零れ桜(こぼれざくら)
春風に乗って花々の甘い香りが漂ってくる。
綺麗に手入れされた皇宮の庭園は四季折々の花々が一年中見られる事で有名だった。その敷地は広く、夢の中で聖女が佇んでいた花畑にどこかしら似ているような気がする。
ミルリミナは中でも庭園を囲うように咲き乱れている桜の花が一番好きだった。
眼前が薄紅色で埋め尽くされ、風が吹くと小さな可愛らしい花弁が一斉に舞う姿は形容しがたいほど美しい。筆舌に尽くしがたいとはまさにこの事だろう。
そういえば薄紅色は幸せを感じる色だと聞いた事がある気がする。だからこれほど桜を求めてしまうのかと何とはなしに思った。
「お嬢様、寒くはないですか?」
車いすを押すティーナが後ろから心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いいえ、とても気持ちがいいわ」
春の穏やかな日差しが心地いい。朝晩はまだ冷えるが日中は時折軽く汗ばむほど暑い日も出始めてきた。季節は初夏に移ろうとしている。
こうやって外に出るのもミルリミナにとってはひと月ぶりだった。ミルリミナの為に皇宮内は車いすでも移動できるよう段差を排除している。おかげで力の弱いティーナだけでも車いすがあれば外に連れていく事ができた。
「不思議ですね。春の花と夏の花が同時に見られるなんて」
ティーナは桜の花とその隣に咲くひまわり畑をかたみがわりに見た。普通であれば決して見られない光景だ。
「この土地はかなり特別みたい。他に比べて魔力の量が桁違いで、そこにこの皇宮を建てたそうよ。魔力が多いから季節に関係なく花々が咲き乱れるのでしょうね」
魔力というものがどれほど偉大で重要なものか思い知らされる。魔力が甚大であれば季節さえ関係ないのだ。
その魔力を誇示するかのように、春風に吹かれて無数の花弁が舞う。その花吹雪の向こう側に見知った人影が見えた。
「ミルリミナ!」
「ユーリシア殿下!」
手を振りミルリミナに歩み寄るユーリシアの傍らには、いつも通りラヴィが控えている。いつもと変わらぬ光景だ。
「部屋にいないから探した。庭園に来ていたのだな」
穏やかな表情でミルリミナを見据える。ミルリミナが辛くないよう膝をついて目線を合わせた。
昨日あれだけ腫れていた左頬は何事もなかったように腫れが引いているようだった。高魔力者はこれほど回復が早いのか、とティーナは半ば呆れながら感心した。
「はい。久しぶりに外の空気が吸いたくなりましたので、こうしてティーナに連れてきてもらったのです」
「そうか。だがあまり無理はしないでくれ。風の当たり過ぎは体に障る」
本当に心配そうにミルリミナを見る皇太子に、ティーナは唖然とする。
これがあの皇太子だろうか?
ミルリミナを嫌って冷淡な態度を取っていた皇太子は影も形もない。むしろ子犬のようにコロコロとその表情を変え、愛おしそうにミルリミナを見つめている。
そのあからさまな態度からティーナは瞬時に悟ったのだ。皇太子の中にある想いと、その想いに全く気付いていない鈍感な皇太子の存在に。
(…クラレンス卿はご存じなのかしら?)
なんとなく気になってかなり控えめに目線を向けると、それに気づいたラヴィは困ったように苦笑いをして見せた。ティーナが勘付いてしまった事を悟ったのだろう。
「私が押そう。少し歩こうか」
「私どもはこちらで控えております」
ラヴィの言葉にユーリシアは頷いてその返事とする。深々と頭を垂れる二人をその場に残し、ユーリシアは車いすを押しながら庭園の奥へと歩みを進めた。
そんな二人を見送って、ティーナはため息をついた。
「…まったく、二人そろって鈍感でいらっしゃるんだから」
「まったくです」
「!」
誰にともなく呟いた独り言に返事が返ってきて、ティーナは飛び跳ねるほど驚いた。
「も、申し訳ございません!クラレンス卿がいらっしゃるのを失念しておりました!」
「いえ、私のこのもどかしい思いを分かち合える人に出会えてほっとしています」
ラヴィの心情を悟ってティーナは苦笑いを浮かべる。
「…皇太子さまはご自分の想いにお気づきになられていないのですか?」
「…残念ながら」
「………あれほどあからさまなのに?」
あれで気付かなければ一体いつ気づくのだろうか?
