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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第一部 皇宮編
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皇太子の決意

 その日は朝から、鈍色にびいろの空に覆われていた。


 ここ数日、春先にはそぐわない雷雨が続いている。雲を見る限りおそらく今日も雷雨になるのだろう。まるで自分の胸中を表わしているかのようだとユーリシアは思う。


 五日前に目覚めたミルリミナは診察の途中でまた深い眠りに入ってしまった。侍女の話では時折目を覚ますそうだが、ほんのわずかな食事を摂るとまたすぐに眠ってしまうそうだ。おかげであれ以来、一度も目覚めたミルリミナとは顔を合わせていない。


 残念な気持ちもあるが、今はそれよりも彼女と言葉を交わす機会が訪れない事に安堵する気持ちの方が勝っていた。顔を合わせてしまったら否が応でも告げなければならない。

 ____残酷な真実を。


(…我ながら情けないな)


 ユーリシアはたまらず内心で嘆息を漏らす。

 すべては自分の責任だと頭で判ってはいるが、それを告げる勇気が未だユーリシアには持てなかった。


「…雨が降りそうですね」


 執務中に窓の外を見たまま動かないユーリシアに、侍従のラヴィは控えめに声をかけた。

 ユーリシアが何を考え込んでいるかは容易に想像がついたが、あえて別の話を振ってみる。


「……やはり彼女は動揺するだろうか?」


 だが思いがけない返答に、どう返していいのかラヴィは困惑した。いつもなら従者や侍従である自分の前では決して弱音を吐かないユーリシアなだけに、その答えを用意していなかったのだ。


 それに気づいてユーリシアは小さくため息をつく。


「すまない、お前に聞いても詮無い事だったな。忘れてくれ」

「…いえ、ユーリシア殿下の胸中、お察しいたします。お辛いようでしたらウォーレン公爵閣下からお伝えしていただきますか?」

「そんな情けない事はできない。これは私の責務だ。投げ出す事はしない」

「ウォーレン公爵閣下もおっしゃっておりましたが、殿下が責任を感じる事ではございません。あまりご自分を責めないでください」

「いいや、私の責任だ!彼女は私の隣にいたのだぞ!」


 思わず怒鳴って、瞬間我に返る。


 ラヴィが悪いわけではない。ただ自分をおもんばかってくれただけだ。頭ではそう判っていても、何故か感情的にならざるを得なかった。そして同時に、ラヴィに当たってしまった自分が情けなく愚かに思えて、いたたまれない。


「……すまない、少し外の空気を吸ってこよう」


 逃げるように執務室から退出し、ユーリシアはあてもなく歩みを進める。


 いつの間にか降り出した雨で、外は思いのほか湿気を含み重苦しい空気になっていた。見上げると遠く空で稲光が見える。あの雷がまたこの皇都にやってくるのだろう。気落ちした気持ちに追い打ちをかけてくるようで、ユーリシアはため息をついた。


 あの婚姻の儀以来、感情を制御する事が難しくなった。

 とりわけミルリミナの事になると感情を抑える事が難しい。どこか落ち着かなくなり、自分に対する怒りの感情と罪悪感、それに彼女が目覚めた事による喜びの感情が複雑に絡み合い、自分が今、何を思い何を感じているのかすら判らなくなる。


 それらがミルリミナを守れなかった罪悪感からだけでなく、別の要因もあって溢れ出た感情だという事を、ユーリシアはまだ気づいてはいなかった。

 だからこそ、もどかしく苦しい。


 この嵐のような心を落ち着けようと、あてもなく歩いた先がミルリミナの眠る部屋だと気づいて、ユーリシアは失笑した。

 会いたくないと思いつつ、自然と足が向かってしまう。彼女の顔を見ると、今まで複雑な感情が入り乱れていた心が、一瞬で波が引くように落ち着きを取り戻すのだ。


 不思議だと思う。

 ミルリミナに告げなければならない残酷な真実が今、自分を苦しめているはずなのに、その根源である彼女を見ると落ち着きを取り戻すとは。


(…これが聖女の力なのだろうか?)


