオンの部屋に集まりましょう。彼を一人にはできない」
ゼオンの体調はまだ戻ってはいなかった。
皇宮に戻ってからまだ五日。体調が戻るにはあまりに短い。
日中は症状も落ち着いてきたが、やはり夜になると熱が出て今まさに寝込んでいる真っ最中だ。シスカがこれほど早くユーリシアの元に来れたのは、ゼオンの看病をしていたからだった。
ユーリシアはシスカの言葉に頷き返して、共に部屋を出る。ちょうど出たところで、何があったのか狼狽して訝し気に自室の扉を開けて廊下を窺っているユーリと目が合った。
「ユーリ…!!」
「ユーリシアさん…!!一体何があったのですか!?」
「説明は後だ。とにかくゼオン殿の部屋に急ごう!」
ユーリと合流した三人は、そのままゼオンの部屋に急ぐ。そのままなだれ込むようにゼオンの部屋に入った三人に驚いて、すでにゼオンの部屋を訪れていたアルデリオは目を丸くした。
「殿下…っ!!一体に何があったんですかっ!?」
「…落ち着け、アル。……ユーリシアとシスカはすぐに変化の魔装具を付けろ……もうあまり時間はないぞ……ケホっ、ごほっ…!」
軽く咳き込みながらそう告げて、ゼオンはベッドに横たわったままの体を気怠そうに起こす。
「統括…!!横になっていないと……!」
「……もうそんな余裕はない……あの頭のいかれた野郎は俺たちも見逃すつもりはないぞ……ゴホ、ゴホッ!!」
言いながら窓の外に視線を向けるゼオンにつられて、皆一様に窓に歩み寄る。そこから見えたのは、白宮になだれ込む近衛騎士たちの姿だった。
「近衛騎士…!?何で彼らが白宮に……?」
「……まあ、まずはユーリシアの身柄を確保するためだろうな……」
我が目を疑うように目を瞬きながら告げるアルデリオに、ゼオンが答える。
「……ユーリシアがいないと判れば、次に来るのはここだ……」
まるでその言葉が合図であったかのように、部屋の扉が大きな音を立てて乱暴に開かれる。ユーリシア達は弾かれるように扉と、その扉を破って入って来た近衛騎士たちを視界に入れた。
「……ずいぶんと荒っぽい訪問だな……ゴホ…っ!…一応俺たちはラジアート帝国の公式な客だぞ……無礼を承知で来たのか……?」
剣を向ける近衛騎士たちを威圧するように、ゼオンは熱に冒された体を押してベッドから立ち上がり鋭い視線を送る。アルデリオはゼオンの体を支えようと手を伸ばしかけたが、ゼオンはそれを遮るようにアルデリオに向けて手をかざした。
「……俺たちに剣を向けて何をするつもりだ…?……デリック=フェリシアーナ」
近衛騎士の向こうを見据えながら告げたゼオンの言葉に、くつくつと不敵な笑いが返される。
剣を向けていた近衛騎士たちが二手に分かれて作った道を悠然と歩いて彼らの前に現れたのは、金茶の髪を誇らしげに掻き上げるデリック=フェリシアーナだった。
「ずいぶんと体調が優れないようだな、ゼオン=ラジアート殿」
「……余計なお世話だ…。それよりも俺たちに剣を向ける事がどういう事か判っているのか……?」
「元より無礼は承知の上だ」
「……ラジアートと一戦交える覚悟がお前にあるのか…?」
「勘違いしないでくれ、我々はラジアート帝国を敵に回すつもりはない。…だが弔いの鐘が鳴ったのだ。それが何を意味するか、ゼオン殿はご存じではないのかね?」
「……俺たちがシーファスを手にかけたとでも言いたそうな顔だな……」
それには嘲笑を含んだ笑みをくつくつと落とす。
「まさか!貴殿が陛下と懇意の間柄である事は周知の事実だ。そこまで耄碌しているつもりはない。…我々が探しているのは真の謀反人だよ」
言ってデリックは部屋を軽く見渡した後、近衛騎士たちに短く、探せ、と命じる。家探しするように部屋を無遠慮に踏み荒らす近衛騎士たちを鋭く睨めつけながら、レオリアに扮したユーリシアは怒りを抑えるのに必死だった。
(真の謀反人…だと……?…よくもまあ平然とそのような嘘を…!!)
