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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第三部 有備無患 

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ユルン=フォーレンスの夢・終編

 ユルンが目覚めたのは、日もすっかり高くなった昼過ぎだった。


 カーテン越しからでも太陽の暖かさが伝わって、ユルンは陽だまりの中で眠っていたような気分で目を覚ました。昨夜の孤独感と恐怖、そして寒さに震えた事がまるで夢のようで、穏やかで暖かい温もりに安堵する。

 次第に微睡みから抜け出すように見慣れた天井が視界に入って、体中に小さな痛みが走った事で夢ではなかったことを自覚した。それと同時に自分の右手に温かさを感じて、ユルンはいぶかし気に頭を起こしてそちらに視線を向けた。


(……!……ダリウス兄さま……!!)


 あれほど会いたかった兄が、自分の手を握ったままベッドに伏す形で寝息を立てて眠っていた。

 その寝顔に安堵して、たまらずダリウスに抱きつこうと動いた体をユルンは理性で押し留めた。


 結局、あの時ダリウスは迎えには来てくれなかった。

 その理由をあの青銀髪の彼は教えてくれたが、それでもやはりその事実がたまらなく寂しかった。

 あの時迎えに来てほしかったのはダリウスだけ。他の誰かではない。他でもないダリウスが迎えに来て、自分を必要だと、だから迎えに来たのだと、そう言って安心させてほしかったのに_____。


 ユルンは眠っているダリウスを起こさないように静かに体を起こして、握っている手を離す。

 疲れ切っているのだろうか。いつもならすぐに目を覚ますのに一向に目が覚める様子はない。


 また、迷惑をかけてしまった。

 兄はそんな自分に、愛想を尽かしてはいないだろうか。

 そして呆れてはいないだろうか。

 こんな面倒な弟はいらないと、一瞬でも思ったりはしていないだろうか。


 一度抱いてしまった兄への不信が、止めどなく胸の内に広がっていく。


 ユルンは拒絶するように眠っている兄の寝顔から目を背けると、ベッドからそっと下りて部屋の扉を開ける。

 軽く軋んだ音に気付いたのだろう。ダリウスが目覚めて頭を上げた事を悟ると、ユルンは慌てて部屋を出た。


「……ユルングル様…?……!」


 目覚めたばかりでまだはっきりとしない意識の中で、ダリウスは誰かが部屋を出る音を聞いたような気がして、慌ててベッドに視線を移す。そこにユルンの姿がない事に気づいて、ダリウスも同じように急いで部屋を出た。


「ユルングル様…!?」


 部屋を出たダリウスの視界に入ったのは、さらに家から飛び出して今まさに森に入ろうと駆け出しているユルンの姿だった。


「ユルングル様…!どこに行かれるのですか……っ!!!?」

(……!…ハクロウ……っ!!!)


 後ろから追ってくる兄の姿を見咎めて、ユルンはたまらずハクロウの名を呼ぶ。それに呼応するように森の奥からスッと銀の毛並みが見えて、ユルンはその体躯に飛び込んだ。

 そうして不安げな表情でこちらを呆然と見返すダリウスを軽く一瞥して、ユルンはハクロウと共に森の奥へと消えていった。


 その光景を、ダリウスはなす術もなく眺める。


「………なぜ………なぜ、私から逃げるのですか………っ」


 ダリウスの悲痛にも似た呟きは、ただかそけく森の中に響くだけだった。


**


(……よかったのか?ユルンよ。あのように兄から逃げるような真似をして)


 押し黙ったまま森を歩くユルンに、ハクロウは声をかける。

 その顔は今まさに涙を流さんばかりの表情で、これ以上問いただせばまたあの大泣きを聞かされるのだろうと藪をつついて蛇を出す気分に陥ったが、それでもユルンの様子に聞かずにはおれなかった。


 ユルンはハクロウの毛並みを握る手に力を込めて、悄然と答える。


(……ぼくなんて…いない方がいい……ダリウス兄さまも、きっとそう思ってる……)


 そもそもダリウス自身はあの屋敷を出る必要はないのだ。

 命を狙われているのは自分だけ。ダリウスは面倒ごとに巻き込まれただけに過ぎない。

 自分がいなくなれば、ダリウスはあの屋敷に戻れるだろう。そうしてまた、いつもの日常に戻れるのだ。

 自分がいなくなった日常に______。


 そう思った瞬間、ユルンの瞳から大粒の涙が溢れた。

 泣かないように我慢していたのに、日常に戻れたダリウスの隣に自分がいない事を想像すると、たまらなく寂しくなって胸が締め付けられた。


 本当は、ずっと兄の傍にいたい。

 迷惑をかけていると判っていても、離れたくはなかった。


 そう思っていても素直になれないのは、きっと誰よりも自分が一番、自分をいらない存在だと認識しているからだろう。

 どうしようもなく弱く、足手まといの自分。

 何もできない、迷惑をかけるだけの存在。

 おまけに命まで狙われている。

 そんな自分を、兄はきっといつか必ず面倒になって、嫌いになる。嫌いになって、離れたいと思う。

 そう思われる前に、自分から離れようと思ったのに_____。


 止まらなくなった涙に、だけれども昨日のように大声を出すわけでもなく、ただひたすら我慢するように涙だけを流すユルンの顔に、ハクロウは慰撫いぶするように頬をすり寄せる。


(…我慢をするな、ユルンよ。泣きたいときは泣けばいい)

(……っ!)


