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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第一部 皇宮編
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侍女の杞憂

「ああ!ようやく春らしい日差しが戻ってきたわ!」


 花の香りが漂う庭先で、彼女は思いっきり背伸びをしてひとりごちた。これほどすがすがしい気持ちになったのはいつぶりだろうか。

 春先に行われた婚姻の儀からこっち、公爵邸の屋敷の中はずっと重苦しい空気が流れていた。


(どれほどお辛かった事だろう…)


 気丈にふるまっていたウォーレン公爵夫妻だが、使用人の誰もがその心中をおもんばかっていた。もともと心優しく使用人にも気遣いを忘れない気質なだけに、心配させまいと屋敷の中でも気を張っていた事は、使用人の誰もが知る事実だった。


 そして、気落ちしていたのは公爵夫妻だけではない事も彼女は知っていた。

 両親の心優しい気質をそのまま受け継いだミルリミナに、使用人たちの誰もが好感を抱いていた事は言うまでもない。そんなミルリミナに降り注いだ悪夢に、使用人たちは皆、悲嘆に暮れた。長年ミルリミナの専属侍女として世話をしていた彼女もその一人だった。


 特に彼女は婚姻の儀でミルリミナに追従し、衣装を着せ、舞台袖で一部始終を目の当たりにした事もあって、その憔悴ぶりはひどいものだった。

 そんな自分がこんな晴れやかな気持ちを持てるようになるなんて夢のようだと思う。


「ティーナ。もう準備はできたかしら?」

「はい、奥様!準備万端です!」


 ウォーレン公爵夫人に呼ばれたティーナは元気に返事をする。その屈託のない笑顔に夫人はくすくすと笑みをこぼした。


 あれからミルリミナは足が不自由になったものの、日を追うごとに元気を取り戻しているらしい。もう体を起こす事もできるようになったと、毎日足繁く通っている夫人から教えてもらった。そんなミルリミナの世話をするために、ティーナは今日から皇宮に移る事になったのだ。


「わざわざユーリシア殿下が、慣れた侍女の方がミルリミナも安心するだろうと提案してくださったのよ」

「皇太子さまが、ですか?」


 皇宮に向かう馬車の中で、夫人がそう話を切り出す。

 てっきりミルリミナが望んだのかと思っていただけに、ティーナは驚きを隠せなかった。


 ティーナの中での皇太子は、かなり印象が悪い。それはずっとミルリミナの傍で皇太子の彼女に対する態度を見てきたからだ。


(あれほどまでにお嬢様を邪険にしておいて、どういう風の吹き回し?)


 そもそもこの婚姻自体ティーナは気に入らなかった。

 苦労することは目に見えている。あれほど病弱なのに皇太子からひどい扱いを受けて、さらに体調が悪くなるのではないかと心配したほどだった。


 そんな心配が全く別の形で現実となって、ティーナは改めて皇太子がミルリミナにとって不幸の元凶だと再認識している。皇宮への話がきた際、二つ返事で引き受けたのはそんな皇太子からミルリミナを守るためだった。


「お忙しいご公務の合間にミルリミナの顔を見に来てくださるのよ。最初は責任を感じていらっしゃって、とても憔悴しきっていらしたけど、今はようやく笑顔をお見せになるほど回復なさったようで安心したわ」

「…!もう…?!あれからまだひと月ですよ!お嬢様は皇太子さまの所為で一度お命を落とされたんです!まだ責任を感じるべきだわ!」


 思わず声を荒げてしまったが、撤回する気も謝罪する気もなかった。あれほどまでにミルリミナを傷つけておいて、たったひと月で忘れるのかと思ったら、どうしようもなく怒りが込み上げてくる。ここが馬車の中ではなく自分の部屋なら際限なく皇太子を罵倒していただろう。


「…ティーナ。貴女がミルリミナをとても想ってくれているのは判っているわ。だからこそ、お話を頂いたとき迷う事なく貴女を選んだの。…だけど同時にとても心配だわ。貴女はユーリシア殿下をとても憎んでいるから」


 ミルリミナが命を落とした時、ティーナはずっと皇太子の所為だと泣き叫んでいた事は、屋敷の誰もが知っている。そんなティーナをずっと抱きしめていたのは他でもない夫人なのだ。


