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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第三部 有備無患 

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祈る者と信じる者

 ユルングルが発作を起こしてから、三日が経った。


 ラン=ディアは日に何度もユルングルの状態を確認し、多臓器不全を起こしていないかに神経を尖らせた。

 ユルングルの先読みを疑っているわけではない。万全を期するため、と言えば聞こえはいいが、ただひたすら恐怖が心を支配したからだった。


 彼の心臓は四分もその活動を停止した。その事実が、ラン=ディアの心に重くのしかかる。


 皇王シーファスの懇願にも似た荒々しい言葉に応えるように、彼の心臓は再び動き出した。だが決して楽観視できる状態ではないのだ。

 三度目の心肺停止を経験した彼の心臓は、蓄積されたその負担に悲鳴を上げている。心臓機能の低下は免れないだろう。そして四分もの間、酸素が供給されなかった彼の脳にはどのような障害が残っても不思議ではないのだ。


 最悪、一生をベッドの上で過ごす事になるかもしれない。


 そう思うと、どうしても不安が頭をもたげて仕方がなかった。だからこそ、状態を確認することで安心感を得たかった。確認したところで障害が残るのかどうかも判らないのに、それでもただ『生きている』という事実がたまらなく安心感を与えてくれるのだ。


 そうして何度目かの安心感を得に、ラン=ディアはまたユルングルの自室に足を向ける。

 遠慮がちに扉を叩いて静かに開くと、もう幾度も目にした光景にラン=ディアはうんざりしたような盛大なため息を落とした。


「…またお休みになっておられないのですか?シーファス陛下」


 ラン=ディアが知る限りシーファスはこの三日、体を休めるどころか睡眠一つ取ってはいない。

 ただひたすら無心でユルングルの顔を視界に入れて、祈るように彼の手を握っていた。そうしてそのシーファスの傍らには、必ずアレインが控えているのだ。


 二人とも高魔力者だが、ユルングルが目覚めるまでこれを続ければ確実に体は持たないだろう。


 ラン=ディアは半ば呆れたように声をかけたが、返ってくるのはいつも通り沈黙だけだろう、ともう一度小さくため息をく。シーファスが握る手とは反対側の腕に造血剤の入った輸液の準備を始めたところで、シーファスの消え入りそうなほど小さな声がラン=ディアの耳に届いた。


「……眠れないのだ。…ユルングルが目覚めるまでは、安心して眠れない……」


 元々、シーファスには不眠の症状があるとシスカから聞いていた。

 睡眠薬を処方したがそれでも効かず、話を聞けば常に気が昂って眠気が訪れないのだと言う。早い話、精神的なものが要因なのだ。


 『王とは常に、玉座の上にいつ落ちるともしれない剣がぶら下がっているようなものだ』


 シーファスは皇王になって数年ののち、王の気分はどうだ、と訊かれてこう答えたと言う。

 その答え通り、シーファスは皇王になった当初から、その命を狙われ続けていた。


 彼の兄妹は妹のリアーナだけだったが、前皇王である父には他に五人もの兄弟がいた。そのどれもが腹に一物を抱えている野心家ばかりで、次期皇王の座を狙って年若い皇王シーファスの死を渇望する者ばかりだった。

 それゆえに人間不信に陥り、いつ命を狙われるとも知れない状況に常に気を張り続けた結果、不眠症を患ったのだ。


 だが昂った気が睡眠を妨げるようになって約七年後、彼は妃を迎えた事でようやく初めて安心して眠れる場所を手に入れる事になる。それは、彼女が血友病を発症するまで続いた。


 シーファスがユルングルの元に訪れるようになってから再びよく眠れるようになったのは、間違いなくユルングルが作るこの穏やかな空気のおかげだろう、とラン=ディアは思う。これがシーファスに皇妃を彷彿させたかどうかはともかく、実際、自分自身もこれに感化されたのだ。

