ユルングルの正体
診療所に着くや否や、ユルングルの姿に周章狼狽したシスカとダリウスは、慌てて処置室に運び、急いで治療にあたった。
診療所にいた患者たちはしばらく心配そうに処置室の外で見守っていたが、そのうち一人二人とその場を離れ、昼を過ぎた頃にはラヴィだけがその場に立ち尽くしていた。
何か手伝いを、と思ったがやはり邪魔にしかならず、自ら処置室の外に出てただ待つ事しかできない自分をラヴィは恥じた。侍従として比較的優秀な方ではあると自負していたラヴィは、ダリウスに比べてできない事がたくさんある事に不甲斐なさを感じて、無力な自分をただただ恥じ入る事しかできなかった。
いや、できなくて当たり前なのだろう。そもそも食事を作る事も、治療を行う事も侍従の仕事ではない。そうやって自分自身を慰撫しながらも、ユルングルの侍従にはこれらの能力が絶対的に必要である事実に、胸が締め付けられる思いがした。
ラヴィは呆然自失と、自らの手に視線を向ける。
背に身を預けたユルングルは、あまりに軽かった。
よく食べると聞いてはいたし、ユルングル自身背も高く、服に隠れた体躯は意外にもしっかりしている印象があった。
だが、違う。
本当に隠れていただけなのだ。
触れた体は骨ばっていて、背に預けた体は苦も無く背負う事が出来た。幼少の頃に見た虚弱な皇子は、やはりそのままの姿でラヴィの前に現れていたのだ。
「…クラレンス卿」
いつの間にか処置室から出てきていたシスカの呼び声に、ラヴィは我に返る。
「…シスカ様…!ユルングル様は…ユルングル様の治療は、終わったのですか…?」
ひどく恐ろしい質問をしているような気がしたのは、シスカの顔色があまり優れないように見えたからだろう。それが治療に時間がかかったためか、あるいはユルングルの状態が芳しくない為かは判らなかったが、ラヴィはどうしても後者のような気がして、不安ばかりが脳裏を支配した。
「…ええ、とりあえずは。ユルングル様の意識はもう戻られています。貴方と話がしたいそうですよ」
言って部屋に入るよう促す。含みを持たせた言い方にひどく苦いものを感じたが、部屋の奥でベッドに身を預けているユルングルが視界に入って、ゆっくりと歩み寄った。
「……お前が俺を背負って運んだんだって?手間をかけさせたな」
顔色はまだ悪いが、言葉はしっかりとしている様子に、ひとまず安堵する。体を起こしてはいたが座位を保持する事が難しいのか、大き目のクッションに身を預けていた。
ラヴィは声をかけようと口を開いたが、それを見止めたユルングルは制するように軽く手を上げると、傍で心配そうに控えているダリウスに視線を向けた。
「ダリウス、お前も下がれ」
「…!ですが…っ!」
「ラヴィと二人で話がしたい。……大丈夫だ。無茶はしないし、少しでも不調があればラヴィに呼んでもらう。………頼む」
素直に懇願するユルングルに、ダリウスは苦々しく瞼を閉じると、一呼吸置いてから目を開き言葉もなく頭を垂れて部屋を辞去した。
怪訝そうにそれを見つめていたラヴィに座るよう促し、ユルングルは小さく息を吐く。
「…お前がいてくれて助かった。あいつのあの不安げな表情が苦手なんだ」
「それは…ユルングル様をご心配なさっているのでしょう」
「判っている。判っているからこそ嫌なんだ。……今まで散々見てきた。もう見たくはない」
まるで自分に弱音を吐いているような気がして、ラヴィは瞬く。いつも不遜な彼は、ひどく弱っているためか縋る相手を探しているように、ラヴィには映った。
「…もう、大丈夫なのですか?」
「…さあな。ダスクは大丈夫だと言ったが、あいつは意外と顔に出るからな。あの表情を見る限りあまりよくはないんだろう」
まるで他人事のように淡々と告げるユルングルを、ラヴィは困惑したように見つめる。
思えば以前のミルリミナにもこのような傾向があった。それは常に死と隣り合わせの人間特有の死生観なのだろうか。
「ユルングル様。ご自分のお体の事なのです。そのような言い方をされては…」
やんわりと、だが窘める色をわずかに載せながら告げるラヴィの言葉に、ユルングルは自嘲気味に鼻で笑ってみせた。
「今さらだろう。今まで散々大病を患ってきたんだ。命に係わる大病だと言われても、どうという事はない」
「ですが……」
「それに、事が成就したらそもそも死ぬつもりだ。今さら命を惜しむつもりもない。…まあ、死期が早まってもらっても困るがな」
ユルングルの言葉の意味が理解できず、ラヴィは怪訝そうに、だが不安げにユルングルの顔を視界に入れる。
「……それは……どういう……?」
尋ねてみたが、声になっていたかどうかは定かではない。それが判らないほど、ラヴィの頭はひどく混乱していた。
「…低魔力者たちが何の気兼ねもなく普通に暮らせる国の基盤ができたら、反乱軍の首領として罪を贖うつもりだ」
それはつまり、逆賊として処刑される事を意味する。
「リュシテアとして多くの人間を手にかけた。いずれは誰かがその罪を背負わなきゃならない。なら、それは俺が背負うべき罪だろう。元々いつ死んでもおかしくない命だ。利用価値があるなら使わない手はない」
「そんな…っ!皇族である貴方を処刑などと_____」
