聖女からの声
どうしてこうなったのだろうとティーナは思う。
最初はただただ腹立たしかっただけだった。
他の令嬢と仲睦まじく笑いあっている皇太子の姿が偶然目に入り、ミルリミナの前で見せる冷淡な表情とあまりにかけ離れ過ぎていてどうしようもなく怒りが込み上げてきた。
(あんな顔、お嬢様の前では一度だってお見せにならなかったのに…っ)
あれが本命の令嬢なのかと思ったら、たとえ不敬罪に問われても一発殴らないと気が済まなかった。
そうしてティーナは怒りに任せて皇太子がいる庭園に向かったのだ。
本来であれば今頃は護衛の騎士に捕まり牢屋に入れられている事だろう。それがなぜか皇太子の執務室で、おいしい紅茶を出され丁重に扱われている。
「…落ち着いただろうか?」
心配そうにこちらを窺う皇太子の左頬は赤く腫れている。他でもない自分が平手打ちをくらわしたからだ。
ティーナは目の前にいる皇太子が、自分の知っている皇太子とあまりにかけ離れていてひどく困惑していた。怒声を上げて横柄な態度でも取ってくれればいいものを、変に優しくされるため赤く腫れあがった皇太子の頬を見るたびに罪悪感が疼いて仕方がない。
「……私は謝ったりしませんから…っ。お嬢様を傷つける人はたとえ皇太子さまでも許しません!」
自分でもあまりに不遜な態度を取っていると思う。思うがもう後には引けない。
紅茶の入ったカップを握りしめて、皇太子の不快感を露わにした顔を想像しながら相手の言葉を待ったが、その返答はあまりに意外なものだった。
「…ああ、ぜひそうしてくれ。君のような侍女がミルリミナの傍にいてくれれば私も安心だ」
見れば穏やかな微笑みを自分に向けている。ティーナはその笑顔でさらに混乱してしまった。
「あの……お判りですか?…私は皇太子さまのお顔をぶったのですよ……?」
「?ああ、あれはさすがの私でも痛かった。小さいのに君は力があるのだな」
「……おまけに謝罪まで拒否したんですよ……?」
「ミルリミナを想って行動したのだろう?謝罪など必要ない」
「…なのになぜ笑っておいでなのですか……?」
「?笑ってはいけない理由があるのか?」
「………………?」
あまりにかみ合っていない会話に、ラヴィはたまらず口を挟んだ。
「…申し訳ありません、ティーナ。ユーリシア殿下はこういうお方なのです」
「……こういう……?」
言われてティーナは、ラヴィの顔からユーリシアに目線を戻す。
(…ああ、そうか)
このユーリシアという人物は愚鈍なまでに己に正直なのだ。
自分が悪いと思えば下の人間だろうと頭を下げるし、主の為に自分をぶった侍女ですらその心意気を汲んで許してしまう。己に正直で、馬鹿がつくほど正義を全うしようとするその人柄に、ティーナは内心呆れ返ってしまった。
(…これでは威厳も何もあったものではないわ。仮にも一国の皇太子がこれほど甘くていいのかしら?皇王になれば正義だけではどうにもならない事はたくさん出てくるわ。それこそ正義とは程遠い事もしなければならない。このお方はそれに耐えられるのかしら…?)
