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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第二部 暗雲低迷

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ユルングルの試練

「あんたはずいぶんと皇王から信頼されているんだな」


 ユルングルがぽつりと落とした言葉に、言われた相手は静かに微笑んだ。


 年の頃は三十代前後だろうか。

 白に近い灰色に薄っすらと緑がかった白緑びゃくろくと呼ばれる髪色から察するに、彼は間違いなく高魔力者だろう。だが、だからと言って低魔力者のユルングルに横柄な態度を取るような人物でない事は、数度の対面ですでに承知している。

 穏やかで口数の少ないところは、どことなくダリウスを彷彿させる人物だった。


 アレイン=シュタイン___。

 彼は、皇王が唯一追従する事を許した護衛騎士だった。


 あれから三日に一度は顔を出しに来る皇王のおかげで、彼ともすっかり見知った仲になっている。

 それと言うのも、皇王がユルングルの自室を占領するからだ。

 時には体を休めに、そして時には公務の書類まで持ち込んで、ここに入り浸るようになっていた。そして必ず、何をするにもユルングルの自室を好んで使うのだ。


 あまりに頻繁にやってくるので皇王の自室を用意させようと提案したが、結局皇王は首を縦に振らなかった。

 おかげで皇王が来訪するたびにユルングルは自室を追い出されるので、暇つぶしに、こうやって食堂の隅のソファで話し相手になってもらっている。


「あんただけを護衛につけるのは、皇王が足手まといと思わないくらい強いという事か?」

「いいえ、私はユルングル殿下のご事情をすべて存じ上げておりますので、こちらに連れて歩くには適当だったのでしょう」


 それが謙遜だという事は、髪色や身のこなしを見れば判る。

 だが強さとは別に、自分の存在まで話しているという事は皇王にとって信頼に値する人物なのだろう、とユルングルは内心でひとりごちた。


「…それはそうと、皇王はずいぶんと寝不足がたまっているようだな。そんなに公務が忙しいのか?」


 言って、ユルングルはわずかに呆れたようなため息を落とす。


 基本的に皇王はここで寝る事が多い。初日などはそのまま翌朝まで眠って、皇王自身驚いた様子だったし、そんな皇王にユルングルも呆れ顔だった。

 時には今日のように仕事を持ち込んで来ることもままあって、それゆえの寝不足なのだろうか、とユルングルはいぶかし気にアレインに問うてみた。


「…確かにご公務がお忙しいのは事実です」


 持って回った言い方に怪訝に思いながらも、ユルングルはすかさずお得意の憎まれ口を返す。


「だったら来なきゃいいだろうに」

「…シーファス陛下はユルングル殿下との逢瀬をとても楽しみになさっておいでなのです。そうおっしゃらないであげてください」


 アレインは少し困ったように苦笑する。


「…逢瀬って……恋人か」

「似たようなものです、陛下にとっては。…貴方はファラリス皇妃の忘れ形見ですから」


 呆れたように鼻で笑ったユルングルは、だが返ってきたアレインの言葉に小さく目を瞬く。


 以前ダリウスが、自分の事を『皇妃の生き写し』と表現しなかっただろうか。

 それほど似ているのなら、なるほど、皇王は『今は亡き皇妃に似た』この顔を拝みに来ているのだ。内心でそう得心して、ユルングルは面白くないように軽く渋面を作った。


「……ユルングル殿下?」

「…何でもない」


 ユルングルの不機嫌を感じ取ったアレインは、怪訝そうに彼の顔を覗う。そんなアレインに気取られまいと、ユルングルはおもむろにソファから立ち上がった。


「…!どちらに行かれるのです?」

「……森だ」

「…ではご一緒いたしましょう」

「…ついてこなくていい」

「そういうわけにはまいりません。ご病気の事もございますし、シーファス陛下からユルングル殿下を、決してお一人にするなと固く言いつかっております」


 柔和な態度とは裏腹に、アレインも意外と頑固な男だった。特に皇王の命令は決して背かない。

