一時の休息
「今、休んでおかないと、また夜が辛いですよ」
半ば呆れたように、だが半分諦めたようにため息を吐きながら、シスカはゼオンに忠告する。
肺炎を発症してから五日ほど経って、昼間はずいぶんとその症状が落ち着くようになった。
熱は当然あったが、うなされるほどの高熱と言うわけではなく、おかげで体を起こせるようになったので横になっている時よりも咳の症状がわずかばかり鳴りを潜めるようになった。
なのでゼオンは昼間のほとんどを起きて過ごすようになったのだが、夕方になると決まって症状が悪化して高熱と咳に悩まされるのだ。満足に眠る事も出来ず、そして朝になると症状が落ち着くので、またこうやって体を起こして過ごす事を繰り返している。
「…横になると咳が出るから嫌なんだよ」
心底嫌そうに、眉間を寄せてゼオンは告げる。
確かに呼吸ができなくなるほどの咳を体験してしまえば、例え体が睡眠を欲していても咳が出ると判っている体勢を取るのはひどく嫌悪するだろう。
それは理解できるが、睡眠を取らない事にはゼオンの体は良くならない。
シスカは不承不承とため息を吐くと、おもむろに立ち上がってゼオンの背にいくつもの大きなクッションを置いた。
「…これで体を起こしたまま休めるでしょう。とにかく睡眠を取ってください。そうでないと治るものも治りませんよ」
「…お前も大変だな」
「…誰の所為だと思ってるんです」
まるで前もって準備していたかのように淀みなく行動するので、ゼオンはくつくつと笑いを落とす。
その他人事のような態度に思わず眉根を寄せるシスカを横目に、ゼオンは背をそのクッションに預けた。
少し沈むが、それがかえって寝るのに無理のない角度まで持っていってくれる。それでいて咳が誘発されないので、ゼオンはひどく安堵したような気分になった。
「…お前に看病されるのはいつぶりだろうな」
ぽつりとこぼしたゼオンの言葉に、シスカは遠い昔の記憶が自然と頭をよぎる。
ゼオンが初めてフェリシアーナ皇国を訪れたのは、皇妃ファラリスがこちらに嫁いできた時だった。
ラジアート帝国皇帝の名代として来た、という体を作ってはいたが、実際は血の繋がる皇族ですら容赦なく殺す皇帝に怯え、いつその矛先が自分に向くかと恐怖を隠して皇帝の傍に控えるゼオンをファラリスが慮った結果なのだろう、と教えてくれたのはシーファスだった。
当時のゼオンの事を、シスカは話に聞く程度にしか知らない。
まだ神官になる前の話で、ゼオンと実際に出会ったのはその約一年後の事だ。
出会った当時、ゼオンは今ほど口が達者ではなかった。
無口で無愛想で、無骨な感じのする青年だったが、困っている人を見かけるとさりげなく手を貸して、そして相手が気付く前に何も言わずに去って行く、そんな好感の持てる人物だった。
彼と軽く言葉を交わすようになったのは、さらにその二年後。時折、休息を取るようにフェリシアーナ皇国にやって来て、特に意味もなくひと月ほど滞在しては帰っていくゼオンだったが、この時ばかりは目的があって来訪してきた。
シスカが、暴動を止めるために生死の境を彷徨っていると聞いたからだ。
目が覚めてすぐに、あの無口だったゼオンから激しい叱責を受けて目を丸くしたことを覚えている。以来、後遺症でしばらく目が見えなくなったシスカを手助けするように傍にいる事が多くなって、自然と話をするようになった。
その後も彼は年に数回、フェリシアーナ皇国にやって来た時は必ず、シスカに顔を見せるようになった。
体の弱いゼオンの事、滞在中に体を壊して何度か看病した記憶もある。
最後に彼を看病したのは十五年前。
ラジアート帝国情報局の統括に就いてから、すっかり足遠くなったゼオンが四年ぶりにフェリシアーナ皇国に来訪した時だった。
