ユルングルの剣
ユルングルが倒れてもう十二日が経ったが、未だ昏睡状態が続いていた。
『十日ほどで目覚める』と告げたラン=ディアは一向に目覚める気配のないユルングルに頭を抱え、皇王やアレインに至ってはもう十二日間もまともな睡眠を取ってはいない。このままでは倒れるだろうとダリウスは何度も休むよう進言したが結局聞き入れては貰えず、二人とも時折うたた寝する程度で、決してユルングルから離れようとはしなかった。
そしてそういう自分も、ユルングルが倒れてからこっち、まともに体を休めていない事にダリウスは気づく。
元々忙しい身ではあったが、眠る時間がないほど忙しいわけではない。ただ休もうとすると、不安が頭をもたげて心が落ち着かないのだ。
結果として、わざと仕事を増やして休む時間を作らないようにした。そうしている間だけ、一時でもユルングルの事が念頭から外れて不安な気持ちを忘れる事ができたのだ。
これほど不安に駆られて仕方がないのは、ユルングルの傍にいられないからだろう、とダリウスは思う。
今まではユルングルが病に倒れると、ずっと傍について看病するのは自分の役目だった。
だが、今回ばかりは違う。
その役目は、実父である皇王シーファスが担う事になった。自分がユルングルの傍に行けるのは、皇王とアレインに食事を運ぶ時と、眠っているユルングルの体を拭いて新しい服に着替えさせるその一時だけだ。
来てはいけない、と言われたわけではなかったが、皇王が実子であるユルングルを痛いほど心配しているのが判って、それを邪魔するのも強く憚られたのだ。
これほど長い時間ユルングルから離れたのは初めてだと、ダリウスは無意識にため息を落とす。
「大丈夫ですか?ダリウス様」
不安げな表情で顔を覗うラヴィの言葉に我に返って、ダリウスは何とか笑顔を作る。
ちょうどラヴィと二人、洗濯物を取り込んだところだった。
「…ええ、大丈夫です。ラヴィもあまり休んではいないでしょう。これが終わったら少し休みなさい」
「いえ、私は平気です。私よりもダリウス様の方があまりお休みになってはおられないでしょう?」
言ったラヴィも、憔悴しきったような顔をしている。
ラヴィが心配する相手はユルングルだけではない。彼の主であるユーリシアと離れた事で、自分と同じように傍にいられない不安と心配がその心にあるのだ。
ここにいる者は皆、もう心が疲弊しきっていた。
日に日に痩せ衰えていくユルングルの姿を傍で見続ける事に、心が摩耗していくのだ。
それは皇宮で、ユルングルの体調を推し量る事しかできないユーリシアたちも同じ気持ちだろう、とダリウスは思う。
「…今日はもうお休みになられては?」
ラヴィはそう提案したが、それが受け入れられることがない事は承知していた。
「…いえ、動いていた方が気が紛れますから」
そう言って力なく笑うダリウスを、ラヴィもまた不安を押し隠して笑い返す。
もう幾度となく、繰り返されたやり取りだった。
ダリウスはラヴィを伴って食堂に入ったところで、隅に置かれたソファに気怠そうに腰を下ろしているラン=ディアが視界に入って、迷うことなく足を向けた。
「ラン=ディア様。ユルングル様の診察は終わられたのですか?」
答えは聞かなくても判っていた。
ラン=ディアはユルングルの診察と治療を終えると、必ずここで休養を取った。ユルングルの魔力の流れが複雑に入り乱れ、神官治療でそれを治していく作業がとても神経を擦り減らすのだと教えてもらったのは十日前だ。
以降、必ずここで休養を取るラン=ディアにユルングルの病状を尋ねる事がダリウスの日課になっている。
「…ええ。つい先ほど終わったところです」
「…ユルングル様の病状は…?まだ目覚めそうにありませんか…?」
疲れ果てたようなラン=ディアの様子に休養を取らせてやりたい気持ちはあったが、ダリウスは逸る気持ちを抑えられなかった。訊ねられると判っていても彼がここで休養を取るのは、そんな自分に気を使っての事だとダリウスは承知している。
「…もう治療はある程度終えています。いつ目覚められてもおかしくはないのですが…」
言葉尻を濁して、ラン=ディアは頭を抱えるように悄然とため息を落とす。
『ある程度』と言葉を添えたのは、重い病の場合、魔力の流れを元に戻してもまたしばらくすれば患部の辺りで流れが乱れるからだ。それをまた戻して、また乱れて、を何度か繰り返して完治へと導いていく。それが神官治療の基本的なやり方だった。
