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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第三部 有備無患 

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かけがえのない友人

 午後から思わぬ時間を作ってもらって、ユーリシアは早速ユーリの元へと足を進めていた。


(…この時間だと白宮の訓練場だろうか?)


 だとすれば、今向かうのは邪魔をしてしまうみたいで気が引けてしまう。

 一瞬逡巡して足を止めたユーリシアだったが、ようやく手に入れた時間なのだ。久しぶりなのだから大目に見てくれるだろう、と心中で言い訳して、ユーリシアははやる気持ちを抑えながら再び足早に白宮へと向かった。


 その道中、目当ての人物が視界の遠くにいるのを見つけて、ユーリシアは軽くいぶかし気に眉根を寄せる。

 ユーリの周囲に人が複数いるのを見咎めたからだった。


(…ユーリ…!)


 また魔力至上主義者に絡まれているのだろうと思って慌てて駆け寄ったユーリシアだったが、ある程度近づいたところで、それが杞憂だったことに気づく。


 ユーリの周囲にいるのは、レオリアに剣術の手ほどきを願い出た、あの三人組だ。

 何を話しているのか、この距離では聞くことはできなかったが、互いに笑顔を見せているところを見ると剣呑けんのんな雰囲気ではないのだろう。


 ユーリシアは安堵しながら、和やかに歓談する彼らを視界に入れる。


 こうやって、低魔力者が何の不安もなく笑って過ごせる国が作れるだろうか。

 あの父も、そんな国を作ろうと懸命に努力してはいるが未だ実現しそうにない。それどころか、そんな父を腑抜けた王だと罵って、しいしようとする者さえ過去には何度も存在した。

 それは他ならぬ国民が、それを望んでいないことの証左なのだ。


 それを変える事は、決して容易くない。

 いずれユルングルを皇宮に、と考えてはいるが実情を鑑みると難しいだろう。


(…ミルリミナも、白宮は居心地が悪かったのだろうか…?)


 自分が気付かなかっただけで、人知れず苦労をさせてしまったのかもしれない。

 そんな事を考えていると鬱々とした気分になって、ユーリシアはたまらず嘆息を漏らす。

 そんなユーリシアの耳に、ふと彼らの会話が届いてきた。


「ユーリ殿が自分よりも強くなるだろうと、レオリア様が少し寂しそうに仰られていたよ」

「……!」


 聞こえてきた会話の内容が他ならぬ自分の事だと判って、ユーリシアはバツが悪そうに視線を背ける。


(…いつの間にか、これほど近づいていたのか)


 何となく盗み聞きしているような気分になって気が咎めたが、他ならぬユーリに会いに来たのだ。別に聞いて困るような内容でもないので、ユーリシアは構わず歩みを進める。


「…私が?レオリアさんより強くなんて…!あり得ません!」


 ユーリは面映ゆい表情を取りながらも、慌ててかぶりを振る。


「あの方はご自分を過小評価しているのです。素晴らしい才能をお持ちなのに、それにお気づきになってはおられない。…あの方は私の目標ですから、きっと一生、私はあの方の背を追い続けるのでしょうね」


 言って満面の笑みを見せるユーリに、ユーリシアはたまらず頬が紅潮するのを感じて、慌てて手で口を覆った。

 おそらく耳まで真っ赤になっているのだろう。顔全体が熱を帯びたように熱くなって、少し肌寒い風が当たるたび妙に心地いい。


(…これはやはり、私が聞いていい話ではなかったか…)


 早鐘のように鼓動を打つ心臓を何とか落ち着かせながら、ユーリシアは少し間を空けてから会いに行こうと、未だ赤らんだ顔を持て余して踵を返す。

 その耳に、彼らの会話が意図せず入ってきた。


「…目標か。確かに我々の目標もレオリア様だ」

「だがユーリ殿はまず、しっかり食事を摂った方がいいのではないか?」

「……え?」

「そんなに華奢な体つきでは体力がもたないだろう。ほら、見てみろ。こんなに細い腕では___」


 彼らの一人が言いながらユーリの腕に触れようと手を伸ばす。

 それを悟った瞬間、ユーリシアは彼が手を伸ばすよりも早く無意識に体が動いていた。彼の手がユーリの腕に触れるその直前に、ユーリの体を強く引き寄せて二人の間に割って入ったのだ。