「忘れないで、ティーナ。殿下は決して責任を感じていらっしゃらないわけではないの。今でも罪悪感に苛まれてお辛そうな時もあるわ。それでも前を向いてミルリミナと向き合おうとしてくださっているのよ」


(…嘘よ、そんなはずないわ。皇太子さまはお嬢様がお嫌いだもの)


「皇宮にいれば嫌でも殿下とまみえるでしょう。実際にユーリシア殿下にお会いになれば貴女にも判るわ。ユーリシア殿下のお人柄を、その目でしっかりと見て判断するのですよ」


 そうすればきっと、殿下への憎しみが消えるはず。

 夫人はその機会をティーナに与えるために皇宮に連れていく決意をしたのだ。


(…無理だわ、そんなの。だって私は何度も見たもの。皇太子さまがお嬢様を無視なさって通り過ぎるのを。あの時のお嬢様がどれほどお辛そうだったか…。私は絶対に皇太子さまを許さないっ)


 押し黙ったまま眉根を寄せるティーナを、ただ夫人は悲しそうに見つめていた。


 わずかな沈黙が訪れた後、馬車が止まり御者が皇宮についた事を告げる声が聞こえた。公爵邸から皇宮まではわずか十分足らず。そう遠くはない。


 馬車から降り、相変わらず荘厳な皇宮を眺める。ティーナはミルリミナに付き従い何度か皇宮を訪れた事があった。最初はその荘厳さに目を奪われ心躍ったが、ここにあの皇太子が住んでいるのかと思うとこの上なく憎らしい。


「ティーナ、こっちよ」

「…え?」


 まっすぐ皇宮に向かうかと思いきや、夫人はすぐ近くに止まっている別の馬車に歩み寄る。馬車には皇族の紋章である蘭の花が刻まれていた。


「…また馬車に乗るんですか?」

「ミルリミナがいるのは皇族の方が住んでいらっしゃる白宮はくきゅうなのよ。皇宮からさらに奥にあって、歩いて行けるけれど外からなら馬車の方が早いわ」


 さすがは皇宮。敷地内の移動に馬車が使われるなんてどれだけ広いのだろうかと呆れてしまう。

 馬車に乗っている間、夫人から簡単に皇宮の構造を教えてもらった。


 皆が皇宮と呼んでいる一番手前の大きな宮殿が執政などを執り行う宮で、正確には蒼宮そうきゅうと言うらしい。各執務室が設けられ、騎士団の詰め所や訓練所なども併設されている。

 そしてその蒼宮の右奥が、陛下と皇后、殿下が住まう白宮で、左奥がそれ以外の皇族が住まう黒宮こくきゅうなのだそうだ。庭園はこの三つの建物のちょうど真ん中に位置し、どの宮からでも美しい花々が見られるように計算されている。


 『皇宮』という名称は本来これらすべての総称だが、便宜上、蒼宮を皇宮と呼ぶ事が多いと夫人は教えてくれた。


「皇宮の移動には専属の馬車のみ通行可能なの。それ以外の馬車で敷地内に入ろうものなら騎士団に取り押さえられるから覚えておくのよ」

「だから皇族の紋章が刻まれているのですね」

「ええ。…さあ、ついたわ」


 五分ほど揺られてついた白宮は、名前通り白一色のとても美しい宮だった。蒼宮ほど華美ではないが、荘厳さではこちらの方が勝っているだろう。豪奢ではあるが落ち着いた装飾で、温かみがあるようにティーナには感じられた。


 夫人は馬車から降りるとその場で待つように言い残し、宮の警護に当たる騎士団に取次ぎを請う。しばらくすると一人の青年が出迎えてくれた。


「お待ちしておりました。ウォーレン公爵夫人」

「まぁ!クラレンス卿がわざわざお出迎えに?」

「殿下から仰せつかりました。ミルリミナ様の大事な侍女が来られるという事でしたので」


 人好きのする笑顔で青年は二人を出迎える。夫人に軽く会釈をしたあと、後ろで控えているティーナに視線を向けた。


「ティーナ。こちらは補佐官のラヴィ=クラレンス様よ」

「お初にお目にかかります。ユーリシア殿下の補佐を務めるラヴィ=クラレンスと申します。どうぞお見知りおきを」

「あ…、侍女のティーナと申します。慣れないうちはご迷惑をおかけするかと存じますが、どうぞよろしくお願いいたします」


 たかが侍女にあまりに丁寧な挨拶をされて、ティーナは一瞬口ごもる。


(あの失礼な皇太子さまの補佐官なのに、とてもまともな方なのね…)