 心の平穏を求めたシーファスが、この穏やかさに惹かれたのは当然の成り行きだろう。だとすれば、それを失ったシーファスが安眠を再び失うのも仕方のない事だろうか。


 ラン=ディアは、変わらず病床に伏すユルングルの顔だけを視界に入れているシーファスをちらりと見て、三度みたびため息をいた。


「…ユルングル様がお目覚めになるのは当分先です。それでもそれを続けるおつもりですか?」


 訊ねたが、返って来たのは沈黙だけだ。意固地なところはユルングルとそっくりだと、ラン=ディアは心中で呆れたように息を吐く。


 そんなシーファスに付き合わされるアレインに同情にも似た視線を送って、ラン=ディアは構わず処置を続けた。


 輸液をするためにユルングルの腕をまくって、針を入れる。もう何度も輸液を行っている所為か、日増しに細くなる腕に針の痕が痛々しい。腕に触れると、それはまだ冷たいと思える体温だった。

 ユルングルの頬に触れて、次いで首元にある総頚そうけい動脈で脈を測る。まだ少し脈は早いが、頻脈と言うほどではない。ラン=ディアは軽く安堵のため息を落として、椅子に腰かけ神官治療を開始した。


 目を閉じ、いつも通り自身の魔力をユルングルの体に流す。

 彼の魔力の流れは、正直生きているのが不思議なほど乱れに乱れていた。まるで糸が幾重にも絡まってほどけないような状況だろうか。これほどまでに乱れた状態でまだ命がある者を、各地を回ったラン=ディアですら見た事はなかった。


 彼は低魔力者ではあったが、生まれ持った体の能力自体は人よりもずいぶんと強いのだろう。

 だからこそ、これほどの低魔力でも瘴気に耐えてこられたのだ。


(…華奢な体に似合わず強いところは、シスカと同じ獅子だからだろうか。それとも原子の魔力に耐えられるほど強い体を持つ、あのユーリシア殿下と兄弟だからだろうか…)


 心中で人知れず問うたが、この答えを知っているのは世界の意思か聖女だけだろう。


 ラン=ディアは再び集中して、ひどく乱れた魔力を一つ一つ丁寧にほぐしていく。それは絡まった糸を丁寧に元に戻す作業によく似ていた。糸の流れを見極めて、通すべきところに糸を通して元に戻していく。一つ元に戻ったら、また新しく顔を出してきた絡みの玉を見極めて、またそこに糸を通す____そんな気の遠くなるような作業だった。


 いくらか乱れを元に戻したところで、ラン=ディアはたまらず大きく深呼吸して背もたれに体を預ける。

 この細かな作業は、精神を大いに使う。

 神経が擦り減って気疲れするので、一日にそう何度も行えない。何より急激に元に戻すとその反動が弱ったユルングルの体に負担をかけるので、じっくりと行う方がむしろ都合がいい。


 魔力の扱いが上手いシスカならば、三日あれば容易く元に戻せそうだが、今回ばかりはそれは逆効果なのだ。今この場にシスカがいない事が逆に助かったと言わざるを得ないだろう。


(…あれは言い出したら聞かないからな)


 呆れたようにひとりごちて、背もたれに預けた背と一緒に首も預けた事で自然と上を向いた顔に、腕を載せる。

 しばらくそのままで擦り減った神経の回復を待っていると、ふと視線を感じてラン=ディアは顔を起こした。


「…ユルングルの状態は悪いのか……?」


 どうやら疲れ果てたラン=ディアの姿を、病状が悪く途方に暮れていると受け取ったらしい。

 ラン=ディアは少々バツが悪そうに居住まいを正して、シーファスと向き合う形を取った。


「…そうではございません。良好、とは言い難いですが、現在はひとまず病状は落ち着いております」

「……そうか」


 言って、シーファスは小さく安堵したように息を落とす。


「…ユルングルは本当に目を覚ますと思うか?」

「目を覚まされないとでも?」

「私は医者でも神官でもない。お前に訊いているのだ、ラン=ディア」


 今日はよく話されるものだ、と内心ひとりごちて、ラン=ディアは小さく息を吐く。


「現状、何とも申し上げられません。頻脈はおさまりましたが、まだわずかに脈は速い。布団の中に発光石を入れて温めてはおりますが、体温も未だ低いままです。ユルングル様の体内の魔力の流れもひどく乱れておられる……一言で申し上げるならば、辛うじて生きている、と言った方がよろしいでしょう」


