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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第三部 有備無患 

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覚醒の知らせ

「…ユルングル様、右手を動かすことはお出来になりますか?」


 シーファスが帰路についてすぐ、ラン=ディアはユルングルの診察を始めた。

 心臓の状態も当然気にはなったが、真っ先に確認しなければならないのは脳への損傷があるかどうかだろう。そう思ってラン=ディアは、一番影響が出やすい四肢の確認をまず優先する。


 問われたユルングルは、ややあってからゆっくりと右手を動かして見せた。

 そのわずかな動きすらひどく億劫なのだろう。あるいは十二日間も眠っていたゆえに、その小さな動きでも体力を消耗するのだろうか。ひどく緩慢な動きで指折り数えるように一本ずつゆっくりと、だが確実に動かす様子に、ラン=ディアはひとまず安堵のため息を落とす。


 その様子を、ダリウスは少し離れた所で眉根を寄せて不安げに見つめていた。

 意識が朦朧としているのか、未だ恍惚とした表情で気を抜けば再び意識を失ってしまいそうなユルングルにたまらなく不安が掻き立てられて、ダリウスは無意識に胸の辺りの服を強く握る。


「…私が触れているのがお判りになりますか?」


 ユルングルの右手を握りながら、視線を彼の右手から顔に移してラン=ディアは問う。

 ユルングルは自分の顔を覗うように見つめてくるラン=ディアにゆっくりと視線を向けると、小さく頷いた。


(…嗜眠しみん傾向にはあるが、こちらの言葉にもしっかり応えている…。目線が合うところを見ると、とりあえず視覚と聴覚には問題はなさそうだな…)


 ラン=ディアは四肢の確認をしながら、ユルングルの一挙一動をつぶさに観察した。

 決して漏れがないように、決して見逃さないように、視線の動きや肌に触れた時の些細な動き、そして緩やかではあったが確かに変わる小さな表情の変化にも注視した。


 そうしてすべての検査を終えると、もう意識を保つのがやっとの状態のユルングルに出来るだけゆっくりと、はっきり大きく問いかける。


「手足に限らず、痺れや感覚が鈍いところはございますか?」


 考えているのか、あるいは確認しているのか、わずかに沈黙したあと、ユルングルはくすりと笑う。


「……に…ぶ…のは………しこう……だけ……だ……」


 ___鈍いのは思考だけだ。

 鈍麻な意識に皮肉を漏らしたのだろう。

 こんな時でも減らず口を叩くユルングルに、二人は思わず軽く失笑した。


「…まったく、貴方という方は」


 不安げな自分たちの気持ちを和らげようとしたのかもしれない。

 こういう人物だからこそ、彼の周囲には穏やかな空気が流れるのだろうか。


 そんなことを思いながら呆れたようにため息をいて、ラン=ディアはダリウスに視線を移した。


「脳への影響もございませんし、減らず口が叩けるようでしたら、もう心配はないでしょう」

「…そのようですね」


 ようやく人心地ついたように、ダリウスも笑みを含んだため息を落とす。


 この瞬間をどれほど待ちわびただろうか。

 たった十二日間のはずなのに、もう数か月もの間、彼が目覚めるのを祈る気持ちで待ち続けていたような感覚に陥る。それほど、この十二日間は長く苦しかった。何をしていても不安が頭をもたげて、心が押しつぶされそうになるたび、必ず目覚めると自分に噛んで含ませるように言い聞かせて必死に耐えたのだ。


 そんな苦痛からようやく解放されて気が抜けたように肩を落とすダリウスに、ユルングルはゆっくりと視線を向ける。


「……ダリ……ウス……しんぱ……かけ……すまな……た……」

「……謝罪は必要ございません、ユルングル様。私とのお約束通り、ちゃんと戻ってきてくださいましたから」


 意識が混濁しているユルングルにも聞き取りやすいように緩やかに言って、穏やかな笑顔を彼に向ける。


「…水をお飲みになりますか?」

「……ああ……」


 ほとんど吐息に近い返答を受けて、ダリウスはずいぶんと軽くなったユルングルの体を抱きかかえ上半身を起こすと、水差しを口に小さく当てた。弱々しく、だけれどもコクコクと音を立ててしっかりと水を飲む姿に、再びダリウスは胸を撫で下ろす。


