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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第二部 暗雲低迷

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ユルングル危篤の報

 その日夜遅く、ユーリシアは人の気配で目が覚めた。


 夜遅くの来訪者は決まって、悪いものと決まっている。

 ゼオン達は賓客として皇王の直系のみが住まう白宮に部屋を用意されていたが、ここは基本、皇族であれば誰でも入れるのだ。ユルングルの命を狙ったのが皇族である以上、用心するに越したことはない。


 ユーリシアはおもむろに、枕元にある剣に手を伸ばす。剣鞘を左手で持ち、柄にそっと右手を添えたところで、小さく遠慮がちに扉を叩く音が聞こえた。


「…誰だ」

「…ユーリシア殿下、私です。アレインです」


 潜めた声で名乗った名に、ユーリシアは弾かれるように扉に向かう。

 そっと扉を開けて招き入れ、洋灯ランプに火を灯した。


「…どうした…!父に何かあったのか…っ!」


 声を潜めて、だが不安を噛み殺すように眉根を寄せてユーリシアは問う。

 その問いにアレインは小さくかぶりを振りながらも、渋面を取ることはやめなかった。


「…陛下ではございません。兄君の方です」

「……!?」


 わずかに逡巡しながらも、だがはっきりと伝えたアレインの言葉に、ユーリシアは目を瞬く。


「……ユルンに、何かあったのか……?」


 小さく手が震えて、声が上ずる。

 父である皇王に何かあったと聞かされるよりも、ユルングルに何かあると言われる方が嫌に現実味を帯びて、ユーリシアはどうしようもないほど不安が掻き立てられた。それは、彼が置かれている状況をよく理解しているからだ。

 命を狙われている、という事ではない。彼の病が、いつ命を奪ってもおかしくない状況だと承知しているからだった。


 嫌な想像を振り払うように、そして自身を落ち着かせるように手で口元を抑えるユーリシアを視界に入れて、アレインは言葉を続ける。


「…本日午後、発作を起こされました」

「…ひどいのか?」

「予断を許さぬ状況です。全体の四割近い血液を失い、出血性ショックを起こされていると」


 四割、とユーリシアはアレインの言葉を口の中で小さく反芻する。


「シスカ様から採血された血液を輸血いたしましたが、未だ500足りぬ状況です。ひとまず出血性ショックの症状は落ち着いたそうですが、一度、急速に四割近い血液を失ったことで多臓器不全が起こる可能性があるそうです」

「…そうなれば、助からない……か」


 ユーリシアの言葉に、アレインはただ頷く。


(…多臓器不全だけではない。回復する前に再び発作が起きれば、その時も……)


 その可能性を想像して、ユーリシアはたまらず渋面を作って瞳を閉じる。

 彼は低魔力者だ。その中でも極端に魔力が低い。それは大気に漂う瘴気に、常人よりも多く晒されている、という事だ。

 弱った体に、その瘴気は耐えられるのだろうか。

 例え多臓器不全を起こさなくても、あるいは発作が起きなくても、次はこの瘴気がユルングルの命を奪ったりはしないのだろうか。


 考えれば考えるほど、悪い方向にばかり意識が向いて心が落ち着かない。

 ユーリシアはその考えを振り払うように小さくかぶりを振ったが、不安だけは心の奥深くに根を張ったままだった。


「…父は、ユルンの傍に…?」

「はい、兄君が目を覚まされるまではお傍を離れないおつもりのようです」


 そうだろう、とユーリシアは思う。

 父はとにかく家族をこよなく愛する人物だった。

 どれほど皇王の公務が忙しくても、息子である自分に対して愛情を疎かにしたことは一度たりともない。話でしか知らないが、母が病に伏した時も公務の合間を縫って、そして体を休める事も忘れるほどに看病し続けたと言う。