 そう、ひとりごちながら、ティーナはクラレンスという家名にわずかに聞き覚えがあった事を思い出した。


 フェリシアーナ皇国では皇子が二人いた場合、第一位継承権を持つ皇太子と第二位継承権を持つ皇子それぞれに補佐官を務める侍従がつけられる。クラレンス家は代々第二位継承権を持つ皇子の侍従を担っている家系で、第一位継承権を持つ皇太子の侍従を担っていたのは、クラレンス家の本家筋にあたるフォーレンス伯爵家であった。

 だが現在はフォーレンス家の嫡男が行方不明になり、クラレンス家が代行しているという噂をだいぶ昔に聞いたと記憶している。


「ユーリシア殿下はお忙しそうですね」

「ええ。例の件とミルリミナ様の事で教会側といろいろ調整があるようです。それに加え通常のご公務もございますから、当分はこのような調子でしょう」

「お倒れにならないかご心配ですわね…」


 不安そうな表情を向ける夫人に、ラヴィは笑って返事をする。


「ご心配には及びません。息抜きはしっかりされていらっしゃいますから。むしろ息抜きの時間が多くて困っているくらいです」

「まぁ、あの殿下が、ですか?お珍しいですね」

「今までは仕事の虫でしたからね。誰かを頼るという事をようやく学ばれたようで、我々も安心しております」


 手持無沙汰で二人の会話を聞きながらティーナは気付かれないよう小さく息を吐いた。


 皇太子の話など聞きたくもない。

 気になるのは先ほどちらっと出たミルリミナの話題だ。ミルリミナと教会に何かあるのだろうか。例の件というのはミルリミナに関係ある事なのだろうか。


 二人の会話を尻目に、ティーナは次第に思いを巡らせた。

 そんなティーナの心中を察したのか、ラヴィはティーナに目線を向ける。


「ミルリミナ様の体力が回復されたら、御身を教会に移します。その際は貴女もご一緒いただけると助かるのですが」

「も、もちろんです!お嬢様の行かれるところでしたらどこへでも!」


 突然話を振られて驚きつつも元気な声で肯定するティーナに、ラヴィと夫人は小さく笑う。


「公爵夫人のおっしゃる通り元気な方だ」

「そうでしょう?わたくしもミルリミナもティーナに何度も元気を貰ったのですよ」


 そんな風に思ってもらっていたのかとティーナは面映ゆい気持ちで顔を赤らめた。

 なんだか少し居心地が悪くなった頃合いに、ようやくミルリミナがいるであろう部屋の前に到着し、ティーナの心は馳せる。


 元気になったと聞いたが、食事は摂れているのだろうか。

 皇太子の傍にいてまた傷ついてはいないだろうか。

 自分を見て歓迎してくれるだろうか。

 いろいろな感情や思いが溢れて、ティーナはそれらを抑えるのに必死だった。


「ミルリミナ様。公爵夫人と侍女の方をお連れいたしました」

「お入りください」


 久しぶりに聞くミルリミナの声。思いのほか元気がないように感じる。病み上がりだからだろうか、それとも皇太子に何かされたのだろうか。

 ティーナの心に一気に不安が襲いかかった。

 だが、ゆっくりと開かれた扉の向こう側には、ベッドの上で満面の笑みで出迎えてくれたミルリミナの姿があった。


「お嬢様!」

「ティーナ!来てくれたのね!」

「当たり前です!お嬢様の為なら何をおいても駆けつけます!」

「ティーナったら、相変わらず私に甘いんだから」


 くすくすと声を出して笑っているミルリミナを見て、ティーナはほっと胸を撫で下ろした。

 顔色はあまりよくはないが、これはいつものこと。以前より瘦せたようだが、その表情は以前よりも生き生きしているように見えた。


「…お元気そうで何よりです」


 思わず出てしまった涙を拭い、ティーナは小さく呟いた。


「積もる話もあるでしょう。今日はわたくしはこのまま帰るわね」


 二人を見守っていた夫人はミルリミナにそう声をかけ、笑顔で頷いた。


「お母さま、ありがとうございます。ラヴィ様もご足労頂きありがとうございました」