 ユルングルはそれをまた嫌と言うほど承知しているから、心底うんざりしたように渋面を強くして、小さな抵抗を見せた。


**


 結局、不承不承と受け入れたユルングルは、アレインを伴ってそのまま森に足を踏み入れた。

 今日は初秋にしては比較的暖かい日ではあったが、半袖のアレインとは対照的に、長袖に外套まで羽織るユルングルに、アレインは軽く不安が頭をもたげた。


「…体調はお変わりありませんか?」


 思わずそう尋ねて、アレインは不安そうな顔をユルングルに向ける。


「…何ともない。ただ寒いだけだ、構わなくていい」


 言ったが、変わらず不安そうな視線を向けるアレインに、ユルングルは辟易したようにため息をいた。

 誰も彼もが、自分をまるで重病人を見るような目で見つめてくる。

 実際、重病人なのだから仕方がないのだが、その視線には不安と一緒に哀れみと、そしてまるで先にある死まで見据えているような気がして、ユルングルはたまらなくその視線が不快だった。


(…あの目は、俺に死を突き付けてくる)


 この病では死なない、という確証はユルングルの中に確かに存在していた。

 だが幾度となく向けられるあの視線は、その確信さえも強く揺さぶった。


 別に死が怖いわけではない。

 二十四年間、常に死と隣り合わせだった。今さら死を怖がる理由はない。

 それでもあの視線を忌避したいと思うのは、きっとあの目が自分の死を渇望しているように映るからだろう。そんなことはないと頭では判っているはずなのに、屈折した心がそう受け取ってしまう。


 ユルングルはそんな邪推を振り払うように、小さくかぶりを振った。


(…くだらない)


 心中でそう吐き捨てて、ユルングルはフードをかぶって再び歩みを進める。


「…あまり心配するな。寒い時期は発作が起こりにくい」

「……!そうなのですか?」

「寒い時期は血流が鈍るからな。起こっても大量出血に至らない事が多い」


 確かに同じ病に伏した皇妃も、冬は比較的穏やかに過ごしていた。

 皇妃が崩御したのは、暖かくなった初夏の頃だったとアレインは記憶している。


「…では、これからの時期は穏やかに過ごせそうですね」

「………そう、だな」


 歩みを止めてアレインを軽く一瞥してから妙に歯切れ悪く答えたユルングルに、アレインは怪訝そうに小首を傾げる。そんなアレインに、何でもない、と短く答えて足早に森の奥へと進むユルングルに、アレインはさらに怪訝を深めた。


「…一体どちらにおいでになるおつもりなのですか?」

「…『彼女』に会いに行く」

「…『彼女』…?」

「そろそろキリアから報告が来る頃合いだろうからな」


 その名に、アレインは聞き覚えがあった。

 皇王がシスカに報告していたことを記憶の片隅から掘り起こす。


「…ウォクライ卿はソールドールの街に行かれているはずでは……?」


 ここからソールドールまでは十日ほどの道のりになるが、文を届けるとなるとまた別だ。

 文を専門に運ぶ行商人はいたが各地を回って文の回収と配達を行うため、ソールドールからとなると最低でもひと月はかかる。


 アレインは言外に、物理的に不可能だ、とでも言いたそうに眉根を寄せたが、ユルングルは視界の端でそんなアレインを捉えて、にやりと笑みを落とした。


「『彼女』の足なら三日とかからない。…まあ実際に使うのは、足ではないがな」


 言って、ユルングルは少し開けた場所に出ると、親指と人差し指で作った輪を口にくわえて、高らかに指笛を鳴らす。森の中でこだまするように響いて、耳の奥に残ったキー…ンとした耳鳴りにも似た音が消えた頃に、指笛に呼応するように、獣の鳴き声らしき声が二人の耳に届いた。


「……鳥……?」


 アレインは声のする空を見上げる。

 青い空の彼方に小さな黒い点が見えたかと思うと、それは次第に大きくなってかなり大型の鳥だという事が判った。


「……!あれは鷹ですか…?」


 言ったが、鷹の割にはかなり大きい。

 翼を広げた姿は小柄な女性ほどにもあるように見受けられ、その悠然とした姿は王者の風格を思わせた。


 ユルングルはフードを取りながら、彼らの上空を弧を描くように回る『彼女』に、腕を差し出す。それが視界に入ったのか、はたまた合図となったのか、『彼女』は風を捉えながら降りてきて、ふわりとその腕に止まった。


