ミルリミナの憂鬱
ミルリミナは悄然とため息を吐いた。
最近ユーリシアがユルングルとばかりいる所為ではない。
確かに一抹の寂しさはあったが、そもそもユーリとしてここに残る条件として、ユーリシアとは一定の距離を保つ、という取り決めを交わしている。今くらいの距離感が適しているのだろう。
ユーリシアの傍にいられる事だけを望んだのだ。
ユーリとして言葉を交わして、近くでユーリシアの笑顔やいろいろな表情を見ていられるだけで幸せだった。ミルリミナの前では決して見せないユーリシアの表情を見られる事が素直に嬉しかったし、それ以上を望んでは贅沢というものだ。
ただ一つ困ったことがあるとすれば、いつまでも渡せないままでいるユーリシアに渡すはずだったハンカチの事だけだろう。
ミルリミナは机の引き出しに隠すように入れているハンカチを手に取る。
ユーリの部屋は、ミルリミナの部屋とは別にあてがわれた。ミルリミナの衣服も私物もそのままで、ユーリには新しい家具や私物が与えられた。
それはミルリミナとユーリが別々に存在している事を裏付けるためだったが、部屋を移る際、ミルリミナはこのハンカチだけはユーリの部屋に持ち込んでいた。
本当ならば、すぐにでもユーリシアに渡すつもりだった。
この街をミルリミナが出る際、ユーリシアに渡してくれと託された物だと言って渡すはずが、最初の数日はユーリシアが部屋に籠って渡すに渡せず、部屋から出る様になった頃はこの街に馴染もうと奮闘するユーリシアの邪魔をする事が憚られて、結局渡せずじまいとなった。
今ではもう時機を逸してしまったようで渡すに渡せず、こうやってハンカチを手に取っては、どうしたものかとため息ばかりを落としている。
ミルリミナは悄然と肩を落としながら、それでもいつでも渡せるように自身のポケットに入れて部屋を出た。それがユーリになってからのミルリミナの毎朝の習慣だ。
そうやっていつも一日の終わりに、また渡せなかったとため息をついて机の引き出しにしまう事を、もう何度も繰り返している。今日もまた、同じ一日の終わりを迎えるのだろう。
部屋を出たミルリミナは、迷うことなく食堂の調理室へと足早に向かう。
人数が増えて、一人では食事の準備が大変だろうと、いつしかダリウスを手伝うようになった。最初の頃は簡単な雑用から、次第に料理をダリウスに教えてもらうようになり、簡単な物ならば一人でも作れるようになった。それがことさら嬉しくてたまらない。
ずっと病に伏してベッドから解放されなかったミルリミナは、出来る事が増えていくこの楽しさがたまらなく好きだった。
「おはようございます!」
元気なミルリミナの挨拶に、もうすでに調理室で作業を開始しているダリウスとラヴィが笑顔を向けて答えてくれる。
「おはようございます、ユーリ。今日はずいぶん早いですね」
「それでもやっぱりお二人には勝てませんでした…。お二人はいつも何時に起きていらっしゃるのですか?」
まだ時折、貴族敬語が出てしまうミルリミナを軽く笑って、ダリウスとラヴィは互いに目を合わせながら答える。
「秘密です」
「…どうしてです?」
ダリウスが用意してくれたエプロンを掛けながら、ミルリミナは少し不満そうに頬を膨らませて問いかける。
ここに来てからというもの、ミルリミナの表情はずいぶん豊かになった。それがわずかにユニと印象が被って、ダリウスはたまらなく懐かしく嬉しい。
「お教えすればユーリはそれよりも早く起きようとなさるでしょう?その必要はございませんから。こうやって手伝っていただけるだけで、とても助かっております」
ダリウスの謝意にもまだ不満そうなミルリミナを穏やかな視線で迎え入れて、言葉を続ける。
「今日はチーズオムレットを作りますから、お手伝いお願いいたしますね」
「…はい!」
ミルリミナの担当はいつも昼食後に出す予定の洋菓子作りだ。
料理を作るのも楽しいが、とりわけ菓子作りが楽しい、とダリウスに告げてから、彼は洋菓子作りをミルリミナに頼むようになった。簡単な料理とは違って火加減が特に難しく、まだダリウスに見てもらいながらの作業だったが、それでも洋菓子が上手く作れた時の達成感は、得も言われぬ高揚をミルリミナに与えた。