会うたびに口が達者になり性格が変わっていったゼオンは、四年の歳月を得てすっかり別人になっていた。
逃げ場のない状況であの無慈悲な皇帝の傍に居続けなければならない苦痛から、虚勢を張る事で身を守ったのだ。
最後に看病をしたあの日、そんなゼオンを見続ける事に耐え切れず、シスカは高熱に苦しむゼオンに別れを告げてそのまま部屋を辞去した苦々しい記憶を思い出す。以来ずっと悪しざまな態度を取り続けたが、今になって思えば、よりによって高熱で苦しんでいる時に別れを告げなくても、と自分の無慈悲な行為を反省せずにはいられない。
「…さあ、いつぶりでしょうね」
その時の事を話題に出すのが憚られて、シスカは軽く視線を逸らしながら嘯く。
「ひどい奴だな。高熱の俺を置き去りにして出て行った事を忘れたのか?」
「…覚えているなら、わざわざ訊かないでください」
くつくつと笑いながら揶揄するゼオンを、シスカは恨めしそうに、だがバツが悪そうに軽く憤慨する。
あの時の事を謝りたいと思いつつ口について出ないのは、彼のこういう態度が素直になる自分を妨げているからだろうか。それとも、こうやってからかいのネタに出来るほど軽い事だと言ってくれているような気がするからだろうか。
どちらにせよゼオンらしい判りづらい気遣いだと、シスカは笑みを含んだ息を落とした。
「…貴方は変わりませんね」
「変わったと思ったから俺から離れたんじゃないのか?」
「…貴方は判りにくいんですよ、今も昔も」
痛いところを突かれたと、シスカは罪悪感から視線を逸らして言い訳するように告げる。
彼は昔から、言い訳も説明もする事を好まなかった。
いつも必ず何も言わないので、誤解されることが多かったことを思い出す。それは無口であるが故だと思っていたが、口が達者になった今でも余計な事は何でも口に出すのに、肝心なことは結局何も言わないところみると、どうやらそうではないのだろう。だからこそ、彼の本質を見誤ってしまったのだ。
(…おれは本当に、ゼオンと言う人物を見損なっていた)
彼の表面だけを見て、すっかり人が変わったと思っていた。
だが、彼の本質は何も変わっていない。相変わらず判りづらい優しさが、その虚勢を張った態度に隠されていただけなのだ。
十五年間も彼を誤解していた愚かな自分を自嘲するように、シスカはたまらずため息を一つ落とす。
その様子に、ゼオンも呆れたように息を落とした。
「…お前も変わらんな。またどうでもいい事を自分の所為だとでも思っているのか?」
「…これはおれの性分なんですよ」
言って、シスカは困ったように笑みを落とす。
十五年も悪しざまな態度を取ってきたことを『どうでもいい事』と思ってはいけないが、ゼオンに言ったところで詮無い事なのであえて胸中にのみ留め置いた。
ゼオンはそんなシスカを一度視界に入れた後、おもむろに窓に視線を移す。
「…この国も、あの頃とちっとも変わらんな」
その声音が思いのほか穏やかで、だけどもどこかしら憎しみが込められているような気がしてシスカは怪訝そうにゼオンの顔を覗う。
「…相変わらず胸糞悪い国だ。どうにも好きになれん」
昔から、これがゼオンの口癖だった。
低魔力者だったゼオンはこの皇宮内でも白い目で見られることが多い。ラジアート帝国皇弟と言う立場上、表立って何かをするわけではないが、その態度は常に冷ややかだった。
「…それでも貴方はこの国に来るのですね」
「…この国が潰れる所をこの目で見るためだ」
この言葉も、もう耳にたこができるほど聞き飽きた言葉だ。
この言葉の真意を、シスカは今になってようやく理解した。
彼は魔力至上主義国家のこの国が何より嫌いで、皇王シーファスが治めるこの国が何より好きなのだ。
好きだからこそ彼は何度もこの国に訪れて、訪れるたびに魔力至上主義者の言動にがっかりする。
