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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第三部 有備無患 

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黒獅子と白獅子

「ユーリは殿下と共に皇宮に戻ってください。ライーザ様も命を狙われている以上、しばらくは遁甲の中にいた方が安全でしょう」


 処置室にライーザだけを残し診療所を出たところで、ダリウスがそう告げる。


 ライーザの怪我自体は大したことはなかったが、脳震盪を起こしていたので大事をとって処置室で一晩様子を見る事になった。とは言うものの、しばらくは遁甲の中で滞在する事になるので、隠れ家の中にライーザの部屋を作る必要があるだろう。


「あの……アルデリオさんは無事なんですか…?」


 ダリウスの言葉に頷きながら、不安そうにそう訊ねたのはユーリだ。

 自分を逃がすために追っ手を撒いてくれたアルデリオの姿が見えず、不安に駆られたようだった。


「心配には及びません。アルデリオはゼオン様の所にいますよ」


 穏やかにそう答えてくれるダリウスの様子に、ユーリは胸を撫で下ろして小さく息を漏らす。

 そんなユーリを視界に入れて、ユーリシアは訝し気に問いかけた。


「…一体何があったのだ?なぜユーリが狙われている?」

「…判りません。ライーザさんが言うには、僕はラヴィさんの代わりだと……」

「ラヴィの…?」


 その答えに、ユーリシアは眉を(ひそ)めた。

 以前アレインが、遁甲からラヴィが出る事を他ならぬユルングルが許可していないと言っていた事を思い出す。


(…ラヴィも狙われているからこそ、遁甲の中に留めているのか……)


 狙っているのが誰かは聞く必要もないだろう。


「…デリック伯父上────いや、デリックはユルンの命を狙っているだけではないのか?一体何を画策している?そろそろ教えてくれてもいいだろう、ダリウス」

「…薄々、気づいておられるのではありませんか?ユーリシア殿下」


 おそらくこの中でその質問の答えを一番有しているのは、ユルングルの侍従であるダリウスだろう。

 そう思って問うたその質問に抑揚のない声が返ってきて、ユーリシアは一呼吸置いた後、おもむろに口を開いた。


「…………謀反、だろうな」


 それしか考えられない。

 皇王や自分の命が危ういと聞かされれば、真っ先に浮かぶのはその二文字しかない。


 皇王と皇太子を弑逆(しいぎゃく)して、自分が玉座に収まる────だが、どうもその言葉とデリックが結びつかず、ユーリシアは今まで故意にその考えを払拭していた。


(…確かにデリックは魔力至上主義ではない父と私を憎んでいる。殺したいと思っているのは間違いないだろう…)


 だが、彼は玉座にそれほど興味があるようには思えなかった。

 以前、ユルングルはデリックを『玉座を狙う気満々だな』と評したが、彼が固執しているのは玉座ではなく『低魔力者を排除する事』だ。それともそれを成し得るために、玉座を狙っているのだろうか。


「…謀反……!?デリック様が、ですか……!?では……僕やラヴィさんが狙われているのは────」

「私を殺す時の保険、か?」


 驚愕するユーリに答えながら、ダリウスの反応を窺う。


「…少し違いますが、そう思っていただいても差し支えございません。…皇宮ではさすがにデリック様も表立ってユーリを狙う事は出来ないでしょう。できる限りユーリシア殿下かアルデリオの傍にいてください。常に人目がある場所にいる方が安全でしょう」


 ダリウスの言葉に、ユーリは無言で頷く。


「……詳細を教えてくれるつもりはないのだな?」

「…申し訳ございません」


 その質問にダリウスはただ謝罪をして(こうべ)を垂れるに留める。

 その様子から、ユルングルが口止めをしている事は明らかだった。彼はユルングルが許可しなければ、例え拷問されたとしても決して口を割る事はしないだろう。そういう人物であることは、もう承知の上だ。