 それほど愛情深い人が、今のユルングルから離れるとは到底思えなかった。


「……では、陛下は体に不調がある事にして、しばらく休養すると伝えておこう。当分の間、公務は私が代行する」


 おそらくアレインはそれを伝えるために、こんな夜更けにもかかわらず自分を訪ねてきたのだろう。

 そう察して、ユーリシアはアレインが告げるよりも早くそう提案する。


 本当は、今すぐにでも隠れ家に駆け戻りたい気分だった。

 なぜ、今自分は皇宮にいるのだろうか。

 なぜ、隠れ家を離れてしまったのだろうか。

 後悔ばかりが心を苛んだが、思ったところで後の祭りだろう。

 どのみち、皇王と皇太子が揃って留守にするわけにはいかないのだ。どちらかがユルングルの傍に、という事ならば父に譲る他ない。


 アレインはその言葉に安堵するように小さく息を吐くと、懐から三通の封筒をユーリシアに差し出した。


「……これは?」

「一通はラン=ディア様からシスカ様に、ユルングル殿下の詳細な病状をしるした診断書になります」

「…私が見ても?」

「問題はないでしょう」


 アレインの言葉に頷き、ユーリシアはおもむろに封筒から紙を取り出し中身を読む。その文面の中のある一つの項目に、ユーリシアは小さく目を瞬いた。


「…アレインと父は、この診断書を読んだのか?」

「……?いいえ、私はおろか、陛下も目を通してはおりませんが……?」

「…先ほどアレインが口にした、ユルンの病状に関する報告で何か漏れはないか?」

「…いえ、私の知る限りをご報告申し上げました」


 怪訝そうに答えるアレインを視界に入れて、ユーリシアは再び診断書に視線を落とす。


(…では、あえて父に報告しなかったのか)


 無駄に不安を煽りたくはなかったのだろう。知ったところで、何の対処もしようがないのだ。これはラン=ディアなりの気遣いなのかもしれない、とユーリシアもまた心にしまうように、診断書を静かに封筒に戻した。


「…他の二通は?」

「…ご自分に何かあった時に渡すようにと、ユルングル殿下のご指示でダリウス殿下が保管されていたものです。一通はシスカ様に、そしてもう一通はユーリシア殿下宛てでございます」

「私に?」


 頷くアレインを確認してから、ユーリシアは丁寧に封蝋してある封筒に視線を移す。流れるように書かれた自分の名は、確かに見覚えのある書き癖で書かれていた。


(…ユルンから私に……)


 何やら亡くなった人間から手紙を受け取ったような気分がして、縁起でもない考えにユーリシアは小さくかぶりを振る。

 卓の上の筆立てに入れられたペーパーナイフで封を切ると、軽く震える手を何とか抑えながら、ユーリシアは中の手紙を取り出して折りたたまれた紙を広げた。


 そこに書かれたユルングルの文字を、ユーリシアは噛んで含めるように視界に入れる。


『ユーリシア、あまり時間がない。

 事が起きる前にお前にしてもらいたいことがある。レオリアとして騎士団を掌握してほしい。容易い事ではないがお前なら可能だろう。

 後の詳細はまた『彼女』から連絡を入れる。


 俺はしばらく動けない。何かあればダリウスとダスクを頼れ。

 ひと月半後にソールドールで落ち合おう。待っている。


              ユルングル』


 ユルングルらしい無駄を省いた簡素な文章に、ユーリシアは思わず笑みをこぼす。

 そして何より好ましいと思ったのは、自分が死ぬことなど少しも念頭にないこの文面だった。この手紙には『自分は死なないから安心しろ』と書かれているようで、ユーリシアの心に根を張った不安がふわりと軽くなった気がした。


「…またずいぶんと無理難題を吹っかけてきたものだな、ユルンは」


 呆れたような笑みを含みながら息を吐くユーリシアを、アレインは怪訝そうに小首を傾げて見返す。

 先ほどまで目に見えて不安を抱えていたユーリシアは、手紙を読んだだけでひどく安心感を得たようだった。それは、なぜか確信をもって『助かる見込みはある』と断言したラン=ディアの態度をアレインに彷彿させた。