 それはさながらユーリを庇護する親のように、あるいはユーリを独占せんがために___。


 まるでユーリに触れるなと言わんばかりの警戒するような表情を見せるユーリシアに、その場にいた誰もが目を丸くして、何が起こったのか判らず茫然自失と立ち尽くした。


「…ユーリシアさ__殿下…!?」


 突然現れたユーリシアに驚いて、ユーリはたまらず声を上げる。『殿下』の敬称をつけたのは、彼らがいるからだ。

 ユーリシアはそのユーリの声で一瞬のうちに我に返り、慌てて抱き寄せている手をユーリから離した。


「す…すまない…!ユーリ…!驚かせただろうか…!」

「…い、いえ…大丈夫ですが……どうなさったのですか?」


 狼狽するユーリシアを怪訝そうに見つめながら、ユーリは先ほどのユーリシアの顔を思い浮かべる。

 一瞬、険しい表情に見えたのは気のせいだろうか。眉根を寄せて、不快気な顔を彼らに向けていたように見えた。

 そんなことをいぶかし気に考えていると、同じく我に返って今目の前にいるのが皇太子だと理解した三人は、慌てて威儀を正すように膝をついた。


「…ユーリシア殿下…!!ご無礼をいたしました…!!」


 言って膝をつく三人は、皆同じように青ざめた顔で叱責を待っている。

 そこに至ってようやく自分がどんな顔をしていたのか悟って、ユーリシアはバツが悪そうに小さく咳払いをした。

 その所作にさえ、彼らは軽く体を強張らせる。


「申し訳ございません…!……殿下がいらっしゃるとは存じ上げず、ご気分を害してしまいましたこと何とお詫びすれば___」

「…いや、すまない。そういうわけではないのだ。どうか立ってくれ」


 三人は怪訝そうに互いの顔を見合わせながら、様子を窺うようにゆっくりと立ち上がる。


「…頼むから、そう恐縮しないでくれ。貴殿らが悪いわけではない。ただ____」


 言って、ユーリシアはその先にどんな言葉が来るのか判らず言い淀む。


 なぜ、自分はあんな行動に出たのだろうか。

 なぜか無性に、不快なものを感じたのだ。それが何に対する不快さかは判らないが、理由の判らぬ不快感に突き動かされるように、体が自然と動いた。


 彼らに対して嫌悪感を抱いているわけではない。

 だがあの一瞬、自分は間違いなく彼らを敵視していたような気がする。


 そんな考えが頭をよぎって、ユーリシアはたまらず小さくかぶりを振った。


「…とにかくすまない。気にしないでくれ」


 怪訝そうな表情で見返してくる三人に、ユーリシアはできるだけ柔和な表情を取って笑顔を見せる。

 軽く小首を傾げながらも失態を犯したわけではないのだと悟って、三人はようやく安堵の表情を見せた。


「…すまないがユーリを少し貸してもらえるだろうか?」

「あ…我々は偶然出会ったので軽く言葉を交わしていただけです。お気になさることはございません」

「そうか、ありがとう」


 言って人好きのする笑顔を見せた後、ユーリを促して共に白宮に向かう。


 立ち去る二人を視界に留めながら三人は、あの皇太子とも親密そうな様子のユーリにわずかばかり畏敬の念を抱いたのだった。




「…ユーリシアさん、大丈夫ですか?」


 彼らと別れた後も、ずっと押し黙ったままのユーリシアをいぶかし気に思って、ユーリは窺うように問いかける。


 あれからずっとユーリシアは、怪訝そうな顔をしたかと思えば、ひどくバツの悪そうな顔でため息をつくことをもう何度も繰り返している。それが妙にユーリの不安を駆り立てた。


 彼らの様子からして、あの時一瞬見えた険しい顔は、おそらく自分の見間違いではないのだろう。

 ユーリシアの不興を招いたのが彼らでないとすれば、あとはもう自分しかいないのだ。


 そう思って何度もさっきの会話を思い浮かべるのだが、どうにもユーリシアの不興を買うようなものが見当たらない。結局何がユーリシアを不機嫌にさせたのかが判らず、ユーリは途方に暮れて不安げな顔でユーリシアの返答を待っていた。