ユルングルの乱れに乱れた魔力は、十日かけてゆっくりとほどいて何とか元に戻すことはできた。そのおかげか体温もようやく上がり、脈も正常に近い。ただ心臓に重い障害が残った事で、しばらくするとすぐに心臓の辺りの魔力の流れが乱れてしまうのだ。ラン=ディアはそれを日に三度、元に戻している。
そうしているにもかかわらず、ユルングルが目覚める兆しが一向に見えず、ラン=ディアはもう匙を投げだしたい気分だった。
「…治癒能力を持つ者がいればいいのですが…」
ぽつりと落としたラン=ディアの言葉に、ダリウスとラヴィは怪訝そうに彼の顔を見返す。
「治癒能力…ですか?それは…神官治療とはまた違うものなのですか?」
訊ねたのはラヴィだ。
「似て非なるものですね。神官治療は体内の魔力の流れを元に戻すことによって、より効果的に自己治癒力が患部に届く手助けをする治療方法です。対して治癒能力者の治療は、その自己治癒力自体を大幅に上げる効果があります。どちらの治療がより効果的かは比ぶべくもないでしょう亅
そして神官治療と治癒能力者の治療は非常に相性がよかった。
治癒能力で上がった自己治癒力を、神官治療でより効果的に患部に届ける事ができるのだ。
「治癒能力は有する魔力量に関わらず先天的に持つ能力だと昔ダスクさんから聞いたことがあります」
「ええ、訓練で身につくようなものではありません。ですから治癒能力を持つ者は圧倒的にその数が少ないのです」
だからこそ、治癒能力を持つ者は必ず神官になる事を義務付けられていた。
現在、教会に在籍している治癒能力者はたったの三人。おそらく万有の血保有者よりも少ないだろう。その事実を鑑みれば、どれだけ稀有な能力かが判る。その三人も常に世界中を飛び回っていて、容易に捕まえる事は出来ない。ラン=ディアやダスクですら、会ったことはないのだ。
「…もし治癒能力者がいれば、ユルングル様の心臓は治りますか?」
懇願するようにラン=ディアに視線を向けるダリウスに、彼はややあってから答える。
「…治癒能力者の治療と神官治療を同時に行えば、時間はかかりますが完治するでしょう。ですが現実的ではありませんよ。自分から話を振っておいて何ですが、治癒能力者を見つける事は不可能に近い。出会えれば幸運、くらいにお考えになっていた方がよろしいでしょう」
「……そう、ですか…」
はっきりと告げるラン=ディアに、ダリウスは目に見えて肩を落とす。
そんなダリウスを見止めて、ラン=ディアはバツが悪そうに軽く頭を掻いた。
ラン=ディアはあまり期待を持たせることが好きではない。
だからこそ包み隠さずすべて伝えるのだが、現実を見たことで肩を落とす姿を見るのは、いつもながらやるせない気持ちになる、とラン=ディアは思う。
特に今回は自分から期待を持たせるようなことをしてしまったのだ。いつもなら絶対に口になど出さない事をつい漏らしてしまうほど、自分も心が疲弊しきっているのだろうか。
ラン=ディアは鬱々とした気分を晴らすように大きく息を吐くと、すっかり暗くなった空気を変えようと話題を変える。
「…そういえば昨日から気になっていたのですが、あそこにある剣はユルングル様の物ではありませんか?」
「……え?」
言われて、ダリウスはラン=ディアが指さす方向に視線を向ける。
ソファが置かれている一角のさらに奥、大きく縁取られた窓に立てかけるように、それはあった。
「……こんなところにあったのですか…」
ユルングルが倒れてから自室にも見当たらなかったので、この十二日間ずっと探していた物だった。
彼が倒れたあの日、剣を持って外に出たのかさえ誰の記憶にもなく、結局ダリウスは隠れ家の中だけではなくユルングルが倒れた森の中もくまなく探したつもりだった。当然この食堂も何度も見たはずだが、一度たりともその剣が視界に入ってきた事はない。
それが、まさかこんなところにあろうとは。
「…いつからここに?」
「…残念ながら覚えがありませんね。俺は昨日気づきましたが、それ以前はあったかどうかすら定かではありません」
ダリウスは無言のままラヴィにも視線を向ける。
「…私も存じ上げません。ここは何度も通ったはずですが、一度も気付きませんでした…」
それはダリウスも同じだった。
ここは確かにソファの影にはなるが、全く見えない場所ではない。ラン=ディアが気付いたように、ソファに座れば自然と視界に入るし、ダリウスに至っては部屋の掃除をする時などは必ずここを通った。
なのに、なぜ気付かなかったのだろうか?