「…ユーリシア殿下も、兄君が助かると確信しておいでなのですか?」


 たまらず訊ねたアレインに、ユーリシアは微笑み返す。


「ああ、何せ本人が全く死ぬつもりがないようだからな」


 言いながら手に持っていた手紙を軽く指で叩くと、おもむろにアレインに差し出す。


「『も』という事はラン=ディアも薄々気付いているのか」

「…?気付いている……?…私には仰っている意味がよく理解できません。確かにこの文面はご自分が死ぬことを想定してはおりませんが、そもそも自分が死ぬことを想定して話をする者などおられないでしょう」

「普通はそうだな」

「ユルングル殿下は普通ではないと?」

「彼には教皇と同じ力がある」

「……!?」


 聖女の花園にユルングルが迎えに来た時、聖女は確かに言った。ユルングルに『教皇と同じ力』がある、と。

 それが本当ならば、この手紙は彼の命がついえない確かな証拠になる。


「…ユルンが死なないと確信を持っている以上、今回の件で彼が死ぬことはない」

「…ユルングル殿下には、先読みの力がある…と?」

「教皇のようにすべてが見えている、と言うわけではなさそうだが、ある程度は見えているのだろう」


 言ったが、アレインは半信半疑と言った感じだった。

 正直、ユーリシアもこれに関して確証があるわけではない。勘があまりに鋭いとは思うが、確信をもって先読みの力があると思った事象を目の当たりにしたわけではなかった。


 それでも、あの聖女がユルングルの力を忌避したのだ。

 それだけで確信に至るには十分だった。


「…アレインは父に付いていてくれ。公務を行うならラヴィを寄越してほしいが____」

「クラレンス卿は何があっても遁甲から決して出るなとユルングル殿下に念を押されているそうです。陛下もその意見には賛成だと」

「……!ユルンと父が?」


 アレインの言葉に、ユーリシアは軽く思案する仕草を見せる。

 この二人が口を揃えて忠言しているのだ。手紙にも『事が起きる』と書かれている以上、決して無関係ではないのだろう。

 ユーリシアは不承不承とため息を落とすと、小さく頷いた。


「…判った、ラヴィは諦めよう。…アレインはすぐに隠れ家に戻るのか?」

「はい、堅牢な遁甲の中とは言え、何が起こるか判りません。私は後悔したくはありませんから」


 はっきりと意思を告げるアレインを、ユーリシアは好ましく思いながら視界に入れる。

 彼は穏やかそうに見えて、その内実には硬い意志を抱く人物だった。それは皇王に対する絶対的な不変の忠誠心だ。彼が二人の傍にいてくれれば、これほど心強い事はない。


 ユーリシアは力強い視線を向けるアレインに笑顔を見せる。


「判った、父と兄を頼む。どうか気を付けて戻ってくれ。貴方に何かあれば、私は安心して公務を行えそうにない」


 その言葉に軽く笑みを返すと、アレインは深々とこうべを垂れて辞去する。

 アレインが去って一人になった部屋で、ユーリシアは残されたシスカ宛の封筒に視線を移した。


(…私にはもうひと仕事残っているな……)


 それもひどく厄介な仕事だ。

 あのシスカが、ユルングルの状態を聞かされて大人しくここに残るだろうか。

 委細構わず隠れ家に戻ると言い張るだろう。その可能性があまりに高い。


 だが、今彼に戻られては困るのだ。

 ユーリシアが皇王の代行をする、という事はレオリアの存在を一時的に失う、という事だ。ゼオンの従者として皇宮に突然現れたのに、今度はそのうち二人までもが忽然と姿を消すのだ。どう見ても怪しく映ってしまうだろう。