「…お前、また太ったか?」


 腕に乗るずしりとした感覚に、ユルングルは呆れたような声を落とす。

 だが『彼女』はそんなユルングルにお構いなしに、よほどユルングルと会えたことが嬉しいのか、しきりに顔をすり寄せていた。


「……『彼女』は……?」

「俺専用の優秀な伝達係だ。相手がどこにいても必ず探し出して文を届ける。…ただし、面識がある相手に限られるがな」

「…鷹が顔を判別できるのですか?」

「顔と言うよりも匂いだな。通常、鳥類は嗅覚が未発達だと言われるが、ルーリーだけは特別なようだ」


 猛禽類の中にはコンドルのように死臭を嗅ぎ分ける能力に長けたものもいる。ルーリーはそういった『亜種』なのだろう。

 ユルングルは言いながら、ルーリーの足に付けられた文を丁寧に取ってやる。


「…キリアからだな。無事ソールドールに着いたか。傭兵として上手くやっているようだな。…よくやった、ルーリー」


 言って、ルーリーと呼んだ鷹に褒美の生肉を与えて、喉元を小さく撫でてやる。思いのほか気持ちよさそうに喉を鳴らすルーリーの様子を見て、よほど人慣れしているのだろうと内心でひとりごちたアレインの心中を悟って、ユルングルは念を押すように忠言した。


「不用意に手を出すなよ。肉をそぎ取られるぞ」

「………!」

「こいつは俺とダリウスにしか懐かない。…まあ、ユーリシアにはすぐに懐いたから、皇王にも問題なく懐くだろうがな」

「……?それはどういう…?」

「俺と匂いが似ているんだろう。…曲がりなりにも、俺の親兄弟だからな」


 何とも形容しがたい複雑な表情で告げたところで、ルーリーは突然翼を広げてユルングルの腕から飛び立つ。そのまま短い距離を飛んで落ち着いた場所は、ちょうどこの場所に足を踏み入れた皇王の腕だった。


「…おや、君が例の『彼女』だね?お目にかかれて光栄だ」


 言って、ユルングル同様ルーリーの喉元を撫でる皇王に彼女はすっかり気を許したようで、盛大に喉を鳴らす。

 あのユーリシアでも一瞬、逡巡してから懐いたと言うのに、皇王に対してはわずかな躊躇いさえ見せない事に、ユルングルは内心面白くなさそうに渋面を作った。


「…ルーリー、来い。お前の主は俺だぞ」


 その声に我に返って、ルーリーは慌てて再びユルングルの腕に戻る。


「クマタカだね。…その中では小さい方か。よくここまで手懐けたものだ」

「…手懐けたわけじゃない。親に捨てられて死にそうになっていたのを拾って育てただけだ」


 ルーリーは体が弱く、兄弟雛に巣を追い出され木の傍で鳴いていたところをユルングルが見つけた鷹雛だった。

 一度巣に戻してやったが、弱い雛を育てる気がないのか親鷹は再びルーリーを巣から追い出した。厳しい自然界で生き残れる雛だけを育てるのは野生の本能なのだろう。それが判っても、当時のユルングルには親に捨てられた自分と重なって見えて、どうしてもその鷹雛を放ってはおけなかったのだ。


 その鷹雛に『ルーリー』と名付けて、ダリウスと二人、四苦八苦しながら育てて早七年。

 人間の手によって育てられた所為か、もしくは雛の頃に体が弱かった所為か、鷲と見間違えるほどに大きいと言われるクマタカの中では小さい方だが、鷹と言うにはかなり大きく立派に育った。


 今では二羽の雛を育てて巣立たせた母親でもあったが、今でもユルングルとダリウスを親のように慕って甘える姿は昔と何も変わらない。


 皇王は何となく自分が責められているような気がして、困ったように小さく笑みを落としながら、ルーリーを愛おしそうに撫でるユルングルを視界に入れる。


「…もう仕事は終わったのか?」


 皇王に視線を向けることなく、ユルングルは告げる。


「…一応ね。君たちが森に行くのが見えて、休憩がてらついてきた」

「…そうか、ちょうどルーリーをあんたに紹介しようと思っていたところだ。手間が省けた」

「私に?」

「…何かあればこいつが連絡係になる。指笛を吹けば来るだろうから覚えていろ」

「…判った」


 まるで『何かある』前提で話が進んでいるような気がして、アレインは妙な胸騒ぎを覚える。先ほどの妙に歯切れの悪いユルングルの姿を再び彷彿して、嫌に腑に落ちた、と言う感じがしてならなかった。


(…あれは『穏やかに過ごせない』という事だろうか…?)