不可解に思いながらも、ダリウスはおもむろに足を進めて窓に立てかけられたユルングルの剣を手に取る。カチャリと重い音がした剣を怪訝そうに視界に入れた。
ユルングルが13の頃から愛用している剣。
彼は9歳の頃から剣術を学び、上達自体は早かったが体が小柄で力も弱く、重い実剣を自在に操れるまでに四年の歳月が必要だった。ようやく何の不安もなく扱えるようになった13の頃から、ユルングルはこの剣だけを愛用している。それは傷だらけの鞘を見れば一目瞭然だろう。
深紅に塗られた鞘は、華美ではないが細かな細工が施され、傷だらけになってもかなり質がいいものだという事が一見しただけでも判る。太陽に当たると深紅の鞘と、同じく深紅の柄が目が醒めるほどの輝きを放って、よく映えた。
それは、いかにも意志の強いユルングルを彷彿させる剣だった。
(…これだけよく目立つ剣に気づかなかったのだろうか…?)
それも誰一人として。
その事実がひどく不可解で、だが同時に強い安堵感をダリウスに与えた。
長く愛用する剣のその刀身には、使う者の魂が宿るという。
何となく、長く不在だったユルングルが帰ってきてくれたような気になって、ダリウスはたまらず懐かしいものを見るように目を細めた。
「…ユルングル様にお届けになってはどうですか?」
ラン=ディアが控えめに声をかけてきたのはそんな時だった。
ダリウスは一瞬目を瞬いて何かを口にしようとしたが、ラン=ディアはそれを遮るように言葉を続ける。
「陛下がおられるとダリウス殿下は満足にユルングル様の傍にいられないでしょう。…今までお傍についてお育てになったのはダリウス殿下なのですから、何かと理由をつけて会いに行かれたらよろしいのですよ」
その歯に衣着せぬ物言いが、いかにもラン=ディアらしい。
ダリウスは思わず笑って、もう一度剣を視界に入れる。
何となくユルングルの傍に置いてあげたい気になって、ダリウスは小さく頷いた。
「…失礼します」
遠慮がちに扉を叩いて、ダリウスはゆっくりと扉を開く。
十二日経っても変わらない光景に小さくため息を落として、ダリウスは黙したままユルングルが眠るベッドに歩みを進めた。
眠っているユルングルの顔色は存外悪くはない。
この十二日の間に足りなかった血液もある程度、回復したのだろう。頬も赤みを帯びて、触れると感じる温かさがダリウスに安心感を与えた。
(…脈は少し遅いが正常だ……ただ眠っておられるだけのように見える…)
なのに目覚めないのが、かえって怖い。
脳への損傷がそうさせているのではないかと不安が頭をもたげて、ダリウスはそれを振り払うかのように小さく頭を振った。
(…嫌な想像ばかりが頭をよぎる……)
ダリウスは再び小さくため息を落として、包んだ布からユルングルの剣を取り出した。
「…!…それは……!」
視界に入った深紅の鞘に目を引かれて自然と視線を向けた皇王シーファスは、見覚えのあるその剣に思わず声を上げる。
そんなシーファスに、ダリウスは差し出すように剣を見せて、わずかに微笑んだ。
「…はい、陛下からユルングル様へ贈られた剣でございます」
シーファスは一度この剣をゆっくりと見つめると、ややあってダリウスから剣を受け取る。
ユルングルが剣術を習い始めたと聞いて、シーファスはすぐにこの剣を用意した。
自身が若い頃に使っていた剣を鍛え直し、鞘を新調してユルングルに贈ったのだ。
鞘の装飾をあまり華美にならないようにしたのは、彼が市井に降りたからだ。あまり目立たぬよう、だけども最高級の素材を使ってあつらえさせた。
同時に、全く同じ物をもう一本作らせた。
元々はこの剣と同じ鋼で作られた兄弟剣で、同じく自身が使っていた剣を同じように鍛え直して鞘を紺碧に新調した。こちらは皇族らしく装飾を豪華に、だが品を保った意匠にした。
ユルングルに贈った剣を深紅に、そして弟であるユーリシアには紺碧の剣をあつらえた。
あえて自身が使っていた剣を贈ったのは、離れて暮らす息子に少しでも自分と繋がりのある物を持たせたかったからだ。そして同じく、離れて暮らす兄弟に同じ鋼で作られた兄弟剣を持たせた。