 そのまませきを切ったように泣き声を上げるユルンを、ハクロウはただ尻尾で優しく包んだ。


**


 夕食の準備を終えたダリウスは、未だ帰らぬユルンを心配して空を見上げた。

 もうそろそろ逢魔が時が近づく頃だ。それを過ぎれば、辺りは暗闇に閉ざされる。


(…昨日の夜から何も召し上がっていない……。お腹を空かせておられるだろうに……)


 ダリウスには、なぜユルンが自分から逃げたのかが判らなかった。

 あの後すぐにでもユルンを追いかけようかと何度も思ったが、そのたびにハクロウと共に森に消える瞬間のユルンの悲しげな表情が頭をよぎって、森に向かう足を逡巡させた。


 きっと、自分が気付かぬうちにユルンを傷つけてしまったのだろう。

 それは判るのに、それが何かなのかが判らない。

 判らないこそ、迎えに行ったところでどう向き合えばいいのかダリウスには判らなかった。


 ハクロウが一緒なのだから安全だろうし、待っていれば帰ってくるだろう。

 そう自分自身に言い訳して待っていたが、帰ってくる気配は依然なかった。

 だが、もう日も暮れる。これ以上はさすがに待てない。


 ダリウスはユルンの魔力を頼りに、森へと足を踏み入れた。


**


(…もう戻るか?ユルンよ)


 もう幾度目かになるこの質問に、ユルンは変わらずかぶりを振る。


 昨日はあれほど兄を慕っていたユルンは、一夜明けて今度は驚くほど頑なに兄を拒絶しているようだった。

 その様子が解せない。

 昨日の兄を見る限り、少なくともハクロウにはユルンの事を本当に心から慈しんでいるように映った。おそらくそれは思い違いではないだろう。だからこそ、ユルンを兄に託したのだ。その兄がユルンをいらないなどと言うだろうか。


 ハクロウは小さく嘆息を漏らして、もうずっと押し黙ったままのユルンに声をかける。


(…それほど兄が嫌なら私が食ってやろうか?)

(……!!だめ……!!!!)


 血相を変えてかぶりを振るユルンに、ハクロウはくつくつと笑いを落とす。その様子に揶揄からかわれたことを悟って、ユルンはバツが悪そうに頬を膨らましてハクロウをめつけた。


(そう怒るな。何も言わないお主も悪い)

(………ハクロウのばか……っ!!)


 その返答にもう一度笑いを落として、ハクロウは機嫌を直せと言わんばかりに尻尾でユルンの頭を撫でる。


(…私と共に来るか?)


 その質問には返答はない。

 兄の傍にいたいという願望と、厄介者の自分から離れた方がいいと思う気持ちとが心の中で葛藤しているのだろう。

 ハクロウはそんな複雑なユルンの心境を悟って、おもむろに口を開く。


(では、私と賭けをしないか?ユルンよ)

(……賭け…?)

(そう、賭けだ。お主の兄が迎えに来たらユルンは家に帰る。来なかったら、私と共に行く。…それでどうだ?)

(……!)


 ユルンはその提案に、目を瞬いた。

 驚いたわけではない。ただこれでは賭けにならないと思ったからだった。

 ダリウスは昨日ですら、迎えには来なかった。そんな兄が、昨日の今日で迎えになど来るだろうか。

 答えが判っている賭けなど賭けではない。これに了承すると言うことは、ハクロウについていくと宣言しているも同然なのだ。


 ユルンは一瞬逡巡したが、悄然とうなだれたまま、こくりと小さく頷く。

 兄は絶対に自分を迎えになど来ない。来るはずがない。____来ないで欲しい。

 そうすれば、兄に嫌われることなく、兄の前からいなくなれるのだ。


 そんな切ない願望を胸の内に秘めながら頷いたユルンの顔に、ハクロウは優しく頬をすり寄せる。


(…お主は来ない方に賭けるのだな。ならユルンが賭けに勝てば、お主は私のものだ)

(……!…ぼく……もしかしてハクロウに食べられちゃうの……?)


 さっきの揶揄が尾を引いているのだろうか。

 思いがけない切り返しにハクロウは思わず目を丸くして、大声で笑う。


(安心しろ!私は人は食べない)

(…じゃあ……どうしてハクロウは、ぼくと一緒にいてくれるの……?)