 声を掛けられたユーリシアはふと我に返り、そんな不安げなユーリの顔に目を瞬いた。


「あ…いや…!何でもないのだ…!…ユーリも気にしないでくれ」

「…何か気に障るようなことでも……?」


 おずおずと訊くので、ユーリシアは申し訳ないやら気まずいやらで軽く視線を逸らす。


「……私はそんなに怖い顔をしていたのだろうか…?」

「怖い…というよりも険しい顔をしていました。…何かあったのですか?」


 それは自分が一番知りたい、とユーリシアは心中でこぼす。


「…すまない、本当に何でもないのだ。頼むから忘れてくれ…」


 何やら決まりが悪そうにするユーリシアにそれでもユーリは怪訝そうな顔を向けるので、ユーリシアは仕切り直すように小さく咳払いすると、わざとらしく話題を変えた。


「そういえば、最近忙しくてなかなか皆の様子を見に行くことができなかったが、ゼオン殿たちに変わりはないか?」

「……あ、えー…と…はい」


 妙に歯切れの悪い答えに、今度はユーリシアが怪訝そうな顔をユーリに向ける。


「…何かあったのか?」

「あ、いえ…!そういうわけではないんです…!」

「ではどういうわけだ?」


 自然と問いただすような口調になる。

 それは、先ほどデリックが言った言葉が脳裏をよぎったからだった。


「…あ…その…」

「…ゼオン殿、か……?」

「……!」


 ユーリは無事だ。ならば何かあるとすれば、彼らの中で一番魔力の低いゼオンしかいない。

 その名を出されてユーリは弾かれたように目を見開いたので、ユーリシアの胸中で、さらに不安が広がった。


「…何かあったんだな…!」


 思わず怒鳴るようにそれだけ告げると、ユーリの呼び声には構わずユーリシアはその不安に突き動かされるように白宮へと急いだ。




「ゼオン殿…!大丈夫か…!?」


 ユーリシアは白宮に着くや否や、迷わずゼオンの自室に向かい勢いよく扉を開けた。


 扉を叩いて声をかける事も忘れ無作法にも荒々しい訪問となったが、そんなことに構っている場合ではない。

 軽く乱れた呼吸を整えながらユーリシアの視界に入ったのは、点滴の準備をしているアルデリオとベッドの傍らに座って驚いたようにこちらを見るシスカの姿。そしてベッドに横たわる顔色の悪いゼオンの姿が目に入って、ユーリシアは血の気が引くのを感じた。


「……何が…あった…?ゼオン殿は無事なのか……っ!?」

「……ユーリが…喋ったのか……っ!?」


 ユーリシアの姿を見止めて忌々しそうに体を起こそうとするゼオンの肩を、シスカは押し留めるように、あるいは支えるように手を当てる。


「ゼオン、大人しく寝ていてください」

「……こいつの前で、そんな姿見せられるか…!ケホッ、ゲホ…っ!ゴホ…っ!」


 押し留めるシスカの手を払って体を起こしたものの、ゼオンはすぐさま咳込んでベッドに突っ伏すような形になる。そんなゼオンを見止めて、ユーリシアは彼の体調を心配しながらも思っていた事態とわずかばかり様相が違うことに軽く眉根を寄せた。