「…ユーリは凄いですね。私などは皮むきだけでも未だに指を切ってしまいます」
椅子に座って、包丁片手にジャガイモの皮を剥くラヴィが、情けなさそうに擦り傷だらけの手を見せて自嘲気味に笑う。
ようやく車いすから解放されて杖を突くまでに回復したが、ユルングルからの侍従業務禁止令も聞かずに、ラヴィは毎日必ずこうやって手伝いに来ていた。そのたびにユルングルは渋面を作ったが、結局何も言わずにため息だけを落として不承不承と受け入れるので、ラヴィは構わずやりたいようにやっている。
「僕もまだ指を切ってしまいますよ。特に最近はお菓子作りばかりなので、きっとラヴィさんの方がすぐに上達します」
「だといいのですけど」
二人のそんなやり取りを聞きながら、ダリウスはわずかばかり寂しそうに目を伏せた。
「…別にいいのですよ?」
「……え?」
「お二人は一時的にこちらに身を寄せている身、いずれは皇宮に戻ります。そうなれば料理をすることも、ましてや包丁を手にすることもないでしょう。…無理をする必要はありません」
自分が料理を習得したのは必要に迫られたからだ。だが、この二人にはその必要がない。手伝ってくれるのは有り難いし、こうやって話をしながらの料理は純粋に楽しかったが、それを強要することも、二人が習得を必要に感じてしまうことも嫌だった。
そんなダリウスを二人は怪訝そうに視界に入れた後、互いに目を交わしあって、くすりと笑みを落とす。
「ダリウス様、私たちは楽しいからここにいるのですよ」
「美味しい食事が作れて、それを皆さんが美味しそうに食べてくださったら、これほど嬉しいことはないでしょう?ダリウスさん」
二人のそんな様子に、ダリウスは軽く目を瞬く。
そうして小さく笑みを含んだ息を一つ落とした。
(…違いない)
まだ今ほど料理が上手くなかった時でも、幼かったユルングルやユニは美味しいと顔を綻ばせて口いっぱいに頬張ってくれた。
当時の喜びは、今も変わらず続いている。
ダリウスは再び誰にともなく笑みを小さく落として、改めて二人に向き直った。
「さあ、朝食の準備を始めましょうか」
**
「…相変わらずユルンの食欲は破壊的だな」
朝食が始まっておなじみの光景に、ユーリシアはたまらずため息を吐く。
ユルングルが食堂で食事を摂るようになって今日で三日が経過した。その三日間、朝昼晩と一日三回、通算で九回、この朝食を合わせてちょうど十回目になる。その十回とも、変わらずユルングルの食欲は底知らずだった。
スープのおかわりはすでに四杯目。朝から肉は食べるしオムレツも何度となくおかわりを要求していた。パンに至ってはもういくつ食べたか知れない。
一番驚くべきは、これだけの物を短時間で口に運んでいるはずなのに、その食べ方が全く粗野ではないのだ。皇族らしく、一つ一つの所作が綺麗でそつがない。その気品さを保持しながら流れる様に口に食事を運ぶ姿は、呆れを通り越して賞賛に値する。
一体この細身の体のどこに、これだけの食事が入るのか、とユーリシアは再び呆れたようにため息を吐いた。
「食べられる時に食べておかないと、この体はどんどん痩せていくんだよ」
いや、むしろこれだけの量を食べても太らないその体質が凄い。
ユルングルの特性を考えれば相性が悪いことこの上ないが、世の女性たちはさぞ羨むことだろう。
ユーリシア同様、初めてユルングルのこの食欲を見たラヴィなどは、食事を残すユルングルをことさら心配したダリウスとダスクの不安を得心したと言う。確かにこれだけの大食漢が、食事を残せば大事だろう。
「…見ているだけで胸焼けしそうだ」
「…何だ?ずいぶん繊細な胃袋をしているんだな」
挑発するような意地の悪い笑みを湛えて、ユルングルはユーリシアを揶揄する。
いちいち人の神経を逆撫でしないと気が済まないこの性格は、間違いなく父譲りだろう、と内心ひとりごちたが、言えば十返ってきそうなので、渋面を作るに留めた。
軽く息を落として再び食事を始めたユーリシアは、ふと斜め前に座るユーリの表情が暗いことに気が付いた。
