ミルリミナの決断
ユーリシアは、長い眠りから覚めるようにゆっくりと瞼を開いた。
馴染みのない景色を怪訝に思ったが、揺れるカーテンから見える澄んだ青い空が、妙に心を穏やかにさせた。時折、頬に触れる冷たい風が心地いい。
その何もかもが、現実に戻ってきた事を物語っているように五感を強く刺激した。
「…目が覚めたか?」
ふと、聞き覚えのある声が耳に届いて、ユーリシアはゆっくりとそちらに顔を向ける。
「……ユルン…?」
怪訝そうに名前を呼んだのは、ソファに座るユルングルの姿が痛々しいほどに弱々しかったからだった。
ひどく痩せ細り顔色は青白く、腕には栄養補給の点滴なのか管が繋がれている。瞳の強さは変わらなかったが、その姿は夢の中で見た頼もしい姿とはあまりに程遠く、ユーリシアは思わず跳ねるように体を起こした。
「ユルン…っ!?どうしたんだ、その体…っ!」
「慌てるな、大した事はない」
「大した事ないって……」
「七日も何も食べなければ誰だってこうなる。とりあえず、今しがた軽く口に入れたから____」
言いかけて、ユーリシアの姿を視界に入れながら、若干忌々しそうに眉間にしわを寄せる。
「…前言撤回。誰でも、じゃないな」
同じように何も食べず、七日間点滴だけで過ごしてきたのに、この違いは何だろうか。
あのダスクですら、腕を切り落とした直後という事もあったが、それでも八日間の夢から覚めた後は、当分の間ままならない体を持て余していた。
だが平然とした表情で、先程の鋭敏な動きを見せたユーリシアを見る限り、おそらく今この瞬間にも、何の苦もなくベッドから立ち上がって動き回れるのだろう。
神は不平等、とはよく言ったものだ、とユルングルは心中で呆れたように悪態をついた。
「……ユルン……?」
「…ああ、何でもない。体の調子はどうだ?」
怪訝そうに聞き返すユーリシアを軽く一蹴して、ユルングルは場繋ぎ的に答えの判り切った質問をする。どう見ても不調があるようには見えないが、一応あの黒く禍々しいものが体内に入ったのだ。とりあえず形式的に、と出た問いかけだったが、ユーリシアはさも意外そうに目を瞬いた。
「…あ、ああ…。…少し体は怠いが、取り立てて悪いところはない…」
言って、多少バツが悪そうに軽く目を背けながら言葉を続ける。
「…私は……私は、貴方の命を奪おうとしたのに、どうしてそう平然としていられるんだ……?」
その質問に、今度はユルングルが目を瞬く。
「何を今さら。お互い様だろう。俺もお前の命を狙ったんだ。狙って、ミルリミナを殺した」
「……!」
「殺していないだけ、お前はまだましだ」
その言葉で、ユルングルがどれほど苦々しい思いをしたのかをユーリシアは悟った。
ふと、手にラヴィを刺した瞬間の感触が蘇る。あの不快さと後悔は、とても言葉では言い表せられない。どれほど自分を罰しようとも、罰しきれないほどの罪の意識に押しつぶされそうになる。あの感覚を、ユルングルもおそらく感じたのだろう。
幸いと言うべきかミルリミナはその後、聖女が宿って息を吹き返したが、殺した事実に変わりはないのだ。
奇しくも全く同じ経験をした事で、ユーリシアはユルングルの言葉が嫌と言うほど胸に刺さった。
「……ミルリミナは、その事は……?」
わずかに逡巡しながら、遠慮がちに問う。
「知っている。会ってすぐに謝罪したからな」
「…ミルリミナはどんな反応を……?」
「お前の命を狙うなと説教してきた。すぐに口論になって、おかげでせっかく覚悟して告白した謝罪が台無しだ」
呆れたように告げるユルングルの言葉に一瞬目を丸くして、次には思わず吹き出してしまった。
ミルリミナらしい、と思う。初めて会った顔合わせの日のミルリミナを彷彿して、ユーリシアは顔が綻んだ。
そうして、自然と右手を視界に入れる。そこにミルリミナの手はもうなかったが、夢の中でずっと感じていたミルリミナのぬくもりはまだそこにあるような気がして、軽く右手を握った。
