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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第一部 嚆矢濫觴(こうしらんしょう) 

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殉教の徒

「…もう行くのか?」


 名残惜しそうなシスカの言葉に、身支度を終えたラン=ディアはため息をく。


「…もう俺は必要ないだろう。あまり引き留めてくれるな、シスカ」


 そう言われて、シスカは困ったように笑みを落とした。


 ユーリシアの暴走以降、一人ではどうにもならず、まるで心得たように駆けつけてくれたラン=ディアを引き留めに留めて、もう半月以上経った。渡り鳥のように放浪するラン=ディアにとっては異例なほどの滞在期間だろう。


 今まではラヴィの怪我や、歩くことさえままならないユルングルを理由に、ラン=ディアはシスカに請われるまま滞在を延ばしたが、今は違う。ラヴィの傷はもうほとんど治り完治に近い。あと数日もすれば杖も必要なくなるだろう。ユルングルに至っては病の完治には至らないものの、もうほぼ完全に以前の体調を取り戻している。

 後のことはシスカ一人で十分間に合うだろう。


 そう思ってここを出ることをシスカに告げたのはつい昨日の事。

 まだここにいてほしそうな表情を取ってはいたが、引き留める材料がなくてシスカは不承不承と承知したことをラン=ディアは知っている。

 それでも出ると決めたのは、ここにいると自分に甘えてしまうからだ。


 ここは存外、居心地がいい。

 いつも、つまらなさそうに教会にいたシスカの表情が目に見えて明るくなったのは、この居心地の良さゆえだろう。それは意外にもラン=ディアの心にすら少なからず影響を与えた。渡り歩くことが当然と思っていたラン=ディアの心に、生まれて初めて『離れがたい』という感情を植え付けたのだ。それは故郷を惜しむ郷愁の念に近い。


 ラン=ディアは故郷を持たなかった。

 親兄弟はいたが幼い頃に教会に入って以来、会ったことはない。今ではもう顔すら覚えてないのだから、他人と変わらないだろう。そこに郷愁の念など出ようはずもなく、かといって教会に里心が付くこともなかった。

 自分に故郷はないと割り切れたのは、なくても困らなかったからだ。だからこそ根無し草のような暮らしが苦痛ではなかったのだ、と今になってようやく思い至った。


 それは、ここに郷愁の念を抱いてしまったからだろう。

 あまりの居心地の良さに、里心が芽生えてしまった。

 一度その感情を味わってしまえば、今まで苦ではなかった渡り鳥のような暮らしが苦痛に思えて仕方がなかった。

 つい気を抜けば『離れがたい』という感情に身を委ねて、ここで暮らし続けるのも悪くない、と自分を甘やしてしまう。


 ラン=ディアは自分の心の中に芽生えたその怠惰な心が忌々しかった。

 それゆえに、ここを出る決意をした。

 ここに居続ければ自分はもっと怠惰になる。心穏やかな日々に負けて、自分の中に存在する神官の心は真綿で首を締めるようにゆっくりと死んでいくのだ。

 それだけは、どうしても耐えられなかった。


 決意が鈍らぬうちにシスカに別れを告げて、ラン=ディアは早々に荷造りをした。部屋を完全に片づけなかったのは、未練たらしく自分の帰る場所を確保するためだ。時折、故郷に帰るくらいは許されるだろう。


 残念そうなシスカの表情に後ろ髪を引かれながら、ラン=ディアは見送りをするシスカを伴って隠れ家を出た。


「…どこに行くんだ?」

「…また皇都の周りを転々とするさ。まだここから離れられないからな」


 その言葉に、シスカは教皇の顔が脳裏をかすめる。

 ここに滞在している間も、ラン=ディアは頻繁に中央教会に赴き教皇の診察を行っていた。その頻度の高さが教皇の体調の悪さを物語っているようで、シスカはたまらなく不安を掻き立てられていた。


「…ギーライル様のご体調はそれほど悪いのか?」


 その問いには、自然と逡巡する。それはその問いかけが事実を語っていることに他ならないからだ。

 ラン=ディアはややあってから、重い口を開いた。


「…あの御歳だからな。何もない事の方がおかしい」

「あとどれくらいのお命なんだ?」


 すかさず問いただしてくるシスカに、ラン=ディアはたまらず息を吐く。どうやら、はぐらかすことを許してはくれないらしい。

 ラン=ディアは渋面を作って困ったように頭を掻くと、再び盛大にため息を吐いた。


「…冬までには」


 その返答に、わずかばかり目を瞬いたものの、シスカは覚悟を決めていたのか思ったほどの落胆はない。それが虚勢でも意地でもどちらでもよかったが、自制心を失わないでいてくれた事だけは有り難かった。