 ユーリシアは不承不承とため息を落として、小さく笑みを見せる。


「…構わない、ユルンのすることだ。間違いはないのだろう。……だがライーザの二の舞だけは御免被るが」


 それには苦笑を返すしかない。

 時折、悪ふざけが過ぎるのは他ならぬ皇王の遺伝だろうか。


 それでもユルングルに信頼を寄せてくれるユーリシアに、ダリウスは静かに声をかけた。


「…ユルングル様にお会いになりますか?」


 その質問に軽く目を瞬いたユーリシアは、だが軽く思議して小さく(かぶり)を振った。


「……いや、やめておこう。ユルンとソールドールで会おうと約束をした。…その時を待つことにする」


 その返答に、ダリウスは軽くダスクを一瞥してから失笑する。その珍しいダリウスの反応にユーリシアは軽く小首を傾げた。


「…?…どうした?何かおかしなことを言ったか?」

「…いえ、申し訳ございません。決して殿下を笑ったわけではないのです。…少し前にラン=ディア様から、全く同じことをどなたかが口にしたとお聞きしていたものですから」

「……貴方は時折、意地の悪い言い方をしますね、ダリウス」


 バツが悪そうにダリウスを軽く()めつけながら、ダスクは告げる。


「きっとユルングル様に似たのでしょう」


 こういう時だけは、口下手なダリウスが一転、雄弁になる。

 くすくすと笑いながらダリウスらしからぬ切り返しにすっかり閉口したダスクを見止めて、ユーリシアは軽く目を瞬いた。


「……まさか…八日もここにいて、まだユルンに会っていないのか?シスカ」

「……おれも、お約束をいたしましたから。ユルングル様と……それからユーリシア殿下とも」


 面映ゆそうな表情でそう告げるダスクに、ユーリシアはユルングルが倒れた事を彼に報告したあの日の会話を思い起こす。


(…あの時の事を覚えていてくれたのか……)


 明確に約束を交わしたわけではないが、それでも自分を気遣って会わないでいてくれた彼の誠実さが好ましい。そんな彼をわずかでも妬ましいと思ってしまった自分を恥じ入るように笑って、ユーリシアはダスクに視線を寄せた。


「…ありがとう、シスカ。…だが、私を気遣う必要はない。ユルンに会いたければ────」

「申し上げたはずですよ?おれもユルングル様とお約束を交わした、と」


 その頑なな態度に、ユーリシアは思わず苦笑を落とす。


「…お前も意外と頑固な男だな」

「殿下と同じく、でしょうか?」


 懐かしい声がユーリシアの耳に入って来たのは、ダスクのその切り返しに軽く笑いあった、そんな時だった。


「ダリウス様、ユルングル様が目覚められましたよ」

「…!ラヴィ…!!」

「…!ユーリシア殿下…!お戻りになられていたのですか…!?」


 階段から下りてくるラヴィを見止めて、ユーリシアは嬉々とした表情を取りながら慌てて駆け寄った。


「杖はもう必要なくなったのだな…!傷の具合はどうだ…?」


 隠れ家を出た時、ラヴィはまだ杖を突いていた。ユーリシアはそれがずっと気がかりだった。


 ラヴィの傷は他ならぬ自分が付けたものだ。

 その傷の具合もさることながら、杖を突く痛々しい姿がラヴィとの記憶の最後となっていた事が、ユーリシアの心を大いに不安にさせていた。


 そんなラヴィの元気そうな姿に、ユーリシアは心の底から安堵する。


「もうすっかり良くなりました。それよりもどうされたのです?もうこちらにお戻りになれそうなのですか?」

「…いや、そういうわけではないのだ。成り行きでここに戻って来ただけで─────!しまった…!リース…!!」


 ラヴィの姿を見て、ようやくリースの存在を思い出したユーリシアは思わず声を上げる。


「…リース?彼がどういたしましたか?」

「リースと共にここに来たのだが、すっかり忘れていた…!!まだ迷っていないといいが…」


 何があったかは判らないが、怪我をしているユーリを見る限り我を忘れてユーリを助けに向かったのだろうか。

 そんな推察をしながらくすくすと失笑して、ラヴィは相変わらずなユーリシアに声をかける。


「彼の事です。きっと街の入り口でユーリシア殿下を待ちわびておりますよ」

「…そうだな」


 ラヴィの言葉に同意を示して、ダリウスを振り返る。


「ラヴィにも会えたことだし、私たちはそろそろ皇宮に戻ろう。…ユルンを───兄をよろしく頼む、ダリウス」

「…仰せのままに」

「お二人を遁甲の入り口までお送りいたしますね」


 言って立ち去る三人の背に人心地ついたように息を一つ落として、ダスクもそれに続くように踵を返した。


「おれもそろそろ診療所に戻りますよ。あまりゼオンを放っておくと、後々何を言われるか判ったものではありませんからね」

「…ダスクさん」


 そのダスクの背に、ダリウスは遠慮がちに声をかける。


「…何も、お訊きにならないのですね……?」


 訊きたいことは山ほどあるはずだ。

 なぜユーリたちが監禁された場所が判ったのか、ユーリシアがもうすでに助けに来ていたのに、なぜ自分たちまで向かう必要があったのか────問われれば、答えるつもりでいた。なのに何も訊かないダスクを、ダリウスは訝し気に見つめていた。