 十二日ぶりに感じた喉の潤いにユルングルは安堵したのだろうか。

 ひとしきり水を飲んだ後、彼は恍惚とした表情に小さく息を落とした。


「……ダリ……ス……すまな……ねむ……い……」


 もう意識を保つことができないのだろう。

 何度も瞼を閉じては気力で何とか瞳を開くユルングルを見受けて、ダリウスは助けを求めるような不安げな表情をラン=ディアに向けた。


「…体がまだ休息を欲しておられるのでしょう。休まれても問題ございませんよ」


 その返答にダリウスは頷くと、ユルングルに告げる。


「…ゆっくりとお休みください、ユルングル様」


 まるで子供を寝かしつける親のように穏やかな表情を取ると、ユルングルもまたそんなダリウスに安心したように小さく笑みを落として、ゆっくりと瞼を閉じた。


 その様子に、ラン=ディアは苦笑にも似た感情が溢れる。

 どれほど皇王がユルングルに心を砕いたとしても、彼が心から安心できるのはダリウスの傍だけなのだ。その事実が可笑しく、同時に哀れに感じてしまう。


(……皇王には気の毒な話だな)


 親の心子知らずとはよく言ったものだと皇王に同情しながら、ラン=ディアは二人の邪魔にならぬよう静かに部屋を後にした。


**


「一体、陛下はいつお戻りになるのですか?」


 午後からの議会で飛び交ったその議題に、ユーリシアは内心うんざりしていた。


 この話を持ち出してきたのは、もちろん反皇王派の貴族や官吏たちだ。

 元々何度かこの議題が持ち上がった事はあったが、そのたびにユーリシアは何かと誤魔化して話を有耶無耶にしてきた。それはユルングルの意識がいつ戻るのか判らず明言を避けた結果だったが、そのことが尾を引いて爆発したように反皇王派が声を上げてきたのだ。


 彼らを焚きつけたのは考えるまでもなくデリックだろう。

 彼らにとって実際に皇王がいない事が問題なのでも、青二才の自分が皇王代理を務める事に不満があるわけでもない。ただことさらに問題だと声を上げて、こちらの立場を悪くしたいだけなのだ。


 それが判るから、なおさらうんざりしたが、これを無下にしては彼らの思う壺だろう。

 ユーリシアは辟易したようにため息をくと、不満げな彼らを見渡して、そのよく通る声を響かせた。


「…陛下がおられないのが、それほど問題か?」

「当然でございます…!王が政務をないがしろにするなど、あってはならぬ事態でしょう!」

「蔑ろにしているのではない。療養だと何度言えば貴殿らは理解してくれるのだ?」

「それにしても長過ぎでございます!高魔力者である陛下にそれほど長い療養が必要だとは思えません!…それとも、陛下は重い病にでも罹患されたのでございますか?」


 そうではないと判っていて投げた質問だという事は、彼らの声には出さない嘲笑を見れば一目瞭然だろう。


 そしてこの質問の返答は、応でも否でもだめなのだ。

 応、と答えれば彼らは病に伏したのであれば王座を退位すべきと声を上げるだろう。

 逆に否、と答えれば、ではなぜ帰ってこないのだとまた高らかに非難するのだ。


 ユーリシアは返答に困ったが、それをおくびにも出さずこれ見よがしに大きくため息をいた。


「…そういう噂が流れているのか?」

「…いえ、そういうわけでは」

「…陛下は心を病まれて皇妃との思い出が多いフォーレンス伯の領地にお逃げになった、という噂も耳にした。…誰が流したかは判らないが、ずいぶんな不忠者がいるようだな」


 冷ややかな声で告げられたその言葉に、数人の貴族や官吏がその表情を強張らせる。そのどれもが反皇王派である事に、ユーリシアは内心嘆息を禁じ得なかった。


(…つまらない事をする)