 ひとりごちながら、アレインは二人の邪魔にならぬようわずかに距離を取って二人を視界に入れる。


 普段はあまり感情を表に出さない皇王は、ユルングルに会いに行く時だけは判りやすく喜びを表現した。長い間離れて暮らさざるを得なかった我が子に、ようやく会えるようになったのだ。その喜びは想像に難くないだろう。

 だからこそ、祈らずにはいられないのだ。

 この穏やかな日々が続けばいいのに、と___。


 そんなアレインの心情を悟ったのか、皇王はわずかにアレインに視線を寄越して、小さく微笑む。それにこうべを垂れて応えるアレインを確認してから、次いでユルングルに向き直った。


「…さあ、もう帰ろう。あまり長居をしては君の体に障る」

「…病人扱いするな」

「病人だろう。言う事を聞きなさい」


 無遠慮なまでに言い切った皇王を恨めしそうにめつけて、ユルングルは不承不承と腕に止まるルーリーを空に放してやる。そのままフードをかぶって隠れ家に足を向けると、ユルングルを待つように立ち止まっていた皇王の前を足早に通り過ぎながら、ぽつりと言葉を落とした。


「…勝手な時だけ父親面するな」


 その言い回しと態度からユルングルの不機嫌さを感じ取った皇王は、後に続くアレインに訝し気に小さく声をかける。


「…彼と何かあったのか?」

「……?いえ……取り立てて何もございませんが……」


 言ったところで、ふと森に向かう直前のやり取りを思い出す。

 あの時、急にユルングルは不機嫌になったような気がした。その時の会話を記憶から呼び起こしてはみたが、何が不快に思ったのかが判らず、アレインは困惑したように皇王の顔に視線を向けた。


「どうした?アレイン」

「いえ…何がユルングル殿下のご不快を買ってしまったのか存じ上げませんが、あの時確かに____」


 そこまで告げたところで、ユルングルが進んだ先から何かが草原に倒れるような音がなって、二人は自然とそちらに視線を向けた。


 その視界に入って来たのは、先ほどまで平然と歩いていたはずのユルングルが、草原の中で倒れている姿___。


「……!?ユルングル…っ!!!」


 二人は慌てて駆け寄り、皇王がユルングルの体を急いで抱き起こす。

 力なく、ぐったりとした様子から、意識がない事は一目瞭然だった。まるで糸を切られた操り人形のように後ろに垂れている顔からは、明らかに血の気が失われている。頬に触れれば冷たく、力なく垂れた手も同様に氷のように冷たかった。

 倒れたユルングルに駆け寄り抱き起こすわずかな時間で、彼の顔色は見る見るうちに顔面蒼白となり、唇は紫色に、そして呼吸は早く、かつ浅くなっていた。

 この症状に当てはまるものは、今のユルングルには一つしかない。


「発作か……っ!!!」


 それもかなり出血量が多い。

 それは最愛の妻を懸命に看病した皇王が、嫌と言うほど何度も目にした症状だった。


「陛下…!ユルングル殿下は私が____」

「いい!ユルングルは私が運ぶ!!お前は先に行って、ラン=ディアとダリウスを呼べ!!!」

「はい…っ!!!」


 返事と共にアレインは駆け出し、残された皇王は慎重に、だが素早くユルングルの体を抱きかかえた。


 この体の中ではかなりの量の出血があるだろう。下手に動かせば出血を助長しかねない。だが、だからと言って手をこまねいている場合ではないのだ。この出血の速度から察するに、ユルングルに残された時間は、ほぼないに等しい。