 ベッドの傍らにある椅子に腰かけ、ミルリミナの手を握りながら何とはなしに思う。


(…聖女の力が魔力であれば、彼女が苦しむ事はなかったのに)


 己の身に起こった不幸を知らず眠る彼女の寝顔を見ながら、ユーリシアは皇宮医の言葉を思い返していた。


**


「……魔力が、ない?」


 皇宮医の診断の結果に、皆一様に驚きを露わにしていた。


「はい…。ミルリミナ様の体内には確かに聖女様の力が備わっております。ですがそれは魔力ではございませんでした」


 魔力を創造すると言われていた聖女が宿ったのなら、当然ミルリミナの体にも魔力が宿ったものだと誰もが考えていた。魔力は生命の根源。その魔力に満たされればミルリミナの回復も早いと安堵していたが、そうではない事に愕然とした。

 皇宮に駆け付けたウォーレン公爵夫妻も悲壮な面持ちで皇宮医の次の言葉を待っている。


「一般的に聖女様は魔力を創造すると伝わっております。ゆえに聖女様ご自身も魔力を有していると思われがちですが、そうではございません。教会内でもごく一部の者しか知らぬ事実ですが、聖女様はあくまで魔力を創造するのみで、ご自身には魔力がないのです」

「だが、聖女が宿ったのならその体に魔力を満たす事も可能だろう?創造すれば済む話だ」

「…我々もそう思っておりました。ですが…」


 皇宮医はかすかに言い淀む。ユーリシアはそれを強い視線で促した。


「…教会内でも意見が分かれる事で確証はございませんが……聖女様ご自身の力は魔力と相反するものではないかと言われております」

「……?…どういう事だ?」


 意を得ず、ユーリシアは聞き返す。


「昔から低魔力であればあるほど聖女様のご加護があると言われております。それはつまり、魔力が阻害して聖女様のお力が届かない、という事ではないかと」

「!」

「…つまり、聖女がその身に宿ったがゆえにその体に魔力を宿せない、という事か?」


 皇宮医は無言のまま頷く。その瞬間、誰もがうなだれ絶望の淵に立たされたような気分だった。

 なんという矛盾だろうか。魔力をもたらす聖女を宿したはずなのに、その聖女のせいで彼女は一生魔力のない体で生きていかなくてはならない。

 聖女になっても彼女は結局、無魔力者のままなのだ。


「…彼女の傷は治るのか?魔力のない体のままで」


 命を落とすほどの怪我なのに。

 声を絞り出すようにユーリシアは皇宮医に問いかける。見れば膝の上で固く握られた拳がわずかに震えていた。


「…聖女様には癒しの力があると言われております。その力で傷自体を治す事は可能でしょう。ですがミルリミナ様の場合、命の根源である魔力が枯れている状態です。それゆえ体の修復が機能いたしません。例え傷が治っても、おそらくは後遺症が残るかと」

「…はっきり言ってくれ。後遺症とは具体的になんだ?」


 わずかに静寂が流れる。皇宮医は言い淀み、一呼吸あけてから意を決したように口を開いた。


「…ミルリミナ様は生涯、ご自身の足で歩く事は叶わぬでしょう」



 この時の絶望を何と言い表したらいいだろうか。おそらくどれほど高尚な文学者でも表現する事は難しいだろう。

 彼女は生涯、自分の足で行きたい所に行く事すらできない身体になってしまった。ただ普通に暮らす事すらままならない身体なのに、誰もが当たり前にしている事すらできなくなったのだ。愚かな男を守ったせいで。


 知らず知らずのうちにミルリミナの手を握っている手に力が入る。ふとその時、ミルリミナの手がピクリと動いたような気がした。

 ユーリシアは慌ててミルリミナの顔に視線を向け、様子を窺う。


「…ミルリミナ嬢?」


 遠慮がちに声をかけると、ミルリミナの瞳がゆっくりと開いた。

 まだ夢現の境がはっきりしていないのだろうか。無言でユーリシアの顔を見つめたまま呆然としている。


「…大丈夫、だろうか?…私が…判るか?」


 小さな声で、できるだけ柔らかく声をかける。ミルリミナは視線をそのままに、小さく頷いて見せた。


 何度か目覚めたがそのいずれもユーリシアと会う事は適わなかった。久しぶりにユーリシアと出会えた事で内心歓喜したが、その反面ひどく不安になった。微笑みをたたえてはいるが、その笑顔がひどく辛そうで悲しげに映ったからだ。