悄然と肩を落とし、ユーリシアやユルングルの会話も聞こえていないようで、合間に小さく息を落としながらぽつりぽつりと食事を口に運んでいる。
「…お前、ユーリに何かしたのか?」
ユルングルも同様に気付いたようで、声を潜めて隣に座るユーリシアに問いかける。問われたユーリシアは訝し気に眉根を寄せた。
「…どうして私なんだ」
「あれがあそこまで気落ちするのは、決まってお前の事だろう」
「…?そうなのか…?」
なぜそういう事になっているのかは謎だが、とりあえず最近のユーリとのやり取りを思い返してみる。気付かず傷つけていたのなら自分の落ち度だろう、と記憶をまさぐっては見たものの、それと思われるものは一向に出てくる気配はなく、なおさら困惑した。
「…特に思い当たる節はないが……」
「…いえ、そういう事ではないのです」
二人の会話を耳に挟んだラヴィが、同じく声を潜めて口を挟む。
「昼食後の洋菓子を不注意で焦がしてしまいまして…それを気にしているのです」
「…!…そんなことくらいで…」
言葉に出したのはユルングルだ。ユーリシアも内心では思ったが、何を気にするかは人それぞれで、その大小も人によって違う。価値観が違うことは当然で、自分の物差しだけで物事を図るのは相手にとって失礼だろう、とあえて口頭に出すことは控えた。
「…気にしなくてもいいと、私もダリウス様も言ったのですが…」
ラヴィの言葉を受けて、何か慰めの言葉を、とユーリシアは口を開きかけたが、ユルングルはすかさずそれを制する。
「放っておけ。…そういう事ならお前が余計な口出しをすればするほどさらに気落ちするぞ」
「……?そう、なのか…?」
「…そうですね。そっとしておいた方がよろしいでしょう」
「………?」
何やら二人の意見が一致したようなので、ユーリシアは小首を傾げながらも不承不承と受け入れる。
こういう時の対応は正直自分では判らない、とユーリシアは思う。基本的に人の心の機微を読み取るのが苦手なのだろう。あるいは鈍感が過ぎるのかもしれない。
どちらにせよ二人の意見に従うのが正解なのだろう、と思う反面、なぜだか悄然とするユーリの姿がひどく胸に痛んで仕方がない。
何もできない自分がこの上なくもどかしく感じるのは、自分が思うよりもユーリの存在が大きい所為だろうか、とユーリシアは自問自答したが、その答えが返ってくることはなかった。
**
ミルリミナは今日幾度目かになるため息を吐く。
もう何度目になるか知れない。そう思うほどのため息を吐いた。
せっかく任された洋菓子作りを失敗してしまった。
ダリウスもラヴィも気にするなと言ってはくれたが、チーズもバターも高価であまり手に入らない事を、ミルリミナもようやく理解するようになった。
貴族にとっては何でもないようなことが、ここではたまらなく貴重なのだ。それは皇族であるユルングルやダリウスでも違いはない。
ここでの収入は、ユルングルが制作した家具や装身具などの売り上げのみ。ここ最近ではミルリミナが制作した刺繍やレースの売り上げもここに加えられた。
それほど多くはないこの収入と、ダリウスが作った農園で収穫した野菜などで日々の食事を賄っている。ダスクが開いた診療所の診察はもちろん無料だが、時折患者が謝意を込めて何かしら持ってきてくれる事も大きい。農園で収穫した野菜を皆に配る時にも、物々交換の如く皆代わりの何かを渡してくる。
そうやって互いに持ちつ持たれつで日々暮らしていることを、ミルリミナは承知していた。
だからこそ料理を失敗することが、どれほど重大な失態なのかをミルリミナは嫌というほど理解していたのだ。
ため息を吐けば失敗を取り戻せるわけではないが、どうしても気づけばため息を落としている。
そうやって幾度目かのため息をまた落とした後、鼓舞するように誰かが背中を大きく叩いた。
「どうしたの?ユーリ」
「モニタさん…」
今にも泣きそうな顔で、ミルリミナはモニタを見上げる。
工房で背中を丸めて悄然としながら刺繍をするミルリミナを他の女たちも気にはしていたが、いつも遠慮しているのか見守るに留めて、決まって声をかけるのはモニタの役割だった。
「…そんなこと気にしてるの?」
