表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第三部 有備無患 

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

87/150

ライーザの災難・前編

「…おい、ユルン。こんなとこほっつき歩いてていいのかよ?」


 そうライーザが問うたのは、ユルングルが倒れる数日前の事だった。


 完治が難しい難病に罹患した、という情報を聞いて以来、ユルングルがあの隠れ家から出てくる姿をめっきり見なくなっていたが、この日は珍しく工房まで足を運ぶユルングルと遭遇して、そう声をかけたのだった。


 そので立ちが何とも痛々しい。

 まだ暖かい時分ではあったが、長袖に外套まで羽織っていた。元々寒がりなたちだと記憶しているが、袖からわずかに見える痩せ細った指を見る限り、暖を取るための脂肪が、またさらに落ちたのだろうとライーザは推測して、たまらず嘆息を漏らした。


「…お前、病人なんだろ?少しは病人らしくベッドで寝てろよ」

「ほっとけ。…それよりもお前にやってほしい仕事がある」

「…!それでわざわざこんなとこまで足を運んだのか?ダリウスさんにでも言って俺を呼びに来させろよ」

「そんな事でいちいちダリウスを使えるか」

「…お前って本当、ダリウスさんには甘いよなあ」


 ユルングルは自分に対しては人使いが荒いくせに、侍従であるダリウスには例え自分の体が辛い時でも、あまり好んで細々(こまごま)とした用事を言いつけたりはしなかった。もっと言えば、彼に対して遠慮しているように見えるのは気のせいだろうか。


 半ば呆れたような視線を向けるライーザに、ユルングルは軽く渋面を取って見せる。


「大きなお世話だ。…それよりもお前には、また皇宮に侵入して、ある物を取ってきて欲しい」

「…!皇宮…!?冗談じゃない…!前回どれだけ苦労したと思ってんだよ!!」

「今回は皇王が手引きしてくれる。侵入自体はそれほど難しくない」

「皇王…!?」


 思わぬ名前が出てきて、ライーザは目を丸くする。

 一般市民、それも低魔力者である自分にとっては皇王など雲の上の人物だ。その名を易々と口にするだけでなく頼み事までできる間柄に、ライーザは長い間推測の域を出なかったユルングルの身分が確固たる真実に変わったのを認識した。


「…また皇太子さんの物でも盗ってくるのか?お前の弟なんだろ?自分で頼めよ」

「…!……やっぱり気付いていたのか…」


 ユルングルはその切り返しに軽く目を瞬いて、小さくため息を落とす。


 前回の頼み事で薄々勘づくだろうと内心で思ってはいたが、帰って来たライーザは特に何も訊かなかったので自分からもあえて何も言わなかった。おそらくライーザの中で推測の域を出なかったのだろう。それが確信に変わったのは、ユーリシアを弟と紹介した時か、あるいは皇王の名前が出たつい今しがたか。


 それでも自分を皇子として扱わないライーザの態度が好ましい、とユルングルは小さく笑みを落とす。

 その笑みが揶揄されたと映ったのだろうか。ライーザは目に見えて不機嫌そうに眉根を寄せた。


「…俺がそこまで馬鹿だとでも思ってたのか、お前は!」

「…まあ、思ってなくはないが」

「お前な!」


 馬鹿にするなと憤慨するライーザを揶揄するようにそう告げると、なおさら怒りを表すのでユルングルは思わず吹き出すように失笑する。

 感情を思うように表に出せなかったユルングルにとって、羨ましいほど素直に思っている事を表に出す彼との会話は、その反応が癖になるほど楽しい。だからこそ、ついついこうやって揶揄ってしまうのだろうか。