 そんなダリウスに、ダスクは微笑みを一つ落とす。


「…ユーリシア殿下もおっしゃったではありませんか。ユルングル様のなさる事に間違いはありません。おれも、あの方を信じていますので」


 それだけ言い残して立ち去るダスクの背に小さく微笑みを返して、一人残されたダリウスはユルングルの部屋へと向かった。


「…ユルングル様。ダリウスです」


 遠慮がちに戸を叩いて、静かに扉を開く。

 未だ恍惚そうな瞳をゆっくりとこちらに寄せるユルングルを見て取って、ダリウスは不安げな表情を取りながら歩み寄った。


「…お加減はいかがですか?ユルングル様」

「……あまりよくはない………俺が倒れてから何日経った……?」


 ひどく気怠そうではあるが意識がはっきりしている事に、ダリウスは小さく安堵する。


「…今日で二十二日目です。何度かお目覚めになられておいででしたが、覚えておられますか?」


 その質問には小さく(かぶり)を振った。


 目覚めた時、そのほとんどが虚ろで意識も朦朧としているようだった。何度か会話も交わしたが、それさえ覚えていないのだろう。

 ユルングルの中では、倒れて目が覚めたら今日だった、という感じだろうか。


「……思ったより長引いたな………だが、上手く手筈は進んでいるようで安心した………」


 その言葉に、ダリウスは小さく目を瞬いた。


(……眠っておられても状況を把握しておいでなのか…)


 内心でそう驚嘆を漏らしながら、ダリウスは頷く。


「…ユルングル様のご指示通り、ダスクさんがライーザ様の魔力を見失われた時点で最後に魔力を感じた方角にある、二階が倉庫になっている家屋にお二人は監禁されておりました。…誰一人、取り逃がしてはおりません」

「……そうか……ユーリシアには連中を捕まえる気はなかったからな……」


 まるで傍で見ていたようなユルングルの言葉にダリウスは再び頷きながら、おもむろに、だがはっきりと問いかける。


「……これで、ラン=ディア様が殺される未来はなくなりましたか?」


 ユルングルが倒れる前日、彼ははっきりとそう告げた。

 一人でも取り逃がせば、後々ラン=ディアが殺されることになる────と。


「……ああ……もうその未来は見えなくなった………ありがとう……ダリウス……」


 力なく謝意を告げるユルングルをダリウスは気遣わしげな表情を取りながら視界に留めて、倒れる前日にユルングルが話してくれた会話を思い起こす。


 ユルングルは言った。

 自分には未来が見えていると。

 だがそれは、教皇が見ているものとは違うものだ────と。


「教皇様とは違う未来…ですか?それは一体…?」


 言葉の意を得ず、ダリウスはそう問いかける。


「ラン=ディアの言葉を借りるなら、教皇が見える未来は常に一つだそうだ。ただ一つの真実だけが見え、そして決して未来を違えない」

「…そう言われております」

「…俺が見える未来は無数にある」

「…?無数……ですか?…申し訳ございませんが、仰っている意味が判りかねます。無数に未来が見えていては、どれが本当の未来かどう判断すればよろしいのですか?」

「どれも本当の未来だ。…何を選ぶかで、未来が変わる」

「…!」


 そこに至って、ダリウスはようやく意を得た。

 ユルングルに何が見えて、そしてそれがどれだけ彼の体に負担をかけているのかも。


「…未来は選択肢の連続だ。その時何を選ぶかで未来が変わる。どちらの道に進むか、何を食べるか、何を話すか、そんな些細なことでも未来は変わることがあるんだ」

「お待ち下さい…!そんな些細なことで未来が変わるというのなら、一体どれだけの未来が存在するのです…!?幾百────いえ、幾千、幾万の未来が存在することになります…!そのすべてを、ユルングル様は見えているとおっしゃるのですか…!?」