事情を聴いたモニタは呆れたような顔であっけらかんとそう言って見せる。
周りで事情を聴いていた女たちも内心では思ったが、ミルリミナ自身がとても重大な事のように感じているようなので思うに留めて、皆一様に苦笑いを浮かべた。
「…だって……だって、レオリアさんの大好物だって聞いたから…っ!」
「あー…なるほど」
気落ちしている本当の理由はこっちか、とモニタもたまらず苦笑する。
こうやって素直に自分を頼って打ち明けてくれるミルリミナが、モニタはたまらなく可愛かった。それは少年に姿を変えた今でも変わらない。この街に来た初めの頃の他人行儀な態度はすでになくなって、姉のように慕ってくれる事が素直に嬉しかった。
モニタは取り縋るように引っ付くミルリミナの頭を慰撫するように軽く叩いて、笑みを含んだ息を小さく落とす。
「また作ればいいじゃない。レオリアはまだここにいるんでしょ?機会はいくらでもあるわよ」
「でも…チーズやバターは高価なんです。そう何度も作れるわけでは…」
「ユーリが作った刺繍やレースの売り上げもダリウスに渡してるのよ?使う権利はユーリにもあるんだから、ダリウスも何も言わないわよ」
言っていることはよく判るが、ミルリミナはそれほど簡単に割り切ることはできなかった。
何よりここで生活する以上、お金は絶対かかるものなのだ。その一部を刺繍やレース作りで補填しているだけで、絶対的にその額は少ないだろう。そんな状態であるにもかかわらず、権利を主張できるほど厚かましくは振舞えない。
変わらず困惑したように悄然とするミルリミナを見やって、モニタはその内心を悟り困ったようにため息を落とした。
「…そうね、ユーリはそう思えるような子じゃないものね。…ちなみにその失敗したチーズオムレットってどうしたの?」
「…まだ置いています。捨てるのは勿体ないから…」
それを聞いたモニタ同様、周りの女たちも目を輝かせて得意げな顔を向ける。
「なら、こういうのはどう?」
**
「あら?珍しい。レオリアがここに来るなんて」
機織り工房の中でレオリアの姿を見止めて、モニタは声をかける。
一度ユーリの姿を探して、この機織り工房に足を踏み入れた事があったが、例の如くおば様たちに取り囲まれて以来、邪魔をしてはいけないと足遠くなっていた。再びここに足を向けたのは、元気のないユーリを気にしての事だろう、とモニタは悟る。
「…ユーリは?」
思っていた通りの言葉が来て、モニタは失笑しそうになったが何とかこらえた。
「あら残念。つい今しがた出て行ったわよ」
「…そうか」
残念そうに肩を落として、ユーリシアは悄然とした。
今日はことごとくユーリと縁がないらしい。どうしてもユーリの様子が気になって探し始めたのはいいが、言われた先に行っても必ずユーリが出て行った後だった。ここでもう四か所目。それほどユーリの行動範囲が広いという事だろう。
(…あの小さな体で、よく動き回るものだ)
それを思えば、つい最近まで杖を突く状態だったことが嘘のようだと思う。きっと窮屈だったに違いない。
ユーリシアは小さく息を落とすと、再びモニタを視界に入れた。
「ユーリの様子はどうだった?…ずいぶん気落ちしていただろう」
「…そうね。泣きそうな顔してたわね」
「…!泣いていたのか…っ!?」
「泣きそうだった、って言ったのよ」
モニタはあえてユーリシアの不安を煽るような言い方をする。それに面白いように引っかかるので、モニタはついこうやって遊んでしまう。
皇太子、という立場にいる割に、素直であまり人を疑わないその為人が、彼の魅力なのだろう。だからこそ、あのユルングルも彼を受け入れたのかもしれない。
何とはなしにそんなことを考えているモニタに、ユーリシアは構わず言葉を続けた。
「…どうやら菓子作りを失敗したらしいのだが…」
「違うわよ」
「……え?」
怪訝そうにモニタの顔を見返すユーリシアに、にこりと笑みを返す。
「あの子が気落ちする理由なんて、レオリアの事しかないじゃない」
**
モニタの意味深な言葉が胸に残って、ユーリシアは結局ユーリに会うに会えず、そのまま昼食の時間になった。