 発光石とは光と熱を発する魔道具だ。主に暖を取るための道具で寿命があり使い捨ての物だったが、寒がりなユルングルのために決して切らさぬようダリウスが多く用意していた物だった。


 シーファスはラン=ディアのあまりに身も蓋もない物言いに、わずかばかり眉根を寄せて軽く渋面を取る。


「…はっきりと物を言うのだな」

「安心を得たいのでしたら、嘘を申し上げますよ。ですが貴方が欲しておられるのは安心ではないでしょう」


 同じ神官でもシスカとはずいぶん対応が違うものだ、とシーファスは心中でたまらずため息をいて、言葉を続ける。


「…私が欲しいのは真実だ。ユルングルの病状の事で私に話していない事があるだろう」

「……!」


 痛いところを突かれた、とラン=ディアは軽く眉根を寄せる。

 思えばユルングルの異常なまでの勘の良さは、この皇王シーファス譲りなのだ。いらぬ心配をかけさせまいと黙ってはいたが、その努力が水泡に帰したことをラン=ディアは悟って、諦めたように息を落とした。


「…処置中、ユルングル様の心臓は一度、その機能を停止いたしました」

「……!」


 これにはシーファスだけではなく、後ろに控えていたアレインも目を瞬く。そして同時にユーリシアとの会話を思い出して、これのことかと得心した。


「……どれくらいだ…!止まっていたのは……自己心拍が再開したのはいつだ…!」

「…心臓が止まっていたのは約四分間です」

「…四分………!」


 それだけで、楽観視できるような状況でない事をシーファスはすぐに理解したようだった。


「…陛下は医学に明るいようですね」

「…興味がてらシスカに色々と話を聞いた程度だ。……この子は赤子の頃、二度心臓が止まった経緯がある」

「…承知しております」

「この子の心臓は…持つのか…?」

「…『生きるか死ぬか』と言う意味でしたら持ちます。ですが心臓機能の低下は免れないでしょう」

「…いつまでだ……?」

「生涯」


 ぴしゃりと答えたラン=ディアの言葉に、シーファスは言葉を失って茫然自失となる。

 一度勢いに任せて立ち上がった体を悄然と椅子に預けて、シーファスは未だ意識の戻らないユルングルの姿を視界に入れた。


「…この子は一生、弱った心臓で生きなければならないのか……」


 それには、ラン=ディアは何も答えなかった。


「…脳への障害はあると思うか?」

「…それは___」

「もちろんラン=ディアの私見でいい。…こればかりは誰にも予測はできないと承知している」


 シーファスの声は意外に穏やかだった。

 ユルングルだけを見つめて、静かに、そして丁寧に言葉を落としている。それは諦めにも似た心境なのかもしれない、とラン=ディアは心中でシーファスをおもんばかったが、彼を安心させる言葉が口を突いて出る事はなかった。


「…申し訳ございませんが、私には陛下をご安心させる言葉を見つけられそうにありません」


 彼が今求めているのは真実ではなく安心だ。それが判っても、ラン=ディアは嘘をつけなかった。

 嘘で一時の心の平穏は得られても、実際ユルングルに脳への障害が残ったと判れば、一度安心した分その落胆は大きくなる。すでに心臓に障害が残ると知らされているのだ。二重でその事実を受け止めなければならない時、嘘で塗り固めた安心はそれがない時よりもさらに心に堪えるだろう。


 そういう患者やその家族を今まで幾度も見てきたラン=ディアには、嘘をく無責任な行為はどうしても出来なかった。


(…俺も意固地なところは同じ、か)