(どうして?……そうだな……)

(ぼくが黒獅子だから……?)


 返答に困って思案していると、ユルンが先に確信を突いた答えを口にする。

 『黒獅子』というものが一体何なのかは理解してはいないが、それがハクロウにとって特別であるという事は承知しているのだろう。


 これにはハクロウも少しばかり困惑して、苦笑を落とした。


(…お主は小さいのに頭のいい子だな。…確かに私にとって黒獅子は特別な存在だ。だが私がユルンに構うのは、何も黒獅子だからではないぞ)

(そう……なの…?)

(お主は私を怖がらずに懐いてくれた。今も私と共にいてくれる。…私はね、ユルン。そんなお主が好きだから、傍にいたいと思うのだよ)

(……!)

(きっとお主の兄も、私と同じ気持ちなのだろう)


 そうだろうか、とユルンは思う。

 本当にそうなら、何をいても迎えに来てくれたはずだ。そして今日も、こんな時間まで放ってはおかず、もっと早くに迎えに来てもおかしくはない。

 そう思うのは、自分が我儘で甘えているからだろうか。


 ユルンはもう暗くなり始めた空を見上げる。あともう少しもすれば、辺り一面闇が覆い尽くすだろう。そうなれば自分はもう、大好きな兄と二度と会う事はなく、このままハクロウと共にこの地を去るのだ。


 そんな寂寞せきばく感に襲われたその時、ハクロウは突然小さく舌を出してユルンの頬を軽く舐める。


(…ほら、私の勝ちだ)

(………え?)


 その言葉に反応するように、ユルンはハクロウの視線の先に顔を向ける。


 がさがさと草を掻き分ける音が聞こえたその先に待ちわびた兄の姿が見えて、ユルンは嬉しさと驚きで茫然とその光景を見つめていた。


(………どうして……?)

「…ああ、よかった…!ユルングル様…お迎えに上がりました。…お腹が空いておられるでしょう?家に帰りましょう」


 逃げるように家を出たユルンをダリウスは怒るわけでもいさめるわけでもなく、ただ安堵した様子で笑顔を向けてくれている。それがユルンにはひどく嬉しく、同時になぜそんな顔を自分に向けてくれるのか不思議でたまらなかった。


 こんな迷惑ばかりかけている、役立たずの自分なのに_____。


 たまらず兄に駆け寄りたい衝動が、この言葉で一気に強張る。

 手を差し出してくれているダリウスの手を取りたいのに、素直になれない自分がいて逡巡しているユルンの背を、ハクロウは後押しするように鼻先で軽く押した。


(……!)

(…私と賭けをしたはずだぞ?ユルン)


 その言葉で、ユルンはようやく不承不承とダリウスの手を握る。

 ダリウスは元気のなさそうなユルンを心配そうに眺めながら、ハクロウに軽く一礼をして踵を返した。


 嬉しいはずなのに、素直に笑えない。

 そんな複雑な心の救いを求めるように、ユルンはダリウスに手を引かれて歩みを進めながら二人の背中を見つめているハクロウに一度小さく視線を寄越して、そのまま家路についた。


**


「…お休みなさい、ユルングル様」


 ベッドでこちらに背を向けたまま横になるユルンに、ダリウスはそう声をかけて部屋の扉を静かに閉めた。


 結局、ユルンは一言も口を利いてはくれなかった。

 家に向かう道でも、家に着いてから食事を摂る時でも、ユルンは押し黙ったままダリウスの言葉に無表情を貫いた。


 何がそんなにユルンを傷つけてしまったのか、ダリウスには判らなかった。

 ただ、怒っていると言うよりはただひたすら寂しそうなのが気になった。

 今にも泣きだす一歩手前の、そんな顔。今まで何度も見慣れた顔だけに、胸を突いて仕方がない。


(……父上と母上を恋しがっておられるのだろうか……?)


 ユルンは父の事も母の事も、大好きだった。

 そんな二人から急に離されたのだ。おまけに暗い家にただ一人取り残されて、寂しさが募ったのかもしれない。

 自分ではその寂しさを取り除くことが出来ない事を悟って、ダリウスはただ一人、ユルンの部屋の前で悄然とため息を落とした。



 それから幾日か経ったが、ユルンの機嫌は一向に直る気配がなく、ダリウスは途方に暮れた。


 毎朝、朝食を摂ったらそのままハクロウと共に森に入り、昼食は自分で帰って来て食事を摂って、夕食前にはダリウスが迎えに行く。その繰り返しに、ダリウスは慣れと同時に、不安が頭をもたげて仕方がなかった。


 一向に自分とは口を利いてくれないユルン。

 そしてハクロウとは声を出さなくとも意思が通じているように、ダリウスには映った。

 それがユルンの声が出ない現状を助長しているようで、どうしても内心で焦りが出る。


(……私が焦っては、ユルングル様が不安をお持ちになってしまう……)