どうやらユーリが気落ちしているのは、やはり自分が原因らしい。
それは判ったが自分が何をしてしまったのかが判らず、その状態で会うことがどうしても躊躇われて、ユーリシアは大いに困惑した。モニタに訊いても答えてくれず、どれほど記憶をまさぐっても答えは見つからない。
ユーリシアは意気消沈とした面持ちで、食堂に足を踏み入れた。
調理室から顔に軽く煤を付けたユーリが出てきて、ユーリシアは罪悪感からか一瞬ドキリとする。何となく目を合わせるのが憚られて、ユーリシアは自然と目を背けた。
「ユーリ、顔に煤がついていますよ」
「…あ、ありがとうございます、ダリウスさん」
ダリウスにタオルで顔を拭ってもらうユーリの表情は、朝食の時とは違って思いのほか明るい。それにわずかばかり安堵したが、原因が自分にあるのなら解決はしていないのだろう。空元気をさせてしまっているのではないかと、ユーリシアはなおさら罪悪感を強くした。
「…どうした?今度はお前が気落ちしているのか?」
様子のおかしいユーリシアに、ユルングルはたまらず声をかける。
そんな顔をされたら食事が不味くなる、と自分に言い訳するように前置きするところは、いかにもユルングルらしい。
「…やはり私が原因らしい」
食事を摂りながら、ぽつりと呟いたユーリシアの言葉に一瞬何の事かと怪訝に思ったが、すぐにユーリの事だと悟って、やはり怪訝そうな顔を向ける。
「…違うだろう、あれは___」
「モニタにもユルンと同じことを言われた。ユーリが気落ちする理由は私の事しかない、と」
「…あー……なるほど」
言って、ちらりとユーリを視界に入れる。
(…食べさせたかった相手はユーリシア、か)
意を得たように頷くユルングルを、ユーリシアは思わず振り返った。
「何か心当たりがあるのか…っ」
その必死な様子がことさら面白い。これほどまでにユーリを気にしているのは、心のどこかで彼がミルリミナだと気付いているからだとユルングルはすでに理解していたが、当の本人は全くの無自覚なところが、ある意味凄い。
何やら盛大に勘違いをしているようだが、面白いのでユルングルはそのまま話を合わせることに決めた。
「…あるにはあるが、自分で気づかないと意味がないだろう」
「…それは…確かにそうだ」
素直に受け入れるユーリシアが面白く、ユルングルは耐え切れずに思わず失笑した。
「…なぜ笑う…っ!」
「…いや、こっちの話だ、気にするな」
くつくつと笑うユルングルを、ユーリシアは腹立たしく眉根を寄せながら睨めつける。そのふてくされた態度がさらに笑いを誘った。
「…もういい。ユルンに相談した私が馬鹿だったようだ」
「…ああ、悪い悪い。お詫びにいい場所を教えてやる」
「………?」
怪訝そうにユルングルを見返したところで、ダリウスとユーリが食後のデザートを一つ一つ丁寧に卓に置き始める。
くるくると巻いたような筒状の菓子にアイスが添えてある、その見たこともない形状に、皆一様に不思議そうな視線を向けていた。
「…焼き菓子、か?」
「はい、アイスをつけて食べてみてください」
怪訝そうに問いかけるユルングルに、ユーリが答える。ユルングルとユーリシアは軽く目を合わせて、その筒状の焼き菓子にアイスをつけ、口に運んでみた。
「…!…美味しいな」
サクサクと口の中でほどけるような歯触りの後に来る、アイスの冷たく柔らかい口当たりが優しい。アイスの甘さは強めだが、筒状の焼き菓子にチーズとレモンの風味があって、甘すぎずさっぱりとした味わいになった。
「…このサクサクとした食感がいいな。クッキーよりも軽くて食べやすい」
思わず出たユーリシアの『美味しい』の一言に、ユーリは安堵したような表情を見せる。
「…よかった…っ!」
「…ユーリが作ったのか?」
「はい…!…実はチーズオムレットを焦がしてしまって…。モニタさんに相談したら、工房の皆さんも一緒にチーズオムレットの焼き直しを考案してくださったんです…!」
チーズオムレットの焦げた部分だけを取り除いて薄切りし、それを再び軽く焼いた後、まだ柔らかいうちにくるくると巻く。冷めると不思議なことに固くなり、サクサクとした食感になった。ただ元々チーズオムレットだったために甘みが少なく、それを補うためにアイスを置いてみたが、思いのほか相性が良かったようだ。