 ユルングルはひとしきりくつくつと笑った後、仕切り直すように未だ眉間にしわを寄せるライーザにもう一度視線を戻した。


「…今回はユーリシアじゃない。もっと厄介な人物だ」

「…!…厄介?なおさら冗談じゃないぞ。命まで懸けるのは御免だからな、俺は」

「そんなもの懸けなくてもいい。俺の言う通りに行動すれば殺されることはない」

「殺される…!?ちょっと待て!そんなにやばい相手なのか!?」

「だから俺の言う通りに動けば殺されないと言ってるだろうが」

「それはつまり、お前の言う通りに動かなかったら殺されるって事だろうが!?」

「まあ、そうだな」


 あっけらかんと言ってのけるユルングルに、さしものライーザも堪忍袋の緒が切れる。


「俺はそんな仕事、絶っっっっ対にしないからなっっ!!!!」


 ユルングルに浴びせるように怒声を発した後、ライーザは返答も待たずに踵を返した。

 そのライーザの背中に、ユルングルの静かな声が降って来て、思わず歩みを止める。


「…ライーザ頼む。お前しかいないんだ」

「………」


 その似つかわしくないユルングルの殊勝な声が、ライーザの後ろ髪を盛大に引いた。


 ユルングルはいつもこうだ、とライーザは思う。

 普段は腹立たしいほど不遜な態度を貫く癖に、何かを頼むときは決まって殊勝な態度に変わる。これが内心ほくそ笑んでいると判れば迷いなく一蹴できるものを、振り返ればおそらく今回も本当に困ったような顔をしているのだろう。それがいつもライーザの決意を鈍らせるのだ。


「…盗みの技術も潜入の技術も俺の知る限りお前の上をいく者はいない。お前が一番上手く立ち回れるんだ。…頼む、ライーザ」


 背中に降り注ぐその懇願するような声音に、ライーザは思った通りの表情を取るユルングルを軽く一瞥する。

 その痛々しいほど痩せ細った体が、なおさら後ろ髪を引く手伝いをして、ライーザはたまらず不承不承とため息を落とした。


「…俺は何をすればいいんだよ」


 その言葉に、ユルングルは心底安堵したように息を一つ落とす。

 こういう表情をするから断るに断れないのだ。一体どこで覚えて来たんだとライーザは内心で悪態をきながら、一度返した踵を元に戻した。


「…そんなに難しい事じゃない。皇族のデリック=フェリシアーナの自室から盗ってきて欲しい物があるだけだ。見つけたらすぐにルーリーを呼んで持たせろ。もし何か不測の事態が発生したら迷わず工房に向かえ。あとは成り行きに任せればいい。余計な事は一切するな。そうすればユーリシアとダスクがどうにかしてくれる」

