ダスクの逃亡
ユーリシアは良心の呵責に苛まれて、たまらずため息を吐いた。
なぜ、そうしてしまったのかは自分でも判らない。
気づけば体が動いていた、という表現が一番的を射ているだろう。
だがそんなものは言い訳に過ぎない事を、ユーリシアは嫌というほど承知している。咄嗟のこととは言え、これはまぎれもなく自分が行ったことなのだ。
ユーリシアは悄然と手に持っているハンカチに視線を落とす。
夜光蝶を見に行った帰り、ユーリのポケットからこのハンカチが落ちたのを見つけた。
初めは当然、ユーリに返すつもりだった。
拾って、ハンカチにイニシャルと君子蘭の刺繍を見るまでは____。
それを見つけた途端、なぜか体が強張った。
立ち止まっているユーリシアを怪訝そうに振り返ったユーリから咄嗟にハンカチを隠して、何でもない、と頭を振った。
そうして、罪悪感だけが残った。
なぜ、そうしてしまったのかはどれだけ考えても本当に判らなかった。
判らないからこそ、このハンカチをどうしたものかと、もう二日も悩んでいる。
(…ユーリに返すべきなのだろうが……)
それはしたくない。
なぜか自分の心はそれを頑なに拒んでいる。きっとユーリは、このハンカチを必死に探しているのだろうと判っているはずなのに___。
その理由がまた判らず、なおさら困惑したようにユーリシアは再び盛大なため息を吐いた。
─────丁寧に刺繍された、Y.Fのイニシャルと君子蘭。
このハンカチはきっと、ユーリがユルングルのために作ったものだ。
ひと針ひと針、思いを載せて。
そう思うと、罪悪感よりもなぜか心がひどく痛んで仕方がなかった。
**
ミルリミナがそれに気づいたのは、夜光蝶を見に行った翌日だった。
部屋に戻ったのが深夜になった事もあって、ミルリミナはそのまま着替えることもせずにいつの間にかベッドで寝入ってしまった。翌朝夜明けと共に目覚めて、着替えている最中にハンカチが無くなっている事に気が付いたのだ。
ミルリミナは慌てて部屋を飛び出して森の中を捜索してみたが、ついぞ見つけることは叶わなかった。
まだ薄暗い彼は誰時の事。もしかしたら見損なったのかもしれないと、日が昇ってからも散々探したが、やはり森の中に目当ての物は見当たらなかった。
誰かが拾った可能性も考えたが、あの森は昼間であってもあまり人が入らない。ましてや落としてから翌早朝には森を散々探し尽くしたのだ。誰かが拾ったのだとしたら、当日の深夜でしかあり得ない。
そんな時間に、森を彷徨い歩く人などいるだろうか?
そう思うと、可能性としては森の動物が持って行ったと考える方が自然だろう。
ミルリミナは丸二日探し回った挙句、その結論に至って悄然とため息を吐いた。
(…あの時、もっときちんとポケットに入れるべきだったんだわ…)
慌てていたので、つい大雑把にポケットに入れたのを覚えている。
いや、そもそも持って行かなくても良かったくらいだ。
あまりに綺麗な光景とユーリシアに誘われた事にすっかり舞い上がって、ハンカチの存在を忘れてしまった。後々考えれば、渡すのに絶好の機会だったのにもかかわらず、嬉しさでつい失念してしまった。こんなことになるなら、持っていくべきではなかったのだ。
だが、どれほど後悔してももう遅い。
森の動物が持って行ってしまったのなら、もう出てはこないだろう。仮に出てきたとしても見るも無残な姿になっているはずだ。
もう一度刺繍を、と思ったが仕上がった頃には、もう完全に渡す時機を逸してしまっている。
何よりユーリシアを想って仕上げたあのハンカチと同じ物は、もう二度とできないだろう。
あれは、ミルリミナにとって唯一無二の物だった。
あの時、あの状況だからこそ生まれた物だ。どれだけ同じ刺繍を施したとしても、それは別物でしかあり得ない。
その唯一を失ったのは、あまりに痛い。
ミルリミナはただただ、後悔するしかなかった。
**
「体の調子はどうだ?ダスク」
無茶をして採血をした翌日、そのまま診療所の処置室で一夜を明かしたダスクの元に、呆れた顔をしたユルングルが訪問して来て、やはり呆れた声で話かける。