 そう思ってはいても、心の焦りは日に日に増していくのが判った。


 唯一の救いは、ハクロウと一緒に行動するようになって、体が以前よりも丈夫になったように感じる事だろうか。

 それがハクロウと一緒にいるからなのかは正直判らなかったが、少なくともこの数日は熱らしい熱は出ていない。森を彷徨ったあの日、ダスクは二、三日でよくなる、と言ったが、実際はその次の日から熱は下がって、今日まで不調と言う不調は出ていなかった。食欲も増したようで、痩せ細っていた体が多少なりとも肉付きがよくなってきたのは、思い違いではないだろう。


 それでも、とダリウスは今日も同じようにハクロウが待つ森に駆け出すユルンを視界に入れる。

 ハクロウの元に駆け寄って森に入る前に、ユルンは必ず家の前で見送る自分を小さく振り返る。そうして、ハクロウと共に森の中に消えるのだ。


 その姿がまるで、最後の別れを告げているようで胸がひどく疼いて仕方がない。

 ユルンを見送るたびに不安が胸中に広がって、それは迎えに行ってユルンが自分の差し出した手を握るまで否応なく続くのだ。


 それがたまらなく、怖かった。


**


(…ハクロウは空を飛んだりはできないの?)


 森の中を散策しながら、ユルンは隣を歩くハクロウに問う。


 一緒にいる事が多くなってから、二人はお互いの事をよく話すようになった。

 ユルンの状況を把握したハクロウは、以前のようにダリウスの元に戻るようしきりに口に出すことはなくなったが、あの時交わした賭けは未だに続いている。


 夕方に賭けの話を持ち出して、やはりダリウスが迎えに来ると『賭けは自分の勝ちだ』と言ってユルンの背を押す。その時のハクロウがなぜか自分よりも嬉しそうな顔をしているような気がして、ユルンは何とも複雑な気分で家路につくのだ。

 ハクロウは本当は、自分を連れ去るつもりなどないのではないかと、ユルンは今ではそう思っている。


 問われたハクロウは、悄然と肩を落としたように答えた。


(…できるが、今は本来の力が封印されていてできないのだ)

(……封印…?誰に?)

(私を作った創造主だ)

(……!ハクロウを…作った……?)


 その違和感のある言葉に、ユルンは目を瞬いてオウム返しに問うた。

 生まれた、ではなく、作った、という言葉が、胸の内に苦いものを残していくようで嫌な気分になる。


 ユルンは渋面を取ってハクロウを見返したが、当の本人はと言えばどこ吹く風で、くつくつと笑いを押し殺していた。


(何、そんな嫌なものではない。ただ目的を持って生まれた存在だと言うだけだ)

(…目的があるってことは何かをしなきゃいけないんでしょ?なのに力を封印されてるの?)

(私の目的は主の手助けをすることだ。ゆえに主と主従関係を結ぶ契約をしないと力は解放されないし、そもそも主が不在の時は力を使う必要もない、という事だな)


 主、とユルンは口の中で小さく反芻する。

 それはダリウスにとっての自分と同じ者なのだろうか。


(…ハクロウの主はどこにいるの…?)

(……さあ、どこにいるのだろうな。どこかにいるのかもしれないし、今はまだ不在なのかもしれん。…もしそうであれば、今はまだその時ではないのだろう)

(…いるかどうかも判らないの…?)

(判らない。…だが主を見つけたら天啓が下りる)

(………天啓…?)

(…閃きのようなものだ。どのようなものかはその時々で決まる。雷で打たれたような衝撃であったり、あるいは懐かしい光のように感じたり。判りやすい時もあれば、出会っているのに判りにくくて気づかない時もある。…そんな不確かなものだ)


 ふーん、と小さく相槌を打って、ユルンは上目遣いにハクロウを見上げる。


(……ハクロウは、今まで主を持ったことはあるの?)

(当然、ある。…千年生きて、今まで三人の主についた)

(……!千年……!!…ハクロウってそんなにおじいちゃんなの……?)


 目を丸くしたユルンの口を突いて出た言葉に、ハクロウはたまらず大声を上げて笑った。


(おじいちゃんか…!確かに人間から見れば気の遠くなるほど長い年月なのだろうな。だが私にとってはほんの一瞬だ)

(………そうなの…?)

(…だからこそ、主と出会えばこの上なく嬉しく、そして愛おしいのだ。…人間の生は短いからな。共にいられるのはほんのわずか…瞬きするほどに短い)


 そう言って、愛おしそうな瞳で遠くを見つめるハクロウをユルンは視界に入れる。

 主の話をしているハクロウは、今までのハクロウとはまた違ってとても嬉しそうだった。懐かしむように、慈しむように、大事な者の話をしている____そんな感じ。


((……ダリウス兄さまも、ぼくの事をそうやって話してくれるのかな……?))