 できればシスカにはここに残ってもらいたい。公務で忙しくなる自分の代わりにユーリの傍にいてもらえれば、とも思う。

 だが彼が素直に言う事を聞いてくれるとは到底思えなかった。あのユルングルですら彼の行動を御する事は出来なかったのだ。その結果として自分たちが今皇宮にいるのだから、言わずもがなだろう。


(私にシスカを説得できるだろうか…)


 厄介な仕事を押し付けられた気分だ、と嘆息を漏らす。

 願わくばこの手紙にシスカを納得させるだけの何かがあれば、とシスカ宛の封筒を軽く視界に入れてから、ユーリシアは悄然と洋灯ランプの火を吹き消した。


**


 ダスクの操魔の訓練は思いのほか厳しかった。


 同調訓練の時はまだいい。

 一番最初にユーリの体を通して魔力の扱いを体で覚えさせてくれるのだが、以前のように何度もしてくれるわけではなく必ず最初の一度だけで、あとは自力で覚えるようにダスクは要求した。

 そしてその要求する難易度を、ダスクは容赦なく上げていくのだ。


 最初の頃は、ただ大雑把に魔力を動かすだけだった。

 だが四日経った今では、魔力を細い糸のように紡いで任意の穴に通す、という訓練を続けている。


 この細かな操作が、とにかくひたすら難しかった。

 まるで道具を使わずに布に糸を通せと言われているような、そんなもどかしさがあった。針があるから、いとも容易く布に糸が通せるのだ。その針がないのにどうやって布に通せと言うのだ。しかも糸を通すには、指はあまりに太い。通りそうで通らない、そんなもどかしさがユーリの心をずっと支配して、たまらなく心が折れそうだった。


「…しばらく休憩にしましょうか」


 その言葉が、今は何よりも待ち遠しい。

 ユーリはようやくかけられたその言葉に安堵するように、大きく肩で息をした。


「細かい操作は神経が擦り減るでしょう?」


 疲れ切ったユーリに、ダスクは涼し気な笑顔を見せてくすりと笑みを落とす。それが今は何とも腹立たしい、とユーリは内心思ったが、おくびにも出さず笑顔を返す。


「ええ、それはもう!」


 その笑顔が多少引きつっていたのか、はたまた言い方が荒々しかったのか、ダスクはユーリの内心を悟って思わず失笑するので、ユーリはさらにバツが悪くなって拗ねたように頬袋を膨らませた。


「剣術の方がまだましです!」

「そう言わないでください。貴方にはこちらの方が向いているのですから」


 聖女を宿したユーリには間違いなく魔力操作の能力が備わっている。これを自由自在に操れれば鬼に金棒だろう。

 唯一の誤算は、ユーリが思いのほか魔力の流れを理解できない事だろうか。魔力が視覚化されている分まだましだが、ユーリは魔力と言うものを体で感じ取りにくい。それは自身の体の中に魔力が存在しないための弊害だろう、とダスクは思っている。


(…一度コツを覚えれば、あとは苦も無く出来そうなんだが)


 そのあと一歩がなかなかに遠い。

 少しやり方を変えた方がいいだろうかと、と思案していると、横からユーリが顔を覗うようにしながら声をかけてきた。


「…ダスク兄さんは、どうしてそれほど魔力操作がお上手なんですか?」

「おれですか?…おれは物心ついた時にはすでに魔力を扱えましたから。正直扱えないと言われる方が、おれには判らないのですよ」


 言って、困ったように笑みを落とす。

 自分にとって魔力を操作する、という事は息をするにも等しく当たり前の事だった。どうやって息をするのか、と問われても答えようがないのと同じように、当初どうやって魔力を操作するのか、と問われても答えようがないものだった。