「私への気遣いは無用ですよ」


 笑顔で答えてラヴィは一礼し、二人は部屋を辞去する。ティーナは二人が出ていった扉を見ながらぼそっと呟いた。


「…クラレンス卿はあの皇太子さまの補佐官とは思えないくらいお優しい方ですね」

「…!まぁ、ティーナったら。それはユーリシア殿下に失礼よ」


 ミルリミナは少し困ったように笑う。


 ティーナが殿下を毛嫌いしている事は知っている。その原因が自分にあるという事も。

 皇宮に行く時は必ずティーナが付き従ってくれていた。茶会に殿下が現れなかった時も、廊下で自分に目もくれず素通りされた時も、いつも自分に代わって憤慨していたのはティーナだった。当時は自分の為に怒ってくれるティーナの存在が有難く、ただただ嬉しかったが、今となっては複雑な気分だ。


「失礼なもんですか!…皇太子さまは冷たいお方です。お嬢様のお傍になんか近づけたくもありません」

「…ユーリシア殿下にはとてもよくしていただいているわ。最近ではこんな私にも笑顔をお見せになるのよ」

「笑顔…ですか?…皇太子さまが?お嬢様に…?」


 ティーナはあまりに信じられない言葉に目を丸くする。己の中の非道な皇太子とはあまりにかけ離れすぎていて、想像しようにもひどく難しい。まるで別人なのではないかとさえ疑ってしまう。


 皇太子はミルリミナの事を嫌っているのではなかったのか?

 だったら今までのミルリミナに対する冷たい態度は何だったのか。

 ティーナはあれこれ張り巡らせた考えを振り払うかのようにかぶりを振り、ミルリミナに向き直った。


「お嬢様!騙されてはいけませんっ!今の皇太子さまは罪悪感に苛まれて一時だけお優しくなられているだけです!どうせ罪悪感が薄れてきた頃には以前の冷たい皇太子さまにお戻りになりますよ!そうなったら傷つくのはお嬢様です!どうか決して皇太子さまにお心を開かないでくだ…さい…」


 勢いに任せてそこまで言ったところで、ようやくミルリミナの物悲し気に微笑む表情に気づく。


「…判っているわ、ティーナ。…ちゃんと判っているのよ。今のユーリシア殿下がお優しいのは、ただの罪悪感からだという事を。私のような者が殿下に好かれるはずはないもの。あれほど毛嫌いされていたのだから。…だけどね、ティーナ。私はそれでも嬉しいの。あの殿下が私の前でいろんな表情をお見せになってくださるのよ。信じられる?以前は廊下でお会いしても見向きもされなかったのに」


 そう言って幸せそうに笑うミルリミナが、ティーナにはまるで泣いているように見えた気がして胸がひどく疼いた。


「きっと私の身柄が教会預かりになれば、もうこうやって殿下が通ってくださる事もなくなるわ。それまでは例えこの関係が一時の事であっても、殿下のお傍にいられる事を喜びたいの。…そして教会に行く前日に婚約解消を申し出るつもり。…ねぇ、ティーナ。それまではお願い。殿下を許すふりをしてくれないかしら?」


 困ったような笑顔を浮かべながらも、ミルリミナは何かしら決意をしたような強い眼差しでティーナを見据える。その表情からミルリミナの切実な想いが伝わってきた。


 以前からミルリミナが皇太子を憎からず想っている事も、その自分の想いに全く気づいていない事も、長く共にいたティーナには判っていた。判っていてあえて、ミルリミナがその想いに気づかないようにティーナは気を配っていた。判ってしまえば、皇太子の冷たい態度に今以上に傷ついてしまうから。


(だけど気づかれてしまわれたのね…)


 ミルリミナを哀れに思う。

 きっと皇太子はミルリミナの想いには応えてはくれないだろう。端から見ていても皇太子がミルリミナを避けていた事は明白だった。

 本当は今すぐミルリミナを教会に連れて行って今後一切、皇太子との接触を断ってしまいたかった。最初は辛いだろうが、そのうち聖女としての務めで忙しくなって皇太子の事など忘れるに違いない。