その表情が怒っているような、もしくはバツが悪いのかずいぶん渋い顔を作っているので、無茶をした事への小言を聞かされるのではないかと、ダスクは内心ひやひやした。
「…怠さは相変わらずです」
実際は怠さだけではない。
耳鳴りはするし眩暈もする。こうしてクッションに身を委ねたままにしているのは、座位を保持する気力もないからだ。気を抜こうものなら、そのまま目を閉じてまた眠りにつきそうな勢いだが、それをそのまま告げれば、目の前の青年は眉間のしわをさらに増やして、最上級の渋面を作ることだろう。
弱り切った体に小言は御免被りたいと、ダスクは当たり障りのない言葉でお茶を濁したが、どうやら見逃してはくれないようだ。
「…耳鳴りもするだろう?」
「……!」
「眩暈もするんじゃないのか?」
「………っ」
「話すのすら億劫だろうが」
「…………」
すべて的を射た意見ばかりで、ダスクはすっかり閉口する。
「極度の貧血は嫌というほど経験したからな」
「……お人が悪いですよ、ユルングル様」
くつくつと笑うユルングルに、ダスクは苦虫を潰したような顔で答える。
弱っていても隙を突いてくるこの性格は、さすが皇王の令息と言ったところだろうか。
「…元々は400取るつもりだったらしいな。だが実際採血したのは500弱。あのダリウスが珍しく眉間にしわを寄せていたぞ」
処置室の椅子に腰かけて、ユルングルはことさら面白そうに告げる。
どうやら小言は免れたらしい。
「今回は不可抗力です…好きで500も採血したわけではありません…」
「一応ダリウスにはそう弁明してやったが、まあ、小言くらいは覚悟しておくんだな」
結果的に500になっただけなのに、小言を言われるのは理不尽極まりない。
ダスクは蒼白な顔に軽く渋面を作ると、ふとユルングルからの妙にバツが悪そうな視線が目に留まって、怪訝そうな表情に変える。
「……ユルングル様…?どういたしました……?」
「…昨日のことは覚えているか…?」
「……昨日…?」
その問いかけに一瞬、意を得ず小首を傾げたが、途中で意識を失ったことだと理解して、ダスクは恐縮するように弁明する。
「…ああ…申し訳ございません……。何とか意識を保とうと努力はしたのですが耐え切れず……」
「それは別にいい。…俺が話したことは覚えているか、と聞いているんだ」
その質問にダスクはさらに困惑の色を強くした。
正直、ユルングルが何を話していたのかはあまり覚えていない。
あの時はもうすでに夢現の状態だった。夢と現実の境を行き来しているような浮遊感の中で、ユルングルが何かを話している事だけはうっすらと覚えている。
その内容はもちろん覚えてはいないが、おそらく耳には届いていたのだろう。ユルングルの言葉にひどく救われたような気がして、心の重しが軽くなった事だけは記憶の片隅に残っていた。
___そこまでは記憶にあるのに、肝心の内容だけは覚えていない。
返答に困って視線を右往左往しているダスクを視界に入れると、ユルングルはなぜか安堵したような、だけれどもわずかに残念そうに息を吐いた。
「…覚えていないなら、それでいい」
「………??」
てっきり不機嫌な顔をされるのだろうと思っていただけに、ダスクは拍子抜けしたように呆けている。
ユルングルは早々に話題を変えたいのか、ダスクに考える隙を与えないようにすかさず言葉を続けた。
「…今ダリウスに輸血の準備をさせている。今日は輸血を受けてゆっくり休め」
「……!」
こともなげに告げるユルングルの言葉に、ダスクは一瞬気怠い体を忘れて、跳ねるように体を起こした。
「…お待ちください…っ!まだおれの体には万有の血が____」
「たかが100ちょっとだろう。もうこれ以上の採血はよせ」
「そのたかが100ちょっとが今の貴方には必要なのです…っ!」
「これ以上の無茶は許さない」
ぴしゃりと言われて、ダスクは思わず閉口する。
いかにも納得していない表情のダスクを一度視界に入れて、ユルングルは悠然と席を立った。
「二度は言わないぞ、ダスク。今日は休め、判ったな」
反論は認めない、と言わんばかりの眼差しを送って、ユルングルはダスクが不満を口にする隙も与えず処置室を後にする。残されたダスクは反論する事さえ許されず、ただ拳を強く握った。