「…驚かないんだな」

「…もう、別れは済ませてある」


 ウォクライを迎えに行った時の事だろう、とラン=ディアは内心で得心する。

 あの日、帰ってきたシスカの様子はいつもと違って見えた。特に問いたださなかったが、十中八九、教皇の事だろう。シスカが目に見えて感情を露わにするのは、妹が死んで以降、教皇の事でしかない。


 残された右手の拳を無自覚に強く握るシスカを視界に入れて、そうか、と短く返答した後、ラン=ディアは手に持っていた鞄を肩にかけた。


「…また何かあったら呼んでくれ。いつでも駆けつける。…あと、無茶だけはするなよ」

「…心得ているよ。ありがとう、ディア」


 シスカのその返答に懐疑心の目を向けつつも、別れを惜しむことなく淀みのない足取りで去っていくラン=ディアを、シスカは一抹の寂しさを抱えながらしばらく視界に留めていた。


**


「ダリウス、また手伝ってくれますか?」


 ラン=ディアを見送った後、ダスクは調理室から朝食の片付けと昼食の下ごしらえを終えて出てくるのを待って、ダリウスに声をかける。

 もう何度目かになる頼み事なので何をするかは即座に承知したのだろう。まくっていた袖を元に戻しながら、ダリウスは躊躇うことなく了承の意を示す。


「ラン=ディア様はもう出て行かれたのですか?」


 診療所の隣に併設されている処置室で採血の準備をしながら、ダリウスはダスクに問う。


 ユーリシアが暴走した一件以来、診療所はずっと閉めたままだった。

 当初はユーリシアが再び暴走した時を想定して、それが杞憂だと判断した後はラヴィとユルングルの体調を優先して診療所は閉めたままにした。代わりに往診は続けていたが、そろそろ診療所を開けなければ、とダスクは何とはなしに思う。


「…ええ、相変わらず淡白に出ていきましたよ」


 呆れたように、だけれども少し寂しそうにダスクは息を落とす。その様子が拗ねているように見えて、ダリウスはたまらず失笑した。


「仲がよろしいのですね」

「…向こうもそう思っているかは謎ですけれどね。彼は一匹狼ですから」

「ですから馬が合われたのでしょう?」


 さもありなんと答えるダリウスの言に、ダスクは思わず目を瞬く。


 彼も自分も、元々、他人との距離が近すぎることを嫌う傾向にあった。

 普段は一人で過ごし、何かあった時には互いに駆けつけ、何もなくても申し合わせたように時には一緒にいる、そういう距離感をお互いに望んで一緒にいるようになった。それは自分の都合を押し付け合うのではなく、強い信頼があるからこそ成り立つ関係だと、ダスクは思っている。それはおそらくラン=ディアも同じだろう。


 その関係性は、今も変わらず続いている。

 何かあればラン=ディアは必ず今回のように駆けつけてくれるし、ダスクもまた呼びかけには必ず応じた。

 ラン=ディアが去って一抹の寂しさは感じたが、やはりこの距離感が好ましいのは変わらない。


(…いや、今回は少しばかりディアに甘え過ぎたか…)


 本当に困った時は、こちらが呼ばずともなぜかいつも心得たようにラン=ディアは目の前に現れる。それは暴徒の件の時でも、そして今回もそうだった。

 年を取るにつれ、その安心感が甘えに変わるのはいささか仕方のない事だろう、とダスクは内心で言い訳しながら自嘲するように小さく笑みを落とす。


「…ディアの部屋はそのままにしてあげてください。また戻ってくるつもりのようですから」


 そう言われたわけではないが、おそらくそのつもりなのだろう。

 ダリウスは了承の意を示すように軽く微笑むと、準備を終えたのか横になるよう促す。ダスクは背中にクッションを当てて、もたれるに留めた。


「今回も200にいたしますね」


 言って、ダリウスは何度も採血を行った跡の残る右腕に針を刺す。


 ユルングルが血友病だと判明して以降、ダスクはこうやって定期的に自身の体の中に残るユルングルの血液を採取することを繰り返している。採血するのはいつも決まって200ml。それ以上はラン=ディアが許してくれなかった。