 心中でひとりごちるように、ユルンは呟く。

 そう思うと、ひどく嬉しく、同時にそうでなかった時を想像して、ひどく切ない。

 何やらハクロウの主が羨ましく感じて、ユルンはたまらず目を背けた。その時____。


(……!?)


 悄然とうなだれたところで突然足が滑って、そのまま傾斜から滑り落ちそうになったところを、ハクロウは慌てて服を口でくわえて何とかそれをくい止めた。そうしてまだ鼓動が早鐘を打つ中、ハクロウは安堵して脱力したかのように大きくため息を落とす。


(…ここから滑り落ちたら川まで真っ逆さまだ。川に落ちたら助からないぞ。…滑りやすいから気を付けろ、ユルン)

(……ごめんなさい…)


 申し訳なさそうに謝罪しながら、ユルンは立ち上がって泥だらけになった服を払う。


(…あの川はぼくの家の近くに流れている川と同じ川?)

(ああ、そうだ。お主の家の傍では緩やかで水嵩みずかさもそれほど多くはないが、ここまで来ると流れも速く、かなり深い。特に昨夜は雨も降ったからな。…先ほども言ったが、私の力は制限されている。今落ちれば、私は助けに行くことが出来ない。気を付けてくれ)


 ハクロウの言葉に頷きながら、ユルンは地面に目を向ける。

 今日はひどく歩きにくいと思ったのは、昨夜、眠っている間に雨が降っていたからなのだと、ようやく得心した。ぬかるんだ土が靴に纏わりついて、ひどく足が重い。おかげでどこを歩くにしても滑りやすくなっていた。


 そうして傾斜の先にある川に視線を移す。

 この森に来た最初の日、兄と共に遊んだあの川とは思えないほど流れが速い。轟音に近い音を立てながら、あの時とはまるで違う顔を見せるその川に言いようもない恐怖を感じて、ユルンはハクロウにしがみついた。


(…ユルンは怖がりだな)


 くつくつと笑いを落としながら、その場を離れるように歩みを進めて、ハクロウは必死にしがみつくその小さな体躯に目をやる。

 この小さな体を震わせるその姿が、どうしようもなく庇護欲を掻き立てられ、こうやって頼ってくれることが嬉しく、愛おしいと感じさせるのだろう。


((…それはきっと、ユルンの兄も同じだろうに…))


 それでも、ユルンは兄をどうしても信じられないのだ。

 いや、信じられないのは自分が愛されているという事実だろうか。

 ユルンは体が弱く、何もできない自分を恥じているようにハクロウには映った。そんな自分が、大好きな兄に迷惑をかけ困らせてしまうのを恐れているのかもしれない。


 ハクロウはユルンに気づかれないほど小さな嘆息を漏らすと、未だしがみつくユルンに声をかけた。


(…まだ賭けを続けるのか?)


 その問いに弾かれるようにハクロウの顔を見返したが、返答もなく目線を落とす。


(…どれほど賭けを続けても、結果は変わらぬぞ。お主の兄は必ずユルンを迎えに来る。…ユルンももう、気づいているのだろう?)


 気づいていないわけがない。

 ダリウスは必ず夕刻には迎えに来る。それもいつもと変わらぬ穏やかな笑顔をたたえて。

 それでも賭けを続けてしまうのは、迎えに来てくれるたびに兄から必要だと言われているような気になって心が落ち着くからだろうか。

 こんな迷惑ばかりかけている自分でも、兄は愛してくれているのだとその時だけは実感できるからだろうか。


 そしてそれはおそらく、自分だけの思い違いではない。


 それが判っていてもなお素直になれないのは、一度でもそんな兄を疑ってしまったからだろう。

 一時の不安で、兄の愛情を疑ってしまった。そのバツの悪さから逃げるように、ハクロウにすがって森に逃げ込んだ。それでも兄は呆れるわけでも愛想を尽かすわけでもなく、ただひたすら自分を待ってくれた。

 それが嬉しく、申し訳ない。


 どこかで兄と向き合わなくては、と思うのに、いつまでも踏ん切りがつかなかった。

 そうやっていつまでもズルズルと逃げ続けているのだ。


(あまり待たせると、さしもの兄でも匙を投げだすぞ)

(……!)


 その言葉にユルンは目を丸くして、恐怖と焦燥感に駆られたような表情をハクロウに向ける。


(…嫌だ……っ!それは絶対に嫌だ……っ!!!ぼくにはダリウス兄さましかいないのに……っ!!!!)


 もう、自分の傍にいてくれるのはダリウスしかいない。

 父も母も、もう傍にいてくれはしないのだ。

 そしてハクロウも、主を見つけたら自分から離れていくのだろう。

 そうなれば自分はたった一人、孤独に震えるしかない。


 その時のことを想像すると恐怖がユルンの心を支配して、たまらず駆け出した。


(…!?ユルン…っ!!?待て……!!!)