 たまらずラン=ディアは心中でひとりごちる。

 シーファスはそんなラン=ディアを軽く一瞥して小さく笑みを落としながら、そうか、と短く返答した。

 そうして、おもむろに口を開く。


「……私は何のために、この子を手放したのだろうな……」

「……それは、シスカに対する侮辱と捉えますよ」


 手放すことを提案したのは、他でもないシスカだ。

 それを悔いるという事は、シスカの提案を愚策だと罵る事に他ならない。


 軽く眉間にしわを寄せるラン=ディアに、シーファスは困ったような笑みを落とした。


「…すまない、そういう事ではないのだ。ただ……ただ私は、この子に辛い思いをさせただけなのではないかと思ってね……結局私は、この子を守ってやることができなかったのだ。……情けない親だな、私は」


 己を悔いるように、シーファスは悄然と息子を視界に入れる。

 ラン=ディアは一度何かを言おうと口を開いたが、依然ユルングルの手を握っているシーファスが目に入って、逡巡したのち口を噤んだ。

 これ以上言っては、酷と言うものだろう。


 ラン=ディアは小さく息を吐いて、シーファス同様ユルングルを視界に入れる。

 未だ意識を失ったままのユルングル。その顔はまだ軽く青白い。

 いつになれば彼は目覚めるだろうか。

 十日ほど、と言ったが正直自信はない。

 できれば早く目覚めてほしい、と思う。

 安心を得たいのだ。自分も、そして彼らも____。


(そうでなければ、皆自分を責め続ける…)


 悔やみ、苛み続けるのだ。彼が目覚めるまで____。


 願わくば、一日でも早く彼が目覚める事を。そう、願わずにはいられなかった。


**


「旦那って間違いなく武人だよな。傭兵じゃなくてさ」


 あっけらかんと的を射た言葉を吐く男を一瞥して、ウォクライは内心にある動揺を隠すように小さく視線を逸らす。


(…正確には騎士だが……)


 戦いを専門としている、と言う意味では同じだろうか。


 藍色の髪を持つこの男は、ミシュレイ=アーシュレイと名乗った。

 なぜだか妙に懐かれて、宣言通り魔獣狩りの時などは必ず近くにいるのだが、自分で大きな口を叩いた通り確かに彼は強かった。


 純粋な『力』と言う意味では、やはり高魔力者と比べて見劣りはするが、彼の真骨頂は力ではない。その身軽な素早さにあった。

 体型はやや細い方だろうか。だが痩せ細った、と言うよりも極限まで絞った体、と言った方が表現に合うかもしれない。そう思えるほど、彼の体は柔軟な筋肉質で覆われているように、ウォクライは感じた。

 全身がバネのようで、細い体を軽々と宙に浮かせて素早く攻撃をする。双剣、というのは彼の特性に一番合った武器だったのだろう。相手をその素早さで翻弄し、高魔力者が一撃を終えるまでに、彼はその双剣で同じ場所に十の追撃を行う。その基本的な動きは低魔力者が得意とする戦い方だったのだが、彼の場合その威力は、高魔力者の一撃よりも遥かに上をいく事は想像に難くないだろう。


 彼の剣は、『虚』の剣でありながら、『実』の剣でもあるのだ。

 正直彼とまともにやりあって、勝てるとは到底思えなかった。


(…ユルングル様以外にも、これほど強い低魔力者がいようとは……)


 ミシュレイには悟られぬよう、心中で感嘆の息を漏らす。素直に伝えないのは、彼のお調子者な性格をあまり好ましく思わないからだろうか。


「……そういうあんたこそ、普通ではないな」


 結果、持って回った言い方になったが、ミシュレイには忌々しい事に伝わったようだ。


「あ、強いって事?嬉しいねえ!旦那に褒められるとさ!」


 それには沈黙をもって返答とする。


 ここ、ソールドールに着いてから今日で十三日目だ。

 不覚にも彼の家の隣に居を構えた事で、引っ切り無しに彼は家に入り浸るようになった。なぜ、これほど懐かれたのかは正直自分でも判らない。どちらかと言うと不愉快さを前面に出して接したつもりだったが、彼にはどうやら通じなかったらしい。