「……これは…一体……?」


 状況がつかめず、ぽつりと言葉を落としたところで、後ろからユーリシアの後を追って来たユーリが息を切らしてようやくゼオンの自室に到着する。


「ユーリシアさん…早いです…!どうしたんですか…一体…!」

「…おい…ユーリ…!ケホッ…ゲホッ…!お前…あれほどユーリシアには言うなと…!ゴホッゴホッ…!」

「僕は何も…!というか大丈夫ですか、ゼオンさん…っ!」

「ゼオン、お願いですから少し落ち着いてください」


 呆れたように嘆息しながら、シスカはゼオンの背をさすっている。


「…ユーリは何も言っていない。何も言わないから勝手に憶測をして来ただけだ。……風邪を引いたのか?ゼオン殿」

「肺炎を起こしているのですよ。ここ数日、急に気温が下がったでしょう?最初は軽い風邪だったのですが、もともと弱い抵抗力が風邪でさらに弱って肺炎を併発したのです」

「…!……そうか、失念していた。ゼオン殿は低魔力者なのだから体が弱いのだったな……大丈夫なのか…?」


 心配そうに眉根を寄せて近づいてくるユーリシアの顔を、ゼオンは軽く咳き込みながら忌々しそうに手で押さえて掻き撫でるように動かす。


「…わ…っ!?…何をするんだ、ゼオン殿……!」

「…シーファスと同じ顔で同じ言葉を吐くな…!ゲホッ、ゴホ…っ!」

「……顔が似ているのは仕方がないだろう…」


 困ったように言葉を落としながら、自分に何かと突っかかって来たのは父に似ているからか、と何とはなしに得心する。


「貴方は意外に体格がいいですからね。低魔力者特有の弱々しさが見えない割に、体は結局弱い」

「好きで…ゲホッゲホッ…!…好きで体が弱いわけじゃない…!だいたい、あいつも体格はいいほうだろう…!ゴホッゴホッ…!」

「ユルングル様は背が高いだけで、体型自体はどちらかと言うと華奢なほうですよ」

「…痩せてなければ、お前よりは体格がいい…ゴホッ」

「…悪かったですね…!おれは特別華奢に見えるんです!」

「統括もダスクさ__いえいえ…!ユルングル様みたいに華奢なら、まだ可愛げがあったでしょうにねえ」


 じろりとこちらを見据えてくるシスカに慌てて対象を変えて、アルデリオは苦笑と共に言う。

 弱っているのをいいことに、好き勝手言ってくるシスカとアルデリオを忌々しそうにめつけながら、可愛げなんてあってたまるか、とゼオンは心中で吐き捨てた。


「…二人とも、あまりゼオン殿を刺激するな」


 そんな二人に呆れたように言葉を落としたユーリシアだったが、一番刺激しているのはユーリシアだろう、とその場にいた誰もが思ったことは暗黙の了解だ。


「それよりもずいぶんと体が熱い。…本当に大丈夫なのか…?」

「ああ、大丈夫です。ご心配には及びませんよ。肺炎なんて統括にとっては日常茶飯事ですから。二十日も経てば完治いたしますよ」

「二十日…!そんなにかかるのか…!」

「悪かったな…!ゲホッゲホッ、ゴホッ…!」


 思わず上げたユーリシアの言葉にゼオンは弾かれるように言い返したが、結果また咳き込むのでユーリシアは大いに反省する。


「…すまない。馬鹿にしたわけでも見下したわけでもないのだ。ただ私は病に伏したことがないので感覚が判らない」

「低魔力者の中ではまだ早い方ですよ。ゼオンは体力がありますから」

「……そうか」


 そこまで聞いて、ユーリシアはようやく安堵したように息を落とした。


 ユルングルの意識が未だ戻らない中、これ以上誰かが病に伏すのは心が落ち着かない。特にゼオンは、ユーリシアの中で『低魔力者』という認識はあっても『体が弱い』という認識は全くなかった。普段、憎まれ口を叩いて元気な姿を見慣れているだけに、体調の優れない彼を見るのはユルングルの事がしきりに頭をよぎってこの上なく心がざわつくのだ。


 それを思えば低魔力者の__それもその中でもかなり魔力が低いであろうユーリが変わらず元気なのは有り難い。


「…ユーリシア…ゲホッ…!…いいからお前は公務に戻れ…!ゲホッゴホッ…!」

「いや、私は___」


 言いかけたが、ゼオンの咳込みが止むどころか激しくなったので、ユーリと二人慌ててゼオンに駆け寄る。


「ゼオン殿…!?」

「ゼオンさん…!!」

「…ゼオン、息がしづらいですか?」


 狼狽する二人とは対照的に、シスカは絶え間なく咳が襲って顔が青ざめていくゼオンの背をさすりながら静かに問う。問われたゼオンは咳で声を出すこともできず、ただ軽く頷いた。


「…呼吸器が必要ですね。取ってきましょう」

「いや、私が取りに行く。シスカはゼオン殿を診ていてくれ!医務室にあるのだな?」

「…おま…ゲホッ…!行く…ゴホッゴホッ…!」

「お願いします」


 咳が邪魔して話せないゼオンを無視して、シスカはユーリシアを促す。

 こんな時でも矜持が勝るゼオンを呆れたように嘆息して、シスカはゼオンに声をかけた。


「ゼオン、喋ると喉が刺激されて咳が誘発されるんです。お願いですから大人しくしていてください」


 言ったが、ゼオンの耳に入っているのかは判らなかった。絶え間なく襲う咳の所為で呼吸が上手く出来ず、咳と熱で顔が赤い反面、呼吸困難のため唇は若干青い。

 もともと高熱で意識が軽く混濁しているところだったのだ。それをユーリシアの姿が見えて気丈にも体を起こした。そのユーリシアが退室した今、もはや限界なのだろう。


 シスカはゼオンの手を取って、軽く神官治療を行う。

 自分の魔力をゼオンの体に流して、肺の辺りで乱れている魔力の流れを元に戻してやる。次第になめらかになる魔力の流れに呼応して、ゼオンの呼吸も次第に落ち着きを取り戻してきた。