 だが、それはそれで可哀想だと思う。

 たった一時の事であってもようやく皇太子がミルリミナを見てくれるようになったのだ。それをミルリミナから奪ってしまうのはあまりに酷だろう。


 まるで懇願するような表情で見つめてくるミルリミナに、ティーナは微笑みながら小さくため息をついてみせた。


「…仕方がありませんね」

「ティーナ…っ!ありがとう!」

「言っときますけどふりだけですからね!私はお嬢様に冷たい態度をお取りになった事を許してはいないんですから!」


 大仰に腰に手を当て怒っている表情を取るティーナにミルリミナは笑いながら頷いて、了解の意を示した。

 皇太子の事は憎いが、ミルリミナが今こうやって笑顔で笑ってくれるのは間違いなく皇太子のおかげだろう。それを思うと何とも複雑な気分になる。


 ティーナはひとしきりミルリミナと言葉を交わした後、隣の部屋にあてがわれた自分の部屋に荷物を置いて、早速ミルリミナの専属侍女として職務についた。


**


「公爵夫人と彼女の侍女はもう来たのか?」


 夫人を見送ったあと、執務室に戻ってきたラヴィにユーリシアはそう尋ねた。机の上には書類が山積みになり、視線はその書類に落としたままだ。


「はい。夫人は侍女を連れてきただけのご様子で、すぐに帰られました」

「…そうか」


 短く答えて、書類に目を通していく。


 ミルリミナに足が不自由になった事を伝えた日以来、執務中でも彼女の事が頭から離れない事にユーリシアは戸惑っていた。

 つい顔を赤らめてしまった自分を見て、声を出して笑っていたミルリミナの顔が忘れられない。執務中でも気づけば、どうすればまたあの笑顔が見られるのかと考えている自分がいる。


 最初の頃は仕事が手につかず、悩んだ挙句ミルリミナの部屋を訪れた途端、心が波が引くように落ち着いた事には心底驚いた。それ以来何かあれば頻繁にミルリミナに会いに行っている。

 どうしてこれほどまでにミルリミナの事が気になるのか、自分でも全く判らなかった。罪悪感からなのだろうかと思っていたが、どうやら違うような気もする。


 恋愛というものを一度も経験した事のないユーリシアにとって、今のこの想いに名があるという事を全く知る由もなかった。


「ミルリミナ様の教会行きの日程はお決まりになられましたか?」

「…いや、ようやく体を起こせるようになったばかりだ。もう少し延ばしてもらう事になった」


 皇宮医からはもう教会に移しても問題ないというお墨付きは貰っている。実際ここ最近のミルリミナはユーリシアの目から見ても体調がよさそうに見えた。

 だがそれでもなんだかんだと理由をつけては教会行きを遅らせているのは、ただ自分がミルリミナと離れたくない気持ちからだという事をユーリシアは知っていた。


 ミルリミナの隣は妙に居心地がいい。

 以前は自分を嫌っているのではないかと心配したが、そのような感じでもなさそうだ。好かれているとは思えないが一緒にいる事に不快感を抱いている様子もない。誰の前でも皇太子という仮面をかぶっていたユーリシアにとって、人に頼る事は悪ではないと教えてくれたミルリミナの存在は、その仮面を捨てる事ができる唯一の場所だった。


 だからこそ、その場所を奪われたくはなかった。

 だがどれだけ理由をつけて教会行きを先延ばしにしても、いずれは教会に行かなければならない。彼女が聖女であるがゆえに。

 生き返らせてくれた事には感謝するが、今更ながら聖女である事が悔やまれた。


「殿下、失礼いたします」


 ふと、部屋の外から声がかかる。ユーリシアは書類から目線を外し、扉を見据えた。


「アーノルド子爵令嬢がお見えになっております」

「…はあ、またか」


 ここ最近、貴族令嬢が頻繁にユーリシアを訪問してくるようになった。原因は判っている。婚約者の座の後釜を狙っているのだ。


 ユーリシアとミルリミナの婚約は公式にはそのままとなっているが、貴族と教会の間では問題視されていた。それはミルリミナが聖女であるが故だ。


 そもそもフェリシアーナ皇国に限らずこの世界では国と教会の癒着は絶対禁止事項だった。教会が担うのは聖女が創造する魔力を世界に満たすこと。教会を造り祈りを捧げる事でその土地に魔力を満たすのだが、逆に教会を潰せばその土地の魔力は枯渇する。教会に政治が絡むと、故意に任意の土地の魔力を枯らせる結果を生むため、教会は完全に独立した組織となっている。