今、目の前に立っているこの男が、父を弑したかもしれないのだ。
たとえ生きていたとしても、おそらく彼の手の内にあるのだろう。
そう思うと、止めどなく怒りが溢れて身の内を支配するようだった。
これは、聖女に体を支配された時の感覚によく似ている。
自分の身の内にあるもう一人の自分が、まるで煽るように耳元で囁くのだ。
『デリック=フェリシアーナを殺せ』と─────。
ユーリシアは気を抜けばその誘惑に負けそうになる心を何とか押し留める。
拳を固く握り歯を食いしばっているのは、怒りのためか、あるいは殺すまいと自制する心から来るものなのか、もう判断がつかなかった。
そんなユーリシアの耳に、ぼそりと呟くデリックの声が届く。
「……全く、低魔力者にこの由緒ある部屋を使わせるとは…分不相応もいいとこだな」
「…っ!」
感情のタガが外れて今にも飛び掛かりそうな勢いのユーリシアを、シスカとユーリがすぐさま押し留めた。
進路を塞ぐように前に立ちふさがって頭を振るシスカと、腕を強く握るユーリの顔を互替わりに見て、ユーリシアは血が上った頭を冷やすように大きく深呼吸をしてから二人に精いっぱいの作り笑いを見せた。
(……デューイ叔父上は無事だろうか…?)
笑顔を作ったことでわずかばかり落ち着きを取り戻したユーリシアの心に、共に父の私室で帰りを待っていたデューイの存在を思い出す。
彼は紛れもなく皇王派、それも側近中の側近だ。あのデリックが無罪放免と見逃すはずがない。
(…いざとなれば差し違えても私が─────)
再び表出したわずかな殺意をシスカは悟ったのだろう。すかさず耳元でユーリシアを窘めるように囁く。
「…フォーレンス伯はご無事です。お願いですから馬鹿なお考えはおよしください」
「…!」
その内心まで察しているシスカに目を瞬いて、ユーリシアは念を押すように訊ねる。
「……本当だな?本当に叔父上は無事なのだな?」
「…貴方の魔力で感知能力が鈍くはなっておりますが、フォーレンス伯の魔力は健在です。あの方のお立場を考えれば、むやみに殺すわけにもいかないのでしょう。…ご安心を」
デューイは皇王の補佐官だ。
どうやらデリックではない誰かが謀反を起こした、という体を作ろうとしている事を鑑みると、シスカが言うように補佐官であるデューイを殺しては都合が悪いのだろう。
(…おそらくこの近衛騎士たちも、命ぜられるまま本当に謀反人を探しているのだろう。誰一人、デリックの謀反だと疑う者はいないはず…)
そんな彼らの前で、補佐官を理由もなく殺せるはずはない。
そう得心して、ユーリシアはようやく胸を撫で下ろすように小さく息を吐いた。
「……判った、大人しくしよう」
言質を取った事で安堵するシスカを一度視界に入れて、ユーリシアは再び近衛騎士と彼らに守られているデリックを視界の端で一瞥する。
他の部屋もつぶさに捜索していたのだろう。続々とゼオンの部屋の前に近衛騎士たちが集まって、デリックに何やら耳打ちするように報告をする様子が視界に入った。
「……ふむ。どこにもいない、か…」
報告を受けてこれ見よがしにため息を落とし、デリックを訝しげに見つめるゼオンたちを軽く一瞥する。
「…私はね、ゼオン殿。ラジアート帝国とは友好な関係を続けていきたいと思っているのだよ。…だが、真の謀反人を隠し立てするのならば、それ相応の対応をせざるを得ないのだ。…そうなる前に、彼の行方をご存じならば包み隠さずご報告願いたい」
「……何の話だ……?…一体何が言いたい……?」
「…ふむ、判らぬか。切れ者と聞いたが所詮は低魔力者だな。それとも熱で頭が回らないか」
くつくつと嘲笑しながら小馬鹿にしたような物言いと、いつもの薄ら笑いを浮かべた顔に見下したような表情まで加わって、嫌に鼻について仕方がない。その大仰なまでに身振り手振りを載せる様が、まるで演劇でも見ているような気分になって、なおさら嫌悪感を刺激した。
睨めつけるように鋭い視線を送るゼオン一行がいかにも愚かしく見えたのか、デリックは再びくつくつと笑いを落として嬉々として告げる。
「…判らぬか?ここにいない者が一人いるではないか。…婚約者を二度もリュシテアに奪われ、ついにはご乱心されて父である陛下を手にかけられた。…ここにいない事が、何よりも謀反人である事の証拠だろう」
