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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第一部 皇宮編
9/146

婚約解消

「体調に変化はございませんか?」


 いつもと変わらぬ穏やかな微笑みをたたえながら、皇宮医はミルリミナの腹部の傷を診て尋ねた。


 今日は三日に一度の往診の日だ。

 最初の頃は毎日のように診てもらっていたが、だいぶ容体も落ち着いた事もあって少しずつ往診の頻度が少なくなってきた。怪我の治りも良く、次からは五日に一度に変わる。


「はい、変わりありません。いつもありがとうございます」

「礼には及びません。これが私の仕事ですから」


 中性的な外見もあってか、たたえた微笑みが男性であるにもかかわらずまるで聖母のようだ、とミルリミナは内心狼狽する。


(…相変わらず笑顔がまぶしいわ)


 教会はいわば独立した国家だ。その教会から派遣された皇宮医は位で言えば教皇に次ぐ大司教に相当する。それほど位の高い人に怪我を診てもらっているのかと畏れ多い気持ちになるが、当の本人はというといつも穏やかで偉ぶったところがない。

 教会の人間は総じて穏やかな人間が多い、とミルリミナは思う。


「傷の具合も問題なさそうですね。…もう体を起こしてもよろしいですよ」

「…あの、シスカ様。私の教会行きはまだなのでしょうか?」


 体を起こし、衣服を整えながら控えめに問う。


 前々回の往診の時、いつでも大丈夫だとお墨付きをもらったような気がしたが、ユーリシアから教会行きの報告は未だ受けてはいなかった。聖女からの天啓もあって、ミルリミナはしびれを切らして皇宮医に直接尋ねる事にしたのだ。


 シスカと呼ばれた皇宮医は少し怪訝そうにした後、何かを悟ったような顔で答えた。


「…まだ完治したわけではございませんから殿下も慎重に調整なさっておいでなのでしょう。特に急ぐような事でもございませんから、ゆっくり日程を決めましょう」

「……そう、ですか…」


 まだ皇太子の傍にいたいのではと気を利かせたつもりだったが、思っていた反応とだいぶ違ったのでシスカは困惑する。


「…教会行きを急ぎたい理由がおありなのですか?」

「あ、いえっ。そういうわけでは…!」


 顔に出てしまっていたのかと慌てて否定する。

 まさか聖女に言われたからとはさすがに言えない。


 そんなミルリミナをシスカは少し困ったような笑顔で見つめながら言葉を続けた。


「…ミルリミナ様。どうか私には敬語をお使いにならないでください。貴女は聖女です。その位は教皇様より上に位置いたします。いち司教に敬語など必要ございません」

「…いえ、私はまだ聖女と決まったわけではございません。それどころか聖女の力さえ使えないのです。そのような身でシスカ様にご無礼を働くわけには参りません」


 自分の中に聖女がいる事は間違いない。それは紛れもない事実だがあえてそうは言わなかった。

 己の身に聖女が宿っているというだけで自分自身が聖女というわけではない。自分はただの器だという事をよく理解している。だからこそ聖女と呼ばれる事に強い違和感があったのだ。


「…ご自分はただの器だとお思いですか?」


 心を見透かされ、ミルリミナは驚きシスカの顔を見る。シスカはまるでミルリミナの不安を払拭するかのように破顔した。


「器でいいのですよ。聖女様の力が使える必要もございません」

「…え、ですが……」

「重要なのはミルリミナ様の中に聖女様がおられるという事です。教会の人間はそれ以上のことを貴女に求めません。教会はただ聖女様の為だけに存在します。今まではその聖女様が目に見えず信仰に迷いが生じる事もございましたが、こうしてご降臨してくださいました。我々にはそれが何より嬉しいのです」

「…ですが、先ほど仰った通り私はただの器です。聖女でもないのによくしていただいてもよろしいのでしょうか…?」


 シスカはこのひと月ほどの往診で、ミルリミナの為人ひととなりをよく理解していた。


 表向きは毅然としているように見えるが、その内実は謙虚で劣等感が強い。己が聖女と誉めそやされるたびに、聖女でない事への罪悪感で心を痛めていたのだろう。おそらく聖女と呼ばれる事に強い違和感と苦悩があったに違いない。