「いいえ、今日は400取りましょう」

「……!?」


 監視役のラン=ディアがいなくなったことをいい事に、ダスクはさらりと無茶を要求する。


「承服いたしかねます…!ダスクさんはこの短期間でもう600も採血なさっているのですよ…!」


 ユルングルが病に伏してからの十八日間でダスクは計三回、六日ごとに200mlを採血している。その頻度で採血するだけでもラン=ディアは不快気なほど盛大に渋面を作った。


 血液の量は体重の約十三分の一と言われている。

 その血液の約三割を失えば血圧低下を招き、四割を失えば生命の危機に瀕する、とされているが、実際のところ一リットルも失えば、まともに動くことは困難だろう。

 ダスクは六日間の間隔を空けているとは言え、今日400mlも採血すれば、その一リットルに達する。

 これにはさすがのダリウスも黙ってはいられなかった。


「いくらダスクさんとは言え、あまりに危険です…!」

「少し寝込む程度です。大したことはありません」

「貴方が寝込まれた後にユルングル様の病が再び発症されたら、どうなさるおつもりです…!」

「その時はディアを呼んでください。間に合わなければ、おれが這ってでもユルングル様を治療しますよ」

「ダスクさん…っ!!」


 何を言っても頑なな態度に、ダリウスは珍しく眉根を寄せて声を荒げる。


 基本的にダリウスはその心根が優しすぎるのだ。他人の痛みや苦痛を、まるで自分の事のように扱う。

 ダスクはその優しすぎる高魔力者を好ましく思いながらも、困ったようにため息を落とした。


「…もうあまり時間がないのですよ」

「………?」


 意を得ず、ダリウスは怪訝そうにダスクを見返す。


「体内に入ったユルングル様の万有の血とおれの血液が剥離できないほど融合するのにかかる時間は、約六十日です。五十日を過ぎれば融合が進み、万有の血を採血したとしても不純物が多くユルングル様の体内に輸血する事は難しいでしょう。…そして今日は、ユルングル様の血液を輸血されてから四十四日目です。残り六日間であと600もの万有の血を採血する必要があるのですよ」


 言って、ダリウスに視線を向ける。


「悠長なことを言っていられない事は、貴方でも判るでしょう」


 ダリウスを見据える、その視線は強い。

 無茶を通すその頑なな態度は他でもないユルングルを想っての事だと判るから、なおさらダリウスは何も言えなくなった。


 ややあって、ダリウスは観念したように肩と同時にため息を落とす。


「…承知いたしました。ですが万有の血をすべて採血し終わった後は、必ずダスクさんも輸血をなさってください」


 万有の血が体内にある内は、さらに第三者の血が混じれば剥離が難しくなる、とダスクは輸血を拒んでいた。万有の血の採血が終われば、その憂いはなくなる。

 ダスクは不安そうな視線を返すダリウスを視界に入れて、にこりと微笑んだ。


「…ええ、約束しますよ」



 ダリウスが退室して一人処置室に残されたダスクは、次第にだるくなる体を持て余すようにゆっくりと瞳を閉じた。


 本当は、採血は誰にも知られず行いたかった。

 だが片腕しかないこの体では、到底一人での採血は行えない。当然誰かを頼るほかないが、採血できるのはダリウスとラン=ディアしかいなかった。


 ユルングルの病が判明してから、自身の体内に残る万有の血の採血が可能な期間は、たったの二十四日間。その二十四日間の間に1.2リットルもの血液を採血しなければならない。どうしたって強行軍になることは目に見えていたが、ラン=ディアやダリウスが、おいそれと了承してくれるとは思えなかった。

 ことさらラン=ディアの抵抗は顕著で、事情を説明してようやく六日ごとの200mlの採血を認めさせた。

 それでも期間中に全ての万有の血を採血できない状況にダスクは内心焦りを覚えていたが、今回監視役のラン=ディアが出て行ってくれた事は渡りに船だろう。


(…いや、もしかしたら判って出て行ってくれたのかもしれないな)


 自分の目に届く範囲の事はどうしたって口を出したくなるし、意に沿わない事はやめさせたくなる。だが出て行けば彼は蚊帳の外だ。どれだけダスクが無茶をしていたとしても、もう口出しはできない。