「…面白いな。失敗した菓子でも、こうやって別の菓子に生まれ変われるのか」
ユーリシアは感慨深げに、そのデザートを視界に入れる。
これは平民ならではの発想だろう。貴族は失敗すればただ捨てるだけ。それができるだけの余力がある。わざわざ失敗した物を勿体ないと思って作り直すことはまずしないだろう。
それが、生まれ変わろうと誓った自分と重なってなおさら感慨深い。
菓子でも生まれ変われるのだ。自分にできないはずがない。
捨てられるはずだった菓子を救い上げてくれたユーリを視界に入れて、ユーリシアは満面の笑みを見せる。
「ありがとう、ユーリ」
その謝意に、ユーリもまた屈託のない笑みを返した。
**
寝間着に着替えたミルリミナは、もはや毎日の習慣になりつつあるハンカチを机の引き出しに戻す作業の途中だった。
いつもはため息と一緒に直すのだが、今日はとりわけ気分がいい。他でもないユーリシアがあのお菓子をいたく気に入ってくれたことが、ハンカチを渡せないでいる憂いよりも上回って、いつになく晴れやかな気持ちで引き出しを開けたところで、扉を叩く音が聞こえた。
怪訝そうに扉を視界に入れると、それに応えるように扉の向こう側から声をかけてくる。
「…ユーリ、まだ起きているだろうか…?」
遠慮がちに声を軽く抑えた調子で落とされたその声に、ミルリミナは歓喜と驚きで思わず体が強張った。
「は、はい…っ」
「夜分にすまない。…少し外に出ないか?」
その誘いに迷わず了承を叫んで扉を開けたかったが、できるだけ二人きりにはなるな、とユルングルに忠告されたことが脳裏をかすめて、ミルリミナは逡巡する。
「…ですが、もう寝間着に着替えましたし……明日ではいけませんか…?」
せっかくの誘いを断るのはひどく忍びない。断られたユーリシアの心情を思えば胸がたまらず痛んだが、彼のためだと言い聞かせて心を強くする。
ユーリシアはわずかばかりの沈黙の後、躊躇いがちに声を落とした。
「…ユルンの許可は貰っている。君に『今日だけは特別だ』と伝言を言付かった」
「…!本当ですか…っ!ま、待っていてください!今着替えますからっ!」
弾けるように慌てて着替えたばかりの服にもう一度袖を通して、扉に向かう瞬間、机の上に置いたハンカチが視界に入る。考えるよりも体が先に動いて、ミルリミナはそれをポケットに入れながらドアノブに手をかけた。
「お…お待たせしました…!」
部屋の中でバタバタと忙しない音が聞こえたかと思えば、軽く息を切らして開いた扉から顔を覗かせているユーリに、ユーリシアは思わず笑いを落とす。
「行こうか、ユーリ」
**
「どこに行くんですか?」
二人並んで隠れ家を出たところで、ユーリは相変わらず屈託のない笑顔でユーリシアに問いかける。その笑顔に、怪訝も疑いも警戒もない。ただ純粋に自分の事を信頼してくれているのだと、その笑顔から悟って、ユーリシアはたまらなく嬉しくなったが、反面先ほどのやり取りを思い返して胸に軽い痛みを覚える。
ユーリが躊躇ったら俺からの言伝だと言え、と言われた。
言われた通りに伝えたら、手のひらを返したようにその態度が変わった。
ユーリとユルングルがどういう関係なのか、詳しくは知らない。だが確固たる信頼関係があることは確かだろう。それはユルングルの言いつけを素直に守るほどに。そして自分の誘いよりも、そちらが優先されるほどに。
『今日だけは特別だ』とはどういう意味かユーリシアは気になったが、問えばユーリを困らせるだけだろう。釈然としなかったが、ユーリシアはその不満な気持ちを胸の奥にしまい込んだ。
「…ユーリシアさん…?」
返事が返ってこないことに訝しんで、ユーリシアの名前を呼びかける。その名を呼ぶことに少し慣れたようで、以前のようなたどたどしさはない。
ユーリシアは怪訝そうなユーリを視界に入れて、小さく笑みを落とした。
「…ついてからのお楽しみだ」
「………?」
向かった場所は遁甲の出入り口がある森の中。