「…楽になりましたか?」

「………ああ……」


 ようやく呼吸ができるようになって、ゼオンは全身に空気を送り込むように小刻みに肩で息をする。その呼吸ですら喉が刺激されて時折咳が出たが、それでもずいぶん落ち着いたことにゼオン自身安堵して軽く瞼を閉じた。


「…少し眠りますか?」


 その問いかけには無言のままかぶりを振る。

 ユーリシアが呼吸器を持ってまた戻ってくると判っているからだ。その頑なな態度に、シスカは困ったようにため息をいた。


「…ゼオン、ユーリシア殿下は貴方の味方であろうとしています。仲間であれば少しくらい弱々しい姿を見せてもいいではありませんか」

「……今さら…そんなことできるか…!」

「…あれだけ殿下に意地悪しましたもんね」

「アルデリオ」


 茶々を入れるアルデリオをたしなめるように、シスカは軽く一瞥する。


「…おれも長い間、貴方に対して悪しざまな態度を取ってきました。それでも貴方はおれを信じて友人だと言ってくれたでしょう。…彼の事も同じように、信じる事はできませんか?」


 ゼオンを刺激しないよう、シスカは諭すように静かに語り掛ける。


 これからしばらくはこの皇宮に滞在する事になるのだ。その間、体の弱いゼオンは何度かこうやって倒れる事があるだろう。そのたびにユーリシアの前で無理をされてはたまらない。彼も体が辛いだろうし、そんな辛い姿を見せられる自分も、心穏やかではいられないのだ。


 ゼオンは返答に困ったのか、あるいは返答したくないのか、しばらくだんまりを続けたが、ややあってその重い口を開いた。


「………信じてないとは、言ってないだろ…」

「……え…?」

「……もういい…寝る…」


 小さくぽつりと呟いた後、ゼオンはふてくされた子供のように背を向けて再び瞼を閉じた。それから幾ばくもかからず彼の寝息が聞こえて、相当無理をしていたのだとシスカは再認識する。


「…まったく、素直じゃありませんね…」

「…ゼオンさんとユーリシア殿下は、仲がお悪いのですか?」


 嘆息するように肩を落としたところで、ユーリはゼオンを起こさぬよう声を潜めて問いかける。


 以前、皇宮に到着したあの日、迎えに来たアルデリオがゼオンとユーリシアの仲を『水と油』と比喩したことがあった。それに関してユーリシアも否定することなく受け入れていたので仲が悪いのだろうかと思ったのだが、二人が話すところを何度も目撃したものの、そういった感じでもない。

 あれはどういう意味だったのだろうかと心の片隅にずっと引っかかっていたので、ユーリは何とはなしに訊ねてみたのだった。


「…ああ、違いますよ。嫌っていると言うよりもむしろ気に入っているくらいです」


 答えたのは『水と油』と比喩した張本人だ。


「……?気に入っているのに『水と油』なのですか…?」

「気に入っているからこそいじめたくなる気持ち、判りません?」

「…ええ…と…すみません…。私には難しいようです…」


 二人のやり取りを何とはなしに聞いていたシスカは、小首を傾げて困ったように眉根を寄せるユーリにくすくすと笑みを返す。


「ゼオンは臆病者なんですよ、ユーリ」

「…!…ゼオンさんが、ですか…?」

「ええ、相手が気に入れば気に入るほど、信じたり頼ったりするのが怖いんです。怖いから素直になれず、相手を突いて出方を見る。そのやり方は彼の性格を見れば判るでしょう。…ユーリシア殿下は真っすぐなお方ですから、そういうやり方が気に入らない。だから『水と油』なんです」