 驚嘆と同時に哀れみと強い不安を表すダリウスの顔から、ユルングルは視線を逸らす。


 初めは、ただの閃きのようなものだった。勘と言ってもいい。

 このままいけばその先に何が待ち構えているのか、ほんの一瞬、垣間見える程度のものだった。それが日を追うごとに具体性が増して、もう少し先も見えるようになった。

 思えば、ここで止まってくれれば一番良かったと思う。


 だが、この力はとどまる事を知らなかった。

 選択肢によって枝分かれする未来が一つ二つと見えるようになって、少しずつその数を増やしていった。最初は重要な未来だけ、次第にどうでもいい些細な未来まで見えるようになって、いつしかその数は万を超えた。


「…想像できるか?目覚めている間は絶え間なく、幾万の未来が頭をよぎるんだぞ…。俺の意志に関係なく、否応なしにだ…!もう……!気が狂いそうだ……!!」


 いっそ気が狂ってしまいたかった。

 頭の中で何度も何度もいくつもの未来がよぎって、もうどれが現実でどれが見えている未来なのか、その境目が曖昧になっていった。今こうやってダリウスに弱音を吐いている自分でさえ、現実なのか未来を見ているのかもう判らない。


 それでも何とか自我を保っていられるのは、近い未来に皇王の死と、その先にある弟の死が見えたからだ。


 これだけは、何としてでも阻止しなければならない。

 そう思ったのは獅子としての使命感からだろうか、それとも、自分にはないと思っていた家族としての情が、自分を突き動かしているのだろうか。


 自分の置かれている状況や鬱積(うっせき)した気持ちをぽつりぽつりと呟くように吐露するユルングルを、ダリウスはただ静かに見守っていた。そうする事で自身の感情の整理をつけているように見えたからだ。


 ひとしきりそうしてユルングルが落ち着きを取り戻したことを確認すると、ダリウスは静かに問いかける。


「……シーファス陛下とユーリシア殿下を救える未来は、見えておられるのですか…?」


 それには悄然と(かぶり)を振った。


「……今はまだ、見えていない。今見えているのは、皇王がデリックに殺されるか、俺に殺されるかだけだ。そのどちらに転んでも、ユーリシアは死ぬ」

「…!ユルングル様が…シーファス陛下を…!?」

「…何も不思議じゃないだろう。元々、殺意はあったんだ。…何がきっかけで再び殺意が湧くか判らないだろうが」

「それは……そうですが……」


 事も無げにそう告げるユルングルを、ダリウスはどう受け止めていいか判らず複雑な表情を見せる。そんなダリウスを軽く一瞥して、ユルングルは言葉を続けた。


「…『皇王が殺される』という未来はいわゆる分岐点だ」

「……分岐点…?」

「未来の中には幾千幾万に枝分かれした未来が再び集約される場所が要所要所に点在する。それが分岐点だ」

「…つまり、どう転んでも決して変わらない未来…と言う意味ですか?」

「そう思ってくれていい。…おそらく教皇はこの分岐点が見えているんだろうな。所々、小さな未来も見えているようだが、基本見ているのは分岐点だろう」

「……では……陛下が殺されるのは、覆しようがないと……?」


 わずかに目を見開きながらそう問うたダリウスの声が、かすかに上ずる。

 皇王の死がいかにも受け入れがたく、それを行うであろう人物が他でもない己の主かもしれない、と言う事実がなおさら受け入れがたかった。


 ユルングルはそんなダリウスを一度視界に入れて、小さく息を吐いた。


「…俺は、決して変わらない未来なんて信じちゃいない」

「…!」

「覆しようがない未来だと?そんなものあってたまるか。何のために意思があると思ってる。何のために自我を持って生まれたんだ。どうあがいても決まった未来にしか行けないなら意志も自我も必要ないだろうが。自我を持たない人形でもその辺に立たせてればいいんだよ。それでもそうしなかったのは、未来を創る必要があるからなんじゃないのか?」


 そう告げるユルングルの瞳は強い。

 先ほど弱音を吐いたユルングルとは打って変わって、いつもの反骨精神と皮肉たっぷりな物言いが、いかにも意志の強いユルングルらしい。

 彼がこれほど強く断言できるのは、他ならぬユルングル自身が自分を取り巻く状況を打破しようと足掻きに足掻いて未来を切り開いてきたからだろうか。


 それをずっと近くで見てきたダリウスは、不安よりもユルングルに対する信頼と、そこから湧き出る安堵感が胸中に広がるのを自覚して、軽く自嘲するようにため息を一つ落とした。