それはユルングルに、少しでも家族の繋がりを感じて欲しいという願いが込められていたからに他ならない。
それを今でも、持ってくれていたのか。
「……ユルングルは、これを私からの贈り物だと……?」
「…ご存じです。ユルングル様が9歳の頃、この剣をお渡しする時にお伝えいたしました」
「……それでも…持っていてくれたのだな…」
正直、もう持ってはいないだろう、と思っていた。
ユーリシアの暗殺を企てるほど憎しみを抱いていたのだ。最悪、捨てているだろうと思っていた剣が、今こうして自分の手にある。
まるで夢現にいるような気分で、シーファスは深紅の鞘を視界に入れた。
ずいぶん使っていたのだろうか。深紅の鞘には至る所に大小の傷が刻まれている。その傷を、シーファスは怪訝そうに撫でた。
「……ユルングルは、この剣を使っていたのか?」
「はい。13の頃からずっと、この剣だけを愛用なさっております」
その返答に、シーファスは呆けたように小さく、愛用、と口の中で反芻する。
持ってくれているだけでも奇跡に近い。なのに、まさか使ってくれていたとは____。
「…彼は…この子はこの剣を使う事に躊躇いはなかったのか?」
「…ずっと、この剣で訓練なさっておりましたから。手に馴染んだ物だから手放さない、と…」
9歳の頃、この剣を父からの贈り物だと言って渡した時、ユルングルは初めての実父からの贈り物に目に見えて嬉々とした表情を見せた。暗殺に怯え、親に捨てられたと思って感情を表に出さなくなっていた時期の事だった。
それから四年間この剣が扱えるように訓練を重ねていたが、依然として会いに来ない親に寂しさと、そして憎しみを抱くようになった。最初で最後の贈り物となったこの剣を一度は捨てようとしたが、結局他の剣が手に馴染まず不承不承とこの剣を受け入れた時の事を、ダリウスは思い出す。
(……俺は、この剣を父からの贈り物だとは思わない。手に馴染んだ物だから……だから手放さないんだ。…それだけだよ、ダリウス兄さん_____)
言い訳するようにぽつりとこぼした言葉は、ユルングルの期待と、その期待を裏切られた絶望が込められているように、ダリウスには感じられた。
それでも、ユルングルはこの剣を捨てられなかったのだ。唯一、家族との繋がりがあるこの剣を___。
過去に思いを馳せるように剣を見つめたまま口を閉ざしたダリウスを見受けて、ユルングルの葛藤を推し測ったシーファスは短く、そうか、とだけ返答すると、おもむろに鞘から剣を抜く。
傷だらけの鞘とは反面、その刀身は驚くほど綺麗さを保っていた。
「…ずいぶんと手入れが行き届いているな。これは誰が?」
「ユルングル様ご本人です。二十歳になられた頃、一度ご自身で鍛え直しもされました」
「…!自分で…。……そうか、ユルングルは器用なのだな……」
どれほどの葛藤を抱いてこの剣を持っていたのかは、想像に難くない。
それでも、ユルングルはずっとこの剣を使い続けてくれたのだ。それもぞんざいに扱うわけではなく、これほど丁寧に使ってくれている事が、ユルングルにとって大事な物だと物語っているようでこの上なく温かい気持ちになった。
(…まったく、自分に都合のいい解釈だな)
自嘲気味に笑みを落としながら、自分が訪問する時に剣を携えている姿を一度も見なかったのは、ユルングルの小さな抵抗だろうか、とシーファスは思う。
愛おしそうにしばらく刀身を眺めていたシーファスは、再び剣を鞘に納めてダリウスに差し出した。
「…ユルングルの傍に置いてやってくれ。これはもう、ユルングルの物だ」
その言葉にダリウスは微笑みながら頷くと、シーファスから剣を受け取って、いつもユルングルが剣を置いている場所に丁寧に戻す。
ユルングルはいつも決まって、ベッドの宮棚に剣を置いていた。
眠るユルングルの頭に近い宮棚に、ゴトリと重い音がして置かれた剣を何とはなしに視界に入れて、ダリウスはふと気づく。
ユルングルの瞼が、わずかに動かなかっただろうか。
「………ユルングル様…?」
訝し気にユルングルの顔を覗って、ダリウスは躊躇いがちに名前を呼んだ。
「…どうした?ダリウス」
「…今、ユルングル様の瞼が動いたような___」