 それどころか家にやってきては食事の準備やら部屋の片付けなどで、なんやかんやと世話を焼いてくれるので追い出すに追い出せなくなった。

 今も勝手に家に入って来て、なぜかベッドの搬入まで手伝ってくれるので、辟易しながらも邪険に扱えないような関係がすでに出来上がってしまっている。


 ウォクライは不承不承とため息をついて、今しがた運んだばかりのベッドに視線を移した。


「これで最後?」

「ああ、これでおしまいだ」

「やった!休憩だっ!俺、お茶淹れてくるわ!」


 だからどうして人の家の調理場を我が物顔で使うのだ、と内心でたまらず愚痴をこぼしたが、してもらっている立場なので思うに留める。


「旦那はさ、いつまでここにいるつもりなんだ?」


 お茶を差し出しながら、ミシュレイは問う。


 いい加減そうな外見と話し方とは裏腹に、彼は意外にマメで世話好きな男だった。正直、今まではしてもらう立場だったので、自分で家事などろくにした事のないウォクライにとっては非常に有り難い存在だった。

 難を言えば、この軽妙な語り口と、それに伴って嫌に詮索好きなところだろうか。加えて言うならば、本人の自覚なく勘が鋭いところも面倒な事この上ない。


「…特に決めてはいない」

「でも家族を呼ぶんだろ?定住する気はねぇの?」

「…さあな」


 定住する意思はユルングルにはないだろう。

 『一時的に』と彼ははっきり告げていた。それでも返答を有耶無耶にしたのは、わざわざ告げる必要がないからだ。


「…旦那って秘密ばっか抱えてんのな。ここに呼ぶ家族って、どんな大貴族なんだよ」


 だからどうしてさらりと確信を突いてくるのだ、と内心で動揺を隠して、ウォクライは嘆息を漏らす。


「できれば旦那にはさ、ここに定住して欲しいんだけどなぁ。多分みんなも思ってんじゃねぇの?」

「…何の話だ?」

「知ってるか?旦那が魔獣討伐に加わってから、一度も負傷者が出てねぇんだぜ。みんな旦那のおかげだって、口を揃えて言ってるよ」


 この街に来てから、ウォクライは三度の魔獣討伐に加わった。


 一度目は、終始様子見に徹した。

 負傷者を出さない事だけを目的に動いて、あとはとにかく魔獣討伐に集まった傭兵たちの個々の能力を見定めた。

 二度目は見定めた能力を元に、傭兵たちに指示を出した。

 最初は渋った傭兵たちだったが、他ならぬミシュレイが素直に指示に従ってくれたおかげで、傭兵たちも不承不承と指示に従うようになった。常連と言うだけあって、古参の傭兵からは信頼が厚いらしい。


 元々、彼らは一匹狼である傭兵たちの集まりなのだ。どれだけ個々の能力が高くても、各々の判断で好き勝手に動くだけの烏合の衆なので、連携も何もあったものではない。

 手柄が欲しくて味方同士で争う場面を目の当たりにした時は、さすがのウォクライも頭を抱えた。まだ子供の面倒を見る方がましかもしれない、と思ったことは、口が裂けても彼らには言えないだろう。


 だからこそウォクライは、協力して動くことを覚えさせた。各々の判断ではなく、隊として一つの思考の元、動くように指示したのだ。

 烏合の衆から軍隊のような動きに変わった彼らの戦力は、大幅に上がったと言わざるを得ないだろう。あれほど苦戦を強いられていた魔獣討伐は、当然討伐にまでには至らないものの、追い払うまでにかかる時間も苦労も目に見えて減少した。負傷者に至ってはこの三度の討伐で一人も出してはいない。