そう思いつつも、今目の前にいる人物が好ましい人柄である事に違いはないだろう。だからこそ、多くの者に慕われているのだ。
「…先ほど庭園でご一緒されておられた方はどちらのご令嬢ですか?」
「…ああ、アーノルド子爵令嬢だ。先ほど『本命』と口にしていたが、私にはそもそも『本命の令嬢』というものは存在しない。五年前にミルリミナが私の婚約者になってから、後にも先にも私の婚約者は彼女だけだ」
まっすぐな瞳でティーナを見据えるユーリシアに、嘘偽りがない事をティーナは悟る。
「…それと、彼女を名で呼ぶ事をどうか許してほしい。ミルリミナの望みでもあり、何より私が彼女をそう呼びたいのだ」
「!」
愛おしそうにそう告げる皇太子の姿に、ティーナは不覚にも心を掴まれる思いだった。
おそらく皇太子は、ミルリミナに対する特別な感情からこの言葉を発したわけではないのだろう。今までミルリミナに何の興味も持っていなかった事も、今のこの態度が罪悪感からくるものだという事も、ティーナは承知しているつもりだ。決してミルリミナに好意を抱いているというわけではない。
なのにこんな台詞をこんな表情で口にしてしまうのか、とティーナは内心狼狽する。ミルリミナが聞けば、きっと勘違いしていただろう。
(…天性の人たらしなのね)
この容姿で本人の自覚なく、こういう事を口にしてしまう皇太子に、多くの令嬢がときめいてしまう事も確かに頷けた。
「…コホン。…承知いたしました」
なぜだかティーナが照れてしまって、わずかに赤らんだ頬を紛らわすように小さく咳払いをする。
「ですが今後お嬢様を傷つけたときはご容赦いたしませんので、ご覚悟くださいませ」
「ああ、肝に銘じよう」
「…では、職務に戻りたいと存じます。お忙しい中、皇太子さまのお手を煩わせてしまい深くお詫びいたします。若き太陽に光があらんことを」
深々と頭を垂れ、ティーナは執務室を後にする。
事務的な挨拶とは裏腹に、その表情はとても晴れやかに見えて、ユーリシアはほっと胸を撫で下ろした。
「…嵐のような娘だな」
「…そのようですね」
お互いに顔を見合わせ失笑する。
彼女のミルリミナに対する真摯な態度が好ましい。心から彼女を慕い仕えているのだろう。少なくとも主の為に皇太子の頬をぶつ侍女など見た事も聞いた事もなかった。その度胸と忠誠心には畏敬の念を抱かずにはいられない。
「今日はミルリミナのところには行かないほうがいいだろう。これでは彼女が心配する」
言って左頬を指さす。赤く腫れた頬はまだ痛そうだ。
「氷を用意いたしましょう」
「いや、放っておいても明日には落ち着く。その程度のものだ」
「ですが外聞がございます。仮にも皇太子殿下が左頬を腫らせたままでは皆が動揺いたしましょう。噂が広がればティーナを処罰せよと声が上がるやもしれません。幸い本日のご公務はあと、この書類の山に目を通すだけです。できるだけ人目に触れない方がよろしいかと」
「…そうか。それもそうだな。では…」
「失礼いたします」
ユーリシアの言葉を遮るように一人の侍従が扉の外から声をかける。入るよう促すとその手には氷が入った袋とそれを包むために使用するであろうタオルを所持していた。
「…それは?」
ラヴィが尋ねると侍従は少し困惑したように答えた。
「ミルリミナ様の侍女と名乗る方がこちらに氷とタオルを持参するよう補佐官から申し付かったとお聞きしたのですが…?」
「…!」
ラヴィとユーリシアは目を丸くし、顔を見合わせた後、声を出して笑い出す。
「これは恐れ入った!」
ひたすら笑い続ける二人の姿に、侍従は訳も判らずただただ困惑するのだった。
**
「…今日は満月なのね」
ミルリミナは窓を開けて空を仰いでいた。
時間は夜更け過ぎ。ティーナを自室に下がらせてからだいぶ経つ。いつもならすでに眠っている時間なのだが、久しぶりに会ったティーナとの会話が楽しく、いまだ興奮が冷めやらぬのか眠気が襲ってこないので暇を持て余した結果、こうして月を眺めているのだ。
ティーナがいなくても自分で窓を開けて月を仰げることに、ミルリミナは心底感動している。
こうして自室であれば行きたい所に自分で行けるようになったのは、ユーリシアから貰った『車いす』のおかげだ。