 彼らはいつも自らの利益や地位ばかりに固執する。

 執政者であれば、第一に考えなければならないのは国と民の事だ。それを蔑ろにして己の利権ばかりに目を向ける彼らの口から、よく皇王は政務を蔑ろにしているなどと言えたものだと、ユーリシアは内心憤慨した。


 これが我が国の執政者たる姿なのかと思うと、情けないを通り越して正直目も当てられない。

 ユーリシアは再び呆れたように嘆息を漏らすと、彼の次の言葉を固唾を呑んで待つ彼らを視界に入れる。


「…その不忠者に反意があるかどうかは、いずれはっきりさせるとして__」

「…!」


 見るからに顔色を変えた者たちを何人か見止めたが、ユーリシアは構わず言葉を続ける。


「私は、陛下が私を…いや私たちを試されているのではないかと思っている」

「…!…それは、どういう…?」


 言葉の真意が掴めず怪訝そうにこちらを見返してくる彼らに、ユーリシアは頷く。


「陛下は確かに高魔力者ではあらせられるが、永遠の命を有しておられるわけではない。いずれ必ず退位なさる時が来る。そうなれば次期皇王は私だ。…陛下はその時の事を危惧なさっておいでなのだろう」

「…危惧…とは?」

「貴殿らも内心で思っているのではないのか?私のような経験も浅い若輩者が皇王代理など務まるはずもない、と」

「……!!そのような事は決して…!」

「構わない。自分が一番己の無能さを理解しているつもりだ。…だからこそ、貴殿らも口を開けば陛下が不在である事に不満と不安が出るのではないのか?」

「…!そ、それは……」


 返答に困って口を噤む彼らを、ユーリシアの後ろに控えているフォーレンス伯は内心で感嘆を漏らしながら見つめていた。


(…上手いものだ)


 こう言われては、今後彼らは皇王不在を問題視できなくなる。

 問題だと声高に非難すればするほど、皇太子の手腕を疑う事になるのだ。表向きは忠実な臣下である手前、そこまであからさまな事は出来ない。

 彼らの思惑が外れた事は言うまでもないだろう。


(…陛下から何かあれば手助けするようにと仰せつかったが、どうやら私は不要のようだ)


 ユーリシアの後姿に皇王の姿を見て、フォーレンス伯はくすりと笑みを落としながら成り行きを見守る。


「…無論、己の無能さに諦観ていかんして努力を怠るつもりはない。だが元より執政とは一人でできるものではないはずだ。私がどれほど有能であったとしても、貴殿らの協力がなくては執政など行えない。ここにいる誰一人欠いても成立しないだろう。…違うか?」

「……仰る通りでございます」

「陛下はご自身の不在を利用なさって私の、ひいては貴殿らの執政の手腕を試されておいでなのだ。王が不在でも、滞りなく国が立ち行くかどうかを___。ならば陛下がご不在であることを嘆くよりも、陛下のご期待に応えるべきなのではないのか?」


 ユーリシアのよく通る声に、皆は静まり返る。

 心に一物ある者は反論する余地もなく押し黙り、反意なき者は己の存在価値と皇王からの期待に誇りと自信を持ったことだろう。

 官吏たちを黙らせるのに相手の邪な心や弱点を突く皇王とは違って、あくまで正論で諭すように丸め込むやり方は、いかにも正義感の強いユーリシアらしい。

 その見事な手腕に感服しているフォーレンス伯の耳に、懐かしい声が届いたのはそんな時だった。


「…どうやら、私の意を汲んでくれたのは皇太子一人のようだな」


 いつもの涼しげな声音が誰のものかを悟って、その場にいた誰もが威儀を正して慌てて膝をつく。ユーリシアとフォーレンス伯も待ちわびたその相手に深くこうべを垂れた。


「まさか私が不在である事に皆がこれほど不安を抱くとは想像もしていなかった。…てっきり諸手を挙げて喜んでくれるだろうと思っていたが、私が思っている以上に敬愛を寄せてくれているようだ」