 そうなれば当然、三度目の討伐では誰もがウォクライの指示を待った。

 魔獣の特性などは、その都度ミシュレイたち古参の傭兵から情報を集め、それに合わせて戦略を立てるので、なおさら追い払うのが楽になった。

 ウォクライの見事な戦略と的確な指示で、彼は傭兵の中でも一目置かれる存在になった事は、言わずもがなだろう。


「…たまたまだ」

「そんなわけねぇよ。あんた人を使い慣れてるって感じだもんな。どっかで団長でもしてたんじゃねぇの?」


 ここから素性が知れたのか、と内心ひとりごちて視線を逸らす。


「…指示ができる傭兵だっているだろう」

「いるけど旦那ほど的確じゃねぇよ。何で団長やってた旦那が傭兵なんてやってんのさ?」

「…勝手に人の素性を断定するな」


 もうこの話題は終わってほしい、とウォクライは小さく息を漏らす。


「…何でそんなに秘密にするんだよ。なんかやましい事でもあんの?」


 あまりにしつこいので、ウォクライはたまらず持っていた湯呑を卓に置いて、盛大にため息をいた。


「…あのな、あまり詮索をするな。傭兵稼業なんてやっている者は誰だって多かれ少なかれ誰にも聞かれたくない事くらいあるものだろう」

「旦那にもあんの?聞かれたくない事」


 その質問には答えない。代わりにミシュレイに質問を返した。


「…ならあんたはどうなんだ、ミシュレイ?どうして傭兵になったのか聞かれても困らないのか?」

「俺?…俺は……」


 思案するような仕草を見せて言葉尻を濁すミシュレイを、ウォクライはそれ見た事かと軽く一瞥する。

 誰にだって知られたくない事の一つや二つあるものなのだ。それを詮索する者は、逆に詮索される側になると途端に口を噤む。

 これで少しは静かになるだろう、と軽く安堵して湯呑を口に運んだところで、ミシュレイはぽつりと呟いた。


「…俺は、天涯孤独になったからさ。これしか生きてくすべを知らねぇんだよ」

「……!」


 いつもの軽妙な語り口ではない。

 穏やかと言っていいのか、静かと言っていいのか判らない落ち着いた口調で、だが表情はいつもと変わらないように見えたが、ウォクライには少し寂し気に映った。

 それが嫌に、その言葉に真実味を持たせる。


「……親兄弟はいないのか?」

「いたんだけどさ、母親は高魔力者で俺たちを捨てて出て行ったよ。…俺が六つの時だったかな。生まれた弟まで低魔力者で、親父もそうだったからさ。三人も抱えたくなかったんだろうなぁ。おまけに生まれた弟は心臓が弱かったからさ。面倒見切れなくて弟が3歳になった頃に親父も出てったよ」

「…最低な親だな」


 思わず出たウォクライの言葉に、ミシュレイはいつもと変わらぬ笑い声を出す。


「ははっ!あんまり悪く言わないでやってよ。この国は低魔力者に冷たいからさ。おまけに親父はお人好しですぐ人に騙されてさ、金なんて全然貯まんねぇんだもん。やっと稼いだ金も全部弟の治療費に消えたし、親父も疲れたんだよ、きっとさ」


 父親が出ていく日、ミシュレイの頭を撫でながらずっと謝っていたことを覚えている。

 涙を流しながらしきりに、すまない、すまない、と_____。


 遠い目で過去を見つめるように、窓から見える景色に視線を向けているミシュレイに、ウォクライは静かに声をかける。


「……弟さんは?」

「死んだ。あいつが10歳の時に心臓発作で。…その二年後に野垂れ死んでる親父も見つけた。その時思ったんだ。…ああ、俺は本当に、一人きりになったんだなぁ、って……」


 視線は変わらず窓に向けたまま、だがそれでも彼の表情がいつもと違う事は判った。

 いつもの賑やかな声とは一変して抑揚のない静かな語り口は、彼の心から溢れ出た声だろうか。


 何となく聞いてはいけない事を聞いてしまったような罪悪感に捉われて、ウォクライはたまらず視線を逸らす。

 そのウォクライの耳に、いつもの軽妙な彼の声が戻ってきて、再び彼を視界に入れた。


「…だからさ!自由に生きる事にしたんだよ!せっかく生きてんなら好きな事やんなきゃ損だろ?」


 そう言って、ミシュレイはいつもの少年のような笑顔を見せる。

 そのいつもと変わらぬ声と表情に、ウォクライは無意識にか安堵のため息を落として、そんな自分に軽く驚いた。


(…まさか彼の賑やかな声を聞いて安堵する事があろうとは……)