愛おしそうに右手を見つめるユーリシアを視界に留めて、ユルングルは少し遠慮がちに、だがはっきりと告げる。
「…ミルリミナはもうここにはいない。お前の近くにいるわけにはいかないからな」
半ば想像していたのだろう。その言葉に驚く様子もなく、ユーリシアは静かに言葉を返す。
「…ここにいないから、そうだろうと思っていた。………一人で行ったのか?」
「いや、何人か護衛を付けた。安全は保障する。何かあればすぐここに連絡が来るから安心しろ」
「……そうか…」
呟くように小さく返答して、ややあってからユルングルの顔を見返した。
「…ユルン、教えてくれ。私が知らない事、全部。今一体、何が起こっているのかを」
強い意志を瞳に載せて見返してくるユーリシアを視界に入れて、ユルングルは頷く。
「…少し、話が長くなるぞ」
そう前置きして、ユルングルは静かに口を開いた。
世界の起源の事、原始の魔力と瘴気の事、その原始の魔力をユーリシアが有している事とミルリミナに瘴気の耐性がある事、そしてダスクと自分が、人類を守るために世界の意志が作った獅子という存在である事、それゆえにこれからの人類の祖となるミルリミナとユーリシアを守る使命がある事を、つぶさに話した。
ただ一つ伝えなかったのは、ユーリシアの命が残りわずかである事___。
これは伝えるべきかどうか、ユルングルは最後まで迷った。迷ってそして、伝えない、という選択をした。
それは決して他意があったわけではない。ただ、今のユーリシアでは受け入れ難いと判断したからだった。現状を理解する事で精いっぱいな上に、ラヴィを傷つけた事実とミルリミナがまた離れたという事で、心がやはり不安定だろう、とユルングルは思った。そこに自身の命も尽きようとしている、などとはどうしても伝える事が憚られたのだ。
それはおそらくユルングルが初めて弟に対して行った、配慮かも知れない。
ユーリシアはその話を時折驚いたように、そして時折考え込むように聞きながら、ただ黙ってユルングルを見据えていた。そうして一通り話し終えたところで、こちらを見返すユルングルが目に入って慌ててバツが悪そうに、そして若干、申し訳なさそうに視線を外す。
その一連の動きでユーリシアの心中を悟って、ユルングルは自嘲するように笑みを落とした。
「…皮肉な話だろう?殺そうとした相手を、今度は使命だから守れときた。俺の人生は最初から最後まで、こんな感じで進むんだろう」
「…いいのか?」
「いいも悪いもないだろう。それが運命なら受け入れるしかない」
「…だが、殺したいほど憎んでいたんだろう?なのに今さら守るなんて…」
「不満か?」
「私の話をしているのではない!ユルンが…っ!……どうして……どうしてユルンは…そう簡単に受け入れられるんだ…?」
訝し気に訊ねたその質問に、ユルングルは少し考えるような仕草を見せて、ややあって答える。
「…兄弟だから、じゃないのか?」
「………え…?」
「俺だって簡単に受け入れたわけじゃない。…だがおそらく、兄弟だからこれほど憎んだんだろう。…弟だから、俺の持っていないものを持っている事に腹が立ったんだ」
おそらくそういう事なのだろう、と思う。
これが赤の他人だったら、これほど憎まなかったのかもしれない。同じ兄弟で同じ親から生まれたはずなのに、これほど境遇が違う事が許せなかったのだ。
「…兄弟だから憎しみ合ったんだ。だったら、兄弟だからこそ受け入れる事もできるはずだろう」
ユルングルの言葉に、ユーリシアはひどく戸惑って言葉を見失った。
今さら兄弟と言われても、正直実感が沸かない。幼い頃、兄がいる友人を羨ましく思った記憶はあるが、今はもうそんな歳ではない。今目の前にいるユルングルが実兄であるという事実にどう反応していいか判らず、自分が弟である事が妙にくすぐったく面映ゆかった。