「ははは…。…恋愛とは無縁のお方ですからね。一度もそういう経験をされなかったことが悔やまれます」
「初恋もまだなのですか?」
「今していますよ。おそらく五年前から」
「!……五年前からって…お嬢様にあんな態度をお取りになっていたのに!?」
「ティーナ、落ち着いてください」
声を荒げるティーナを、ラヴィは苦笑いしながら宥める。
「…殿下のお気持ちも判るのです。顔合わせでひどい態度を取ってしまったと後悔されておいででしたから。低魔力者の待遇を改善する事で自分はようやくミルリミナ様の隣に立てるのだと、それまでは合わせる顔がない、と他の事には一切見向きもされずにこの五年間、頑張っておられました」
「……顔合わせの時よりもひどい態度をお取りになっておいて?」
「…ごもっともです」
申し訳なさそうにラヴィは苦笑いする。
「…許してあげてください。あの頃の殿下にはどういう態度をお取りになればいいのか判らないご様子でした。初恋だという事すら気づいていないのだから、なおさらです」
今思えば、とティーナは思う。
廊下で出会った際、皇太子はできるだけ平常心を心がけていたようだが、曲がり角などで突発的に顔を合わせたときは、ひどく動揺していたように見えた。あの時の辛そうな顔が、申し訳ないという気持ちの表れなのだろうか、とティーナは思う。
(…五年前からそれほどお嬢様を気になさっておいでだったのに、未だにご自分のお気持ちにお気づきになってないって、どれほど鈍感なのよ。この調子だと他のご令嬢に好意を抱かれている事にすらお気づきなっていないのでしょうね…)
あまりに恋愛ごとに疎い皇太子に、ティーナは先が思いやられると小さく息を吐いた。
「…ミルリミナ様も負けず劣らずのようですね。あの殿下の態度を見てもお気づきにはなってはおられないのでしょう?」
「…お嬢様は鈍感というよりも、固定観念に捕らわれている、と言った方が的確かもしれません」
「…固定観念?」
「ご自分が皇太子さまに好かれるはずがないと、思い込んでいらっしゃるのです。お嬢様はいつも毅然とされておいでですが、その心内はいつも不安定です。無魔力者である事に劣等感を抱き、病弱でいつ終えるかもしれない命に怯えております。それはおそらく聖女になられた今でも変わってはいないでしょう。そんな自分が皇太子さまに好まれるはずがない、とそう思い込んでいるのです」
きっとティーナの口から皇太子の気持ちを伝えても、ミルリミナは決して信じはしないだろう。
それほどミルリミナの劣等感は根深い。
「…見守る事しかできないのは辛いですね」
ティーナを慮ってラヴィはひとりごちる。
自分も同じ立場だ。ティーナの辛さはよく判る。
我々はただ見守る事しかできない。ならばせめて最後まで見届けようと思う。
二人の想いがどのように進むかは判らない。だが、決して間違った道に進んでしまわぬよう、祈りながら。
**
そんな侍女と侍従のやり取りなど知る由もないミルリミナとユーリシアは、庭園内をゆっくりと歩いていた。
ティーナたちと別れてからお互いに一言も発していない。何か話題をと探せば探すほど言葉が詰まってしまう。ミルリミナはこの静寂の時間がひどく嫌いだった。
ユーリシアといられるのは嬉しいが、こうやって会話が途切れてしまうと間が持たない。話題を探しても見当たらず、黙ったままではユーリシアが不快に思っているのではないかと思うとさらに何も言えなくなるのだ。
(…ユーリシア殿下のお顔が見えないから、なおさら不安だわ)
特に今は車いすを押してもらっているのでユーリシアに背を向けている形だ。ユーリシアの様子を窺いたいがそれもできない状態だった。
「…ミルリミナは」
「は、はい!?」
突然話しかけられて、ミルリミナは驚き慌てて振り返る。そんなミルリミナの様子にユーリシアは目を丸くした。
「…ああ、すまない。驚かせてしまっただろうか」
「い、いいえ!…申し訳ございません」
みっともないところを見られて赤らんだ頬をミルリミナは手で押さえた。
そんな仕草ですらユーリシアは可愛らしいと思う。
「…ミルリミナは好きな花はあるのか?」
「…私は幼少の頃から桜の花が大好きでした。春になればお父様やお母様とお花見をしていたのですよ」
「…お花見?」
「東の国では桜を見ながら食事を摂るのだそうです。それをお花見というのだとか」
「それは楽しそうだ。今度私ともお花見をしてくれないか?幸いなことにここでは一年中お花見ができる」
「…はい、喜んで」
こういう時のミルリミナの笑顔はなぜだかぎこちない。嫌がっている感じではなさそうだが、どこか遠慮がちで寂しそうな印象を受けるとユーリシアは思う。
ミルリミナは桜の花を見上げるように目線を上げた。
「…一年中見られるのは嬉しいですが、少し物寂しい気もいたしますね」
「…物寂しい?」