 軽くひとりごちて自嘲気味に笑みを落とすと、ウォクライは「そうだな」と短く返答する。そうして、おもむろに立ち上がって、棚から一つの革袋を出した。


「ミシュレイ」

「……!」


 投げ渡されたその革袋を受け取って、ミシュレイはいぶかしげな表情を見せる。

 見なくてもそれが何かはすぐに判った。革袋の中身は金だ。それもかなり多い。

 ずしりと重みのある革袋を、ミシュレイはあからさまに不快気を表現したその瞳で見据えた。


「…何これ?俺、別に同情を誘ってこの話をしたわけじゃねぇし、施しを受けるつもりもないんだけど?」

「同情でも施しでもない。元々渡そうと思っていたものだ。私の所為であの母娘を抱える羽目になっただろう。その詫びだ」

「……!」


 この街では『魔獣討伐に寄与する』以外にも、不自由なく暮らせるもう一つの条件がある。

 それは『魔獣討伐に寄与する者』に養ってもらう事だ。

 そう言えば聞こえはいいが、実際は奴隷か娼婦に身をやつす場合が多い。体を売って、身の安全を図るのだ。


 ミシュレイの作った低魔力者の村落は事実上、武器製作を生業にしているので、魔獣討伐に寄与している扱いにはなっている。足りない資金はミシュレイの傭兵報酬を当てているのだが、あの母娘は間違いなく、ただ養われているだけの存在になるだろう。

 それでも彼女たちを受け入れると決めたのは、捨てられた過去があったからだろうか、とウォクライは思う。


 ミシュレイは革袋をしばらく見つめた後、ウォクライに視線を移した。

 その眼差しが何やら懐かしいものを見ているような気がして、なぜだか妙に落ち着かない。


「…何だ?」

「…やっぱり旦那って、俺の親父にそっくりだわ」

「…………は!?…よしてくれ!子供を捨てた親に似てるなどと言われたくはないし、あんたみたいに大きな息子がいると思われるのは心外だ!」


 自分はまだ45だ。30前後の子供がいると思われるほど老けているとも思っていない。

 失礼な話だと憤慨して、いつもは無表情な仏頂面に眉間のしわを作ったが、ミシュレイにはそれがことさら面白いのかケラケラと笑う。


「そう言わないでよ。俺、親父大好きだったんだからさ」


 そうして満面の笑みで告げるミシュレイを視界に入れて、だからこれほど懐いていたのか、とウォクライは不承不承と得心した。

 非情に腹立たしい話だが、先ほどの話を聞いた後では邪険に扱えない。


 ウォクライは不快気な表情を取りながらも、反論の言葉を失って嘆息しながら窓に目線を映したところで、覚えのある鳥の鳴き声とその姿に気づく。


「…!…ルーリー…?返ってくるのがずいぶんと早いな……」


 いぶかし気に扉を開いて、ウォクライはルーリーを招き入れる。

 六日前に文をつけてユルングルの元に帰したばかりだった。ルーリーの足では片道に約三日かかるので、とんぼ返りした計算になる。


「鷹?…大きいねぇ!かっこいいな!」

「手を出すなよ。末の弟と私のすぐ下の弟二人にしか懐かないからな」


 嬉々として口笛を軽く鳴らしながら近寄るミシュレイに、ウォクライは忠告を入れる。


「…旦那も触ってるけど?」

「文を届けるのがルーリーの仕事だ。文を取るまでは我慢して大人しくしている」

「ふーん…ってか旦那って何人兄弟なわけ?」

「四人だ」


 淡々と答えながら、ウォクライは心内に広がる胸騒ぎを抑えるのに必死だった。


(…これだけ早いという事は、ユルングル様に何かあったのか…?)