「…!……まさか」
目を丸くして茫然自失とデリックを見返すゼオン達に、デリックはにやりと笑う。
「そう、真の謀反人は皇太子ユーリシア=フェリシアーナ…その人だ」
**
アレインは遠く鳴り響く鐘の音で目を覚ました。
微睡みの中にあったのはほんの一瞬。耳に届いた鐘の音が何を意味するのかをすぐに悟って、飛び跳ねるように体を起こしカーテンを開く。
聞こえるのは皇宮がある方向だ。
あそこで鳴る鐘は、一つしか思い当たらない。
「……これは……弔いの鐘……!?」
そう察した時、なぜ自分がここに残されたかをアレインは悟った。
怒りで拳を握り、弾かれるようにベッドから飛び降りて荒々しく部屋を出る。向かう先は決まっていた。
「ユルングル殿下…!!!!」
不躾にユルングルの部屋の扉を開ける。もう第一皇子に対しての礼を尽くそうとは思わなかった。
「お恨み申し上げます…!!ユルングル殿下…!!!!」
怒気を含む声色と恨みを込めたアレインの視線を受けるユルングルは、彼が来ることを予想していたのだろう。うろたえる事も驚くこともせず、ベッドの上でクッションに身を預け、少し体を起こした状態でただ緩やかにアレインに目を向けている。
ちょうど洋灯に火を灯したダリウスがユルングルを庇うように前に立ちふさがったのを見て、アレインはさらに怒りが沸々と湧き出るのを自覚した。
「…貴方もご存じだったのですね、ダリウス殿下…!!こうなる事が……シーファス陛下が弑されると判っていて、私をあの方から離されたのでしょう…!?」
問い詰めるようにダリウスに怒鳴って、アレインは怒りに任せるままダリウスの胸ぐらを掴む。
鐘の音を聞いて慌ててユルングルの部屋を訪れたラン=ディアとラヴィ、そして鐘の音の意味は知らないが何やら胸騒ぎを覚えたライーザが、開け放たれた部屋の外から怪訝そうに様子を窺っていた。
「……ダリウスは関係ない。俺がそうしろと指示した」
「やはり…っ!!…なぜです…!!!?陛下はいつもユルングル殿下を気にかけておられた…!いつも貴方に心を砕かれておいでだったのに…っ!!このような仕打ちをなさるなど、あんまりです!!よもやデリックの謀反をこれ幸いと陛下を亡き者に─────」
「アレイン様っっっ!!!!!!!!」
言いさしたアレインの言葉を遮るように、ダリウスは怒号を上げる。
いつもは穏やかなその顔には、ユルングルに無礼な言葉を吐いたアレインに対する怒りが如実に表れていて、たまらずアレインはたじろいだ。
「…今のお言葉は聞き捨てなりません…!今すぐ撤回なさってください…!!」
珍しく眉間にしわを寄せて声を荒げるダリウスに、クッションに身を預けたままのユルングルは呆れたようにため息を落とす。
「……構うな、ダリウス。好きに言わせてやれ…」
「いいえ!もう我慢なりません…!なぜいつも、ご自分の事よりも周りの方のために奔走なさっておられるユルングル様が責められなければならないのです…!?どれだけ心を砕いて身を削ったとしても!!責められ嫌悪の対象になるのはいつもユルングル様です…!!今でもシーファス陛下やユーリシア殿下のお命を守ろうと、動く事さえままならない体で奮闘なさっておいでなのに…っっ!!!」
心の声を吐き捨てるように、ダリウスは思いの丈を叫ぶ。
元々ダリウスは寡黙なのだ。
思っている事の半分も口には出さず、ただ黙して心を飲み込むのが常だった。
そのダリウスがまるで心のタガが外れたように気持ちを吐き出す姿を、ユルングルは複雑な表情で視界に留めた。
(…そんな風に…思ってくれていたのか…)
ユルングル自身、それを苦に思ったことは一度たりともない。
どれだけ誤解されても、責められようとも、それで胸が疼くことは一度もなかった。
それは他でもないダリウスが、常に信頼を寄せて傍にいてくれたからだ。
(なのにどうしてお前が、俺の代わりに傷ついているんだ……)
ユルングルは内心でそうひとりごちて、半ば呆れたように、だけども感謝する気持ちを含めて、笑顔と共にため息を一つ落とす。
「…ダリウス、もういい。…言っても誰も信じないだろう。俺は日頃の行いが悪いんだ。……お前だけが信じてくれればそれでいい」
「ですが…!!」
「…お待ちください……!!!では……ではシーファス陛下は…まだ生きておられるのですか…!?」