そんな複雑な心境を悟って、ユルングルは揶揄するように含み笑う。
「ピンとこないだろう?」
「…まったく」
「俺もだ」
ひとしきり軽く笑い合ったところで扉を遠慮がちに叩く音が聞こえて、ユルングルは短く、入れ、と促した。
「ユルングル様、もうそろそろお部屋にお戻りください。お体に障ります」
深々と頭を垂れて入ってきたダリウスが、抑揚のない声でそう告げる。ユルングルは一度ダリウスを視界に入れて頷くと、再びユーリシアを見返した。
「…ここでは自由にしてくれて構わない。足りない物があればダリウスに言ってくれ」
「私は…ここにいてもいいのだろうか?」
「いてくれる方が正直守りやすいな。皇宮に戻られたらこっちからじゃ手が出さない。だが基本は自由にしてくれ。皇宮に戻りたければ一言言ってくれると助かる」
言いながらソファから立ち上がるユルングルの体を支えて、ダリウスは点滴をしていない方の腕を自身の首に回す。
誰かの支えなしでは歩けないユルングルに車いすを使うよう進言したが、決して首を縦には振ってくれなかった。それはユルングルの中で、どうしても譲れない矜持なのだろう。ダリウスは心中でため息を落としながら、軽くユーリシアを視界に入れた。
「ユーリシア殿下。後で朝食をお持ちいたしますので、しばらくお待ちいただけますか?」
「あ、ああ…すまない」
言われてひどく空腹な事にようやく思い至る。
「ああ、あと」
部屋を出る瞬間、思い出したようにユルングルはユーリシアを振り返った。
「ラヴィの部屋は隣だ。覚悟を決めたら会いに行け」
言われたユーリシアは一瞬目を丸くして、そして心中を悟られている事に苦笑しながら、ため息交じりに了承の意を示す。それに満足したように頷くユルングルを待ってから、ダリウスはユルングルを伴って部屋を辞去した。
**
「……ミルリミナは?」
ユルングルがそう問うたのは、自身の部屋のベッドに腰を下ろして人心地ついた時だった。
その問いかけに、ダリウスは心得たように頷く。
「もう準備は整っております」
「そうか、呼んでくれ」
しばらくして部屋に入ってきたのは、自分の少年時代の面影を有した少年だった。
彼は少し遠慮したように、だけども確固たる意志を宿した強い瞳でユルングルの視線を受け止めていた。
「…本当にいいんだな?ミルリミナ」
問いかけながら、ユルングルは花園から帰った直後を思い返していた。
「…ユルングル様、大丈夫ですか?」
ゆっくりと瞼を開くユルングルに真っ先に声をかけてきたのはダリウスだった。
不安と心配そうな視線の中心にいたユルングルは、その全てを一旦視界に留めてからゆっくりと体を起こして頷く。
「…ああ、大丈夫だ」
わずかに頭痛がしたが、言えばまた心配をかけるだけなのであえて黙っておく。
ユルングルはこちらを見返す顔の中からダスクに視線を向けると、軽く笑ってみせた。
「助かった、ダスク」
「いえ、ユルングル様のご助言がなければ、今頃ユーリシア殿下は原始の魔力を奪われていたでしょう」
「…お前たちに怪我はないな?」
頷く顔触れに小さく安堵のため息をつくと、ユルングルは夢に入る前と変わらずユーリシアの手を握っているミルリミナを視界に入れた。
「…ミルリミナ、今からお前に酷な選択を強いる事になる」
その言葉に一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐに言いたい事を悟ってミルリミナは心得たように頷く。
「ユーリシアの近くにお前がいられない事はもう判っているだろう。それでもミルリミナとしていたいのなら、お前にはここを離れてもらう。その時はダスク、お前が付き従え。ダスクと共にここを離れて、安全な場所で身を隠せ」
頷くダスクを待ってから、ユルングルは言葉を続ける。