「…私は桜の花も好きですが、その散り際の潔さも好きなのです。満開の花が春の終わりと共に一斉に花弁を散らすその潔さが、見ていて少し寂しく同時に凛としていてとても力強く美しいと感じるのです。私もできれば桜のようにありたいと…」
言って、愛おしそうに桜の花に手を伸ばす。
その姿がユーリシアにはとても印象深く、切ない気持ちになった。
(…ああ、そうか。彼女は桜そのものなのだ)
魔力がないゆえに、その命はいつ果ててもおかしくはない。短い命と覚悟をして生きてきたのだろう。実際、彼女の命は一度散ってしまった。桜と同じようにあまりに潔く。
また同じことがあれば彼女はきっと同じように潔く死を迎え入れるだろう。まるで桜の生き様を体現しているようだと、ユーリシアは胸が痛んだ。
「…あ、申し訳ございません。決して皇宮の庭園を否定しているわけではないのです…!」
険しい顔をしてしまっていたのだろうか。ミルリミナはユーリシアの顔を見るや慌てて弁解をする。そんなミルリミナに、ユーリシアは笑って見せた。
「いや、そうじゃない。確かに桜の散り際の潔さは見事だと思ったのだ。そのように見た事などなかったから新鮮だ」
いつもこうやって気を使ってくれるユーリシアの気持ちが、ミルリミナには有り難く心地いい。
なんだか照れてしまって視線をそらすと、花々の様子に軽い違和感を抱いた。
「…殿下、なんだか草花たちがあまり元気がないように見えるのですが…私の気のせいでしょうか?」
よくよく見れば春の花以外の草花がいつもよりも弱々しく感じられる。枯れるほどではないので些細な変化なのだろうが、なぜかミルリミナにはその変化が大きく感じられた。
「…貴女は目聡いな」
ユーリシアは恐れ入ったとため息をつく。
「どうやらこの皇宮の魔力がわずかに減少しているそうだ」
「……!」
気づいたのはこの庭園を管理している庭師だった。報告を受けて教会に調査を依頼したところ、そう返答が返ってきた。
「…それは、各地で起きている現象がこの皇宮でも起こり始めた、という事でしょうか?」
「いや、そういうわけではないようだ。私には魔力の流れが見えないからよくは判らないのだが、各地で起きている魔力の枯渇は教会からの魔力の供給が完全に途絶えたか、もしくはわずかな魔力の供給しか行われていないらしい。この土地は特殊で土地自身が魔力を発生しているのだが、そこに異常は見られないと報告を受けた。おかしいのは供給源ではなく、どうやら魔力を吸っている『何か』が原因らしい」
「『何か』……?」
「吸う力があまりに弱いため魔力の流れを追えないので、その『何か』の正体までは判らないそうだ」
「…では、ここの庭園も徐々に枯れてしまうのですか?」
それは嫌だ。
季節折々の花々が見られるこの庭園をミルリミナは気に入っている。昔から皇宮にくれば必ずこの庭園に通っていた。それが見られなくなるのはミルリミナには耐えられなかった。
そんなミルリミナの不安を感じて、ユーリシアは笑顔で答える。
「その心配はない。先ほども言った通り吸う力はかなり弱い。今は時期的に土地からの魔力供給が少ないせいでわずかに花々に影響が出てきているが、夏になれば発生する魔力もかなり増える。この庭園がなくなる事はないから安心してくれ」
そう言ったが、『何か』の吸う力が強くなれば話は別だ。供給より上回れば庭園の花は枯れていくだろう。
だが無駄にミルリミナを不安にさせる必要もないだろうと、ユーリシアはあえて伏せておいた。
「…そうですか。よかった…」
ほっと胸を撫でおろし、ミルリミナは庭園を眺める。
聖女になってから何もない空間にうっすらと何かが見えるようになっていた。例えるなら風が視覚化されたような感じだったが、それが魔力の流れだった事を、ユーリシアとの会話でようやく理解した。
(…私にも魔力の流れが見えるようになっていたのね…)
本来はごく一部の人間にしか見える事はない。それは有する魔力量に関係なく、見るための才能があるかどうかだ。その才能を有する者は例外なく教会に属さなければならない決まりがある。体内の魔力の流れを読んだり魔力量を測るのは訓練次第で会得できるが、大気中の魔力の流れを見る事は、その才を持つ者以外決して見る事は適わないからだ。
そしてそれが見えるようになってからミルリミナには気になる事があった。
ミルリミナの周囲にだけ、魔力の渦ができているのだ。それは凝視しなければ判らないほどゆっくり、ミルリミナの体の周囲を渦を巻くように流れている。
それが何なのかミルリミナには判らなかったが、少なくともミルリミナ以外で魔力をそのようにまとっている者は見た事がなかった。一度ユーリシアか皇宮医に相談しようと考えた事もあったが、なぜだか怖くて思い止まった。
この現象が、あまりよくないような気がしたからだ。
今のところ、これが何かを引き起こしているという事実はない。事実はないが、ただ言いようもない不安に襲われる。
庭園に流れる魔力の流れを見つめながら、ミルリミナはただ何もない事を祈っていた。