ダリウスの言葉を遮って茫然自失と訊ねるアレインを軽く一瞥した後、ダリウスは落ち着きを取り戻すように小さく深呼吸して言葉を返す。
「…生きておられます。捕らわれてはおりますが、怪我もなくご無事です」
「…!」
そうはっきり断言するダリウスに、アレインは息を呑むように目を瞬いてからまるで脱力したかのように長く息を吐いた。その顔は先ほどまでの硬い表情とは打って変わって、長い緊張から解き放たれたような安堵の表情を浮かべている。
「…アレイン様があのまま陛下に追従なさっていれば、今頃貴方は殺され、陛下は貴方を庇って深手を負っておられたでしょう」
「…!……だから私を陛下から離されたのですか…!?……では…そう素直に仰っていただければ……」
感情の赴くまま暴言を吐いた事を恥じ入るように、アレインは悄然と肩を落としながらバツが悪そうに口元を抑える。そんなアレインを庇うように、部屋の外で成り行きを見守っていたライーザが口を挟んできた。
「あー…アレイン…さん?あんまりこいつの事で気に病まなくてもいいですよ。こいつはあれです。えー…と、何だったかな?ダスクさんが言ってた……!そうそう!偽悪者ってやつですから!」
すかさずユルングルからライーザに向けて制裁と言う名の本が飛んでくる。
「いてっっ!!」
「誰が好き好んで悪役なんて演じるか!ゼオンと一緒にするな!」
「いってぇな!!俺は頭を怪我してるんだぞ!!そんなだから誤解されるんだろうが!!」
「五階でも六階でも好きに解釈すればいいだろ!いちいち他人にどう見られるか気にしていられるか!俺は俺のしたいようにするだけだ!」
「……お願いですからあまりユルングル様を刺激なさらないでください……ライーザ様」
ライーザが口を挟むと、いつもは冷静なユルングルが子供みたいに向になる。
ただじゃれ合っているだけでダリウスにとってはもう見慣れた光景だったが、無茶のできない今は控えて欲しい、とたまらず内心で嘆息を漏らした。
急に緊張感がなくなった空気に皆一様に苦笑を漏らす中、ユルングルは緩んだ気を張るように毅然と告げた。
「…もうあまり時間はない。今すぐここを出るぞ。…準備はできているな?ダリウス」
「はい、万全です」
何のためらいもなく二人頷く様子を見て、ラン=ディアは目を丸くしながら押しのけるようにダリウス達の前に駆け出した。
「お待ち下さい…!!何をおっしゃっているのです…っ、正気ですか!?ユルングル様は手術を終えたばかりなのですよ!!馬鹿も休み休みにおっしゃってください…!!」
そのラン=ディアらしい歯に衣着せぬ物言いに、ユルングルは思わず吹き出す。
「…俺はお前のそういうところは嫌いじゃない」
くつくつと笑いをこぼすユルングルを、ラン=ディアは睨めつけるように見据えて眉根を寄せた。
「…俺は冗談を言っているわけではないのですよ……っ!!」
「そうです…!そのようなお体でここを出るなど無茶が過ぎます…!!なぜお止めにならないのですかっ、ダリウス様!!」
不機嫌そうなラン=ディアと加勢に加わったラヴィを視界に入れて、ユルングルはさもありなんと告げる。
「…何を悠長な事を言っている。お前たちも来るんだぞ?」
「…………………はい?」
「お二人の荷物も準備しております」
「ライーザはここに残れ。お前は足手まといだ」
「一言余計なんだよ!お前は!!」
話についていけず、荷物を手渡されて呆然とする二人は互いに目を見合わせる。
もう決まった事のように淀みなく動くダリウスを視界に入れながら、ラン=ディアは情報を整理するように額に手を当ててため息を落とした。
「…なぜ今なのです?この遁甲の中にいれば安全でしょうに」
「…本当にそう思うか?」
「…!」
「…デリック様は────いえ、デリックは自分の罪を着せる相手としてユーリシア殿下を選ばれました」
「…!?ユーリシア殿下を…!?」
これにはユーリシアの侍従であるラヴィが強く反応した。
「ですがユーリシア殿下は今レオリア様の姿を取っておられます。殿下を見つける事は不可能に近い。…そうなればデリックが次に何をするか、容易に想像がつくでしょう」
ダリウスの言葉に、ラン=ディアは軽く思議するような仕草を見せておもむろに口を開く。