 皮肉たっぷりに言い放つ己の主に官吏たちは苦笑を落とすこともできず、ただ黙したまま成り行きを見守っている。その様子に、なぜわざわざ反感を買うようなことを…と心中で嘆息を漏らしたのは、おそらくユーリシアだけではないだろう。


 ユーリシアは一度下げた頭を上げて、アレインを連れた皇王を視界に入れる。


「…陛下、もう…体調はよろしいのですか?」


 自然と険しい表情になったのは、ユルングルの身に何かしらの変化があったことを理解しているからだ。だからこそ、父はここに帰ってきたのだろう。良きにつけ、悪しきにつけ、ユルングルの身に何かあったからこそ、父はここにいるのだ。


 その知らせをもたらす皇王シーファスの言葉を、ユーリシアは不安げな表情で待った。


「……ああ。とりあえずは、と言ったところか」

「…!」


 穏やかなシーファスの表情に、ユーリシアは悟る。


「危惧されていた不調も何とかおさまったようだ。…元通り、とまではいかないまでも、あとは時間を掛ければ体力も戻るだろう」


 これはおそらく、ユルングルの事だ。


 ____彼が目覚めた。危惧されていた脳への障害はない。弱った心臓ゆえに元通りとまではいかないが、時間を掛ければ体力も戻るだろう。


 そう、ユーリシアには聞こえたような気がした。


「………よかった……っ!本当に……本当に良かった…!」


 ずっと張りつめていた緊張が、安堵したことで一気に緩んだのだろう。

 人目も憚らず、思わず気が抜けたように思いの丈を吐き出すユーリシアを見止めて、シーファスはくすりと笑みを落とす。


 皇宮に向かう道すがら、シーファスはルーリーからダリウスの文を受け取っていた。


『検査の結果、脳への障害なし』


 これほど簡素で短い文章が心に刺さった事など、今までの人生で一度もないだろう。アレインを伴っている事も忘れて感極まった事は、親である以上仕方のない事だろうか、とシーファスは心中で言い訳するように苦笑と共にこぼす。


「…陛下、それほどご体調が優れなかったのでございますか…?」


 ユーリシアのあまりの喜びように、官吏や貴族たちはそのどれもが唖然とした表情をしてこちらを見返してくるのでシーファスは思わず失笑して、原因を作ったユーリシアは我に返ってバツが悪そうな表情を取った。


「…いや、いつもの不眠症だ。ここ最近特にひどくてね、ユーリシアにはひどく心配をかけてしまった。…長く患っているからか、やはり治りそうにはないが、何とか不調も鳴りを潜めてくれたようだ。じきに体力も戻るだろう」

「…長旅でお疲れでしょう。本日の公務は引き続き私がいたしますので、陛下はお休みください」

「いや、ずいぶん長く不在にしたからね。とりあえず現状を把握しておきたい。…ユーリシアには賓客の対応をしてもらおう。彼らのことも、ずいぶんおざなりにしてしまったからね」