だが街に向かう方角とは別の方向に歩みを進めるので、なおさらユーリは訝しんだ。
「…こっちは森の奥に続く道で、特に何もないですよ?」
「そうだな、昼間は確かに何もないらしい」
まるで夜に何かが出てくるようなその言葉に、ユーリはさらに小首を傾げる。
その様子がまるで小動物を見ているようで、ユーリシアはたまらず笑み落とした。
「…さあ、ついた」
「……ここですか?」
怪訝そうにしたのは特に何もなかったからだ。
森が少し開けた場所だったが、そこに取り立てて何かあるわけではない。昼間の景色と変わらず、ただ森がそこにあるだけだった。
不思議そうに小首を傾げてユーリシアを見上げるユーリに、ユーリシアはにこりと笑いかける。
「どうやら間に合ったらしい」
視界の端で瞬いた光がまるで合図になったかのように、その小さな光が森一面にふわりと一斉に広がっていったのだ。
無数に広がるその光は、まるで空で瞬く星のように、森の中に小さな星空を作っている。唯一、星空と違うのは、その光が縦横無尽に飛び交っている事だろう。
「…夜光蝶ですね…!」
ユーリはその千言万語を費やしても表現し得ない光景にたまらず感嘆の息を落として、嬉々とした声を落とす。
「知っているのか?」
「はい…!実際に見たことはありませんが、図鑑で見たことはあります…!」
夜光蝶は昼間はただの蝶だ。
だが夜になると、その羽の模様の部分だけが瞬くように光りだす。それはなぜか決まって夜が更けて次の日に変わろうという時間帯に、そして秋から冬に変わるこの時期だけに見られる求愛行動だった。
「実際に見られるなんて…!夢のようです…っ!!」
目を輝かせて魅入るようにその光景を見つめるユーリの笑顔に、ユーリシアは不思議と心が落ち着くのを感じた。その笑顔を焼き付けるように瞼を一度閉じて、視線を森に向ける。
「ユーリはやはり、笑っている方がいい」
「……え?」
突然の言葉に、ユーリは呆然自失とユーリシアを振り返る。
そんなユーリを、ユーリシアは再び視界に入れた。
「ユーリが落ち込むと、私の心もざわついて仕方ない。ユーリは私の隣で、そうやって笑っていてくれ」
「………!」
その言葉に、ユーリは目を瞬く。
何とか平静を保とうと奮闘したが、無駄な努力であることは言わずもがなだろう。次の瞬間には盛大に赤面を作って、ユーリシアの顔が直視できず顔を伏せた。
「…?大丈夫か?ユーリ…?」
「だ、だ、大丈夫です…っ!!」
なぜか顔を赤面させるユーリを不思議そうに見やって、ユーリシアは次にバツが悪そうに目を伏せた。
「…これは私からの詫びだ」
「………詫び?」
未だ火照る顔を両手で押さえながら、ユーリは怪訝そうにユーリシアの顔を見上げる。
「…私はどうやら心の機微を察するのが苦手らしい。知らない間にユーリを傷つけてしまって____」
「…え、ちょっ…!待ってください…!…一体何の話です…??」
「………え?」
「…僕は別に、ユーリシアさんに傷つけられた覚えはありませんけど……?」
そこに至って、ユーリシアはようやくユルングルにからかわれていたことに思い至る。
くつくつと笑っていたユルングルの姿を思い返して、からかわれた怒りとそれにまんまと引っかかった自分に対する恥ずかしさで、赤面を作って顔を隠すように口元を手で覆った。
「…だから笑っていたのか…!まったくあの人は…っ!」
その様子にユルングルの仕業だと判って、ユーリはたまらず笑みをこぼす。
からかわれたユーリシアには悪いが、この景色をユーリシアと共に見られたことが何より嬉しい。
これはユルングルからの贈り物だ。だから『今日だけは特別』なのだ。
そう悟って、ユーリは赤面を作るユーリシアを振り返った。
「でもユルンさんのおかげで、とてもいいものを見せてもらえました!」
そう言って満面の笑みを見せるユーリを視界に入れる。
この笑顔が見られたのなら、ユルングルに騙されるだけの価値はあっただろう。
何やらユルングルに怒りを持つのも馬鹿らしくなって、ユーリシアは小さく息を落とす。
「違いない」
森に広がる星空の中で、二人はしばらく声を上げて笑いあっていた。