「………それだけ?」

「それだけだ」


 思ったよりも難しくない内容に、ライーザは気が抜けたように目を瞬く。

 成り行きに任せるだけなら、子供でもできるだろう。特にあの高魔力者の中でも群を抜く魔力量の皇太子とダスクが後ろ盾になってくれるのだ。これほど頼もしいことはない。


 内心ひどく安堵したが、ユルングルに恩を売るためにライーザは大げさなほど仕方なさそうにため息を落として見せた。


「…判ったよ、やりゃあいいんだろ、やりゃあ。…何を盗むかはまた後で教えてくれ」


 言って軽く手を振りながら踵を返すライーザの背に、ユルングルは再び声をかける。


「…ライーザ」

「…何だよ、まだ何かあるのか?」

「…お前、一度目の皇宮への潜入任務の時、ユーリシアに見つかりそうになって結局任務は失敗したと言ったな?」


 あの時ライーザは皇宮に潜入はできたものの、結局任務は失敗したと言って目当ての物は盗ってこなかった。

 後にも先にも、彼が任務を失敗したのはその時だけだ。


「…本当に失敗したのか?」


 その問いかけに、ライーザは振り返った顔を元に戻して告げる。


「俺にだってな、仕事を選ぶ権利はあるんだよ」




 その時の言葉を、ライーザは今になって後悔するように思い出す。


 そう、ユルングルからの仕事など断ればよかったのだ。

 自分にも仕事を選ぶ権利はある。どれだけ後ろ髪を引かれても気にすることなく、断固として首を横に振ればよかったのだと、今更ながら激しく後悔した。


 幾度目かの侵入でようやく目当ての物が見つかってルーリーに持たせることはできたが、退出する前にデリックが帰ってきて、ライーザは慌てて隣の寝室に逃げ込んだ。

 逃げる算段をつけながら何とはなしに聞き耳を立てていたライーザの耳に、聞き捨てならない会話が聞こえてきて、つい聞き入ってしまった。


 結果、窓から何とか逃げ出せたが気づかれていないかは判らないし、あの男が口にしたことを黙認することもできなくなってしまった。


(…ユーリって確かミルリミナのことだよな…?)


 どういう理由があるのかは判らないが、あの皇太子にミルリミナであることを隠す必要があるとかで、ある時からユーリという少年に姿を変えるようになったことをライーザは承知していた。ミルリミナとはそれほど親しいと言う間柄ではなかったが、それでも何度か口を利いたこともあるし、工房の皆とも仲がいい事も知っている。

 その彼女を攫う算段を付けているのを知ってしまった以上、知らないふりなどできるはずもない。


(…どうする?皇太子さんに言うべきか?)


 だが皇太子にミルリミナであることは隠さなくてはいけないのだ。

 さっきのデリックの話では、ユーリはミルリミナの家に帰っているのだろう。ユーリの正体を隠したままでは、なぜユーリが彼女の屋敷に滞在しているのか、皇太子は間違いなくいぶかし気に思うだろう。


 そして何より、ユルングルは余計な事はするなと言った。

 ユーリを助けようとする行為自体が、ユルングルの言う『余計な事』に該当するのかが、ライーザには判然としなかったのだ。


(…くそ!あいつの表現はいつも曖昧なんだよ!こっちは命が懸かってんだぞ!もっと細かく指示しろよな…!)


 そう悪態をいたものの、答えが返ってくるわけでもない。

 どちらにせよ皇太子に頼れないのであれば、ダスクに頼る他ない。今はきっとユルングルが言った不測の事態だ。ならこのまま工房に向かっても問題はないだろう。


 そう判断してライーザはデリックの部屋から逃げ出した足で、もう逢魔が時が過ぎようとしている薄暗い道を、ただ一目散に工房に向かって駆けた。


**


「明日はできれば午前中、時間を空けてくれないか?リース」


 そうユーリシアが切り出した相手は、ラヴィの代わりに一時的に補佐官代理を務めてくれているリース=クラレンスだった。


 彼はラヴィの従兄弟にあたる人物で、ユーリシアと同い年という事もあって幼い頃から親しくしている相手だ。

 ラヴィが病に臥せった時などに何度か補佐官代理を務めた事もあるので、ラヴィ同様、気心が知れている上、勝手が判っていて仕事がやり易い。


 ただ難を言えば、何をするにも淡々としているところだろうか。幼い頃からよく顔を合わせてはいるが、彼ほど腹の内が読めない相手はいないだろう。


「…何かご予定でも?」

「ウォーレン公の屋敷に赴くつもりだ。……長い間、顔を出さなかったからな」


 ミルリミナが攫われてから、ユーリシアは心配と不安で胸を痛めているウォーレン公夫妻をおもんばかって何度も足を運んでいた。 だがリュシアの街に滞在するようになってからこっち、それも途絶えてしまってユーリシアはずっとそれが気がかりで仕方がなかった。


 父からミルリミナの無事は伝えてあると聞いたが、本来なら婚約者である自分から告げるのが礼儀だろう。

 そう思って、長い間なおざりにしてしまった彼らに会いに行こうと決めたのだ。


「承知いたしました。明日の朝、ウォーレン邸へ先触れを出しておきましょう。私もご一緒したしますので、そのおつもりで」

「…いや、私一人で___」

「そういうわけには参りません。仮にも一国の皇太子殿下をお一人で歩かせるわけには参りませんからね。殿下の事だから護衛を伴わないおつもりでしょう?…私がお守りできるとは思っておりませんが、盾くらいにはなりましょう」