言いさした瞬間、今度は手が軽く動いたのをシーファスが捉える。
「…!?ユルングル……!」
「…ユルングル様……っ!」
その事実に、二人は弾かれるようにベッドで眠るユルングルの顔に視線を向けた。
名前を呼ばれて無意識に反応しているのだろうか。瞼が再び軽く動くユルングルを、二人はただ黙って期待と不安を寄せた瞳で見つめていた。
そうして二人が固唾を呑んで見守る中、ユルングルの瞳がゆっくりと、だが確かに開かれるのを二人は確認する。
「…アレイン…!すぐにラン=ディアを呼べ…!!!」
「はい…っ!!!」
シーファスはアレインにそう指示を出すと、再びユルングルに覆いかぶさるように彼の顔を注視した。
「…ユルングル……っ!…ユルングル……私が、私が判るか……?」
シーファスは嬉々としてユルングルに呼びかけたが、反応があまりに薄い。
恍惚な瞳で目線が定まらぬようなユルングルの様子に、二人は不安げな表情を取った。
これは目覚めたばかりで、未だ意識がはっきりしないせいだろうか。それとも____。
そのもう一つの可能性が、怖い。
二人はしばらく黙したままユルングルの様子を窺っていると、彼はゆっくりとシーファスに視線を向ける。
そうして震えたように、小さくその唇を動かした。
「………ど……して……」
「……ユルングル……?どうした…何が言いたい……?」
消え入りそうなほど小さな声を聞き逃すまいと、シーファスはユルングルの口元に耳を近付ける。
その耳に、吐息と共に紡がれたユルングルの囁きが届いた。
「……ど…して……ここ……いる……?……こ……王………」
___どうしてここにいる?皇王。
シーファスの耳には、そう聞こえた。
「…あ………たの……場所……ここじゃ……な………帰…れ……っ!」
「……!」
___あんたの居場所はここじゃない。帰れ。
そう聞こえたシーファスは、目を瞬いて慌ててユルングルの顔を視界に入れる。眉間にしわを寄せて、弱々しい姿に似つかわしくない強い眼差しを向けるユルングルに、シーファスは驚きながらもたまらず懐古の念が胸に溢れるのを感じた。
(……ファラリス……!)
彼女が血友病にかかった時、公務を蔑ろにして彼女の看病を優先した皇王を、彼女は強い眼差しで叱責した。その時の姿が、今のユルングルと重なる。
(…こんな時でも厳しいのは、ファラリス譲り、か……)
シーファスは諦めたようにため息を吐くと、ユルングルに小さく問いかけた。
「…ユルングル、大丈夫だな…?私はもう、安心していいのだな……?」
その問いかけに、ユルングルはややあってから小さく頷く。
シーファスはそれを見届けると、一度ゆるやかに瞼を閉じた。
心の整理をつけるように、そして彼を心配する不安な気持ちと決別するように、わずかな時間を置いてから意を決したようにおもむろに目を見開き、同じく強い視線をユルングルに返す。
「信じるぞ、ユルングル」
言って、すぐに踵を返して扉に向かう。
ちょうどラン=ディアを伴って戻ってきたアレインが扉を開くのを見止めて、シーファスはダリウスを振り返った。
「ダリウス、それからラン=ディア。ユルングルの事を頼む。…アレイン、帰るぞ」
「…!?ですが…!」
「長く不在にした。もうこれ以上留守にする訳にはいかない。…私は、この国の王だからな」
「…!」
その強い決意を宿した瞳に、アレインは自分が心酔した皇王シーファスの姿を見る。
きっと、後ろ髪を引かれているのだろう。家族をこよなく愛する人物であることは重々承知している。そんな皇王が、ようやく目覚めたユルングルの傍についてやりたい気持ちがないはずはない。
それでも、とアレインは皇王シーファスを視界に入れる。
もう、今までの父親の顔をしたシーファスはどこにもいない。今、自分の目の前にいるのは、威厳に満ち溢れた皇王シーファスなのだ。
心の不安を押し隠して、それでも王であろうとするシーファスにアレインは深々と頭を垂れる。
「…陛下の仰せのままに」
そうしてシーファスはユルングルを振り返ることなく、最愛の息子をダリウスたちに託して颯爽と部屋を後にした。