「…見方を変えてみましょう」

「………え?」

「貴女を選んだのは他でもない聖女様です。貴女はただ選ばれただけ。では『自分が聖女で何が悪い!文句なら選んだ聖女様に言え!』とふんぞり返ったらいいのです」

「……!…プっ…あははっ」


 思いがけない言葉にミルリミナは思わず吹き出してしまった。声をあげて笑うのは貴族令嬢としては行儀が悪いが、穏やかなシスカの口からそのような言葉が出てきた事に笑いが止まらなかった。


「…シスカ様でもそのようなことを仰るのですね」


 笑いすぎて出てきた涙を拭いながらミルリミナは言葉を返す。


「もちろんです!私も人間ですからね。聖人君子にはなれません」


 ひとしきり笑いあった後、シスカは改まってミルリミナに向き直った。


「…これから先、いろいろな方が貴女に聖女である事を強いるでしょう。それは聖女としての役割のみならず、奇跡をもたらす神という役柄を押し付けてくるやもしれません。ですが決してその重責をお一人で背負おうとはなさらないでください。聖女が背負う事は教会が背負う事と同義です。皆で背負えば軽くなりましょう」


 いつもと変わらぬ聖母のような微笑みでシスカは静かに諭す。


 ずっと今まで聖女と呼ばれる事に苦痛を感じていた。呼ばれるたびに自分はただの器だから過剰な期待はしないでと叫びたかった。聖女を宿した重責が重くのしかかり、それを果たさなければと焦りばかりが心を支配した。

 そんなミルリミナの心にシスカの言葉はまるで魔法のように穏やかに浸透した。

 聖女なのだから一人で背負わなければと気を張っていた重荷を、ミルリミナはようやく下ろす事ができたのだ。


「…ありがとうございます、シスカ様」


 表情が軽くなった事を見届けて、シスカはミルリミナの謝意に笑顔で返答する。


「さあ、遅くなってしまいましたね。これ以上時間がかかっては殿下がご心配せれます。最後に体を診てみましょう」


 そう言ってミルリミナの手を取り瞼を閉じる。

 『体を診る』というのは体内の様子を探り不調がないかを調べるのだ。教会に属する者であれば必

ず訓練で会得しなければならない。


 本来は体内の魔力の流れを探り不調を見つけるのだが、魔力のないミルリミナにはその方法が取れなかった。代わりに聖女の力を読み取り不調を探している。


(…咄嗟にそんな事ができるのだから、シスカ様は本当に優秀なお方だわ)


 そんな事を思いながら何とはなしにシスカを見ると、その表情はひどく険しいものになっていた。


「…どうかされたのですか…?」


 何か悪いところでも見つかったのかと不安そうにシスカに尋ねる。


「…ミルリミナ様、ここ数日で何か特別な事をされましたか?」

「…特別なこと?」


 思っていた返答とは違ってミルリミナは怪訝そうにしながら、ここ数日の行動を思い返してみた。だがシスカが望む答えが見つからず、ミルリミナは困惑する。


「…いえ、とくには…。変わりがあったとすれば侍女のティーナが皇宮に来てくれた事だけでしょうか」

「…そうですか」


 シスカはそれだけを呟くと何かを考え込むように押し黙ってしまった。険しい顔はそのままだ。

 困惑したようにシスカの動向を待っていると、ミルリミナを見据えて意を決したように口を開いた。


「…殿下にもお伝えしたほうがいいのか迷いましたが、これはミルリミナ様のお心にのみ留め置いた方がよろしいでしょう」

「…何か良くない事でも……?」


 おそるおそる尋ねるとシスカは少し困惑した笑顔でかぶりを振った。


「…私にも判断できないのです。これがいい事なのか悪い事なのか」

「…何が見つかったのです?」

「…貴女の体内に、魔力が見つかりました」

「…え……っ!?」


 それは思ってもみない言葉だった。

 生まれた時からどれほど渇望しても決して得られず、聖女が宿った時でさえミルリミナにかけられる事のなかった言葉。その言葉との僥倖はミルリミナに一縷の望みと一抹の不安を与えた。


「それは…いい事ではないのですか?」

「…通常の状態であれば喜ばしい事でしょう。ですがこの魔力の在り方が他とは違うのです」

「……在り方?」

「通常であれば魔力は体内を巡り絶えず流動しております。それは命の源である魔力を全身に行き渡らせる必要があるからです。魔力の流れが止まる時というのは死ぬ時だと思ってください」