「…冗談じゃない…っ」
たかが100と言うのなら、採血してしまえばいいのだ。微々たる量だと軽く見るなら、それくらい取ったところで大して違いはない。
この気怠さも、不快気なほどの耳鳴りや眩暈も、我慢して甘んじて受け入れているのは、他でもないユルングルのためなのだ。それを今さら邪魔されて、黙っていられるはずがない。
ダスクは気怠い体を奮起させ何とか立ち上がろうと試みるが、やはり血を失い過ぎた体に支えるだけの体力はなく、その場で力なく頽れる。それでも諦めきれず、もう一度立ち上がろうと足に力を込めたところで、扉を叩く音が部屋に響いた。
「…シスカ、体調が悪いと聞いたが____」
輸血の準備を終えたダリウスかと思って一瞬、体を強張らせたが、入ってきたのがユーリシアだと判って、ダスクはたまらず安堵のため息を落とす。反面、ベッドの脇で蒼白な顔で頽れているダスクが目に入って、ユーリシアは目を丸くして慌てて駆け寄った。
「シスカ…っ!どうした!?大丈夫か…っ!?」
「……いいところに来てくださいました…殿下…」
「…………はい?」
冷や汗なのか軽く額に汗を浮かべながら悪戯が思い浮かんだ少年のような笑みを落とすダスクを、ユーリシアは悪い予感と共に視界に入れた。
**
「…素直に輸血を受けたらいいだろうに……」
道すがら事情を聴いて、ユーリシアは呆れたように言葉を落とす。
そう言いながらも、一人では動くこともままならないダスクに言われるがまま手を貸している自分も自分だろう。
シスカはユーリシアに支えられながら、反論するようにひどく気怠い口を開いた。
「……例えばミルリミナに輸血が必要だとして、かなりの量を採血した後にまだ100mlの血液が必要だと言われたら、殿下はどうなさいますか……?」
「………取れ、と言うな」
「そういう事です……」
言いたいことも判るしシスカの気持ちも判るが、見るからに不調が覗えるシスカの姿を見れば、やめろと言うユルングルの気持ちも判る。
額に汗を浮かべ、蒼白な顔で今にも意識を失いそうなシスカを視界に入れて、意図せず二人の間で板挟みになった自分を恨めしそうに悄然と肩を落とした。
「……で?一体どこに向かうつもりだ?」
シスカの残された右腕を首に回して体を支えながら、ユーリシアは観念したように問う。シスカの状態を見れば、ここで押し問答を続けるよりも早く目的地に着く方がいいだろう。
そう思って、とりあえず歩みを進めて、ちょうど遁甲の出入り口がある森に差し掛かるところだった。
「……ゼオンの所に……」
「……!皇宮に行くつもりか…!?お前は死んだ事になっているだろう…!」
「……御心配には及びません……」
おもむろに立ち止まったシスカは、首に回された腕を外して何やら懐から腕輪らしきものを二つ取り出す。
日の光を受けてきらりと虹色に光ったのは、腕輪につけられたオパールだった。
「…これは……?」
「…魔装具です……これをつければ周りからは別人に見えます……。念のためユーリシア殿下もお付けください……」
シスカの手から腕輪を不思議そうに受け取った刹那、森の中から勢いよく誰かが出てきて、二人は揃って飛び跳ねるように体を震わせる。ユルングルに見つかったのかと鼓動が早鐘を打つように波打ったが、二人の視界に入って来たのはユルングルよりも二回り以上小さな、彼によく似た容姿を持つ少年だった。
「ユーリ…っ」
「…!ユーリシアさん…!すみません、驚かせて___」
言ったところで、顔面蒼白なシスカの姿が視界に入って、ユーリは同じく青ざめたように慌てて駆け寄った。
「ダスク兄さん…っ!どうしたんですかっ!?顔色が…っ!」
心配そうに駆け寄ったユーリの腕を、シスカはまるで逃がすまいと言わんばかりにがっしりと掴む。
「……??…え…っと…?…これは、何でしょう……??」
現状が理解できず、怪訝そうに様子を窺うユーリの視界に入ったのは、何やら満面の笑みでにこりと微笑むシスカと、頭を抱えるようにため息を吐く、困惑気なユーリシアの姿。
「……旅は道連れ、と言いますからね…」
「………はい??」
そうして、ダスクと巻き込まれた二人の逃亡が始まったのである。