「…ユーリシア殿下と共謀した、などと難癖をつけて是が非でもユルングル様の身柄を抑えようとしますね。…だがここは遁甲に守られて手が出せない。どんな手を使ってでも、ユルングル様が自ら遁甲から出てくるように仕向けるはず…。例えば、リュシアの街の住人を皆殺しにする…とか亅
「…!?何だよ、それっ!?」
皆の会話を聞くともなく聞いていたライーザが、思わず声を上げる。そのままベッドの上でクッションに身を預けたままのユルングルに視線を移した。
「……そういうことだ。…俺たちがいると、この街の住人が危険に晒される……それだけはどうしても避けたい。………判るな?」
諭すように、そしてラン=ディアとラヴィに肯定以外の選択肢を与えないように強い視線を二人に送る。
二人は再び目を見合わせて、どちらからともなく不承不承と大きなため息を落とした。
「…承知いたしました。そういう事でしたら是非もありません」
その言葉に満足そうに頷き返して、ユルングルはもう一度ライーザを視界に戻す。
「…お前はこの騒動が落ち着くまでこの遁甲から決して出るな。後のことはモニタに任せている。……判ったな?」
「……もう、行くのか?」
「…何だ?急に不安になったか?」
先ほどの強気な態度とは打って変わって、不安そうな表情を浮かべるライーザを揶揄するように、ユルングルはにやりと笑って見せる。それが自分の気を紛らわせるためのものだという事を、ライーザは承知していた。
(不安なのは一人残されるからじゃない…。お前がそんな体で無茶しようとしているのが判るから不安なんだろうが…!)
そう思ったが、それを素直に口にしないのは癪に障るからだろう。
ユルングルがダリウス以外の誰かに心配してもらう事など決してないと思い込んでいるのが判るから、なおさら心配しているなどと口が裂けても言いたくはなかった。普段は何でも見通して他人を慮っているくせに、自分に対する善意にだけは鈍いユルングルが癪に障って仕方がない。
ライーザはあからさまに不愉快そうな表情を取ったあと、何かに思い当たったのか弾かれるようにユルングルを見返した。
「ちょっと待った…!皇太子さんから預かった物があったんだった!!」
「…ユーリシアから?」
「持ってくるからまだ行くなよ!!」
言って慌てて部屋を出たあと、ライーザは直ぐさま自室から取る物を取ってユルングルの部屋に戻る。
その胸に抱かれていたのは、自分と同じ、だが色の違う剣だった。
「………それは…ユーリシアの剣、か……?」
「ああ、ユルンに渡してくれって頼まれた」
言いながら、ライーザはベッドの脇まで歩み寄ってユルングルに剣を手渡す。
あの拉致騒動があった日、ユーリシアは皇宮に帰る直前になって再び処置室にいたライーザの元を訪れていた。そうして、ライーザにこの剣を託したのだ。
謀反が起こるのであれば、この剣はユルングルの元にある方が安全だと。
ソールドールで再会するまで預かってほしい、と。
そして、こう続けた。
『この剣は兄弟剣。この剣と同じように、私の心もユルンと共にある』と────。
「……相変わらずあいつは、恥ずかしげもなくそういう事を……」
何とも面映ゆそうに頬を軽く赤らめるユルングルに、ライーザは失笑する。
このユルングルにこういう表情をさせるのは、おそらくあのユーリシアだけだろう。
「……ちゃんと渡したからな。ソールドールで皇太子さんに返してやれよ」
「……判った」
小さく息を落として、ユルングルは短く返答した。
ユルングルから紺碧の剣を受け取ったダリウスは、深紅の剣と共に布に包んで紐を結び、それを肩にかける。
歩けないユルングルに外套を着せ、毛布で包んでそのまま抱きかかえた。
「…さあ、行きましょう」
隠れ家を出る一行の背を見送りながら、ライーザは声を上げる。
「絶対帰って来いよ!!今よりもひどい状態で帰ってきたら、ただじゃおかないからな!!!」
それがライーザに出来る、精いっぱいの声援だった。
あの皇太子のようにあからさまな言葉は柄ではないし、ひねくれ者のユルングルにはこれくらいがちょうどいいだろう。
次第に小さくなる一行の背中が見えなくなるまで見届けてから、一抹の不安を捨てるようにため息を落として、ライーザは人気のなくなった隠れ家へと踵を返した。




