前夜
「…ユルングルの具合はどうだ?」
隠れ家に着くや否や、皇王シーファスはそう第一声を落とす。
あれから五日が経ち、今日はユルングルの心臓手術の日だ。
あれほど待ちわびたユルングルにようやく会えるとあって、シーファスは逸る気持ちが抑えきれず浮足立っていた。
「…まだお体を起こすことはできませんが、意識はずいぶんとはっきりしておりますよ」
答えたのはラン=ディアだ。
「…会えるか?」
「少しであれば」
その返答に満足そうに頷いて、ラン=ディアの案内でユルングルの私室まで赴く。
ユルングルの部屋の扉をラン=ディアが遠慮がちに叩くと、中から「どうぞ」とダリウスの声で返答があった。
「陛下がいらっしゃいましたよ」
言いながら開いた扉の向こうには、ユルングルに点滴を施しているダリウスと、その傍のベッドで横たわる、約半月ぶりに見る息子の姿____。
その痛々しい姿に胸が軽く疼いたが、最後に見た彼の姿とは違ってしっかりとした視線でこちらを見返してくる強い眼差しに、シーファスは安堵のため息を落とした。
「……わざわざ来たのか……来るとは思ったが…」
辟易するように息を一つ落としながら、いつものように憎まれ口を落とすユルングルの姿が懐かしい。それでなおさら安堵して、シーファスは小さく顔を綻ばした。
「…君が手術を受けると聞けば、何を措いても来る」
言いながら、頭を垂れるダリウスにその必要はないと手を軽く上げて、その意を示す。それを見咎めた後、ダリウスは落とした頭を上げて、ユルングルに向き直った。
「…ユルングル様、また後でお伺いいたします」
それだけ言い残し、二人に小さく一礼をしてラン=ディアと二人部屋を辞去する。それを見届けた後、シーファスはゆっくりとユルングルに歩み寄った。
「…やはり迷惑だっただろうか?できれば今日は一日ここにいたいのだが……」
困ったような笑みを落としながら懇願するように、だけれども遠慮がちに告げるシーファスを、ユルングルは視界に入れる。押し黙ったまましばらくシーファスを視界に留めた後、おもむろに視線を逸らすユルングルの態度を、シーファスは怪訝そうに見つめていた。
「……好きにしろ」
そう告げるユルングルの顔は、面映ゆいともバツが悪いとも、あるいは後ろめたいとも取れる複雑そうな表情だ。それをさらに怪訝に思って小首を傾げているシーファスに、ユルングルは声をかける。
「……座ったらどうだ?」
言って、目の前のソファを示すユルングルの顔が以前よりも若干柔らかく感じるのは思い違いだろうか。
(…たとえ思い違いであっても、あからさまに邪険にされるよりはいい)
シーファスは心中でそうひとりごちて、促されるままソファに腰かけた。
「…どうだい?調子は」
「…あまり良くはない。……少し動いただけで心臓がひどく疼く。体を起こそうものなら、心臓の鼓動が激しく波を打って、破裂しそうだ……意識はずいぶん、はっきりしてきたがな……」
そう返答するユルングルの声音は弱い。
時折吐息と思えるほどの弱々しい声を落とすところを見ると、話すだけでもひどく億劫なのだろう。そんなユルングルに自分の存在がさらなる心痛を与えているかと思うと、シーファスの心に否応なく罪悪感が広がった。
「………すまない、ユルングル…」
「……?…何であんたが謝るんだ……?…おかしな奴だな……」
思わず口を突いて出たシーファスの謝罪の言葉に、ユルングルはこれでもかと訝し気な顔を見せる。そんなユルングルを見咎めて、シーファスはいかにもバツが悪そうに小さく視線を逸らした。
確かに心臓が弱ったのは自分の責任ではないが、親として何もしてやれないもどかしさで胸が疼いて仕方がない。今まで親らしい事は何一つできていないだけに、なおさらだろう。
かと言って、いつまでも申し訳なさそうな表情を取っていてはユルングルもきっと居心地が悪いはずだ。
シーファスは仕切り直すように小さく息を落とした後、笑みを落として話題を変えた。
「…手術は、いつからだ?」
「…午後からと言っていたな……大した手術じゃない……すぐに終わる」
「そうか……」
そう小さく呟いて肩を落とすシーファスに、ユルングルは辟易した様子で大仰にため息を落とした。