「……!」


 シーファスの心遣いを察したユーリシアは、弾かれるように父に視線を向けた。行っておいでと目配せするように微笑む父に、ユーリシアは深々とこうべを垂れる。


 そうして丁寧に辞去するユーリシアを見届けてから、シーファスは議会に残された面々に視線を向けた。


 この中の一体どれだけの者が、本当に忠義を尽くすつもりがあるのだろうか。

 それは自分に対してではない。国と民に対してだ。


 ユーリシアの時とは違った緊張感が場の空気を張り詰める。沈黙の中に皇王が歩く音だけが響いて、なおさら彼らの心に緊張が走った。


 先ほどまでユーリシアが居た王が座する場所につくと、シーファスはゆるりと踵を返しておもむろに口を開く。


「…さあ、議会を再開しようか」


**


「…なあ、旦那。ウォクライの旦那ってば…!」


 ミシュレイの自分を呼ぶ声でようやく我に返って、ウォクライは自分がずっと上の空だったことに気づく。

 家にいると鬱々とした気分が晴れる事はないだろうと気遣って、半ば強制的にミシュレイに外に連れ出されていたところだった。


 ユルングルが危篤になった一報を受けてから十二日目、未だに彼が目覚めたという知らせはない。

 信じると決めたが何の知らせもない状態が続けば続くほど、その心は揺らいでいった。


(…きっとダリウス様とダスク様の方が、心を痛めておいでだろう……)


 遠くから彼の体調を推し量る事しかできないもどかしさもあったが、きっと近くで日に日に衰えていくユルングルを見続ける事の方がずっと耐え難いはずだ。特にこの二人は、ユルングルとの繋がりが強い。

 それを思えば自分の心配などたかが知れている、と不安を払拭したが、しばらくするとやはり不安が頭をもたげて、いつの間にか上の空になるのだ。


 それをもう何度も繰り返しているウォクライを呆れたように視界に入れて、ミシュレイはため息を落とす。


「…そんなに心配なら、やっぱり帰った方がよかったんじゃねぇの?」

「…いや、私にはこちらでやる事がある」

「ここで魔獣退治?そんなことより弟の方が大事なんじゃねぇの?」


 相変わらずこの男は、本人の自覚なく自分の心中を鋭く突いてくるので面倒な事この上ない。


(…そんな事、言われなくても自分が一番よく判っている)


 判っているが、戻れない事情があるのだ。


 正直、自分が今している事が一体何の意味があるのか判ってはいない。ユルングルは事の詳細を一切教えてはくれなかった。

 判っていないからこそ、ミシュレイが言うように今自分がしている事がそれほど大事だとは思えなかった。そんなものより、ユルングルの状態を知る事の方がことさら重要だと叫ぶ自分が確かに存在していた。


 それでも、とウォクライは叫ぶ自分を黙らせる。

 それでも、他でもないユルングルが自分を信じてソールドールに向かわせたのだ。その彼を裏切るわけにはいかない。


「兄貴なんだろ?だったら何を置いても駆けつけてやれよ。後悔するのは旦那自身だぞ」

「…判っている…!!」


 思わず声を荒げた自分に驚いて、ウォクライは心を落ち着かせるように一度大きく深呼吸する。


「…判っているから、あまり言わないでくれ…ミシュレイ。心が折れそうになる………」


 珍しく弱音を吐くウォクライに、ミシュレイは再び呆れたような視線を向ける。


「…ほんと、ややこしい性格だよな、旦那って。もっと自分に正直に生きたら楽だろうに」

「…そうできない事情もある。皆が皆、あんたのように自由には生きられないんだ」

「そんな難しい事じゃねぇよ亅


 ミシュレイは、渋面を作るウォクライにさもありなんと告げる。


「要は自分の気持ちを取るか相手の気持ちを取るか、って話だろ?ほとんどの奴は相手がそう望むからって言い訳するけど、本当は自分の中で納得なんてしてねぇんだよ。だから自由に生きられないって嘆く。でもさ、本当に心から相手のためだと思ってたら、それが自分の気持ちになるんじゃねぇの?自分の気持ちなら相手の意に沿っても苦じゃねぇだろ。自分の心に正直に生きるってそういう事だろ?」

「……!」


 時折ミシュレイは、こういう達観したようなことをさらりと口にしてウォクライを驚かせることが、ままある。それは真理をついた言葉だと思ったが、それ故に容易いことではないだろう。