 焦る心を見透かされてラン=ディアが出て行ったのだとしたら、彼はどれだけ自分に甘いのだろう、と思う。

 ダスクはいつもの厳しいラン=ディアを彷彿して軽く笑みを落とすと、さらに気怠くなった瞼を重そうに開いた。


(…もうそろそろ、か)


 常に忙しいダリウスには、針を抜きに戻らなくてもいい、と言ってある。針を刺すのは片腕では難しいが、抜くのはまた別だ。口を使って何とか抜けることは、もう数度に渡る採血で立証済みだった。


 ダスクはそろそろ針を抜こうと腕に向かって頭を起こしてみたが、思いのほか血液を失い過ぎたらしい。気怠い体は今までのようには動けず、何とか針の所にまで口を持っていく事には成功するが、どうしても抜くまでには至らなかった。

 それを数回繰り返して、ダスクは力尽きたように息を吐いて、再びクッションに身を委ねる。


 時間がかかればかかるほど、血液はさらに採取されて体は気怠さを増していく。今ではもう軽い眩暈と耳鳴りまで起こり始めた。助けを呼びたいが声を張り上げる余裕も、もうない。

 ダスクは諦めたように大きくゆっくりと息を吐き、気怠さに身を任せて全身の力を抜いた。


「…自業自得、か……」


 消え入りそうなほど掠れた声で、自嘲するようにぽつりと落とす。

 自ら望んで切り落としたとは言え、片腕というのはやはり不便で仕方がない。

 ダスクは後悔するように小さくため息を落とすと、足がまだ動きそうなことを小さく確認する。このまま足で管を思いっきり引っ張れば針が抜けるかもしれない。最悪抜けなくても、点滴棒が倒れる音で誰かしらが気付いてくれるだろう。点滴バックは意外と丈夫に出来ているから、倒れる衝撃には難なく耐えられるはずだ。


 そう目論んで足を動かそうとした刹那、突然聞き慣れた声が降って来て、ダスクは飛び跳ねるようにその声の主を振り返った。


「…何をしている、ダスク」

「…ユルングル様…っ!」


 渋面を作っているところを見ると、少なくとも自分が無茶をしているところだという事はすでに承知済みなのだろう。

 ユルングルは小さく息を吐くと、迷うことなく採血をしている腕に歩み寄った。


「これを抜けばいいんだな?」


 ダスクの返答を待たずに、ユルングルは慣れた手つきで針を抜き、止血用のテープをガーゼと共にくるりと腕に巻く。その所作があまりに手慣れていて、ダスクは怪訝そうにユルングルの顔を覗った。


「散々見てきたからな。体が覚えているんだろう」


 言いながら採血の後始末も非の打ち所がない。その言葉を裏付けるかのように、その行動の一つ一つがダリウスの癖を彷彿させた。


「…見るだけで覚えてしまわれるとは…羨ましい限りです…」


 血の気を失った青い顔で、ダスクはくすりと笑う。

 そんなダスクをめつけるように視界の端に捉えると、ユルングルは若干責めるような色を載せて問いただした。


「これは誰のための血液だ?」


 危機的状況は脱したが、今度は別の意味で危機的状況だろうか。


「答えろ、ダスク。お前は一体誰のために危険を冒している?」


 自分は誰かのために危険を冒すことなど平気でするくせに、他人がそれをするとユルングルは決まって不機嫌になる。それが自分のためともなれば、なおさらだった。

 一番知られたくない相手に知られたが、彼はきっと見逃すつもりはないのだろう。ダスクはひどく億劫そうにユルングルに視線を向けると、たまらず盛大にため息をいた。


「……貴方のための血液です」

「お前の血液が俺に輸血できるはず____」

「採血しているのは以前貴方から頂いた万有の血です…」

「…………は?」


 ユルングルの言葉を遮るように告げたダスクの言葉に、さしものユルングルも意を得ず目を丸くする。


「…おれの血液中にある万有の血だけを選りすぐって採血しているのですよ」

「…まてまてまてまて…!言っている意味が判らん…!何だ、その反則技は…!?」

「……何だと言われましても…」


 できるのだから仕方がない。

 返答に困って苦笑するダスクを視界に入れて、ユルングルは呆れたように盛大にため息を落とした。


「…お前は相変わらず理解の範疇を超えてくるな…。お前に出来ない事なんてあるのか?」


 軽い冗談のように言ったつもりだったが、ダスクは困ったように、そして自嘲するように小さく笑って億劫そうに口を開く。


「…おれも、昔はそう思っておりました……」


 その様子に、ユルングルは怪訝そうにダスクの青白い顔を覗った。


「…自惚れていたのでしょう。自分に出来ないことなど何もない、と…。どの命も、取りこぼす事など決してない……あるはずがない……。…だからあの時も、おれは迷わず輸血を行ったのです……」