 今すぐダリウスの元に____。

 そう思って駆け出したその足は、ぬかるみに取られ、転ぶと同時にユルンの小さな体はそのまま傾斜を滑り落ちて、ハクロウの見ている前で川に勢いよく投げ出されたのだ。


(……!?)

(ユルン……っっっ!!!!!!!!)


 轟音の中に、ユルンの小さな体が川に落ちるかすかな音が虚しく響く。

 転んだのと同時に思うよりも早く駆け出したが、あとわずかというところで間に合わなかった。たった鼻先一つ分の差____そのわずかな距離が憎い。

 ハクロウは絶望感から目を見開いて体が硬直するのを感じたが、すぐに我に返って駆け出した。


(……ハク……ロ……っ!)

(ユルンっっっ!!!!)


 流れの速い川から浮かんでは沈むユルンの姿が見える。ハクロウはそのユルンの姿を見失わないように後を追ったが、思いのほか流れが速く、足場の悪い獣道では追いつけそうもなかった。


((川に流された方が早いか…!))


 そうなれば自分もきっとただでは済まないだろう。

 力は封じられたままだ。この体は泳ぐのに適した体ではない。最悪共倒れになる可能性もある。

 それでも_____。


 そう意を決した瞬間、背後から悲痛にも似た叫び声がハクロウの耳に届いた。


「ユルングル様……っっ!!!!!!?」


 そう叫ぶや否や、その声の主は迷うことなく川に身を投げる。

 そのまま川の流れに乗って、あっという間にユルンの傍までたどり着くと、沈みかけたユルンの体を抱きかかえて川面かわもから何とか顔を出した。


「ユルングル様……っ!!?大丈夫ですか……っ!!」

(……ダリウ…兄さ……っ!!)


 しきりに口の中に水が入る所為か上手く話せない様子だったが、意識がある事にダリウスは安堵する。

 ダリウスは何度も浮き沈みを繰り返しながら何とか流れに逆らって岸辺に近づき、辛うじて岸辺から延びる木の根を掴んだ。


「…ハクロ…様……っ!!ユル…グ…様を……っ!!!」


 ユルンを片手で抱きかかえて、追いついたハクロウに託す。

 ハクロウはしきりに咳き込むユルンの服を口でくわえて安全なところまで引き寄せると、すぐさまダリウスの元に戻った。


「お主も早く来いっっ!!流されるぞっっ!!!」


 言ったが、もう体力も限界なのだろう。大量の水を飲んだこともあって半ば意識が朦朧としているようだった。


(……ダリウス…兄さま……っ!)

(ユルンは危ないから下がっていろ…っ!)


 近づくユルンを制して、ハクロウはダリウスが掴む木の根をくわえて、岸辺へと引っ張る。その間もダリウスの意識は徐々に薄れていき、根を握る手に込めた力も次第に緩んでいくのが判って、ハクロウは焦燥感に駆られるように声を上げた。


「しっかりしろ……っ!!手を離すな……っっ!!!!」

(ダリウス兄さま……!!!!)


 薄れる意識の中、ダリウスはハクロウとその隣で不安と心配で今にも泣きだしそうなユルンを視界に入れる。


 もし、今自分がここで死んでしまったら、この子はどうなるのだろうか。

 ハクロウと共に、この森でたった一人生きていくことになるのだろう。人と接する事もなく、胸の内に孤独を飼いながら、そしていつか人の言葉も忘れて生きていくのだ。


 それだけはしてはならない。そう思うのに、力が出なかった。

 最後の力を振り絞りたいのに、振り絞るべき力がもうどこにもない。


 次第に緩んでいくダリウスの手を、ユルンはなす術もなく見つめていた。


(……いやだ……ダリウス兄さま……ぼくを一人にしないで……っ!!)


 声にならない声でそう叫ぶユルンの姿が、もう陽炎のように揺らめく。

 不安そうな顔のユルンをなだめるようにダリウスは小さく微笑んだあと、意識が遠のくのを感じた。


(……!?やだ…………いやだ…………!!……っ!!!)