「…先ほどユルングル様は『今はまだ見えていない』とおっしゃいました。では現在の行動いかんによっては、陛下が崩御されない未来が創れる、という事ですね?」

「ああ。…だが俺はそれほど遠くの未来を見る事は出来ない。できてもせいぜいひと月半が限度…その先の未来は点在する分岐点しか見えない」

「……では、シーファス陛下が殺されるのは少なくとも今よりひと月半以上先という事ですか?」

「…ああ。だから今の時点ではどの行動がどこに繋がるのか判断のしようがない。模索しながら手探りで前に進むしかないんだ」


 これはもう予見と言うよりも直感と言った方がいい。

 見える未来の中からどれを選ぶか、それはもう勘に頼るしかないのだ。


 今はまだ見えていない『皇王が死なない未来』─────。

 そこに繋がる未来が、必ずある。


 そう思って、もう何度も皇王が死ぬ未来を見てきた。

 そこに見えるわずかな情報を頼りに、必要だと思える事をとりあえず備えているのだ。

 結果それが不要で終わる場合もあるだろう。逆に皇王の死を促すものになるのかもしれない。

 それでも、やらないよりはやった方がいいはずだ。


「…ダリウス、俺は明日から動くことが出来なくなる。指示を出すからその通りに動いてくれ」

「…?動くことがお出来にならない……?どういう意味です?」

「明日、大きな発作が起きる。心臓が一度止まって生死の境を彷徨うが、必ず戻るから心配はするな」


 平然とそう言い放つユルングルに、ダリウスは目を丸くして最大限の渋面を作る。


「…!発作……!!心臓が止まる…って……!何をそんな悠長なことを…!!明日はできるだけ私かラン=ディア様のお傍に────」

「いい、何もしてくれるな。普段通りにしろ」

「ですが…!!!」

「ダリウス、頼む。それが最善なはずなんだ」


 掴みかからんばかりに声を荒げるダリウスに、ユルングルはぴしゃりと告げる。

 確証はなかった。だがいつもの勘がそう告げていた。


 ダリウスはその懇願とも思える表情を取るユルングルの顔を視界に入れる。

 その瞳には半分確信が、だがもう半分は不安が見て取れたが、こんな表情をされれば否とは言えないだろう。

 ダリウスは不承不承と小さく息を吐いた。


「……必ず、お戻りになるのですね?」

「ああ」

「……お約束してくださいますね?」

「必ずだ」



 そうはっきりと告げたユルングルの強い眼差しを、ダリウスは今でもよく覚えている。


 あの時、強い意志で頷いた己の主は今、あの時と違ってひどく弱々しく、こうやって話をすることさえ億劫そうだった。あの時の決断が間違っていたのではないかと後悔する反面、約束通り戻ってきたことに、ユルングルの決断が正鵠(せいこく)を得ていたようにも感じる。


 どちらが正解か判断が下せるようになるのは、もう少し先の未来だろうか。


「………もう…残された時間はあまりないな………」


 力なく呟いて、ユルングルはずっと眠り続けていた体を無理やり起こそうと上半身を動かす。その瞬間、強い鼓動の波と同時に、心臓を鷲掴みにされたような胸痛に思わず顔を歪めて、胸を抑えるようにうずくまった。