 それを何とか人に伝えようと思ったのが、同調訓練の始まりだ。

 体を通して扱いを覚えれば、人はようやく自分と同じ感覚を理解してくれた。


「…羨ましい」

「羨ましいのはおれの方です。おれには原子の魔力は扱えませんから」


 生まれた時から馴染んだ操魔だったが、そんなダスクでもどうしても原子の魔力だけは扱えなかった。動かそうにも、あまりに重く、拒むように反発するのだ。

 だからこそダスクはユーリの操魔の練習に、ここ白宮の裏庭にある皇族専用の訓練場を借りた。ここならば練兵場からそれなりに距離があり、ユーリシアの魔力が届かない。同調訓練を行う上で、原子の魔力がない事は必須だったからだ。


「ユーリにとって原子の魔力を動かすのに『重たい』という印象はありましたか?」

「…判りません。あの時は必死だったから……」

「ですが、足を動かすのにも操魔を使っているでしょう?殿下の傍とそうでないのと違いはありますか?」

「……!そういえば、そうですね…。思えば殿下のお傍にいる方が扱いやすいような気はします」


 やはり、とダスクは思う。

 聖女にとっては元々存在していた原子の魔力の方が扱いやすいのだろう。魔力を感じ取りにくいユーリにはそれが顕著に表れるのだ。

 だとすればユーリの場合、ユーリシアから離れて訓練する方が効率が悪いのかもしれない。だからと言って、原子の魔力下では同調訓練は行えない。どちらを優先するかは、正直悩ましいところだろう。


 そう軽く思案していたダスクは、ふとユーリシアの魔力がこちらに向かってきている事に気づく。再び思案するような仕草を取ると、ダスクはユーリに提案してみた。


「どうやらレオリア様がこちらに向かってきているようです。試しに原子の魔力を操作してみますか?」

「…!レオリアさんが?…珍しいですね。私が操魔の訓練をしている時は決してこちらに寄り付かないのに」


 ユーリシアは操魔の訓練の邪魔になってはいけない、と決してこの練習場近くには足を踏み入れなかった。それは例え用事があったとしても、訓練が終わるのを待って会いに来る、という徹底ぶりだったが、確かに言われてみればそんなユーリシアがわざわざこちらに向かってくるのもおかしな話だ、とダスクは怪訝に思う。


「…今日の訓練はここまでにしましょう」


 言って、ユーリと連れ立って練習場から白宮に入ったところで、レオリア____ではなくユーリシアと鉢合わせして二人はさらに怪訝を深めた。

 ここに来て以来、ユーリシアは部屋を出るときは必ずレオリアの姿を取っていた。だがユーリシアの姿でなおかつ正装に身を包んでいるという事は、現在彼は皇太子ユーリシアとして動いているのだろう。