「ユルングル…!頼む…持ちこたえてくれ…っ!!」


 悲痛とも懇願とも取れる声を落としながら、皇王はユルングルを抱きかかえるその手がひどく震えている事を自覚した。


**


 隠れ家の処置室に向かうと、すでにアレインから報告を受けたラン=ディアとダリウスがちょうど準備を終えて待ち構えていたところだった。


 あまりにひどいユルングルの症状に二人は目を丸くし苦虫を潰したような渋面を取ったが、すぐさまシーファスからユルングルを受け取って処置を始める。

 シーファスはユルングルの傍にいてやりたい衝動と、だけれどもいたところで邪魔にしかならないであろう事を天秤にかけて、結局後ろ髪を引かれる思いで処置室を後にした。それは、苦渋の決断だった。


 処置室前に置かれたソファに座りながら、シーファスは血の気を失った蒼白な顔のユルングルを脳裏に浮かべる。


 あれは、おそらく助からない。

 他でもないファラリスの最期があんな感じだった。

 急速に血液を失って、ものの五分で顔面蒼白になり呼吸不全に陥った。十分な血液量が確保できなくなった彼女の体は、内臓や脳に十分な酸素が供給できず唇は紫色に、そして頻拍を起こし、ついには多臓器不全を起こして死に至った。その間、わずか三十分。あまりに呆気ない最期だった。


 ___いわゆる、出血性ショック、と言われる状態だ。


 ユルングルも間違いなく、出血性ショックを起こしているだろう。

 ましてや彼を処置室に運ぶまでそれなりの時間を費やした。そして彼はファラリスとは違って低魔力者なのだ。


 教皇の予言は決して違えない、と知っているはずなのに。

 その予言にユルングルが出てくる以上、彼が自分を殺すその瞬間までは確実に生きているだろうと頭では判っているはずなのに、まるでユルングルを取り巻くすべての状況が、彼が助からない事を示唆しているようで、シーファスはたまらなく怖かった。


 手の震えが止まらない。

 抑えようとすればするほど、今度は体の奥から震えが起こった。


(……陛下)


 かける言葉を失ったアレインは、茫然自失とシーファスを視界に入れる。

 その時、急いで駆けつける足音が耳に入って、アレインはそちらに視線を向けた。


「……!クラレンス卿……」

「…!陛下…!」


 ユルングルの容体をどこからか聞きつけたのだろう。

 慌てて処置室に駆けつけたラヴィは、その前のソファで悄然とするシーファスが視界に入って、急いで威儀を正そうと、ひざまずく体制を取る。


「いい…!私などに跪くな…!!」


 シーファスはラヴィに視線を向けることなく、吐き捨てるように告げる。

 その姿が、ラヴィはかつての自分と重ねて見えて、いたたまれなくなった。


 ユルングルが初めてこの病を発症したあの日、何もできない自分が不甲斐なく、悔しく、どうしようもないほど腹立たしいのにそれをぶつける事さえできない、無力感___。

 実の親であるシーファスは、その悲しみも苛立ちも、そして己を苛む無力感さえも自分の比ではないだろう。


 それが痛いほど判って、ラヴィはアレイン同様かける言葉を失った。

 それでも何か言葉を、と思うのに、考えれば考えるほど思考は宙を回って、結局何も言えずに開きかけた口を噤む事を数度繰り返した。


 それを察したのか、シーファスは静かに口を開く。


「…慰めの言葉など、必要ない」

「…陛下」

「…何を言われても、何の慰めにもならない…!……私は…っ!あの子が助かると言うから手放したのだ…!拒むファラリスを説得して…!小さかったあの子を、泣く泣く手放した…!その所為であの子に恨まれても!寂しい思いをさせたと判っていても!あの子のためだと受容したのだ…!!なのにまたあの子を失うのかっ!?それもファラリスの命を奪ったものと同じものに!!永遠にだ…!!」


 どこにぶつければいいのか判らない感情を、シーファスは当たり散らすように誰にともなく吐き捨てた。まるでだだをこねる子供のように、だけれども己の行いを後悔するように、そして己自身を苛み恨むように、言葉を吐き出す。