三日前、突然ユーリシアがこの『車いす』を持って訪れたときは一体何事かと驚いた。聞けば他国では足の不自由な人の為に車輪のついた椅子があるのだそうだ。それを知ったユーリシアは早速その国から『車いす』を取り寄せたらしい。
自分の為にそこまでしてくれた事を嬉しく思う一方、申し訳なさでいっぱいになる。これほどの手間を取らせてしまった事、本当は嬉しいはずなのにそれをうまく表現できない事、なによりせっかくの贈り物を申し訳ないと思いながら受け取るしかできない事に、ミルリミナは落ち込んだ。
そんなミルリミナの心中を慮って、ユーリシアは優しく告げる。
「ミルリミナ、これはお詫びのしるしだ」
「…お詫び?」
「私は貴女の婚約者でありながら今まで一度も貴女に贈り物をしなかった。是非ともそのお詫びをさせてほしい。私を許してくれるというのなら、これを受け取ってはくれないだろうか?」
これはあくまで詫びの品であって、ミルリミナが申し訳ないと思う必要はないと暗に伝えているのだろう。ユーリシアらしい言い回しだ。
それが判ってミルリミナはくすくすと笑い出す。
「では、ありがたく頂戴しなけばなりませんね。…大切に使わせていただきます」
「…ああ。これからは貴女にたくさん贈り物をしよう。この五年分の贈り物もするつもりだから覚悟しておいてくれ」
「…はい、楽しみにしております」
そう返したが、もう受け取る事はないだろうとミルリミナは内心でひとりごちる。
教会に行く前日には婚約解消を申し出るつもりだ。婚約者でなくなれば贈り物を受け取る理由も、そもそも贈り物を贈られる理由もなくなる。この『車いす』が、最初で最後の贈り物だろう。
そう思いながらも、ミルリミナは笑顔でそう答えた。ユーリシアの気持ちが嬉しく、今だけは婚約者でありたかったから。
窓から入ってくる夜風がミルリミナの頬をなでる。冷たい風が火照った体に心地いい。
(…私の教会行きは決まったのかしら?)
今日その日程を教会側と話し合うと聞いていたが、ユーリシアが顔を見せる事はなかった。きっと土地の魔力枯渇の件で忙しいのだろう。
(私が聖女様の力を使えるようになれば解決できるのかしら?)
夢の中で聖女は力を授けると言った。だがあれから一か月経つが未だその兆しが見えない。
皇宮医の話では自身の体に癒しの力を使って傷を治しているそうだが、まるで自覚はなくミルリミナにとっては自然治癒力によって治っている感覚だ。
(…本当に私に聖女様の力が宿っているの?)
皇宮の侍女たちは自分をまるで神でも崇めるように接してくる。そうされるたび聖女の力が使えない事に罪悪感を覚え、さらに居心地が悪くなった。
ティーナが来てくれた事は、そんなミルリミナにとって心底有難かった。自分を聖女ではなく、以前と変わらずミルリミナとして接してくれるのが、今は新鮮でくすぐったい。今ではもう、自分をミルリミナとして見てくれる人は数少ないだろう。
(これからは覚悟しなければならないわ。きっと教会の人間も市井の民も私を聖女として扱う。それだけの重責を私は背負わなければならない。…私にそれが務まるのかしら?)
考えれば考えるほど不安に押し潰されそうになる。これでは余計に眠れない、と嘆息を漏らして、ミルリミナは悄然と月を仰いだ。
あれから聖女は一切接触してこない。未だ聖女が自分に何をさせたいのか判っていないのだ。
(…だめだわ。起きていたら余計な事ばかり考えてしまう。…悪い癖ね。…もう寝ましょう)
ミルリミナは窓を閉め車いすをベッドに向かわせる。
その時だった。
(…教会へ行きなさい)
「!」
心に直接話しかけられたその声に、ミルリミナは聞き覚えがあった。
(教会で待つのです。貴女を導く者が現れます。そうすれば自分が為すべき事が判るでしょう)
「…聖女様!?待って下さいっ!私は何をしたらいいのです!?私には本当に聖女様の力が宿っているのですか!?」
あれから初めての聖女からの接触。それはミルリミナの体内に聖女が確かに宿っているという証左でもあった。
ミルリミナはその声が消えてしまわぬよう必死に問いかける。聞きたい事は山ほどあるのだ。
だが、いくら待ってもその返答が返ってくる事はなかった。
「……聖女様…私は、どうしたらいいのですか……?」
答えが帰ってくる事のないその問いかけは、ただ虚しく部屋にこだまするだけだった。