 それがダスクに、なぜだか妙な胸騒ぎを覚えさせた。


「…!ダスク、ちょうどよかった。今呼びに行くところだった」

「…何かあったのですか?殿下」


 険しい表情を取って問いかけるダスクを落ち着かせるように、ユーリシアは小さく微笑む。そしてちらりとユーリに視線を向けて声をかけた。


「ユーリ、すまないがゼオン殿のところにいてくれないか?」

「え……?あ、はい……」


 いぶかし気に思いながらも、これは自分が聞いてはいけない話なのだろうと悟って、ユーリは素直に頷く。


 それがまた、ダスクの心に不安の種をいた。特に何も言わないユーリシアに追従して歩みを進めたが、何も言わないからこそ想像力が掻き立てられて、心が落ち着かない。


 ユーリシアはそれを察したが、あえて何も言わずにユーリシアの自室に入るようダスクを促した。


「…座ってくれ。ここは安全だから魔装具を取ってくれてもいい」


 言われてダスクはいぶかし気な表情をやめることなく、促されるまま魔装具を取ってソファに腰を下ろす。

 見慣れたいつものシスカに戻った事を確認して、ユーリシアもおもむろに向かいのソファに腰を下ろした。


「…そろそろ、ご用件をおっしゃったらどうです?おれは回りくどいのは嫌いです」


 あまりに間を置くので、たまらずシスカが口を開く。

 若干、喧嘩腰な言い方になったのは、あまりに間を溜めて不安を煽った結果なのだから仕方のない事だろうか。


「…私も、回りくどいのはあまり好きではない」


 一度意を決するように軽く深呼吸すると、ユーリシアもその重い口を開く。そしておもむろに一つの封筒を卓の上に置いた。


「…これは?」

「…昨日、ユルンが発作を起こした。これはラン=ディアからシスカに、ユルンの詳細な病状を記した診断書だ」

「……!?」


 シスカはユーリシアの言葉が終わるや否や、奪うように卓に置かれた封筒を手に取って診断書に目を通す。

 ざっと読み終えて、険しいくらいの渋面を取りながら何も言わずに部屋から出ようと荒々しくソファを立つシスカを、ユーリシアはすかさず言葉で制した。


「落ち着け!!シスカっ!!」

「落ち着け、ですって…!?ユーリシア殿下はこれをお読みになってはおられないのですかっ!?」


 勢いに任せて、ラン=ディアの診断書を叩きつけるように卓に置く。


「…読ませてもらった」

「ではなぜそれほど悠長にしておられるのです!?…ここには処置中に一度、心臓が止まったと書いてあります!それも四分も!!…ユルングル様は赤子の頃に二度、すでに心臓が止まった過去があるのです…!今回で三度目…!自己心拍が再開しても、心肺停止による心臓への負担がなかった事になるわけではございません…!ユルングル様の心臓には、すでに三回分の損傷が蓄積されているのです!…例え…!……例え命が助かったとしても、心臓機能の低下は免れない…!そして……脳への損傷も……っ!!」


 血液を送る心臓が停止すると、同時に脳への酸素供給も停止する。例え胸部圧迫を行っても、それだけでは十分な脳血流は維持できなかった。

 酸素がなくても脳が生きながらえる時間は約三~四分。今回その範囲内とはいえあまりにギリギリだ。絶対に脳への損傷が起こる、と断言できるわけではないが楽観視できる数字ではないだろう。


 そして心臓機能の低下も、脳への損傷も、その回復は神官治療ではあまり期待できる類のものではなかった。


 神官治療は、体の不調によって起こる体内を流れる魔力の乱れを正常な流れに戻すことで、より効果的に自己修復能力がその部位に届くように手助けする治療方法だ。

 それは各々が持つ自己修復能力の大小で、その効果が大きく左右されることに他ならない。


 ユルングルは低魔力者の中でも極端に魔力が少なかった。それは自己修復能力が極端に低い事を示している。

 ことユルングルに関しては、臓器の中でもより複雑で精密な心臓や脳の損傷を治すことは容易い事ではないのだ。できてもせいぜい症状を緩和する程度だろうか。


 これらの内容は、ラン=ディアの診断書に詳細に書かれてあった。

 それは医学に明るいシスカに宛てたものではない。これをユーリシアも読むだろうと推測して、ユーリシア向けに書かれたものだと彼自身すぐに理解していた。


 ユーリシアは、歯を食いしばるように診断書を握りしめているシスカを視界に入れる。

 シスカの口から出た『悠長』と言う言葉が、耐え難いくらい胸に刺さった。


「…私が、悠長に事を構えているように見えるか?」

「……!」

「…シスカには、私がそれほど冷徹な人間に見えるか」


 言いながら、ユーリシアは無意識に拳を強く握る。


「…ユルンは私の実の兄だ。その事実を知ったのはごく最近とは言え、聖女の花園から救ってくれたことに恩義も感じている。短い期間だったが、兄弟として、友人として、寝食も共にしたのだ。…そのユルンに今後障害が残るかもしれないと知って、私が平然としていると本気で思っているのか…!」


 シスカを説得するためにこの場を設けたのだ。他ならぬ自分が冷静さを失ってはいけないと思いつつも、言葉にすればするほどユルングルの現実が突き付けられる気がして、ユーリシアはたまらず眉根を寄せて声を振り絞る。