(…要は主観を捨てて、相手のことをとことんまで信用し受け入れろ、ということか……)


 それができれば確かに心は自由を手に入れる事ができる。

 決して迷ったりすることもなく、自分の心と相手の心の軋轢に苦しむこともない。常に相手を信じることで、自分は思う通りに進めるのだ。


 だが人は皆、そう容易く主観を捨てられるものではない。

 だからこそ自分の気持ちと相手の気持ちを天秤にかけて、その狭間で苦しむのだ。


(…主観を捨てるのに『自由』なのか。ずいぶんと矛盾した話だな…)


 だが、とウォクライは目の前にいる藍色の髪の男を視界に入れる。

 彼は、信じる、ということを疑わない。

 一度信じてしまえば、何があっても相手に対する信用を失わないのだ。


 おそらくそこに主観が入る余地はないのだろう。信じているからこそ、彼は自分を捨てた親ですら決して恨まない。仕方がなかったことだと受け入れ、だからこそ今でも好きだと躊躇いもなく言い放ってしまえるのだ。


 それは裏を返せば、諦観ていかん____諦めの境地にも似たものではないかとウォクライは思う。

 決して期待をしないからこそ、主観を捨てて相手をどこまでも信用し、全てにおいて諦めているからこそ、何にも捕らわれず自由なのだ。


(…だとすれば、彼の自由さはあまりに悲しいものだな……)


 主観を捨てきれず己を捨てたと思い込んで親を恨むユルングルと、主観を捨てて己を捨てた親にも愛情を示すミシュレイと、どちらがいいかは意見が分かれるところだろうか。


「信じるって決めたんだろ?だったら最後まで信じ抜けよ」


 何でそんな簡単な事が出来ないんだと言わんばかりに呆れたように言葉を落とすミシュレイを軽く一瞥して、それができれば苦労はしない、と心中で愚痴をこぼしながら苦笑を落としたところで、ウォクライは待ちわびた鳥の鳴き声と羽音に気づいて慌てて視線をそちらに向けた。


「ルーリー…!」


 空中で弧を描くように回るルーリーを見止めて、ウォクライはすかさず彼女に向かって腕を上げる。ようやく自分が降り立つところを定めたルーリーはその腕に止まって、大人しく文が取られるのを待った。


「…どうなった…?旦那の弟、無事なのか…?」


 ルーリーの足から文を取って目を通すウォクライに、ミシュレイは少し遠慮がちに声をかける。

 問われたウォクライは、ひとしきり目を通した後、安堵したように小さくため息を落とした。


「……まだ目覚めたばかりで意識ははっきりしないらしいが、もう心配はないそうだ」

「…!よかったじゃねぇか、旦那!!!」


 あまり感情を表に出さないウォクライの代わりに、ここぞとばかりに喜びを表現するミシュレイを見止めて、ウォクライは小さく微笑む。


「今日はお祝いといこうぜ!俺が奢るからさ!」

「…あんたならきっと、最後まで信じきったのだろうな」


 踵を返して街に繰り出そうとするミシュレイに、ウォクライはぽつりと言葉を落とす。


 一度信じると決めれば、彼はきっと迷うことなく最後まで信じるのだろう。

 そして結果ダメだったとしても、彼は仕方がない事だと受け入れるのだ。


 その生き方が自由だと思う反面、ひどく寂寥感せきりょうかんが襲う。

 それは、彼には何もないという事の証左なのだ。


「…あんたにも、固執できる何かができればいいんだがな……」

「……ん?何?なんか言った?」


 ウォクライの小さな声はミシュレイの耳に届かなかったのだろう。

 怪訝そうにこちらを見返してくるミシュレイに、ウォクライはいつも通りの仏頂面を向けて小さくかぶりを振る。


「……いや、こっちの話だ」


 言いながらルーリーを空に帰して、ウォクライはこちらを見返して自分を待つミシュレイの元に足を進ませた。

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