(…まったく、どこまでひねくれてるのやら)
世界で一番のこのひねくれ者は、きっと一生この国を嫌いだと言いながら、この国を愛し続けるのだろう。
それを思うと自然と笑いがこみあげて、シスカはたまらずくすくすと笑みを落とす。
「……何だ?」
「いえ、こちらの話です」
何となく馬鹿にされているような気になって、ゼオンは軽く眉根を寄せる。
「……もういい、寝る」
「はいはい、寝てください。喧嘩相手がいつまでも病に臥せっていては、おれも面白くありませんから」
ふてくされるようにシスカに背を向けて横になったゼオンは、シスカの言葉に気づかれぬよう小さく笑みを落とすと、そのまま静かに瞼を閉じた。
**
「…ずいぶんお疲れですね、ユーリシア殿下」
突然言われて、ユーリシアは弾かれるようにフォーレンス伯を視界に入れる。
「きちんとお休みになっておりますか?」
「…あ、いや……ああ、一応…」
何とも歯切れの悪い返答になってしまったことに、ユーリシアはきまりが悪そうに思わず口元を抑える。
ユルングルが倒れてもう十日経ったが、未だ目覚めたと言う連絡はない。
毎朝必ず今日こそは、と思うのに一日の最後にその期待はことごとく裏切られてきた。そうして眠れない夜を過ごして、また朝に裏切られると判っている期待を持つのだ。
そんな不安に駆られた日を何日も過ごして、わずかに疲れが表に現れたのだろうか。
(…情けない)
悄然とため息を吐いたところで、フォーレンス伯が言葉を続ける。
「本日のご公務はここまでですので、少しお休みになってはいかがですか?」
「……あ、いや……」
言葉を濁して不安そうに見返してくるユーリシアに、フォーレンスは穏やかな微笑みを見せる。それが妙に心を落ち着かせてくれたので、ユーリシアは諦めたように息を一つ落とした。
「…ありがとう、叔父上」
その謝意に、フォーレンス伯は再び、今度は満面の笑みを返した。
(…また気を使わせてしまった)
白宮に向かう道すがら、ユーリシアは申し訳なさそうに心中でひとりごちる。
フォーレンス伯は息子のダリウス同様、こちらをよく観察して細かなところにもとにかく気を使ってくれる。それが嬉しいやら申し訳ないやらで頭が上がらない。
(…何か心配事があると、夜眠れなくなるのは私の悪い癖だな)
それで周りに気を使わせては元も子もない。
自嘲するようにため息を落としたところで、ユーリシアは白宮の前で手持無沙汰で困ったように立ち尽くしているユーリの姿が視界に入った。
「…ユーリ?こんなところでどうした?」
「…!ユーリシアさん…!」
突然、声を掛けられて、ユーリは驚いたように目を瞬いてこちらを見返してくる。軽く頬が紅潮しているように見えるのは気のせいだろうか。
「…あ、その…一人で操魔の訓練をしていたんですけど…なかなか上手くいかず、少し気晴らしに散歩しようかと…」
「…ああ、シス__いや、ダスクはゼオン殿につきっきりだからな。私が訓練に付き合う事ができればいいのだが…」
いかんせん大気にある魔力の流れを見る事ができない。これではただ邪魔をするだけだ。
「い、いえ…!ユーリシアさんは公務でお忙しいのに僕の訓練まで付き合わせるわけにはいきません…!」
「…ではその散歩にも、私は付き合えないのだろうか?」
「……え?」
慌てて頭を振るユーリに、ユーリシアは穏やかな微笑みを湛えて告げる。
あの日以来、ユーリシアは以前にも増して自分に対する態度が柔らかくなったとユーリは思う。
自分に向ける穏やかで優しいその眼差しが、まるでとても大事な愛しいものを見ているような気がして、無意識に頬が紅潮して心穏やかではいられないのだ。
(…いえ、それは気のせいよ、ミルリミナ…!私は今、男なんだから…!)