「…私の魔力は、止まっている…?」

「その表現も正確ではありません。…判りやすく例えるならミルリミナ様の体内に魔力を貯めるための袋が存在していて、そこに魔力が入れられていると言った方がいいでしょう」

「…袋?」

「袋に入っているので聖女様の力とは干渉いたしません。おそらくそういう事なのだと思います」

「…では、この魔力は」

「……はい、残念ながらミルリミナ様の魔力ではございません。貴女は変わらず無魔力者のままです」


 ぬか喜びさせた形になってしまったとシスカは後悔する。もう少し言い方を考えればと悔やんだが、意外にもミルリミナは気落ちするどころか何かを考え込むように黙りこくってしまった。


(…やっぱり、私に魔力が宿るはずなんてないわ。そんな事よりもこの魔力は一体どこから来たものなのかしら?聖女様が私の体内で魔力を生成して袋に貯めている?それとも………)


「…シスカ様。私の体内にはどれほどの魔力が存在しているのですか?」

「ごく少量です。低魔力者の中でもかなり少ないと言われる方よりも少ないでしょう。……何かお心当たりがおありなのですか?」

「…いえ」


 心当たりはある。あるが確証はない。ないうえになぜそのような事が起こっているのかその理由には全く見当がつかなかった。あくまで心当たりがあるのは魔力の出所だけであって、中途半端な情報を話す事は躊躇われたのだ。


 シスカはそんなミルリミナの心情を悟ったのか、あえて追求せず得心がいったような顔で言葉を続ける。


「…ではこちらの件はミルリミナ様にお任せいたしましょう。いつでもご相談には乗りますのでご遠慮なくお申し付けください」


 満面の笑みでそう返答されて、心が見透かされている事に感嘆する。


(…恐れ入ったわ)


 隠し事ができないばかりか隠している事を追求せず、ミルリミナが一人で抱え込まぬよう何かあった時はいつでも助力できると拠り所を作ってあげるその細やかな気配りに、ミルリミナは感服しながらも苦笑いを浮かべた。


**


 シスカが皇宮を去ってから、ユーリシアは公務もそこそこにシスカの報告を思い返していた。


 いつもよりも長い往診にユーリシアは何かあったのだろうかと気を揉んでいたが、シスカからの報告に特別変わったところはなかった。何か隠しているのではないかと疑わしくもあったが、確証がないのに問い詰めるわけにもいかず、何よりシスカの聖母のような微笑を前にするとたじろいでしまうのが正直なところだ。


(…意外と曲者だな、あの皇宮医は)


 外見によらず中身は一筋縄ではいかない人物のようだとユーリシアは思う。


「…ミルリミナ様のお体に何かご不調でも見つかったのですか?」


 皇宮医の報告から帰ってきてから、なにやら公務に身が入っていないユーリシアを、ラヴィは怪訝そうに窺う。その声掛けでユーリシアは今が公務中だった事を思い出した。


「…ああ、すまない。そういうわけではないんだ。…教会行きの日程は決まったのかと問われてな。もうそろそろ決めねばと考えていたのだ」


 咄嗟に口をついて出たが嘘ではない。実際シスカにそう問われたが、故意に先延ばしにしていたユーリシアは返答できなかった。


「なにも教会に行ったからと言ってミルリミナ様を隔離するわけではございません。いつお会いしていただいても差し支えございませんのでご心配なく」


 何やら得心のいった満面の笑顔でそう言われて、ユーリシアは二の句が継げなかった。


(…侮れない男だな)


 苦笑いしながらため息をつく。


 今まで自分が皇宮医にかかった事がなかったためか、廊下ですれ違う程度でどういう人物か興味を抱く事すらなかった。ユーリシアが子供の頃から皇宮医として教会から派遣されていたが、その外見は年齢を全く感じさせない。教会の人間は皆こんな感じだとユーリシアは思う。


 皇宮医に限らず、教会の人間はまるで能面のように笑顔を張り付けて本音を隠しているようで、ユーリシアはあまり好きにはなれなかった。


「……少しミルリミナの様子を見てこよう」


 このままでは公務が手につかないとため息をつきながら立ち上がる。一度ミルリミナの顔を見ればこの鬱々とした気持ちも落ち着くだろう。


 ラヴィを執務室に残し、ユーリシアはミルリミナの部屋へと足早に向かった。

 道中、庭園の桜が視界に入り、花見の話を思い出す。

 できればミルリミナが教会に行ってしまう前に花見をしてみたい。そうやって一緒にいられなかったこの五年を埋めていこうと何とはなしに思いながら、ミルリミナの部屋の扉を叩いた。