 こういうことをさらりと言うから、彼と一緒に歩くのは正直怖いのだ。常に淡々としている彼の一挙一動は本気なのか冗談なのかその判断がつかない。

 特に今は不穏な空気が漂っている。冗談が冗談でなくなる可能性は十分あり得るのだ。


 ユーリシアは苦笑を落としながら、無表情の顔を向けてくるリースに視線を移す。


「…頼むから、本当にそういう事態が起こっても盾にはならないでくれ、リース」

「では、起こらない事を祈りましょう」


 どこまでも淡々としているリースに、ユーリシアは半ば呆れたように嘆息を漏らした。


**


「…統括は今頃何してるんでしょうね……」


 夕食後に軽くウォーレン邸の庭を散歩するユーリの付き添いで共に歩きながら、アルデリオはぽつりと呟く。


 ここウォーレン邸は、アルデリオにとって身の置き場がないほど居心地がよかった。

 ウォーレン公夫妻だけでなく、ここに仕えるすべての人間がアルデリオに対しても礼節正しい態度で接してくれるので、どうにも落ち着かない。決して悪いわけではないが、どこでも邪険に扱われることに慣れているアルデリオにとって、居心地がいい場所ほど、居心地が悪いのだ。


 そんなわりが悪い状態がもう七日も続いて、アルデリオの精神は気疲れで大いに擦り減ってもう限界だった。

 ため息と共に悄然と肩を落とすアルデリオを見咎めて、未だ少年の姿をしているミルリミナ___もといユーリは申し訳なさそうに笑みを落とす。


「…すみません、アルデリオさん。こんなに長くなってしまって……」

「…!いえいえ!俺の事は気にしなくてもいいですよ!…ご両親もお久しぶりにご息女に会えて嬉しいんですから」


 気を使わせてしまったことに気づいて、アルデリオは慌ててかぶりを振る。


 ユーリは自分を気遣って何度か皇宮に戻ろうと言ってくれたが、そのたびに両親に引き留められて滞在が延びに延びた。

 自分の性格がこれほど歪んでいなければ、この居心地の良さに滞在を伸ばす事を大いに歓迎しただろうが、いかんせんあの性格が極限まで歪みきったゼオンと共に行動しているのだ。自分の性格もそれに合わせて歪むのは仕方のない事だろう、と嘆息を漏らしつつ、皇宮を出る直前までゼオンが肺炎を患っていた事を思い出す。


「……統括、無茶してなきゃいいけど…」


 その呟きに、ユーリはたまらず吹き出した。


「…!え!?どうしたんです!?俺、何か変な事言いましたっけ?」

「いえ、そうじゃないんです。アルデリオさん、本当にゼオンさんが好きなんだなあ、と思って」


 くすくすと笑いながら、あまりにも不本意な事を言い出すので、アルデリオはたまらず渋面を作った。


「…何でそうなるんです…!俺があの人の侍従になってどれだけ苦労したか判ってます…!?」

「だってアルデリオさん、口を開けばゼオンさんの事ばかりだもの」

「…!……………そんなに統括のことばっかり言ってます?俺……」


 茫然自失と訊き返すアルデリオにユーリは苦笑しながら頷くので、たまらず盛大に赤面を作ってバツが悪そうに目線を逸らした。


 別にゼオンに対して特別な感情があるわけではない。

 親と思っているわけでも恩義を感じて忠誠を誓っているわけでもないが、彼の侍従になってからの十三年間、片時も彼から離れて過ごすことはなかった。すでに空気のように一緒にいるのが当然と言う中で、これほど長くゼオンから離れているのは異例中の異例なのだ。