そう自分に言い聞かせても、ユーリはこの笑顔を向けられると、もう否とは言えない。
「…い、いえ…!ぜひご一緒に…!」
「そうか…!」
破顔するユーリシアを直視できずに、ユーリは赤くなった顔を軽く背けて高鳴る胸をただひたすら抑えるのに精いっぱいだった。
「あ…あの…公務は大丈夫なんですか…?」
連れ立って歩き始めてすぐに、ユーリは赤らんだ顔を悟られまいと別の話題を振って、紅潮が収まるのを待つことにした。
「…今日の公務はもう終わったのだ___という体を叔父上…フォーレンス伯が作ってくれた」
「…え?」
聞き覚えのある名前が出てきて、ユーリは思わずユーリシアに振り向く。
「…フォーレンス伯、というとダリウスさんの……?」
「よく知っているな、彼の父君だ。…ダリウスから聞いたのか?」
「…!あ、いえ…!ダスク兄さんから少し…!」
目を見張るようにこちらを見返してくるユーリシアに、ユーリは慌てて頭を振る。
────元々ミルリミナは皇族や貴族の系図に詳しい。
満足に受けられなかった妃教育で、それだけはしっかりと頭に叩き込んでいた。
ユルングルの出生を聞かされた時、同時にダリウスの家名を聞かなくてもミルリミナはフォーレンス家の嫡男だとすぐに察した。皇族であることと、第一皇子の従者という立場を考えると、ダリウスの座る席はそこしかなかったからだ。
だがこれはミルリミナの記憶であって、ユーリの記憶ではない。
ついぼろが出そうになって、ユーリは取り繕うように慌てて否定する。
(…気を付けないと…)
今度は別の意味で鼓動が早まって、気を落ち着かせるように小さく息を落とすユーリに、ユーリシアは小さく笑って、そうか、と短く返答する。
「…叔父上に気を使わせてしまったようだ」
ぽつりと呟いたその声音がわずかばかり元気がないような気がして、ユーリは笑顔を見せるユーリシアを視界に入れる。その顔が、何だか心許ない。
ユーリとして初めてユーリシアに出会ったあの日の事が頭に浮かんで、ユーリは怪訝そうにユーリシアの顔を覗き込んだ。
「…あまり、お休みになってはいないんですか?」
「……!」
痛いところを突かれて、ユーリシアは思わず目を丸くして歩みを止める。
「……私は、そんなに疲れているように見えるか?」
「はい、とても」
おずおずと訊いたが、ユーリははっきりと返答する。
こういう時のユーリは容赦がない。
「…お疲れならお休みになった方が__」
「いや、休むなら少し気分転換をして休みたい。…少しだけ付き合ってくれ」
懇願するように告げるユーリシアを視界に入れて、ユーリはわずかばかり困ったような表情を見せた後、ややあって口を開いた。
「…では、散歩が終わったら必ず休むと約束してください」
その不安と心配が見て取れるユーリの表情に、ユーリシアはまるで安堵するように微笑む。
心配をかけてしまったのは申し訳ないが、彼の掛け値ない態度がこの上なく嬉しい。
気を抜けば、またユーリを抱きしめたくなる衝動を何とか抑えて、ユーリシアは承諾するように頷いた。
そうして再び足を進めてすぐ、ユーリシアはユーリの顔を覗うようにしながら問いかける。
「…それで?ユーリはどこを散歩しようと思っていたのだ?」
「……え?」
その質問に、ユーリは答えに詰まって閉口した。
「…決めてなかったのか?」
「…いえ、特に目的もなく歩き回ろうかと……」
「…そうか、それもいいが……」
言ってユーリシアは軽く思案する。
「…庭園を散歩するのはどうだろう?」
「……え…」
その提案に、ユーリはわずかばかり表情が強張るのを自覚した。
以前、庭園で令嬢を助けて以来、まるで待ち構えていたような令嬢たちに庭園で取り囲まれる事が二度あった。