 元々、十日ごとに定期報告をする予定だった。

 だがこれだけ早く帰ってくるという事は、不測の事態が起きた、という事だろう。そしてこの場合、十中八九ユルングルの身に何か起きた可能性が高い。


 ウォクライは震える手を抑えながら、たどたどしくルーリーの足に結ばれている文を取り外す。

 ミシュレイはそんな様子のウォクライをいぶかし気に見ていたが、文に目を通していた彼がさらに蒼白な顔になったので、なおさら目を瞬いた。


「…おい…!どうしたんだよ、ウォクライの旦那…!何か良くない知らせか…!?」

「…………末の弟の病状が悪化した。…危篤らしい」


 茫然自失となって、ウォクライはぽつりと言葉を落とす。その目線は文に落としているはずなのに、まるで宙を泳ぐように定まらない。たまらず口元を手で押さえて、何度も何度も文に書かれた『危篤』の文字に目を通した。

 見間違いであってほしいと願って何度も見返したはずなのに、『危篤』の文字が視界に入るたびに現実を突きつけられてウォクライは愕然とする。


 そんなウォクライの動揺が手に取るように判って、ミシュレイもまた同じく動揺したように声を荒げた。


「…何してんだよ!帰るんだろ!!準備手伝うから早くしろよ…!!」


 慌てて立ち上がってウォクライの自室に向かおうとするミシュレイに、ウォクライは軽く思案した後、静かに告げる。


「……いや、いい」

「……?…いいって……?」

「…帰る必要はない。私はまだここでする事がある」

「…!何言ってんだよ!!弟だろ!!帰ってやれよ…!間に合わなくなるぞ!!」

「あの子は死なない」

「……!」


 ぴしゃりと言われて、ミシュレイは思わず閉口する。

 視界に入ったウォクライの表情は、先ほどの青ざめたものではなく妙に落ち着き払って確信めいたものを胸に抱いたような顔だった。


 ウォクライは自身の心を静めるように一度深く息を落とすと、再び文に視線を落とす。

 これはダリウスの文字だ。

 彼は、こちらに戻らず任務を続けるように、と文につづった。そうして、こう括られていた。


『ユルングル様がお倒れになる事は、ご自身でも承知なさっている事。決して命を落とすことはございません。ご心配でしょうが、ウォクライ卿にはユルングル様のご指示通り任務を遂行なさっていただきたく存じます。どうぞ、あの方を信じてください』


 赤ん坊の頃からずっとユルングルの傍に居続けたダリウスが一番、倒れたユルングルに心を痛めているだろう。そう思うのは、ダスクと共に何年にも渡って何度も彼らを訪問したからだ。幼いユルングルを、彼は侍従という枠を超えて本当の弟のように想っていた。


 その彼が、信じると言うのだ。

 ならば自分も信じなくてどうするのだ。


 ウォクライはすぐさま承知した旨と「信じる」の一言を添えた短いふみをしたためると、ルーリーの足に結んで彼女を見送る。

 ウォクライと共にルーリーを見送っていたミシュレイは、遠慮がちに静かに声をかけた。


「……いいのか?後悔しないのかよ…?」

「後悔はしない。弟は強いからな。必ずこのソールドールで会える。私はそう、信じている」


 言ったウォクライの横顔を、ミシュレイは視界に入れる。

 そこに不安を見て取ることはできなかった。ルーリーの去った空を見据えるその瞳には、末の弟とこの街で会う未来を同時に見据えているのだろう。

 それは祈りや希望などではない。確実に会えると信じている者の目だ。


 ミシュレイは途端に心配するのが馬鹿らしくなって、思わず笑みをこぼす。


「…!…何だ?」

「…いや、旦那は親父に似てるけど、似てないなぁと思って」

「……?何だそれは?」

「いい、いい!こっちの話!」


 いぶかし気に眉根を寄せるウォクライに踵を返して、ミシュレイはひらひらと手を振る。


 自分の父親もウォクライほど心が強ければ、自分たちを捨てることはなかったのだろうか。

 何とはなしに、ふとそんな疑問が頭をよぎったが、きっとその答えは誰にも判らないのだろう。例え判ったところで、今さらどうしようもないのだ。


 ミシュレイはその疑問を払拭するように、怪訝そうにしているウォクライに笑みをこぼす。


「さ!座って、座って!また熱いの淹れ直すからさ、お茶にしようよ!」

「……そうだな」


 ウォクライもまた笑って、立ち上がった時のままになっている椅子に腰かけた。


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