「…ユルングル様……っ!!!」

「……っ!!!!」

「まだ体を起こしてはいけません…!!心臓がひどく弱っておいでなのです……!!」


 ダリウスは慌ててユルングルに駆け寄って、主の体を支える。その手に触れるひどく痩せ細った骨ばった体が痛々しい。


 憐憫の情を向けて己の体を支えるダリウスの腕を、ユルングルは弱った体には似つかわしくないほど力強く掴んだ。


「………いつだ……?」

「…え?」

「……この心臓は………いつ治る……!?」

「…っ!」


 強い眼差しをダリウスに向けながら問うたその質問に、ダリウスはたまらず言葉に詰まって目を背けた。

 その様子に治らない事を察して、ユルングルはすぐさま質問を変えた。


「……ラン=ディアは……どこだ……?」

「…ラン=ディア様は今、教皇様に呼ばれて中央教会に行っております」

「……なら、お前でいい……答えろ、ダリウス……俺はいつ、動けるようになる……?」

「…それは………ダスクさんとゼオン様が心臓を補助する魔装具を作っておいでです。それが完成して、ユルングル様の体力がお戻りになればおそらくは……」

「……立ち合いはできるか……?それくらいには……回復するか……?」

「立ち合い…!?何をおっしゃっているのです…!?魔装具はただ心臓の補助をするだけです!例え魔装具をお付けになっても、安静は必須ですよ…!!」


 とんでもない事を口にするユルングルに、ダリウスは思わず声を荒げて(たしな)めるように告げる。その返って来た返答にユルングルは軽く失望したようにダリウスの腕を掴む手を力なく離すと、そのままベッドに倒れ込んだ。


「………そうか。…なら、無茶をするしかない………」

「…!……なぜです…!!なぜいつもユルングル様ばかりが無茶をなさらなければならないのです……!!なぜいつもユルングル様ばかりが……っ!!」


 苦虫を潰したような渋面を取って、ダリウスは長く心にあった不満が思わず表出した。


 いつもいつも苦しむのはユルングルなのだ。

 今までずっとこの弱々しい体で無茶をして、苦しんできた。それは身体的な意味だけではない。

 その生まれも、置かれている状況も、どれだけ控えめに言っても決して幸せだったとは言えないだろう。ほんの一瞬でさえ『幸せだ』と思った事さえないかもしれない。


 それでもなお、獅子としてまだ苦しめと言うのか。

 そうしなければならないほど、彼は悪い事をしたのだろうか─────。


 理不尽なまでにユルングルに苦しみを与えるしかしないこの世界が、とにかく憎かった。


 そんな眉間にしわを寄せるダリウスを、ユルングルは軽く一蹴する。


「……それが出来るのが、俺しかいないからだろうが……」

「…!」

「……なんて顔をしてるんだ…ダリウス……。…当然……お前も手伝ってくれるんだろう……?」


 言って、力なく笑いかけるユルングルに、ダリウスは眉根を寄せて、ただただ頷くしかなかった。


**


 「……よく来たね、ラン=ディア……」


 中央教会を訪れていたラン=ディアは、侍女に促されるまま向かった教皇の自室で、ひどく弱った教皇と対面した。


 その顔を見るのは実にひと月半ぶりのこと。

 皇太子が暴走した後、隠れ家で暮らすようになってしばらくは何度か教皇の診察に足を運んだが、シスカが隠れ家を離れてからはユルングルの体調から目を離すことが出来ず、足が遠のいてしまっていた。

 だが、まるでシスカが隠れ家に戻っている事を承知しているように教皇からの使者がやって来て、ラン=ディアはこうして久しぶりの教皇との対面に至っている。


「…ご無沙汰しております、教皇様。…長い間、ご診察が出来ず申し訳ございません」

「……構わんよ……こんな老いぼれよりも…ユルングル殿下を優先にしなさい……あの方はユーリシア殿下やミルリミナ同様……決して失ってはならぬ存在だ……彼失くしては未来は創れぬ………」

「…それは…あの方が教皇様同様、未来が見えておられるからでしょうか?」


 その問いに、ベッドに横になったままの教皇は小さく微笑んで頷く。


「……私とは少し…見えているものが違うがね……」

「…同じことをユルングル様もおっしゃっておりました。……未来は一つではない、という事ですね?」


 未来は見えてはいるが違うものを見ている、という事は未来が複数あるという事に他ならない。

 そのラン=ディアの推察に、教皇は弱々しい笑い声を小さく上げた。


「…お前は本当に聡いのぉ……そう……未来は一つではない……無数に存在するのだ……」

「…ですが教皇様が予見した未来は決して違えませんでした。無数にある未来の中で正しい一つをどうやってお選びに?」

「……選んだのではない……私には未来を変える力がなかったまでの事……だから、私に見える未来は一つだった……私はただ見えるだけ……それだけだよ……」

「ですが他でもないユルングル様の暗殺を二度、阻止いたしました。それは未来を変えたとは違うのですか?」


 これには少し自嘲気味に笑みを落とす。


「……そもそも私が見たのが…予見によって暗殺が阻止された未来なのだ……何も変えてはおらぬよ……未来を変えられるのは……黒獅子のユルングル殿下だけ……」

「…?黒獅子……?」


 その耳慣れない言葉に、ラン=ディアは小首を傾げた。


「それは…獅子とはまた違う存在なのですか?」


 それには小さく(かぶり)を振る。


「……同じものだ……だが能力が違う……黒獅子は極限まで魔力を失う代わりに……様々な能力を与えられる……それゆえに、短命なのだ………ほとんどが幼少の頃に命を失い……獅子として立てるのはほんのわずか……黒獅子が成人して獅子の任に就けるのは……数百年に一度なのだよ………」