 だからこれほど気になるのだ、とアルデリオは誰に言い訳するともなく心中でひとりごちる。特に離れる直前ゼオンは肺炎を罹患していた。それも手伝って、気がかりに思っているのだ。


 そう心中で言い訳するアルデリオをくすりと笑って、ユーリは未だ赤面を作っているアルデリオに声をかける。


「…もしよかったら、明日一緒にリュシアの街の工房に行きませんか?」

「…!いいんですか!?」


 目を輝かせてそう訊き返すアルデリオに、だめだとは口が裂けても言えないだろう。

 これで自覚がないのもおかしな話だと心中でひとりごちて、ユーリは失笑しながら大きく頷いた。


**


「久しぶりにお嬢様の身支度をさせていただきたかったのに…残念です」


 そう肩を落として告げながら朝食を配膳するティーナに、ユーリは苦笑を落とす。


「ごめんなさい、ティーナ。どこで誰に見られているか判らないから、この姿を解くわけにはいかないの」


 当初、ミルリミナの姿のまま滞在する予定だったが、何となくそれも躊躇われて、結局ユーリの姿を貫くことにした。皇王から特にそうしろという指示はなかったが、用心するに越したことはないだろう。


「…それは判りますが……」

「ティーナ、あまり無茶を言って困らせてはいけない。ミルリミナはまだ表向き行方不明なのだ。…どんな姿でも、無事に帰って来てくれた事を喜ぼう」


 柔らかくなだめるウォーレン公に、ティーナは是非もなく苦笑する。

 ミルリミナの親である夫妻が一番、愛娘の姿を恋しがっているはずだろう。その彼らがそう承知しているのであれば、ただの侍女である自分が反論する術はない。


 仕切り直すようにため息を一つ落として、ティーナは承諾するように頷く。


「…それにしても、少年のお姿にしては、とてもお綺麗なご容姿ですね。どなたか模倣された方がいらっしゃるのですか?」


 ティーナのその問いかけに、それは、と言いかけた父に気づかずユーリは告げる。


「私を保護してくださっている方のお姿を模していらっしゃるようだわ」

「…!」

「…まあ!男の方とお聞きいたしましたが、とてもお綺麗な方なのですね!」


 頬を赤く染めるティーナに内心で、口はかなり悪いけど、と苦笑を漏らしたところで、ユーリは目を瞬いている父の姿に気がついた。


「……お父様…?」

「……いや……そうか…ご存命だったか……」

「…!」


 呟くように落とされた父の言葉に、ユーリはようやく自分が失言してしまったことに気づく。慌てて取り繕うように口を開きかけたユーリを、ウォーレン公はやんわりと制した。


「大丈夫だ。他言するつもりはないよ、ミルリミナ」


 その言葉に胸を撫で下ろしつつ、怪訝そうに問いかける。


「…なぜお判りに?」

「…お前のそのお姿は、皇妃ファラリス様を模しておられると思っていたのだ」


 ウォーレン公は何度か皇妃に拝謁した事があった。


 派閥争いを嫌って、温厚なウォーレン公は皇王派でも反皇王派でもない中立派の立場を貫いてきた。そんな自分たちにも、変わらず声をかけ、なかなか子に恵まれず思い悩む妻の話し相手にもなってくれたのが皇妃ファラリスだった。

 ようやく念願叶って子が宿ったものの、無魔力者と判って出産できるかどうかも判らず気落ちする自分たちを、病床の身でありながら励ましてくれた事も覚えている。


 ミルリミナが生まれたのは皇妃ファラリスが病で崩御した、ちょうどひと月後。生まれたミルリミナをせめて一目だけでも皇妃に見せることが出来なかった事だけが、今でも悔やまれて仕方がない。