「………?一体何の話をしている…?」


 極度の貧血症状で意識が朦朧としているのだろうか。

 怪訝そうに訊き返すユルングルに構わず、ダスクは赴くままに話をしているようだった。


「……皇妃様は…ファラリス様は残してほしいと仰っていたのです……。いずれ必ず、ユルングル様に必要になるから、と……。ですが……おれはそれを迷わず使ってしまいました……。助けられると思ったのです……何の根拠もありはしなかったのに……ただ、己の力を過信して……」


 まるで懺悔のようにぽつりぽつりと落とされるダスクの言葉を、ユルングルはただ無言のまま受け入れる。


「…おれは…私は…ファラリス様のお命を取り零してしまいました……。そして…後悔だけが残った……。…あの時…ファラリス様が仰るように輸血をしなければ……ファラリス様の万有の血を残してさえいれば……ユルングル様の血友病を…治せたはずなのに……っ」


 皇妃ファラリスは、息子であるユルングルのために己の血液を大量に残していた。それはいずれ必ず発症する血友病の、唯一の特効薬だった。

 有事の際のためにかなりの備蓄があったはずのファラリスの万有の血は、血友病の発症と共に瞬く間にその数を減らしていった。そしてあとはもうユルングルのための血液しか残されていないと知ったファラリスは、頑なにその輸血を拒んだ。己の命よりも、息子の命を優先させたのだ。


 だがダスクは、その血液に手を出した。


 瀕死の状態になった皇妃を救うため未来の憂いよりも目の前の命を助ける事を優先したと言えば聞こえはいいが、その内実は己の力を過信した思い上がりが招いた結果だと言わざるを得ない、と今さらながらに思う。


 結果的にこの時の判断ミスが、皇妃のみならずユルングルの命すら危険に晒したのだ。

 どれだけ悔やんでも、悔やみきれない。


 意識が朦朧とする中で呟くように己の罪を告白するダスクを、ユルングルは何も言わずに視界に留める。


(…これが『負い目』か……)


 ずっとダスクの中で、深い闇のように心の片隅に居座り続けた罪____。

 ダスクはこの十七年間、贖罪するように生きてきたのだろう。

 それはまるで殉教者のように、この罪を受け入れ、贖うように自分の人生を手放したのだ。


 この罪とすら呼べないほどの些細な事のために_____。


 ユルングルは、この哀れな殉教の徒を再び視界に入れた。

 もうすでに微睡まどろみの中にいるのか、その表情は恍惚としている。何とか意識を保っている蒼白な顔のダスクに、ユルングルはできるだけ穏やかに声をかけた。


「…ダスク、お前は間違ってなどいない。お前はただ救いたかっただけだろう。たとえ一時であっても、助ける方法があるのにそれをしない人間を、俺の傍に置いた覚えはない」


 恍惚な表情は変わらなかったが、耳には届いているのだろう。ダスクはゆっくりと視線だけをユルングルに向ける。


「はき違えるな、ダスク。思い上がりでも過信でもない。ただ救おうとしただけだ。それを罪だと思うな。…それでもまだ自分が許せないのなら、俺がお前を許す。俺はお前を誇りに思っている。…だからもうこれ以上、自分を責めてやるな」


 最後の言葉と同時に、ダスクは力尽きたように瞳を閉じる。

 軽く寝息が聞こえて、眠りに入ったことを悟った。


 この言葉は、ダスクに届いただろうか。

 朦朧としていた所為で、伝わらなかったかもしれない。

 それでも、とユルングルは寝入ったダスクの顔を見る。


 その寝顔は、心なしか穏やかに微笑んでいるようにも見えた。


(…例え届いていなくとも、少しばかり心が軽くなってくれればそれでいい…)


 ユルングルは、寝入ったダスクに静かに毛布をかぶせた。

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