そのいつになく覇気のない皇王の姿が妙に鼻について仕方がない。見ればわずかに手が震えているのも判る。それがことさらユルングルの心をひどくざわつかせて落ち着かないのだ。
「……あのな、手術を受けるのは俺だぞ……何であんたが怯えてるんだ……」
呆れたように、あるいは面映ゆい気持ちを隠すように、ことさら渋面を取ってシーファスを睨めつける。
そこに至ってシーファスはようやく、自分の手が震えている事に気が付いた。
(……そうか…私は怖いのか……)
震える手を視界に入れて、シーファスは心中でそう呟く。
この五日、心がざわついて仕方がなかったのは半月ぶりにユルングルに会えるからだと思っていた。
だが、この震えは違う。
これは、ユルングルを失うかもしれないという恐怖から来るものだ。
手術をすれば状態がずいぶん良くなることも、その手術自体も初めての試みではあるものの、あのラン=ディアが執刀する限り失敗がない事も頭ではよく判っているつもりだ。それでも恐怖が心を支配するのは、ユルングルを見るたびに、かつて失った最愛の女性の姿が脳裏をかすめるからだろう。ユルングルの姿がファラリスと重ねて見えて、あの時味わった絶望と喪失感が再び身の内に沸き起こるのだ。
自身の手を見つめたまま動かなくなったシーファスを見咎めて、ユルングルはたまらず嘆息を漏らす。
(…これじゃ埒が明かないな……)
せっかく会話をする機会を与えてやったのに、これではまるで心ここにあらずだ。
自分を通して一体誰を見ているかは、もう考えるまでもないだろう。
ユルングルはことさら不機嫌そうにため息を落とすと、目線をシーファスから外して告げる。
「……もう眠い。……出て行ってくれ……」
「……あ……そうか…すまなかったね。……ゆっくりと休みなさい」
急に態度が頑なになったような気がして、シーファスは軽く動揺しながらもそれだけ告げて部屋の扉を開く。ゆっくりと閉まる扉の隙間から見えたユルングルはやはりこちらを見ようともせず、まるで拒絶しているかのように見えて、シーファスは閉まった扉に背を預けてたまらず嘆息を漏らした。
(……気分を害してしまったか…)
それは判るが、何に対して怒っているのかが判らないから対処に困る。
再び嘆息を漏らすシーファスを見咎めて、外で控えていたアレインが訝し気に声をかけた。
「……シーファス陛下。ユルングル殿下に何か……?」
「…いや、何でもない。…ラン=ディアはどこだ?」
「食堂にいらっしゃいます」
「そうか……お前はここにいろ、アレイン。私はラン=ディアと話すことがある」
「…!ですが……」
「ユルングルに何かあればダリウスを呼べ」
一切の反論を寄せ付けない皇王の様子に、アレインは自分が耳に入れていい話ではないのだろうと判断して、不承不承と頭を垂れた。
アレインをユルングルの私室の前に残したまま、シーファスは足早に食堂へと足を向ける。
この隠れ家にはもう何度も足を運んだ。特に案内されなくてもどこに何があるかは一通り把握している。勝手知ったる、とはよく言ったものだと心中でひとりごちながら、シーファスはラン=ディアが待つ食堂の扉を開いた。
「…ラン=ディア。お前に聞きたいことがある」
開口一番にそう告げるシーファスに、ラン=ディアは持っていた本を閉じて小さくため息を漏らした。
「…ずいぶんと藪から棒ですね」
皇王に対しても歯に衣着せぬ物言いを敢行するのは、さすがと言ったところだろうか。
「…それで?お聞きになりたい事とは?」
「単刀直入に訊く。私の心臓をユルングルに入れる事は可能か?」
「…!」
思いがけない言葉に、ラン=ディアは目を丸くする。
それは自分でも一度は考えた事のある治療方法だったからだ。
「……よく、そのような事を思いつかれますね」
「お前も考えただろう。…どうだ?現実的に可能なのか?」
心中を見透かされている事を悟って、ラン=ディアは嘆息を漏らしながら不承不承と頷く。
「…理論的には可能ですが、技術的には不可能です」
「具体的には」
「そもそもそれを行うために必要な機材が足りません。心臓を一度取り外して別の心臓を入れるのです。容易く行える術式ではない、どうしてもその手術には時間を費やします。その手術の間、心臓の代わりに血液を全身に送る代替え品が必要になります。現状、それができる機材も魔道具もございません」