「……何か、ございましたか…?」

「え…?」

「…ひどくお疲れのようです…。ちゃんと…お休みになられておりますか…?」


 自分の体がままならないというのに、相手を気遣う気持ちが何より嬉しい。反面、優しくされればされるほど罪悪感が疼いた。


「…各地で土地の魔力が枯れ、荒廃が進んでいるそうだ。ここ数日その対応に追われていたからその疲れが出たのだろう。心配には及ばない。…それよりも体の調子はどうだろうか?」


 不安そうに尋ねるユーリシアに、ミルリミナは笑顔で答える。


「…傷の痛みはだいぶ和らぎました。まだ力は出ませんが、そのうち体を起こせましょう」

「それはよかった…!だがあまり無理はしないでくれ」

「…はい、心得ております」


 言って頷いた後、互いに話の接ぎ穂が見つけられず、わずかに気まずい静寂が流れる。それを打ち消すかのように、ユーリシアはミルリミナに問いかけた。


「……食欲はあるだろうか?空腹ならすぐに用意させるが…」


 言葉尻を濁すユーリシアの表情は、暗い。

 本当なら今すぐにでも謝罪をし、真実を告げなければならないがこの期に及んでまだその勇気が出ない。かといって何かを話していなければ重圧に押しつぶされそうだった。


(…本当に、情けない…)


 こうやって別の話題を振る事で残酷な真実を告げる機会を自ら潰しているのだ。自分で告げると豪語しておきながら、この体たらくに心底呆れ返った。


 だが、そんなユーリシアの心を知ってか知らずか、ミルリミナはやんわりと断る。


「…いいえ、侍女がもうすぐ来るでしょうから、お気遣いは不要です」

「…そうか」


 短く言ってそのまま押し黙ってしまったユーリシアに、ミルリミナは機嫌を損ねてしまったのではないかと不安になる。

 今のユーリシアがあまりに優しい所為でつい忘れてしまいそうになるが、本来自分はユーリシアに好かれてはいない。今はただ身代わりになった事に対する罪悪感で誠意を尽くしてくれているだけなのだ。


 改めてそれを感じて、ミルリミナは途方に暮れてしまった。こういう時、おそらく何を言っても怒りを買うだけだろう。それでも何かを言わなければと考えれば考えるほど、思考は空回りするだけだった。


「…ずいぶんと花をつけたな」


 しばらくの沈黙の後、ユーリシアは窓の外に視線を向けながら誰にともなく呟いた。見れば窓の外には雨の中にあってなお色鮮やかな花たちが見える。


「…もう春でございますから」


 怒っているわけではないのかとミルリミナは内心ほっとする。


「…皇宮の庭園には及びませんが、公爵家の領地にもとても美しい花園がございます。おそらく今頃はたくさんの花を咲かせている事でしょう。…また見られれば良いのですが…」

「…っ!」

「……ユーリシア殿下…?」


 視線はまだ窓の外に向けられてはいたが、何やら様子がおかしい。ひどく思いつめた様子で睨むように窓の外を見ているユーリシアに、またもや失言してしまったのかとミルリミナは不安になった。弁解しようにも何が不快に思ったのかが判らず途方に暮れる。


 だが、ユーリシアの口から出た言葉は意外なものだった。


「……すまない」


 絞り出すように出た言葉に、ミルリミナは呆然とする。何の事か判らず、無言で次の言葉を促した。


「……その花園には、行けないかもしれない」

「……どういう…事でございますか…?」


 意を得ずきょとんとするミルリミナに、ユーリシアは一度躊躇ったのち、意を決したように口を開いた。


「…貴女の足は、もう二度と歩くことは叶わないそうだ」


 視線は窓に向けたまま、まるで血反吐を吐くように言葉を絞り出す。いつの間にか固く結ばれた拳からは、爪が食い込んで血が滲んでいた。


「…聖女の力は魔力に阻害されるらしい。聖女を宿した貴女の体には魔力を宿せないそうだ。…傷自体は聖女の癒しの力で治るそうだが、魔力が枯渇した体では機能の修復までは望めない…」