 数百年に一度、とラン=ディアは口の中で反芻する。

 そうして、もう一人の獅子であるシスカの存在がふと頭をかすめた。


 獅子は一つの時代に必ず二人存在する、とラン=ディアは聞いた。

 それはつまり、それぞれに違う役割が与えられている、という事だろう。


 教皇の役割はユルングルが担った。ではシスカの役割は────?


 その疑問が頭をもたげた時、言いようのない不安がラン=ディアの胸中に広がった。


「…教皇様。教皇様とご一緒に獅子の任に就かれた方はどうされたのです?」


 その質問が来ることを承知していたのだろう。教皇は遠い昔の記憶を呼び起こすようにゆっくり瞼を一度閉じると、おもむろに口を開いた。


「……亡くなった。…私がまだ三十歳の頃……自害された……当時彼は御年百五十歳だった……」

「…!百五十…!?……いえ…自害……?」


 どちらに驚いていいのか判らず、ラン=ディアは軽く混乱する。自害をした原因も気になるが、何よりも年齢が想像以上だ。それは年を取っている、という事よりも強く引っかかる事があった。


「……不思議に思ったことが一度はあるだろう…?……シスカの、あの外見だよ……」


 そう、二十歳を過ぎた辺りでぴたりと年を取る事をやめた、あの外見────。

 若々しい、と言う言葉だけでは到底説明がつかないだろう。


「……シスカは、年を取らないのですか…?」


 その問いに、教皇は頷く。


「……白獅子、という。……黒獅子が生まれる時、同時に白獅子が生まれる………いや、逆かな……白獅子は必ず、高い魔力を持って生まれる……その白獅子を作るために…片割れの獅子から魔力を極限まで奪う事で黒獅子が生まれる……そう言った方が正解だろうなぁ……」

「…シスカが、その白獅子なのですね?」

「……うむ…前任の白獅子が亡くなられたからね………白獅子は何代もの獅子の相方を務めるが……そのほとんどが終わりのない生に精神を病んで……自害するか、闇に落ちて相方の獅子に殺されるという末路を迎える……」

「…!」


 そこに至って、ラン=ディアはようやくなぜ自分がここに呼ばれたのかを理解した。


「……シスカも……その末路を辿ると……?」


 わずかに声が上ずるのは、聞かなくてもその答えを知っているからだろうか。


 シスカは意外に心が弱い。

 その心根が優しすぎるのだ。他人の痛みまで自分の痛みとして捉えるから、抱え込まなくていい痛みまで感じてしまう。こんな性質であるシスカが、周りの友人たちが老いて死んでいく中で一人取り残されて、平気でいられるだろうか─────。


「……無理だろうなぁ…」

「…!」


 まるでラン=ディアの内心を悟ったように、教皇は静かに、そして悄然と落としたため息と同時に呟く。


「……今のあの子では、きっと耐えられんだろう……」

「…今まで白獅子で生き永らえた方はおられないのですか?」

「……お一人だけ……。……太陽王がご存命であった頃に白獅子の任に就かれた方が…今もご存命だ……新たな黒獅子を作るために……三百年ほど経って白獅子の任を解かれたと聞いておる……どこにおられるかは判らぬがな……」


 その人物に会うことが出来れば、シスカは死を免れるだろうか。


 ふとそんな考えが浮かんで思案しているラン=ディアを、教皇は視界に入れる。


(…こんな話を彼にしたところで……詮無い事だと言うのになぁ…)


 むしろラン=ディアに無用な不安と心配を植え付けるだけの行為だ。

 そう思ってはいても、もうすぐ死を迎える自分の代わりにシスカを見守ってくれる存在を作っておきたいと願うのは、親心と言う利己主義からくるものだろうか。


「……すまんなぁ…ラン=ディアよ……私はもう…そう長くはない……どうか……どうか、シスカをよろしく頼む……」


 力なく謝罪と懇願を何度も告げる教皇に、ラン=ディアはただ微笑んで力強く頷いて見せた。


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