「ダリウス兄さま……っっっ!!!!!!!!」

「……!」


 その懐かしく激しい呼び声に、ダリウスは失いかけた意識を瞬く間に取り戻して、再び根を握る手に力を込める。

 それを察したハクロウは、一気に力を込めてくわえていた木の根を思いっきり引っ張り上げた。


「…ケホッ、ゲホッ、ゴホ…っ!!」

「……ダリウス兄さま……っっ!!!」


 ようやく岸に上がって盛大に咳き込むダリウスに、ユルンはたまらず駆け寄り勢いよく飛びつく。


「ダリウス兄さま…っ!ごめんなさいっ!!ごめんなさい…っ!!ごめんなさい……っっっ!!!!」


 首元にしがみついて、泣き声と共にしきりに謝るその声がひどく懐かしい。

 屋敷を出てから今日まで、聞くことのできなかった懐かしい声。

 そして、ここ数日はずっと自分から逃げ続けていた。

 そんなユルンが声と共にようやく自分の元に帰って来てくれたような気がして、ダリウスはたまらなく愛おしく、言葉では言い表せないほど嬉しさが胸に迫った。


 力の限りを尽くした震える手を何とか動かして、ダリウスはユルンの頭を撫でながら、その小さな体を愛おしそうに優しく抱きしめる。


「…ユルングル様……!もう…大丈夫です……私が…私がずっと、お傍におりますから……!」


 恐怖と安堵感、そしてダリウスに対する罪悪感で泣き続けるユルンの体を、ダリウスはただずっと優しく抱きしめていた。


**


「…今日は迎えがずいぶんと早かったのだな」


 ハクロウが棲みついているという洞窟の中で暖を取るダリウスに、そう声をかける。


 もう冬も来ようかと言う時期に濡れた体で動いては体を壊すだろうと、ハクロウは二人をここに招いた。

 泣き疲れて眠ったユルンを抱きかかえてこの洞窟に入り、濡れた服を脱がせて毛布にくるませた。焚火をいて、なおかつ暖かいハクロウのお腹の上で尻尾までもを毛布のように覆いかぶせて寝ているので寒くはないだろう。


 ダリウスも同じく毛布に包まりながらハクロウと向かい合わせに座って、焚火に向けていた視線をハクロウに移す。


「…胸騒ぎがしたのです。居ても立っても居られず、気づけばあそこにおりました」


 それは、暗殺者が屋敷に侵入してきた時とよく似ていた。

 妙な胸騒ぎが胸中に広がって、それに突き動かされるように森に入った。そこから川に至るまでの道中をダリウスはよく覚えていない。気付けば川に流されているユルンの姿が視界に入って、考えるよりも早く川に飛び込んだのだ。


 ハクロウは軽くダリウスを一瞥したのち、申し訳なさそうにうなだれる。


「…すまなかったな。私が付いていながらユルンを危険な目に遭わせた」

「…!いいえ…!…ハクロウ様がいてくださったおかげでユルングル様をお助けすることが出来たのです…!…私も助けていただきました。感謝申し上げます」


 そう言って深々とこうべを垂れるダリウスを、ハクロウは目を丸くしながら感嘆の眼差しで見つめた。


 これほど大事に思っている弟を危険な目に遭わせたのだ。文句の一つも言ったところで罰は当たらないだろうに、目の前の男は悪態を吐くどころか深々とこうべを垂れて謝意まで伝えてきた。これほどよく出来た人間を、千年生きたハクロウでも見たことはない。


 穏やかで、誠実で、そしてこの男の頭の中は完全にユルンを中心に回っているのだろう。

 そう思うと途端にこの男への興味がハクロウの心を支配した。


「…聞いてもよいか?」

「…何なりと」

「お主はなぜそこまでユルンに身命を賭しているのだ?」


 あの激流の中に飛び込むのは、自分でさえ躊躇いがあった。

 だがこの男は、何の迷いもなく川へ飛び込んだのだ。そこまでこの男を突き動かす何かを、ハクロウは知りたいと思った。


 ダリウスは軽く思案したのち、おもむろに口を開いた。


「…ユルングル様がおられない世界は、私にとって何の意味も成さないからです」


 言って、ハクロウのお腹の上で寝息を立てて眠る己の主を視界に入れる。


「…私の家は、第一皇子の補佐官になる定めを負った家系でした。父も同じくその定めに従い、今は陛下の補佐官に従事しております。その父の姿を、私はとても羨ましく思っておりました。あれほどまでに慕い尊敬できる方を主として生涯お仕えできるのは稀でしょう。私にもいつか、そういう方ができるのかと思うと、とても心が弾んだのを覚えております」


 昔を懐かしむように、ダリウスはくすりと面映ゆそうに笑みをこぼした。

 だが次の瞬間、ダリウスは怒りとも悲しみとも取れる表情で、声を低く告げる。


「…ですが、この国はそれを許してはくれませんでした」


 待ちわびたその主を、国は『いらない』と言った。

 ____『皇族に低魔力者はいらない』

 そんなくだらない理由で、国はユルンの死を望んだのだ。


 国中から忌み嫌われ、隠れるように生まれたその主は、生まれてすぐに心臓が二回も止まった。

 まるで世界からもいらないと言われているようで、ひどく哀れに思った事を覚えている。


 ようやく容態が安定して拝謁できるようになったのは、生まれて十日後のこと。

 ダスクが胸に抱くその小さな赤ん坊はたくさんの管に繋がれてあまりに痛々しく、だが己の指を握るその力強さに、ダリウスはたまらなく愛おしさが募った。


 国から___いや、世界からもいらないと言われるのなら、自分だけは必要だと言おう。

 ずっと傍について、いらないと言われた数だけ、必要だと言い返そう。

 そうして守り抜くのだ。ユルンの心も一緒に。


 その小さな手に、ダリウスはそう誓ったのだ。


「…私には、ユルングル様だけなのです。この方にだけ忠誠を誓ったのです。ユルングル様が生きておられない世界など、私には生きる意味がありません。ですから……ですからどうか、私からユルングル様をお取りにならないでください……っ!」