「つまりそれさえ開発できれば可能と言うわけだな?」
「そんなに簡単なものではございません…!他人の臓器を体内に入れるのです!どうしたって拒絶反応が出る…!確かに陛下とユルングル様は血縁関係にあります。他人よりも適合率は高いでしょう。ですが血液型も一致していない以上、拒絶反応が出る事は避けられない…!現実的ではないのですよ…!」
「それでもいつかは可能になる」
「…!」
その頑ななまでに己の意志を貫こうとする皇王の態度に、ラン=ディアは嫌な予感が脳裏をよぎる。
「……何を、されたのですか?一体何を………」
呆然と訊き返すラン=ディアを軽く一瞥して、シーファスはおもむろに服に手をのばす。胸のボタンを一つ一つ外して、三つ外したところで服を掴んで左胸を晒した。
そこに見える、赤くぼんやりと光る円形の魔法陣のような痣_____。
「…まさか…!魔朱を施されたのですか……っ!?」
ラン=ディアは目を丸くしながらひどく狼狽して、たまらず声を荒げた。
それは魔朱が、決して人体に施してはならない禁呪であることを承知していたからだった。
魔朱____それは現状を維持する事のできる魔法陣の事だ。陣に魔力を与えることで、物の現状を維持することができる。当然その対象は、無機質な物に限った事だった。
だがどこの誰かはもう記憶にはないが、人体に施せば老いることなく若さを__現状を維持できるのではないかという愚かな考えが、一人の女の欲望を強く刺激した。その愚行が、多くの者の命を奪う結果になった事は記憶に新しい。
その一件があって以来、揶揄を含めて『魔朱』を『魔呪』と呼ぶようになったのはあまりに有名な話だった。
その魔朱が、なぜ目の前の皇王の胸に刻まれているのか____。
「…魔朱が施されているのは心臓だ。私が死ねば魔朱が発動する。…死んだ直後の心臓のまま保存できれば、問題なくユルングルの心臓に使えるだろう」
「何てことを…!!正気ですかっ!?魔朱を人体に施せばどのような影響があるか、陛下もご存じでしょう…!!」
「それは問題ない。陣はこうして刻まれてはいるが、魔朱が発動するのは私が死んだあと。お前が思うほど人体に影響はない」
「それでも全くないわけではございません!!ご自分の体を何だとお思いなのです…!!」
「…私はもうすぐ死ぬ」
「…!」
憤慨して声を荒げるラン=ディアの耳に、シーファスの静かな声が届く。そのあまりに穏やかな声音が口にした内容と相まって、ラン=ディアに否応なく静寂を与えた。
「すぐに死を迎える体など憂慮する必要はないだろう。それよりも私は、大切な息子に残せるものは残してやりたい」
「…そんな事をして、ユルングル様がお喜びになると本気でお思いなのですか…!?あの方は決してそのような物お受け取りにはなられませんよ…!」
「…そうだな。だが私が死んでこの心臓だけが残れば、あの子は決してそれを無下にはできないだろう」
そういう気性であることは、もう判っている。
どれだけ毛嫌いした相手からの厚意でも、死してまで自分に残してくれたものを拒絶できるほど、彼は非情にはなれないのだ。
「もう……それほど時間はないのだ。…私は今まで、あの子に何一つ与えてやることが出来なかった……。ならせめて、死んだ時くらいあの子の役に立つ事を許してくれてもいいだろう」
その悲痛なまでの懇願にも似たシーファスの言葉が、ラン=ディアの反論の余地の一切を奪っていくようだった。
何とかこの愚行を止められないかと考えれば考えるほど、シーファスの胸の内にあるユルングルへの贖罪にも似た感情がまざまざと突き付けられて、ラン=ディアは言葉の一切を失う。
それでも、と口を開きかけたラン=ディアを遮るように、シーファスは最後の一押しを告げる。
「ラン=ディア、頼む。私の死を、無駄にしないでくれ」
無駄死になどしたくはない。どうせ死ぬのなら、せめてユルングルにとって意味のある死にしたい。
そう言われているようで、ラン=ディアは開きかけた口を閉じざるを得なかった。
(…親というのは、これほどまでに子に尽くそうとするものなのだろうか…?)