さすがに邪険にするわけにもいかず、ユーリはその二度も紳士的かつ丁寧な対応で令嬢たちに接した。以来、庭園に行く事が憚られてすっかり足遠くなっていたのだが、今も彼女たちが待ち構えているのかもしれないと思うと、正直行きたくないと言うのが本音だ。
特にユーリシアがいる前であの演技は御免被りたい。
返答に困って逡巡していたユーリだったが、そんな彼に気づかずユーリシアはいつもの穏やかな笑顔を見せた。
「あの庭園はミルリミナとよく通った。今度はユーリと歩いてみたい」
満面の笑みでこう言われては、もうユーリに拒否権はない。
やはり頬を紅潮させながら、ユーリは不承不承と頷くしかなかった。
「…ここに来るのはいつぶりだろうか」
ユーリシアの笑顔にほだされて、つい承諾してしまったことを半ば後悔しながら着いた庭園の入り口で、ユーリシアはぽつりと呟く。
「…あまりここには来ないのですか?」
「…ミルリミナが居なくなってからは、ここに来る余裕がなかった。…皇宮に戻ってからすぐにユーリを探して庭園に入ったっきりだな。その時も、花を見たわけではない」
ここに来るとどうしてもミルリミナの事が頭をよぎった。
彼女が攫われてから、ここに来る心の余裕はなく、彼女が安全な場所にいると判った今でも、ここはユーリシアにとって特別な場所だった。
再びここに来るならミルリミナと二人で___。
そう思っていたのに、なぜだかユーリとならこの庭園に訪れてもいいと思えた。
彼とならば、きっとミルリミナも許してくれるだろう。
ユーリシアは軽く目を閉じて記憶にあるミルリミナの姿を瞼に焼き付けると、ゆっくりと目を開いて隣でこちらを窺うユーリを視界に入れた。
「…さあ、行こう」
少し寂しそうにミルリミナの事を語るユーリシアの姿に胸が痛んだが、それを胸中に隠して促されるままユーリはユーリシアと二人庭園に足を踏み入れる。
庭園に入って、ユーリは令嬢の数が思っていたより少ないことに安堵した。
噂が噂を呼んだのか、二度目の時は遠巻きにこちらを見つめてくる令嬢も合わせれば、かなりの数がユーリの姿を見ようと集まってきていた。
それに比べれば、ずいぶんと令嬢の数は落ち着いたようだ。しばらく庭園に姿を見せなかったことで、彼女たちも諦めたのだろう。その上、今日は皇太子であるユーリシアも一緒なのだ。おいそれと取り囲むわけにはいかない。
内心安堵しながらも、それでも、とユーリはちらりと遠巻きにこちらを見つめてくる令嬢たちに視線を移す。
「…まぁ、見て…!ユーリ様よ…!」
「ユーリ様のお姿を拝見するのは久しぶりですわ…!」
「…今日はユーリシア殿下とご一緒ですのね…!」
「お二人が並ばれると、とても絵になりますわ……」
令嬢たちの恍惚とした視線とその囁きは、ユーリの耳にしっかりと届いていた。自分に聞こえているという事は、間違いなくユーリシアの耳にも届いているのだろう。
そう思って、ユーリはきまりが悪そうに視界の端でユーリシアの姿をちらりと捉える。ちょうど周りの軽い喧騒に気付いて、目を瞬いているところだった。
「…ユーリはずいぶんとご令嬢たちに人気があるのだな」
「……いえ…以前、一度だけ高魔力者たちに取り囲まれていたご令嬢を助けた事があるんです…。それがどうも…噂が噂を呼んだようで………」
「…そのご令嬢と言うのは彼女の事か?」
「……え?」
バツが悪そうに歯切れ悪く説明していたユーリに、ユーリシアは彼の後ろを指差して答える。その示された方向に訝し気に振り返ると、慌ててこちらに駆け寄ってくる、かつて助けた令嬢の姿が視界に入った。
「…ユーリ様……!」
「…どうなさったのですか…?」
「…お礼を…まだあの時のお礼をきちんとしていなかったものですから…!」