「…もしここに残りたいのなら、お前には完全にユーリになってもらう事になる。当然、簡単な事じゃない。四六時中、変化を解く事はできなくなるしユーリシアとの接触も厳禁だ。女である事を忘れて、男に徹しろ。…お前にそれができるか?」
黙したまま大きな瞳でこちらを見据えて来るミルリミナを、もう一度視界に留めた。
「…じきユーリシアも目覚めるだろう。あまり時間はない。それまでに結論を出せ、ミルリミナ」
その問いかけに、ミルリミナはわずかにユルングルから視線を外して思案するように一度瞳を閉じたが、すぐに目を開いてもう一度ユルングルを見返した。
その瞳はおそらく、口よりも雄弁だったかもしれない。
その時と変わらぬ瞳を携えたユーリの姿を、ユルングルは視界に捉える。
一人の令嬢が、女である事を捨ててでもユーリシアの傍に居る事を選んだ。何の迷いもなく、ひたむきなまでに真っすぐな想いを抱きながら。
いいのか?と聞いたが、間違いなく愚問だろう。
ミルリミナに躊躇いはない。それはその瞳の強さが物語っている。返答はなかったが、その強い眼差しが肯定を語っている事を悟って、ユルングルは頷く。
「…今この瞬間から、お前は女じゃない。ユーリに徹しろ。そしてできるだけユーリシアと接触はするな。会話をするなとは言わないが、できるだけ二人きりになる事は避けろ。工房の連中には上手く話を通しておく。ユーリがミルリミナだと知る者は多いからな。決して口外しないように手を打つから、お前も気を緩めるな」
ユルングルの言葉を噛んで含めるように聞きながら、ミルリミナは一つ一つ丁寧に頷き返す。
一通り話し終えたユルングルは、後ろに控えているダスクに視線を移した。
「ダスク、できるだけユーリの傍に居てやってくれ。ユーリも何かあればダスクを頼れ。ダスクがいなければ、俺でもダリウスでもいい。…判ったな?」
「はい」
笑顔で答えるユーリを満足そうに視界に入れると、ようやく一仕事終えたようにユルングルは一つ息を漏らして、ベッドに背を預けた。
「…大丈夫ですか?ユルングル様」
相変わらずの心配そうなダリウスの顔に、ユルングルは軽く笑みを返す。
「…少し眠りたい」
正直に告げたのは、その方がダリウスの心配そうな顔が和らぐと学んだからだ。思った通り、その言葉にわずかに笑みを落として、後ろで立っているダスクとユーリに視線を向ける。心得たように二人頷いて、ユーリの後を追って辞去しようとするダスクを、ユルングルは視界に留めながら小さく呼び止めた。
「…ダスク」
もうすでに微睡の中にいるのだろう。その声音はひどく弱々しい。
ダスクは振り返って言葉を待ったが、ユルングルは思案しているのか口を開いては逡巡している素振りを見せた。
ダスクに対して、ひどい暴言を吐いた。
そのつもりはなかったが、結果そうなっていた事に気付いた。
この人生を恨むという事は、自分を生かしてくれたダスクの行為を恨むという事だ。謝罪をしたいが、どう謝ればダスクが気に病まないのかが、ユルングルには判らなかった。微睡の中にいる事も手伝って、さらに考えがまとまらない。
黙したまま瞼を重そうに何度も閉じては開く事を繰り返すユルングルを視界に入れて、ダスクは怪訝そうに小首を傾げた。
「……ユルングル様?」
ダスクのその声に、ユルングルは眠りに落ちそうな意識をもう一度何とか留めて、億劫そうに口を開く。
「…ダスク……すまなかった…ありがとう……」
それだけ告げて、ユルングルは力尽きたように眠りに落ちる。
ダスクはそれが何に対する謝罪と謝意なのかを把握しきれず、困惑したように眠りに落ちたユルングルを見返した。
もしかしたら、夢現の中で訳も判らず発した言葉なのかもしれない。
そう思ったが、妙にその言葉が嬉しく心が救われたような気分になったので、ダスクは素直に受け入れる事に決めて、寝ているユルングルを起こさぬよう小さく返答した。
「どういたしまして」