「…そのファラリス様のお姿を受け継がれたお方は、お一人だけだ」

「…お父様は彼とご面識があるのですか?」

「…とても幼い頃に一度だけ。フォーレンス伯のご子息と共に暗殺の手を逃れるため、秘密裏に皇王派の領地を渡り歩いておられた時だ」


 皇王は中立派だったウォーレン公を信頼して、手を貸してくれるよう頭を下げてきた。さすがにそれには大いに恐縮して、二つ返事で快諾した。元より表向きは中立派と言っても、その心は皇王に忠誠を誓っている。頭を下げられなくとも、協力を惜しんだりはしなかっただろう。


 その時に見た第一皇子の容姿が、皇妃ファラリスの面影を濃く受け継いでいた。

 以降、彼らの話が噂話でさえ出る事もなく、皇妃の顔を思い出すたび彼の安否に思いを巡らせていた。その彼がまさか、他ならぬ娘を保護してくれていたとは。


(……不思議なえにしと言うべきか……)


 心中でそうひとりごちて、ふとここに来たばかりの頃にアルデリオの口から出た言葉を思い出す。


「…!病に伏しておられるとお聞きしましたが、あの方の御身は大事ないのですか…!」


 突然話を振られた事よりも、その問いに返答すべき答えを持ち合わせていなかった事に目を丸くしたアルデリオは、困惑して軽く目を泳がせる。小さくユーリと目を合わせた後、ややあってからその重い口を開いた。


「………ファラリス様と同じ病を発症いたしました。手だてがなく、今も病床に伏しております……」

「……!」


 皇妃の病の詳細は他ならぬ皇王から聞いた事があった。

 おそらく今回もラジアート帝国皇帝は無関心を通すだろう。そうなれば、この病は完治する事ができないと言っても過言ではない。


(…よりにもよってファラリス様と同じ病とは……陛下もお心を痛めておいでだろう……)


 悄然と肩を落としながら皇王の心痛をおもんばかるように心中で嘆息を漏らしたその時、執事が扉を叩いて遠慮がちに声をかけてきた。


「…お食事中に申し訳ございません。先ほど皇宮から使者がいらして、ユーリシア殿下がもうすぐこちらにいらっしゃると……」

「…!ユーリシアさん__いえ、殿下がですか…!?」


 思いもよらぬ名前が出てきて、ユーリは思わず勢いに任せて立ち上がる。


「…どうして殿下がこちらに……?」

「…ユーリシア殿下は貴女が攫われた後、私たちを気遣ってよく訪ねてくださっていたのよ」

「…!」

「…おそらくミルリミナの無事をご報告しに来てくださるのだろう」


 その両親の言葉を、ユーリは驚きと共に耳に入れていた。


 まさかあの後、自分を探すだけではなく両親の事まで気遣ってくれていたとは____。

 そのユーリシアらしい気配りが嬉しく、その礼も言えない事がたまらなくもどかしい気持ちになった。


 そんな呆けたようなユーリにアルデリオは遠慮がちに声をかける。


「…ユーリ、陶酔しているところ申し訳ありませんけど」

「…と…っ!陶酔なんてしてません…!」


 顔を真っ赤に憤慨するユーリに、両親とティーナは思わず苦笑を落とす。


「ここにユーリと私がいることが殿下に知れれば厄介ですよ」

「…そうですね」


 頷いて、両親に視線を向ける。


「お父様、申し訳ありません…!わけあって私がミルリミナだという事は殿下には伏せているのです…!」

「…!…そうか、では急ぎなさい。すぐに準備をして出れば顔を合わせることはないだろう」


 その言葉に二人は頷いて、慌てて自室へと向かった。


**


 ライーザは退路を断たれて、途方に暮れていた。


 皇宮から出て真っすぐ工房に向かったものの、リュシアの街の入り口辺りで見覚えのない高魔力者が数人、誰かを待ち伏せするように人の出入りを監視しているのを見咎めて、直感的に先手を打たれたと思った。