わずかに弾んだ息を整えながら、令嬢は告げる。
慌てて駆け寄ってきたところを見ると、礼を言うためにこの庭園で待ち続けてくれたのだろう。それを思って、ユーリは穏やかに微笑む。
「…お礼など、お気になさらなくてもよろしいのですよ」
「いえ、ですが…!」
「結局私は大したことなどできませんでしたから。…それよりもあの後、彼女たちは貴女を問題なく屋敷まで送り届けてくださいましたか?」
「…あ、はい…!」
「それはよかった…!それだけが気がかりだったのです。私が送って差し上げればよかったのですが…」
「い、いいえ…!助けていただいただけでもう…!…それ以上望んでは、欲張りですもの」
そこまで言ったところで、令嬢はようやく二人の会話を黙って聞いていた隣の皇太子の存在に気づく。
「…!!!も、申し訳ございません…!!殿下がいらっしゃることを存じ上げず…!失礼をいたしました…!」
慌てて深々と頭を垂れる令嬢に、ユーリシアはくすくすと笑いをこぼして相手を怯えさせないように穏やかな表情を取ってみせた。
「いや、構わない。それほどユーリに礼を言いたかったのだろう。気にしなくていい」
その言葉に軽く頬を染めると、令嬢は軽く挨拶を済ませ丁寧に辞去を申し出て去って行く。
その後姿を見送りながら、ユーリシアはちらりと隣で同じく彼女を見送っているユーリを視界に入れた。
「……?ユーリシアさん…?どうかしましたか?」
その視線に気付いて、ユーリは怪訝そうに問う。そこにわずかばかりの寂寥感が見て取れたからだ。
問われたユーリシアは一瞬寂し気な表情を取りつつも、平静を装ってわずかに微笑む。
「…行こう、ユーリ」
「…あ……はい」
先に進むユーリシアを追いかける形で庭園の奥に進んだが、あれから一言も発しないユーリシアに、ユーリは内心ひやひやしていた。
(…また何か気に障る事でもしてしまったのかしら…)
そう思うと気が気ではない。
横に並んで歩く気もなさそうなので、ずっとユーリシアの後ろを歩いていたが、背中越しにも彼の不機嫌さが見て取れていたたまれなくなる。
いや、背中越しだから、なおのこと嫌な想像が駆り立てられるのだろう。
彼の表情が見えないから、それを想像して不安になるのだ。
ユーリは視界にガゼボが入って、すかさずユーリシアに声をかける。
「あ、あの…!ユーリシアさん…!少しあそこで休みませんか…?」
「…!あ、ああ…そう、だな……」
ユーリの声に我に返ったように目を瞬いて、ユーリシアは頷く。
とりあえず避けられることはない様子に安堵して、ユーリは彼に続いてガゼボにある椅子に腰かけた。
「…あの……ユーリシアさん…?どうされたのですか…?」
意を決したように、おずおずと遠慮がちに問いかけてくるユーリを、ユーリシアは軽く一瞥する。
彼は未だに時折、こうやって折り目正しい言葉遣いをする。
それが先ほどのユーリの姿と重なって、胸の内の不安と不満を大いにくすぐった。
「……ユーリはずいぶんと貴族の作法に詳しいのだな。…言葉遣いも申し分ない」
ぽつりと落としたその言葉に、ユーリは内心ぎくりとする。
「…誰かに教わったのか?」
「あ…は、はい……その……ダリウスさんに……」
「…君の所作は一朝一夕で身につくものではない。ダリウスに教わったという事は、ずいぶん昔から彼らと知り合いということになる。だが君は確か、私と出会う少し前にリュシアの街に越して来たと言っていなかったか?」
「あ…!そ、その…!それは………」
どう返答していいのか困って狼狽しているユーリを見止めて、ユーリシアは自己嫌悪に陥った。
問い詰めるつもりはない。なかったが、結果的に彼を追い込んでしまった。
(…こんなことがしたいわけではない…!)