「……なんだかもったいないお話ですね。せっかく気に入っているのに仲良くなれないなんて」

「…素直になれば、容易いのでしょうけどね」

「まあ、素直な統括も不気味ですけれどね」


 アルデリオの言葉にたまらず、違いない、と皆一様に小さく笑みを落とす。

 軽く笑いあった後、ややあってユーリは口を開いた。


「……ユルンさんも、いつか素直になれればいいのですが」

「……え?」

「ユルンさんもそういう意味では筋金入りでしょう?ユーリシア殿下を気にかけているのに、決してそれを表に出そうとしない…ユーリシア殿下は殿下で鈍いお方ですから、少しもお気づきになってはおられないようですし」


 言って、ユーリはたまらず苦笑する。


「……もう少し素直になればきっと、とても仲のいいご兄弟になれるでしょうに…」


 遠くを見つめて思いを馳せるように告げるユーリに、シスカもまた無意識にリュシアの街がある方へと視線を向ける。


 未だユルングルが目覚めたという報告はない。

 考えないようにしていたが、意図せずユーリからユルングルの名前が出て抑えていた不安がまた止めどなく押し寄せてきた。具合の悪いゼオンを見て心がざわつくのは、何も彼の体調を憂慮しての事だけではない。ベッドで意識なく昏睡しているユルングルの姿を想像して、どうしても心の平静を保ってはくれないのだ。


 シスカは思わぬところで降って湧いたその不安を吐き出すように大きくため息をくと、何とか笑顔を作ってユーリに向ける。


「…ではユルングル様がお目覚めになったら、そう伝えてあげてください」

「……え?」


 その言葉に、ユーリは目を瞬いて茫然自失とする。


「……目覚めたら……?……それは…どういう……?」

「…!…ユーリシア殿下から、まだ聞かされてはいないのですか…!?」


 目を丸くして告げるシスカの言葉を受けて、ユーリはたまらず部屋を飛び出した。




「…これだな…?」


 医務室でようやく目当てのものを見つけて、ユーリシアはすぐさま踵を返す。


 自分が病に伏すことがないので、病気で辛そうにする者を見るとひどく心が落ち着かない。何か自分に出来る事はないかとやきもきする気持ちは昔からあったが、最近それに輪をかけて心がざわつくのはユルングルの存在があるからだろう。

 あのゼオンにすら、辛そうな姿を見るといたたまれない気持ちになるのだ。

 命にかかわるものではないと承知してはいるが、はやる気持ちを抑えきれずユーリシアは勢いよく医務室の扉を開ける。


 息を切らしたユーリが視界に入ったのはそんな時だった。


「…ユーリ…っ!?……どうした…?ゼオン殿に何かあったのか…?」


 急いでここに駆けつけたのだろう。

 荒々しくなった息を整えるのに必死なユーリの姿が、ユーリシアの不安をどうしようもなく揺さぶった。


「……どうして……っ!」

「……ユーリ…?」

「…どうしてユルンさんのこと、僕には何も言ってくれなかったんですか…!?」

「…!」


 思わぬ言葉が現れて、ユーリシアは体が強張るのを自覚した。

 呼吸器を持つ手がわずかに震えているところを見ると、ひどく動揺しているのだろう。それを悟られまいと、呼吸器を持つ手に力を込める。


「…シスカから…聞いたのか…?」


 何とかそれだけを振り絞るように告げる。


「…ダスク兄さんは、もう聞いているものだと思ったようです。……僕はそんなに信用できませんか?」

「…!?違う!そうではない…!」

「ではどうしてですかっ!?」

「…!」


 その問いかけにユーリシアは思わず言葉に詰まる。その質問の答えがユーリシアの中には存在しなかったからだ。

 真っすぐにこちらを見据えてくる痛いくらいのユーリの視線を受けて、ユーリシアはいたたまれず視線を背けた。


「………時機を見て伝えようと思っていた」


 言い訳するように小さく言葉を落としたが、嘘ではない。

 いつかはユーリに伝えなければと、ここ数日ずっと念頭にはあった。

 あったが、忙しさにかまけてユーリに伝える事を失念していた。


(…いや、それはただの言い訳だな)


 そう、失念していたわけではない。忙しい事を言い訳にして、故意に伝える事を先延ばしにしたのだ。

 伝えればユーリは必ずユルングルの元に駆けつけるだろう。あれほど慕っているのだ。自身で刺繍したハンカチをユルングルに贈ろうと思うほどに。

 そんなユーリを引き留める自信がユーリシアにはなかった。それはシスカを引き留めるのとはまた違った葛藤だ。


 ユーリに、ユルングルの元に行ってほしくはない。

 それは外聞上行ってほしくないという意味ではない。その時のことを想像すると、ただひたすら嫌悪感が心を支配して行くなと叫びたくなるのだ。

 だが、これはただの我儘だ。

 自分の我儘で、ユーリの気持ちを押さえつけてもいいのだろうか。

 そう思うと、彼を引き留める言葉が見つからなかった。


(…なぜ私は、これほどユーリに固執するのだ…?)