 その根源たる聖女が一国の皇太子妃の座についていいのか。問題視されているのはそこだった。これは完全なる『国』と『聖女』の癒着だ。

 ただ聖女が降臨した前例がない事と、ミルリミナが本当に聖女としての力を行使する事ができるのかが不明瞭である為、現状維持として婚約はそのまま保留となっている。


 だが多くの貴族が十中八九解消されるであろうと予想して、早々に次期婚約者として売り込みに来ているのだ。特にこのアーノルド子爵令嬢は毎日のように頻繁に顔を出してくるので、さすがのユーリシアも辟易していた。


 もともと令嬢の中では群を抜く魔力量で、髪の色は金に近い明るい茶色だ。一番、皇太子妃の座に近いと噂され、実際、五年前に婚約者を決める際多くの官吏や貴族は彼女を推した。皇王が魔力至上主義者であれば間違いなく彼女が婚約者となっていただろう。


 そんな経緯もあってか次期婚約者の座に対する意気込みがすごい。令嬢自身は聡明で分別のある為人ひととなりだが、父であるアーノルド子爵の自分の娘を皇太子妃の座に就けようと必死な姿が、見ていて浅ましくユーリシアはひどく不快だった。おそらく令嬢が足繁く通ってくるのも、あの父の指示なのだろうと同情してしまう。


「…判った。すぐに向かうと伝えてくれ」

「殿下。よろしければ私がお相手いたしますが」

「いや、会わずに帰すのは失礼だろう。彼女が悪いわけではない」


 ここで断れないのがユーリシアなのだろうとラヴィは思う。

 仮にも一国の皇太子なのだから会わずに帰しても失礼に当たるはずなどない。むしろ前触れもなく訪問してくる令嬢の方が失礼なのだからなおさらだ。

 なのにユーリシアは律儀に対応する。どれほど忙しくても必ず自分で出向いて断りを入れるのだ。その紳士ぶりに頭が下がる思いだった。


 ラヴィはユーリシアに追従し、アーノルド子爵令嬢の待つ庭園に向かう。庭園の中央にあるガゼボ(西洋風あずまや)の椅子に、肩身が狭そうに腰かける令嬢の姿があった。


「…お忙しい中、御尊顔を拝し恐悦至極にございます。フェリシアーナの若き太陽に光があらんことを」


 ユーリシアを見るや立ち上がり、軽くこうべを垂れて形式的な挨拶を済ませる。


「…貴女も大変だな、アーノルド子爵令嬢。お父上の指示とは言え毎日通うのは大変だろう」

「申し訳ございません。殿下はお忙しいのだからと父を諫めてはいるのですが、耳を貸してはくれず…」

「実の父とは言え卿の相手は大変だろう?同情する」


 ユーリシアの中の子爵はまるで機関銃のようにまくしたてている姿ばかりだ。その姿を想像してユーリシアは苦笑いを令嬢に向ける。

 そうやって気持ちをほぐしてくれる皇太子の気遣いが判って、令嬢はくすくすと笑みをこぼした。


「まあ、殿下ったら。よろしければ思いっきりご叱責してくださいませ。皇太子殿下からのご叱責があれば少しは大人しくなりましょう」

「それはご免被るな」


 二人はひとしきり笑いあう。


 ミルリミナともこうやって会話ができれば、と傍に控えているラヴィは思う。

 傍で見ていて、もどかしくなるほど二人はどこかぎこちない。最初の頃に比べればお互い笑顔が見えるようにはなったものの、それでもまだ距離があるように思えた。

 五年もの間お互いに避け続けた事実を目の当たりにしていたラヴィにとって、それは仕方がない事なのだろうと頭では理解しているが、お互いの気持ちが判ってしまったラヴィなだけに、見ていてひどくもどかしい。ユーリシアに至っては未だ自分の気持ちにすら気づいていない事にラヴィはやきもきしていた。