「はい、お待ちください。……!皇太子さま」


 出てきたティーナに軽く手を上げ、挨拶は不要だと意を示す。


「少し様子を見に来た。ミルリミナは変わりないだろうか?」

「…はい。お嬢様、皇太子さまがお見えになっております」

「…お入りになっていただいて」

「どうぞ。私は外に控えておりますので、ご用のある時はお申し付けください」


 ティーナは軽く一礼し部屋を後にする。その際ティーナは皇太子に一瞥を送り、皇太子は少々苦笑いしながら了解の意を示した。暗にお嬢様を傷つけたら容赦しないと伝えているのだ。


 これはティーナが皇宮に来てからの慣習となりつつある。

 正直心は休まらないが、こうやって見張ってくれるのはありがたい。もとより傷つけるつもりはないが、意図せず傷つけてしまう事もある。こうやって見張っている者がいれば、傷つけないよう意識する事はできるだろう。


 ティーナが部屋を出て行った事を確認して、ユーリシアはほっと一息つきベッドの脇にある椅子に腰かけた。


「変わりがないようでよかった。往診がいつもより長かったが、何かあったのか?」


 遠まわしな言い方があまり好きではないので、直接ミルリミナに問いかける。


「…いえ、体調に関しては特に何もございません」


 妙に歯切れの悪い言い方をするとユーリシアは思った。おそらく続きがあるのだろうと無言で次を促す。


「…ただ、聖女様から教会に行くよう啓示を受けました」

「………!」


 思ってもいない言葉に、ユーリシアは絶句する。


「…シスカ様にはご報告しておりません。ただ教会に行く時期をお尋ねしただけです」


 それで皇宮医は日程を聞いてきたのかと合点がいったが、今はそんな事よりも聞きたい事は山ほどあった。


「…貴女は聖女と対話できるのか?」

「…いいえ、一方的に声が届いたのです。頭の中に直接話しかけられているような感覚でした」

「…今までもこのような事が?」

「今回が初めてです」


 聖女と対話をした事はあるが、あれは夢の中での出来事なので嘘ではない。夢での出来事はあえて伏せておこうとミルリミナは決めていた。


「…その声は正確に何と言ったのだ?」

「…教会で待てと。私を導く者が現れる、そうすれば自分の為すべき事が判るとそう仰いました」

「導く者?それは誰だ?為すべき事とは一体何なのだ?」

「判りません。私も聖女様に問いましたが何も答えてはくださらなかったのです…っ!」


 ユーリシアの問い詰めるような口調に、ミルリミナは強く首を横に振り、わずかに声を荒げる。その様子にユーリシアは我に返り口元を抑えた。


「…すまない。問い詰めているわけではないのだ」


 もちろん嘘だと思っているわけでもない。

 ミルリミナの葬儀の時、確かに聖女が現れミルリミナの体に入っていく様を目撃している。彼女の体に聖女が宿っている事は覆しようのない事実だろう。

 だがそれはあくまで神という象徴が宿っているだけだと思っていた。まさか聖女という一人の人格が存在していて話しかけてくるとは夢にも思わなかったのだ。


 何より、故意に先延ばしにしていた教会行きが急に現実味を帯びて焦りが生じた事も大きい。


「…すぐに教会に行かなければならないのだろうか?」


 駄々をこねた子供のようだと自分でも思う。思うがどうしても離れ難かった。いつでも会えると皇宮医は言ったが、今のように公務を抜け出して会えるわけではない。どうしてもその頻度は下がるだろう。それに耐える自信がユーリシアにはなかったのだ。


「…聖女様の導きを無視するわけには参りません。何より私自身が、聖女となって何を為せばいいのか知りたいのです」


 ミルリミナが聖女からの啓示をユーリシアに伝えたのは、二つの理由からだった。


 一つは教会行きを早めてもらうこと。

 聖女として何をすればいいのか判らず、同じ場所で足踏みをしているような状態に、ミルリミナはずっともどかしさを感じていた。そんな中で唯一の指針が示されたのだから、教会行きを早めたいと思っても仕方がないだろう。