 そんなユーリシアの姿に、シスカは瞬間我に返った。

 自分よりもひと回り以上、年若いユーリシアが、冷静であろうと必死に自重している。そんな事実が情けなく、自分の愚かさを目の当たりにして、シスカはたまらず自嘲するようにため息をいた。


「…申し訳ございません。言葉が過ぎました」


 冷静さを取り戻して、シスカは悄然とソファに座り直す。


「……いや、いい…」


 ユーリシアも同じく冷静さを取り戻すように、小さく息を吐いた。


「…一度、ユルングル様のご様子を窺いに、隠れ家に戻ってもよろしいですか?」

「…ユルンの姿を見て、また再び離れられる自信はあるのか?」

「…!……それは…」


 ない、とシスカは思う。

 きっと離れがたいと思うだろう。せめてあと一日、あと一日とズルズル滞在を伸ばすだろうことは目に見えていた。


「…すまないが、シスカには皇宮に滞在してもらいたい。私は父の代わりに皇王の代行をすることになった。その間、ユーリの傍にいてやってほしい」


 ユーリシア自身、戻りたい気持ちを押し殺して皇宮にいることを選んだのだ。

 それが判るのに、シスカは素直に承諾する気にはなれなかった。


 返答に困って目線を落とすシスカを視界に捉えて、ユーリシアは小さく息を吐いたのち、懐からもう一通、封筒を差し出す。


「…!これは……?」

「ユルンからシスカにだ」

「…!」


 シスカは目を瞬きながら、今度はゆっくりと、その封筒に手を伸ばす。

 差し出されたペーパーナイフを手に取ると、丁寧に封を切って中の紙を取り出した。


『ダスク、お前の事だからまた自分を苛んでいる事だろうな。

 何でも自分の所為にするのはお前の悪い癖だ。

 これは元々、俺自身が受けるはずの試練だ。お前が気に病む必要はない。


 お前が責任を感じるべきは、勝手をしてユーリシアとユーリまで連れて皇宮に行ったことだ。だったら責任をもって二人の面倒を見ろ。


 ひと月半後にはソールドールで会える。

 その時はたっぷり説教するから覚悟しておけ。


                     ユルングル』


 手紙を読み終えて、シスカは困ったような笑みを落とす。


「…これは、耳に痛いな」


 その表情が泣きそうに見えたのは、おそらく思い違いではないだろう。


(…内容は、聞くまでもないな)


 表情がようやく和らいだシスカを視界に入れて、ユーリシアは瞳を閉じながら安堵したように笑みを含んだ息を一つ落とす。どうやらユルングルの手紙は、シスカを納得させるのに十分なほど、その効力を発揮してくれたようだ。


「…陛下はユルングル様のお傍に?」

「ああ、おかげで私が貧乏くじを引かされることになった」

「それはお気の毒ですね」


 くすくすと、シスカは失笑する。

 皇王の性格を鑑みるに、病床のユルングルからは決して離れないだろう、と皇妃を看病し続けたシーファスを彷彿する。


 皇妃を失った事が脳裏に浮かんで心を痛めているであろうシーファスをおもんばかったが、この手紙でシスカもまた、ユルングルの命が潰える事はないだろうという確証を得た。

 それは心のどこかで、シスカもまたユルングルの勘がただの勘ではなく、教皇の先読みに通じるものがあると確信していたからだ。


 ようやく心が落ち着いたことを自覚して、シスカは小さく深呼吸する。

 どういう経緯でソールドールに向かうのかは定かではないが、ひと月半後には元気になったユルングルに会えるのだろう。

 その時には、約束通り説教をしてもらえるだろうか。


 生まれて初めて説教を心待ちにしている自分に気が付いて、シスカはただその時を楽しみに待っていよう、と心に小さく誓いを立てた。

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