子のいない自分には決して理解できない感情だ。
だが、とラン=ディアは目前にいる皇王を視界に入れる。
本来自分は、己の命を大切にしない人間が何よりも憎く毛嫌いしていたのではなかっただろうか。なのになぜ、今まさに命を軽視するような愚行に走る目の前の男を、畏敬の念にも似た感情を持って見ているのだろう。
ラン=ディアは諦観のため息を吐くと、ただ黙したまま、深々と頭を垂れた。
**
ユルングルの手術は昼過ぎから行われた。
執刀はラン=ディア、その助手としてダリウスも手術に立ち会う。
シーファスは手術前にもう一度ユルングルの顔を見ておきたかったが、午前に彼の機嫌を損ねてしまった上に手術前に無用な心痛を与える事も憚られて、結局ダリウスの誘いを辞退した。
ユルングルと会わぬよう応接室で手術の準備が終わるのを待って、処置室でユルングルに麻酔がかけられた事をラヴィから聞いて、ようやくシーファスは処置室の前のソファに腰を下ろす。
(…ここにいると、ユルングルが倒れた日の事を思い出させるな……)
あの時は、彼を失うかもしれない恐怖に身が引き裂かれる思いだった。
絶望で目の前が真っ暗になり、まるで駄々をこねる子供のように感情をぶつけた。
我ながら冷静さに欠けた行動だと自嘲気味に笑う。
(…私の命はあとひと月ほどだろうか……?)
教皇から具体的な日付を提示されたわけではない。だが『この冬を迎える事が出来ない』という事は、もう死が間近に迫っているのだろう。あとひと月半もすれば、冬が厳しいこの国は雪に閉ざされる。
デリックが冬を目前に謀反を企てているのは、雪に閉ざされれば交通の一切が閉ざされるからだ。その前に謀反が成就すれば諸侯たちが気付いた頃には全てが雪に閉ざされ、進軍はおろか街を出る事さえ難しくなる。謀反人であるデリックは雪が解ける春まで時間を稼げるだろう。
(…だが、ただでは死なない。必ずデリックに一矢報いる)
自分が死ねば、息子であるユーリシアやユルングルもただでは済まないだろう。ならば例え刺し違えても、デリックだけは生かしておかない。
決意を込めた眼差しを向けた己の手を、シーファスは力の限り握りしめる。
もう二度と、奪われやしない。
この手で息子たちを守って見せる。
その決意を飲み込むようにゆっくりと瞼を閉じたところで、処置室の扉が開く音が耳に入った。
手術が開始されてから約一時間ほどだろうか。しばらくは閉じたままだと思っていた処置室の扉があまりに早く開いた事にシーファスは何か不測の事態が起こったのかと慌てて立ち上がって、出てきたラン=ディアを訝し気に見つめた。
「……どうした…?何かあったのか……?」
目に見えて不安そうに訊ねるシーファスに、ラン=ディアは小さく息を一つ落とした後にこりと微笑む。
「終わりましたよ。…脈拍、心音共に異常はございません。魔装具は問題なく稼働しております」
「…!ユルングルに……あの子に会えるか……?」
ユルングルの姿を自分の目で見ないと安心できないのだろう。ラン=ディアの言葉にも変わらず不安な視線を寄越したままそう訊ねる皇王に、ラン=ディアは大きく頷く。
「今はまだ麻酔が効いておりますので眠っておいでです。目覚めるのは夕刻頃になるでしょう」
言いながら大きく開いた処置室の扉の向こうには、眠ったままのユルングルと、その彼を安堵したように見下ろすダリウスの姿があった。皇王に気づいたダリウスは小さく微笑んだ後軽く一礼して、そのまま処置室を後にする。二人きりとなったシーファスは、ゆっくりとした足取りで眠るユルングルに歩み寄った。
「……ユルングル」
小さく声をかけて、ユルングルの頬に手を添える。倒れて以降、赤みが差す事のなかった頬はほんのりと赤く、触れれば暖かい。頬に触れた手を今度は左胸に軽く置いてみると、弱々しかった鼓動が触れて判るほど強く波打っているのが判った。
(…っ!)