 そしてもう一つは、ユーリシアから離れるためだ。

 もちろんユーリシアが嫌いになったわけではない。できる事ならこのまま傍にいたいが、それはおそらく無理だろう。


 いずれユーリシアは気付く。今目の前にいる人物が嫌悪の対象であった事に。ただ罪悪感に踊らされていただけだと気づけば間違いなくユーリシアは自分から離れていくだろう。


 ミルリミナはその日が訪れる事が何より怖かった。そして一緒にいる時間が長くなればなるほど、その時の辛さは計り知れないと思う。

 そうなる前に自分から別れを告げたかったのだ。まだ傷が浅いうちに離れてしまえば、いずれは聖女としての役割が生きがいとなるだろう。


 消極的な理由だが、ミルリミナには断固たる決意があった。

 ユーリシアはそれが聖女としての役割を全うしようとしている姿なのだと誤解する。同時に皇太子でありながらミルリミナに依存し甘えていた自分に気が付いた。


(…なんて情けない。ミルリミナはこのような体でも聖女であろうとしているのに、自分はそんなミルリミナにただ甘えていただけなのか。…これではミルリミナを守る事など到底叶わない……)


 一人前にならなくてはならない。皇太子として恥ずかしくない言動と強い心を持たねば、ミルリミナにふさわしい男になどなれないのだ。


「……判った。貴女の意見を尊重しよう。教会行きの日程が決まればすぐに連絡する」

「…ありがとうございます。それともう一つ、殿下にお願いがございます」

「何でも言ってくれ。私にできることであれば善処する」


 まっすぐ見つめてくるユーリシアの瞳を一瞬たじろぎ逸らそうとしたが、何とかこらえて受け止める。ひと呼吸おいて、ミルリミナは意を決したように口を開いた。


「…殿下、私との婚約を解消してください」

「……………………え?」


 ユーリシアは頭が真っ白になった。


(…………今、何と言ったのだろうか……?……婚約、解消……?)


 好意を抱かれているとは思わなかったが、嫌われているとも思っていなかった。だがやはり嫌われていたのだろうか?

 いや、それとも知らないうちに傷つけてしまったのか?

 私といるのが苦痛だったのだろうか?

 一緒にいたいと思っていたのは私だけ?

 今まで私に対して笑ってくれていたのは、嘘偽りだったのか………?


 答えの出ない問いばかりが頭を駆け巡る。どう反応すればいいのか、ユーリシアには判らなかった。


「…このような体では皇太子妃の務めなど到底無理でございます。聖女と皇太子妃の兼務ともなればなおさらでしょう。どうか皇太子妃にはもっと適したご令嬢を…」

「断る!」

「……!」

「婚約解消など認めない。貴女は聖女だ。聖女を手放すわけにはいかない!」


 咄嗟に出た嘘だった。

 聖女などどうでもいい。たとえ彼女が平民の出だったとしても、どれだけ周りから反対されようとも、彼女以外の令嬢と婚姻関係を結ぶ事など考えられなかった。


 だが自分が嫌われているという可能性が出てきた今、彼女と自分とを結ぶ事ができるのはミルリミナが『聖女』だということ以外なかったのだ。

 『国』として『聖女』を手放せない。

 その構図を作ってしまえば、たとえ嫌われていてもミルリミナとの繋がりを維持できるとユーリシアは考えた。


 だが彼は知らなかった。その嘘は、ミルリミナには決してついてはいけない嘘だという事を。


 興奮冷めやらぬ状態でふとミルリミナの顔を見ると、その表情はまるで衝撃を受けたように茫然自失とし、次いで一筋の涙がその白い頬を伝った。


(………ああ、やっぱり)


 優しくしてくれていたのは、罪悪感もあっただろうが何より自分が聖女だからだったのか。

 ずっと聖女の役割を押し付けられる事に苦痛を感じていた。だがユーリシアもまた、聖女としての存在を望んでいる。


 自分が好かれるはずがないと判ってはいたが、一番聞きたくない言葉を一番言ってほしくない相手に言われてしまった。

 自分の価値など『聖女』であること以外何もないのだ。

 ミルリミナは絶望の淵に突き落とされたような気分だった。


 涙がとめどなく溢れていく。

 両手で顔を抑え、ユーリシアを拒絶するかのように視界をふさぐ。


 以降、ミルリミナが皇宮を出るまでユーリシアに会う事はなかった。

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