 それはもう何度も自問した。

 自問したが、答えが返ってくることはなかった。


 彼が絡むと自分が自分ではいられなくなる。清廉潔白であろうとしているのに、自分の中の醜い感情が露出してひどく嫌な気分になるのだ。

 この感情は、彼が生まれて初めてできた純粋な友人だからだろうか。

 侍従であるラヴィとも、実兄であるユルングルとも違う。ユーリだけは、自分が皇太子だと知っても態度を変えず、友人として普通に接してくれた。


 自分は、そんなユーリを失いたくないのだ。


(……そうか、これは独占欲か)


 生まれて初めてできた友人を、ユルングルに取られたくないのだ。

 そんな子供じみた感情に、ユーリシアは自嘲気味に笑みを落とす。


「…すまない、ユーリ。伝えるのが遅くなったのは私の責任だ。…ユルンの様子を見に行きたいのであれば、いつでも戻ってくれていい。…だが、できればまたこちらに帰って来てくれ」


 それだけ告げて、ユーリシアはユーリの横をすり抜けて白宮に戻ろうと足を進ませる。

 そんなユーリシアをユーリは慌てて振り返って呼び止めた。


「…待ってください…!ユーリシアさんは…!…ユーリシアさんは戻らないのですか…?」

「…私は戻れない。ここを空けるわけにはいかないのだ」

「…!でしたら…!僕も戻りません…!」

「…!」


 自分の子供じみた感情を悟られまいと、ユーリに顔を向けることなく話していたユーリシアは、だが思ってもみないユーリの返答に思わず振り返った。


「…何を言っている、ユーリ…!私に気を使う必要はない…!ユルンが心配なのだろう!本当は今すぐにでも駆けつけたいのではないのか…!?」

「それはユーリシアさんの方じゃないですか」

「…っ!」


 悲しそうな笑みを向けるユーリに、ユーリシアは息をのむ。


「…ずっと、辛そうな顔をしています。ゼオンさんがことさら心配なのも、ユルンさんと重なるからでしょう?」


 ユルングルが倒れてからもう七日。未だ目覚めた報はない。

 いつかは必ず目覚めるだろうと判ってはいても、日を追うごとに不安が募っていった。

 彼がいるのは目と鼻の先なのだ。夜のうちに行って戻ってくることも可能だったが、シスカを引き留めておいて自分が会いに行けるわけがない。


 会いに行きたいのに行けないもどかしさが、次第に夜の睡眠をも邪魔するようになった。

 そんな不安を、ユーリは察したのか。


「…確かにユルンさんの事は心配です。ですが、心配しているのに会いに行けない辛そうなユーリシアさんの方が、もっと心配なんです…!だから僕は___」


 カン…!と呼吸器が床に落ちる音が聞こえる。

 それと同時にユーリの体をユーリシアの腕が優しく引き寄せて、温かい彼の胸が迎え入れた。


「…!あ、あの…!ユーリシアさん……!?」

「…ユーリ…!君がいてくれて…君が友人で、本当に良かった…!」


 あの時、あの森でユーリに出会わなければ、自分は一人でこの不安と対峙しなければならなかった。そうなればきっと、心は折れていただろう。


 ユーリがいたから、自分は平静を保っていられるのだ。

 こうやって何の見返りなく、いつでも自分を気遣ってくれる存在が、安心感を与えてくれる。


 そして彼がユルングルではなく自分を選んでくれた事実がたまらなく嬉しく、同時にそうさせてしまうほど心配させてしまったことが申し訳ない。


 ユーリシアはこの小さなかけがえのない友人を強く抱きしめたが、ユーリは面映ゆさと同時に皇王が自分を抱きしめた時の事が脳裏に浮かんで、変わらず自身の中の聖女が何の反応も示さない事にひどく胸騒ぎを覚えた。

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