言えない理由があるのだろう。
それが判っていたのに、嘘をついていると判って、どうしようもなく自分の感情を抑える事が出来なかった。
思えばユーリは、出会った当初ずいぶんと畏まった物言いをする少年だった。
今でこそ言葉を崩してくれるが、その立ち居振る舞いに平民らしからぬものを感じた事をユーリシアは覚えている。
(…きっとユルンは、彼の素性を知っているのだろうな……)
おそらく彼は、平民の出ではない。
何か理由があって貴族であることを隠しているのだろう。そしてそれは、ユルングルの知るところなのだ。
そう思うと、再び嫉妬に似た感情が表出した。
自分はユーリの事に関して何も知らないのだ。彼の出自も、なぜそれを隠しているのかも。そしてどういう経緯でユルングルの元にいたのかも知らない。
ユルングルが知っていて自分が知らない事がたくさんあると思うと、たまらなく悔しい気分になった。
ユーリシアはそんな醜い感情を振り払うように、大きく頭を振る。
そうして返答に困って狼狽しているユーリに、少し寂し気な、だけれどもできるだけ精いっぱいの作り笑いを見せた。
「…すまない、ユーリ。…君を困らせるつもりはないのだ。…今は言えなくてもいい。だが……だがいつか、私にも話してくれるだろうか…?」
「…!はい…!!はい、必ず…!!」
躊躇なくそう返答してくれたユーリを、ユーリシアはたまらず、今度は満面の笑みで迎え入れる。
「待っている、ユーリ…!」
言ってユーリシアは、安堵したように目を細めた。
暖かな日差しが、肌寒い風で冷たくなった体に心地良い。
ガゼボの椅子に座って暖かさと冷たさを同時に受けながら、ユーリは自分の肩を枕代わりに眠るユーリシアを視界に入れた。
(…やっぱりお疲れだったのね)
庭園の奥まで来ると、ほとんど人は来ない。
特に皇太子がいると知っていれば、皆遠慮してここまで来ることはないだろう。
喧騒から離れて、眠っているユーリシアの耳に届くのは風がそよぐ音だけだ。
寝息を立てて眠るユーリシアの姿に、ユーリとして初めて出会った日のことが頭をよぎる。
あの時も、夜満足に眠ることができず寝不足が溜まってたまらず自分の隣で眠っていた。今回はユルングルのことが気がかりで眠ることができないのだろう。
それでもこうやって、自分の隣では安心して眠ってくれることが何よりも嬉しい。
ユーリは眠っているユーリシアの人差し指と中指を、起こさないように軽く握る。
こうやって触れても、聖女の気配を感じる事はない。それが嬉しくもあり、不気味でもある。
聖女にユーリシアの魔力を奪うつもりがなくなったのなら、正直自分の正体を明かしても良かった。だが、確証がないのだ。いつまた牙を剥くか判らない。判らない以上、正体を明かすわけにはいかなかった。
「…ユーリシア殿下、ごめんなさい……」
悲しそうなユーリシアの表情を思い出して、ユーリはたまらず小さく声を出す。
「…今はまだ言えません。だけど……だけど、いつか必ずお教えします。…それまで私は、ユーリとしてお傍におりますから……どうか、安心してお休みください」
囁くようなユーリの声が、彼の耳に届いたのだろうか。
眠っているユーリシアの顔がわずかに微笑んだように、ユーリには見えた気がした。