「アーノルド子爵令嬢、来ていただいたところ申し訳ないが…」

「はい、承知しておりますわ。例の件でとてもお忙しいのでしょう?」


 例の件…各地の魔力が徐々に枯渇し土地が荒廃し始めている一件だ。どの土地にも教会が造られ、もれなく魔力が満たされているはずだった。なのに魔力が枯渇する。それはフェリシアーナ皇国に限らず世界各地で起きている現象で、各国の辺境の土地に多く発生していた。教会が調査を進めているが未だ原因がつかめず、近く各国の要人が集まり討議する予定だ。


 そんな重大事項が子爵令嬢の耳にまで入っているのかと、ユーリシアは驚いた。


「そのことは内密に頼む。民にまで広がれば無用な混乱を生む」

「心得ておりますわ。…それと、お忙しいのであればわたくしが伺っても無視してくださいませ。このような事で殿下のお手を煩わせるわけには参りません」

「いや、女性を無下にするわけにはいかない。大した手間ではないんだ。貴女は気にしなくてもいい」


 ユーリシアの気遣いが嬉しく、心地いい。

 この優しさを勘違いしてしまいそうになると子爵令嬢は思う。


「…そんな殿下だからこそ、多くのご令嬢が夢中になってしまわれるのですわね」


 ひとりごちた子爵令嬢に、ユーリシアは何の事か判らず怪訝な顔をする。


「ですが、そのお優しさは多くの者に与えるべきではありませんわ。殿下が心の底から大切にしたいと思われたお方にだけなさいませ。…では、失礼いたします」


 満面の笑みでそう告げた後、子爵令嬢は軽く一礼をして足早にその場を去った。残されたユーリシアはその言葉の真意が読めず狼狽しているようだった。


「…ラヴィ、今のはどういう意味だろうか?」

「…返答いたしかねます」


 恋愛ごとに疎いユーリシアに理解してもらえるよう説明できる自信がなくて、ラヴィはそう返答する。なおさら困惑するユーリシアにラヴィは苦笑いしながら続けた。


「子爵令嬢が不快感を抱いたわけではございませんのでご安心ください」

「…まあ、それならいいのだが。とりあえず執務室に……!」


 ラヴィに視線を向けながら踵を返すと、目の前に見知らぬ侍女が立ちふさがっていた。

 皇宮で働く侍女や侍従の顔はあらかた覚えていたユーリシアは、すぐにミルリミナの侍女だろうと推察したが、何やらその面持ちは怒りを表わしているように見える。


 ミルリミナに何かあったのかと尋ねようとしたその瞬間、侍女から思わぬものを貰う羽目になった。

 平手打ちだ。

 侍女の小さな手がユーリシアの頬を勢いよくはたいた。


 ユーリシアはあまりに突然の事で茫然自失となったが、周りの護衛騎士が侍女に剣を向けようとするのが見えて慌てて制止する。


「よせっ。彼女はミルリミナの大切な友人だ!傷つける事は許さない!」


 声を荒げて騎士から守るように立つユーリシアに、平手打ちを食らわせた張本人は目を丸くして唖然とした。

 彼女にはなぜ己をぶった相手を守るのか理解できず、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。


「驚かせて申し訳ない。君はミルリミナの侍女のティーナだろうか?…挨拶が遅れた事をお詫びしよう。私はユーリシア=フェリシアーナだ」


 一言も発しない侍女にユーリシアは丁寧に挨拶をする。できるだけ怯えさせないように優しく接するよう努めた。


「…何か不快な思いをさせただろうか?それともミルリミナの身に何かあったのか?」

「……気安くお嬢様のお名前を口にしないでください…っ!お嬢様の気も知らないで他のご令嬢と仲良くなさるなんて…あんまりです!あの方が本命のご令嬢でしたら、お嬢様にお優しいお言葉などおかけにならなければよかったのに…っ」


(無駄に期待を持たせて…残酷だわ…っ!)


 ティーナはまくしたてるように叫んだあと、そのまま声を上げて泣き始めてしまった。

 その場にいたユーリシアやラヴィだけでなく、ティーナに剣を向けようとした騎士たちまで困惑し、互いに顔を見合わせる。


「…えー…と、ティーナ……?」


 泣きじゃくるティーナに、ラヴィはおそるおそる声をかけるが反応はない。


「……とりあえず、私の執務室に行こうか…」


 このままでは収拾がつかないと踏んだユーリシアはとりあえず落ち着いてもらおうと、ティーナを執務室に連れていく事にした。


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