 懇願するように、ダリウスはおもむろにハクロウにこうべを垂れる。

 己の内実を言葉に出したことで、胸中に秘めていた不安が思わず口を突いたのだろう。震える手で拳を作る事で、ずっと胸に抱いていた不安と恐怖を押し隠しているようだった。


(…私がユルンを連れて行くと思っていたのか……)


 思えばいつも家の前でユルンを見送るダリウスの顔は、微笑んではいたがどこか寂しげに映った。あれは不安と恐怖を押し隠した顔だったのだろう。


 ハクロウは頭を下げたままのダリウスに、大きく嘆息を漏らした。


「…よく似た兄弟だな、お主たちは」

「……え…?」

「ユルンも同じことを言っていた。自分には兄しかいないと。…お互いにお互いしかいないと思っているのなら離れなければいいだけの事。元よりお主たちの仲を引き裂くつもりもないし、そもそもユルンも私と共に来るつもりなど毛頭なかった。…ユルンの中では初めから、一択だったのだ」


 兄から離れない。

 ユルンの中の選択肢は常にその一択しかなかった。

 そんなユルンを連れ去るなどできようはずもない。


 ハクロウは呆然と見返してくるダリウスに笑って告げる。


「今はお主に預けよう。私よりもお主の傍にいる方が安全だと痛感した。…だがいずれ必ず迎えに行く。その時まで、ユルンを頼むぞ」


 その言葉通り、ハクロウはそれ以降姿を現すことはなかった。

 森を散々捜索したが見つからず、数日後この洞窟に様子を見に来たが、居を変えたのか棲みついている形跡さえ綺麗さっぱりなくなっていた。


 ユルンはしばらく寂しそうに森を眺めていたが、ひと月ほど経ってそれもやめた。

 それでも、まだこの森にハクロウがいるような気がして、ダリウスは用事で家を空ける時は必ず森に一声かけた。そうする事で、ハクロウがユルンを見守ってくれるような気がしたからだ。


 そうしてユルンが16になって、森を離れる日____。


(また会おう、ユルン)

「…!」


 森の奥深くから聞こえた獣の鳴き声のような音に反応して、弾かれるように森に視線を移すユルンを、ダリウスはいぶかし気に視界に入れる。


「……?ユルングル様…?どうかなさいましたか?」


 その問いかけにしばらく無言で森を見つめたのち、ユルンは小さくかぶりを振った。

 そして、告げる。


「…何でもない。行こう、ダリウス兄さん___いや、ダリウス」


**


 ゆっくりと瞼を開くと、見覚えのない天井が自分を迎え入れた。

 見覚えがないのに、なぜだかひどく懐かしいと思う、そんな天井。


 そうして人の気配を感じて、ユルングルは目覚めたばかりの恍惚とした瞳を緩やかに右に向ける。


「…………ダリウス兄さん……?」

「……!…ユルングル様?お目覚めになられましたか?」


 その問いかけに、ユルングルはゆっくりと頷く。

 それに安堵したように、ダリウスは小さく微笑みを返した。


「ずいぶんと懐かしい呼び名ですね」

「……昔の…夢を見ていた………」


 ユルングルが自分を兄と呼ばなくなって久しい。

 主従関係になった後でも、まるで抵抗するように頑なに言い続けた兄の呼称は、ユニが亡くなって森を出る決意をしたあの日から付ける事はなくなった。その日が本当の意味での、兄弟の袂を分かつ事になった日なのだろうと、ダリウスは思う。


「……ねえ、ダリウス兄さん………」

「…!」


 夢だと言いながら未だに兄の呼称と懐かしい口調に、ダリウスは怪訝そうに眉根を寄せる。


(……まだ記憶が混乱なさっておいでなのだろうか……)


 そう思いながら先の言葉を促すように見つめ返してくるダリウスに、ユルングルはゆっくりと視線を移す。


「……俺は……俺は、ダリウス兄さんの…本当の弟に、生まれたかったよ………」

「……!」


 それだけ呟くように言い終えると、ユルングルはまたゆっくりと瞼を閉じて眠りについた。


 一人残されたダリウスは、寝息を立てて再び眠りにつく己の主を茫然自失と眺める。

 かつては弟だった、己の主。

 もう二度と兄に戻ることはないと、ユルンと共に眠ったあの最後の夜に誓った。

 だが_____。


「……私も……私もお前が本当の弟だったらと、何度も思ったよ、ユルン……」


 ほんの一瞬だけ見せた兄の顔は、それを最後にまた再び、ダリウスの心の奥深くに戻っていった。


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