 何とか気づかれる前に身を隠したが、気づくのがあともう少し遅ければ間違いなく彼らに捕まっていただろう。


 夜半過ぎまで身を隠して彼らの行動を注視していたが、どうにもここから離れてくれる気配はない。

 これがせめて遁甲の前であれば、いくらでも対処のしようがあった。遁甲は隠れ家を中心に円を描くように張り巡らされている。そのどこからでも入る事は可能なので、夜陰に乗じていくらでも遁甲に入れるのだ。


 それが判っているのか、彼らは入り口が一つしかないリュシアの街の前で監視を続けていた。

 これでは工房に向かう手立てがない。

 かと言って、また皇宮に戻れば間違いなく捕まって殺されるだけだろう。わざわざリュシアの街を張らせているという事は、部屋に忍び込んだネズミが誰かを承知しているという事だ。


 自分が下手を打ったことを自覚して、思わず嘆息を漏らす。


(くそ…!何が真っすぐ工房に向かえだ!その所為でどこにも逃げ場がなくなっただろうが…!!)


 あの時、皇太子は無理でもせめて皇王に助けを求めていれば、きっと命が助かっただろう。

 皇宮から逃げ出すとき、わずかにそれを考えたもののそれをしなかったのは、ユルングルの言葉に従った方がいい結果を生むという事を、長年の付き合いで不本意ながら承知しているからだった。


 なのに、このざまだ。

 腹の底からふつふつとユルングルに対する怒りが沸き起こるものの、現状をどうにかしないと怒りをぶつける事すらできない。それどころか彼と死体として対面する事になるだろう。


 そんな嫌な想像が頭をよぎって、ライーザはたまらずかぶりを振った。


(絶対に生き延びてやる…!あいつに思いっきり文句でも言ってやらなきゃ死んでも死にきれないからな…!!)


 これを雑草根性とでも言うのだろうか。あるいは怒りが死ぬことへの恐怖を上回ったのかもしれない。

 時折、仮眠を取りつつ、ライーザは極限状態ではありながら何とか朝を迎えた事に小さく安堵した。


 そうして、再び彼らを視界に入れる。


 彼らはどうも、普通の高魔力者とはその動きが違うようだった。不気味なほどその気配が感じられないのだ。

 気付いた時には自分の近くまで歩み寄っていて、慌ててまた別の場所に身を隠すことをもう何度も繰り返している。


 彼らの動きは確かに訓練を受けた者の動きだが、騎士や傭兵と言った類ではない。

 おそらく彼らは、暗殺を生業にしているのだろう、とライーザは何とはなしに思った。その底気味の悪さに一番座りがいい表現が、暗殺者と言う言葉だった。


 その彼らから何とか逃げ延びているのは、ライーザの危機察知能力が高いからだろう。それは幼い頃から高魔力者相手にスリや盗みを働いていたからだ。褒められる事ではないが、その悪行で培われた能力が今まさに役に立っているのだから神様も許してくれるだろう、とライーザは苦笑を落としながら、未だ彼らが監視を続けているリュシアの街の入口を凝視した。


(…頼む…!誰でもいいから出てきてくれ…っ!)


 どれだけ危険でもライーザがここから離れなかったのは、その一縷の望みに賭けたからだ。

 もう少し日が高くなれば、人の出入りが多くなる。その内一人でもいいから知り合いがいれば、その人物に頼んでダスクやダリウスを呼んできてもらえるのだ。

 それだけが、唯一自分が生き残れる道だった。


(もうユルンの言うことなんて聞くかっ!!)


 素直に聞いたおかげで、こういう惨状になったのだ。だったらまだ自分で考えて行動したほうがいくらかマシだろう。


 ライーザは冷えきってかじかんだ手に、拳を作る。

 もう冬も間近なこの時分に一晩中、外で身を潜めていたので、すっかり体が冷え切った。

 だがカタカタと体が震えるのは、何も寒さだけが要因ではないだろう。


 ライーザは震える体を抑えるように小さく深呼吸したあと、以降は息を潜めるようにただ成り行きを見守っていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