 ひと呼吸おいて、ユーリシアは深々と頭を下げる。


「すまない…っ。私の責任だ!…貴女のすぐ隣にいたのに守ってやる事ができなかった…っ。どれだけ責めてくれても構わない。殴られようが罵倒しようが甘んじて受けよう。……どれほど……どれほど罵倒しようが……貴女の足が元に戻るわけではないが……!」


 それくらいしかしてやる事がない。自分があまりに無力で情けなく、どうしようもないほど腹立たしい。

 ずっと誰かに罰してほしいと思っていた。ミルリミナ本人でもウォーレン公爵夫妻でもいい。関係のない他の誰かでも構わない。こんな愚かで情けない皇太子を誰かに罵倒してほしかった。裁いてほしかった。そして、罪を償う機会を与えてほしかった。


 図らずも聖女によって罪を償う機会は与えられた。だが誰も罰してはくれなかった。いっそ誰かが罰してくれれば新たな気持ちで罪を償えるのに。

 だからこそミルリミナに責めてほしいと思った。軽蔑の目で見られても構わない。どれほど罵倒されても受け入れようと思った。


 それなのになぜだろうか?

 手の震えが止まらない。

 心臓の音が耳まで届いてうるさいくらいだ。

 今ミルリミナがどんな表情をしているのか、確認しようにも恐怖で体が動かなかった。


 ずっと頭を下げたまま許しを請うように動かないユーリシアに、ミルリミナは静かに声をかけた。


「…ユーリシア殿下、頭をお上げください」


 思いのほか落ち着いた穏やかな声にユーリシアは驚く。

 おそるおそる顔を上げると、そこには横になったまま穏やかに微笑むミルリミナの姿があった。


「…ああ、よかった。泣かれているのではないかと心配いたしました」

「な…泣くなど…っ」


 思いもよらぬ言葉に思わず顔を赤らめてしまう。確かに涙が出そうになったが女性の前で男が泣くわけにはいかない。それを見透かされたのかと思ってつい顔が赤らんだ。


 そんなユーリシアを見て、ミルリミナはくすくすと声を出して笑った。

 図らずもユーリシアの赤面が見られた事にミルリミナは心底嬉しく思う。以前の皇太子からは決して得られなかったその表情を、今自分の前で出してくれる事が素直に嬉しかった。


 赤面している顔を隠すように口元に手を添えていたユーリシアは、そんなミルリミナを不思議そうに見つめていた。


「…なぜ笑えるのだ?…貴女はもう二度と歩けないのだぞ…?」

「…お忘れですか?ユーリシア殿下。…私は幼少の頃からこの、ままならない身体で生きてきたのですよ?」

「…!」

「今さら歩けなくなったところで何が変わりましょう」

「…だが、もう二度と行きたい所には行けぬのだぞ…?」

「いいえ、行きたい所には行けます。一人では無理でも誰かの手を借りれば」

「!」


 考えてもみなかった言葉にユーリシアは目を丸くする。誰かの手を借りて生きる事など無縁のユーリシアには、それは恥以外の何ものでもなかった。

 だが、生まれた時から病弱なミルリミナにとって、誰かの手を借りるという事は生きる事と同義なのだ。


「…誰かの手を借りる事は恥ではございません。そうやって受けた御恩を、他の誰かにお返しする。人はそうやって生きているのです。それはユーリシア殿下も同じでございますよ」


 言外に一人で抱え込まないでほしいと言われたようで、ユーリシアはずっと背負ってきた重荷をようやく下ろせたような気がした。そしてそれと同時に、自分がこれからミルリミナの為に何がしてやれるか、明確に理解した。


 外では小さな稲光が見え始めたが、心はなぜか晴れやかな気分だった。

 もう悩む必要はない。

 今、目の前で微笑んでいる彼女の助けとなればいいのだ。

 生涯を共にする伴侶として、これからは彼女を支えていけばいい。


 そうしてもう一度やり直そう。

 あの顔合わせの日からの五年間を取り戻すように。


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