込み上げるものが激しく胸に迫って、シーファスはたまらず目頭を押さえる。ユルングルが倒れて以降、決して安堵する事のなかった心にようやく平穏が訪れた事を、シーファスは誰にか感謝の意を心中で述べた。
その相手が誰かは、もはや考えるまでもないだろう。
そのまま彼の手を握って目覚めるのを待っていると、ラン=ディアが告げた通り、陽が大きく西に傾いて影が長くなる頃合いに、ゆっくりと瞼を開くユルングルと目が合った。
シーファスはおもむろに腰を軽く宙に浮かせて、顔を窺うように遠慮がちに声をかける。
「…ユルングル。調子はどうだ…?」
「……悪くない」
そう答えて、ユルングルは全く動く事のなかった体を確認するように腕を小さく上げた。そうして自身の痩せ細った手を視界に入れた後、おもむろに体を反転させてベッドに手を突く仕草を見せるユルングルに、シーファスは目を丸くした。
「ユルングル…!?やめなさい…!!まだ動けるような状態ではない…!!」
「…っ!」
苦しいのか顔を歪ませるユルングルの体を支えて制するように声を荒げたが、一向にやめる気配はない。皇王の叫び声を聞いたダリウスとラン=ディアが慌てて処置室に入って来ても、ユルングルはその無茶をやめようとはしなかった。
「ユルングル様……っ!!おやめください…!!」
「やめるんだ!!ユルングル…!!何を考えている…!!」
「…うるさい…っ!!」
周章狼狽してユルングルの体を支えるように触れる皇王の手を、ユルングルは渋面を取るように睨めつけながら勢いよく振り払う。その怒気とも憎しみとも取れる眼差しを、シーファスは困惑気に受け取った。
「……いい加減、心配をするふりはやめろ…っ、皇王……!!」
「…!………何を……?」
思いもよらぬ言葉が返って来て、シーファスは反論する事さえできなくなった。
なぜ突然、これほど敵意を向けてきたのだろうか。
朝に会った時、気分を害してしまったのが原因なのだろうか___?
答えの出ない質問ばかりが頭をよぎって、シーファスはその場に立ち尽くした。
「ユルングル様…!それはあまりにも____」
「黙れ…!ダリウス…!!……最初に約束したはずだ……!俺とあんたは……ただの知り合いなはずだろう……っ!……これ見よがしに心配しているふりをされると…目障りなんだよ……!!」
窘めようとするダリウスにすら声を荒げるユルングルは、興奮しきっているのか苦しそうに肩で息をしながら言葉を吐き捨てる。
そのユルングルの様子に、シーファスはもう何も言えなくなった。
違う、と本当は言いたかった。
だがこれ以上自分がいてはユルングルを刺激するだけだろう。
手術が成功したとはいえ、まだ無理のできない体なのだ。
(…これ以上、この子を苦しめたくはない)
シーファスは不承不承とため息を落とすと、できるだけユルングルを刺激しないように穏やかに告げる。
「…そう……そう、だな。君と約束をした。親子関係を主張しないと……。…すまない、ユルングル。今日はもう失礼しよう…」
力なく微笑んで、シーファスは睨めつけるようにこちらを見返すユルングルを一度しっかり視界に留めると、開け放たれたままになっている扉から処置室を後にする。
アレインはその悲しげな皇王の背中を軽く一瞥した後、三人に一礼して後を追った。
(…これほどまでにユルングル殿下のためにお心を砕いておられるのに………)
黙したまま歩みを進める皇王の背が、なおさら哀愁を帯びているように見えていたたまれない。
いつかユルングルがこの皇王の想いに気づく日が訪れるのだろうか。
心中でひとりごちて悄然とため息を落とした直後、後ろから言葉をかけるダリウスの声が背に届いた。
「…シーファス陛下…!」
「…ダリウス、どうした?」
「…先程はユルングル様がご無礼をいたしまして申し訳ございません。……手術の後で気が昂っておられるのです」
「…構わない。それよりも私に何か用があるのではないのか?」
それには頷いて言葉を返す。
「…あのような事があった後で頼み事をするのは大変恐縮なのですが、ご容赦いただけるのであれば今日一日アレイン様をお借り願えないでしょうか?」
「…アレインを?」
「遁甲に不備が見つかったのです。至急修繕をしたいのですが、その間遁甲を解かねばなりません。できればアレイン様にはその間ユルングル様のお傍について守っていただきたい」
「遁甲に不備が…?」
シーファスはその穏やかではいられない状況に眉根を寄せる。ユルングルの身に危険が迫るとあれば是非もないだろう。すぐさまアレインに視線を向けて、毅然と告げる。
「アレイン、お前はここに残ってユルングルを守れ」
「…!ですが私は…っ!」
「頼む、アレイン。私の命よりもユルングルを優先してくれ」
懇願するように、だけれども強く言い放つ皇王に、アレインはたまらずたじろぐ。
あれほど悪しざまに言われた後でも息子を優先する皇王の気持ちが痛いほど胸に迫って、アレインの抗う気持ちを奪っていくようだった。
アレインは一瞬逡巡したが、ややあって不承不承とため息を吐くと、皇王の意を汲むように深々と頭を垂れる。
隠れ家を去る皇王の背を見送る間、なぜだか妙にその背中が心許なく感じて不安に駆られたが、アレインは小さく頭を振ってその感情に気づかないふりをした。
後にアレインは、それをひどく後悔する事になる。