 これほどまでに感情を露わに声を荒げるシーファスを、ラヴィだけでなく常に傍に控えているアレインですら見た事はなかった。

 だからこそ余計、二人はかける言葉を見失う。


「…頼むから…っ!…頼むから……もう私の家族を奪わないでくれ……っ!!」


 この懇願が、一体誰に向けたものなのかはシーファス自身判らなかった。

 その祈るように出た言葉は、ただかそけく響いて、空虚さだけが虚しく後に残されただけだった。



 どれくらいそこで時間を過ごしただろうか。

 耳に痛いくらいの静寂が支配していた空間に扉が開く音がおもむろに響いて、シーファスは弾かれるように立ち上がって視線を向けた。


「ユルングルは……っ!!あの子はどうなった……!?」


 疲れ果てたようなラン=ディアに、シーファスは飛び掛かる勢いで問いただす。

 ラン=ディアはそんなシーファスを落ち着かせるように小さく息を吐くと、ゆっくりと口を開いた。


「…ひとまずは、一命を取り留めました」


 その言葉に一瞬安堵するも、表情がひどく暗い事に眉根を寄せて、シーファスは先の言葉を促す。


「…ですが状態は芳しくありません。今回の出血量は1700ml、全体の四割近い血液を失いました。あの短時間でこれだけの出血量でしたので出血性ショックを起こしている状態です。すぐにシスカから採血した血液の輸血と輸液を行いましたので、ひとまず症状は落ち着きましたが、それでもまだ500足りない状況です」

「…500足りないだけでも命にかかわるのですか…!?」


 問うたのはラヴィだ。


「通常であれば軽度の症状で落ち着きます。ですがユルングル様は一度1700もの血液を失いました。血液は生命維持に必要な臓器や心臓、そして脳に酸素を供給する重要な役割があります。一時でもその酸素が断たれれば損傷は免れないでしょう。断たれた時間が長くなればなるほど、臓器はその機能を維持できなくなります。…それが、多臓器不全です。ユルングル様はそこまでの損傷には至っておりませんが、この状態が続けばいつ起こっても不思議ではない……」


 そこまで言って、もう一度息を吐くと、ラン=ディアは意を決したようにシーファスに向き直る。


「多臓器不全を起こせば、助からないものとご承知おきください。同じく再び発作が起こっても、救命は不可能です」


 あまりにはっきり告げるラン=ディアに、シーファスはまるで心臓を鷲掴みにされたような感覚に襲われた。

 視線が宙を舞い、定まらない。

 無意識に右手を額に当てて、小さく問いかける。


「…助かる…見込みは……?」

「ございます」


 同じく、これにもはっきりとした返事が返って来て、シーファスは弾かれるようにラン=ディアの顔を見返した。自分の願望が幻聴を耳に届けたのかと怪訝そうな顔をするシーファスに、ラン=ディアは微笑む。


「臓器にわずかな損傷は見られますが、神官治療で対応できます。かなり体が弱っておられるので少しずつ治療を行う必要はありますが、問題はないでしょう。足りない血液は時間をかけて回復を待つしかありません。当分の間は動くことができませんが、意識は十日ほどで回復するはずです」


 嫌に確信めいたラン=ディアの言葉に、シーファスは怪訝に思いながらも安堵する。


 彼は、ここでユルングルが命を落とすなどとは微塵も思っていないのだろうか。

 ユルングルが多臓器不全を起こすことも、ましてや再び発作が起きる事すら念頭にないようだった。

 なぜそこまで確信を抱けるのかは不思議だったが、その言葉と態度がシーファスに何よりも安心感を与えた。


「……会えるか?」

「…意識は失っておいでですが」


 言って、処置室の扉を大きく開く。

 そこから見えたのは、点滴の様子を見ているダリウスと、ベッドに意識なく横たわるユルングルの姿___。

 彼の頬は、最後に見たそれよりも幾分か赤みが差して、それが更に安心感を与えた。


 シーファスが部屋に入るのを見止めたダリウスは、何も言わぬままこうべを垂れて、そのまま部屋を辞去する。

 二人きりになったシーファスは、ベッドの脇にある椅子に腰かけた。


(…まだ冷たい、か……)


 ベッドに力なく置かれたユルングルの手に触れて、冷たさを実感する。

 だが、森にいた時よりも幾分かは温かみがあった。

 その手を控えめに、だが力強く握りしめる。

 そうして、まだ顔色の悪いユルングルの顔を視界に入れた。


(ファラリス…頼む。私たちの子を守ってくれ……)


 今はいないの人に、シーファスはただただ、そう祈らずにはいられなかった。

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