「皇族だから罪を赦すのか?それをすれば国の規範が乱れるぞ」
「……っ!」
「皇族だからこそ規範を遵守すべきだろう。そんなくだらない前例は作るべきじゃない」
毅然と言い放つユルングルの視線は強い。弱々しい姿に反して、その瞳にだけは強い光が宿っていた。
それは死を覚悟している者の目だ。
それも皇族として恥じる事のない、大義に殉ずる死を貫こうとしている。
(…この方は、紛れもなく皇族なのだ____)
崇高さも、気高さも、そして皇族としての高潔さも、その身の内に確かに存在している。その彼が、皇族を追われた事実が堪らない。
「…あの二人には…特にダリウスには決して言うな。知ればあいつは国を敵に回してでも俺を連れて逃げるだろう」
「……なぜそのような話を私に……?」
「死期が早まったようだからな。事を性急に進ませる必要がある」
「…!そのような事は決して____」
「いいから聞け。明日、書状をしたためる。それを皇王に渡せ」
「…陛下に、ですか?」
「リュシテアと国との公式な会談を申し込む。俺の名前を見れば承諾せざるを得ないだろう。会談はリュシテアの首領…まあ、形式的にはライーザになっているが、実質動かしているのは俺だから構わないだろう。俺と皇王、それから皇太子のみで行うものとする。余計な者は誰一人いれない。…そう伝えろ」
「…承知いたしました」
意気消沈と返事をするラヴィを見受けて、ユルングルは呆れたように息を落とした。
「…なんて顔してるんだ。ほだされでもしたか?」
「…どうやらそのようです」
揶揄したつもりだったが、素直に肯定されて話の接ぎ穂を見失い、さらに困惑する。ユルングルは大きく息を落とすと、バツが悪そうに頭を掻いた。
「…甘すぎる、お前もユーリシアも。国を背負う者がそんな事でどうするんだ。反乱軍の首領を心配する前に、国の心配をしろ」
この二日でユルングルの性格はある程度把握した。柄にもなく励ましてくれているのだろうと判って、ラヴィは小さく微笑みを返した。
**
あまり長くなっては体に障るだろうと、退出を請い辞去したラヴィは、部屋を出たところで不安げな視線を向けるシスカとダリウスと目が合った。
「ユルングル様は?」
すかさず訊ねてきたダリウスの質問に、まだ閉じてはいない扉から見えるユルングルを一瞥して、声を小さく答える。
「もうお休みになられました。…まだお体が辛いようです」
ユルングルがそう言ったわけではないが、おそらくはそうなのだろう。辞去しようと扉に手をかけた時にはすでにユルングルは目を閉じていた。何でもないように振る舞ってはいたが、実際は目を開けている事すら億劫なのだと、その時初めて気が付いたのだ。
ラヴィは音を立てないように静かに扉を閉じると、改めて二人に向き直った。
「…ユルングル様の病状をお教えください」
問われた二人は気まずそうに互いに目を合わせて逡巡する。その様子がことさらユルングルの容体が芳しくない事を物語っているようで、さらに不安が頭をもたげた。
「…ユルングル様は何か仰っていましたか?」
「薄々、気が付かれているようです。命に係わる大病であると。……そうなのですか?」
問わなくても答えは判っていたが、問わずにはいられなかった。この二人の様子を見れば明らかだが、違う答えを心のどこかで期待していたからかもしれない。
ややあって、シスカは観念したように嘆息めいた息を吐くと、その重苦しい口を開いた。
「…ひとまず、診療所に入ってください」
ユルングルを一人にするわけにもいかず、処置室の隣にある診療所に入って扉を閉める。
診療所と処置室は扉を隔てて繋がってはいたが、ユルングルを運んだ際に開けっ放しになっていたその扉から、シスカは処置室で眠るユルングルの状態を確認した後、静かに扉を閉めてラヴィに向き直った。
「ユルングル様は血友病に冒されております」
伝えると決めたからだろうが、躊躇する事も前置きもなく、結論から告げられてラヴィは一瞬狼狽えた。そうして一呼吸置いた後、その病名が記憶の片隅にある事に思い至る。
「…血友病……?…お待ちください、その病は普通の方にはかからない病のはずです。その病にかかるのは_____」
そこまで言って、ふとある考えが頭をよぎって思わず口を噤む。
血友病は、その部位に外傷があるわけでも損傷があるわけでもないのに出血が起こる病だ。その症状は全身に及ぶが上皮組織、つまり皮膚に起こる事は稀で、そのほとんどは体の内部で起こる為、視認がしづらい。小さな出血であれば日に一回の診察を設ければ発見は容易いが、大きいものであれば一時間ともたずに失血死する事もある。
そしてこの病は普通の人間は決してかからない。特定の人間だけがかかる病だと知っているのは、この病にかかった人間を知っているからだった。
「…ええ、血友病はある特殊な血液を持つ者にしか発症いたしません」
『万有の血』______。
どの血液型にも等しく輸血する事の出来る特異な血液。これを有する者はひどく珍しい。遺伝する事が認められ、ラジアート帝国の皇室に多く見られるが、それでも稀で、現在は現皇帝とその長兄が保有していると聞く。
そして、そのラジアート帝国の皇族であったフェリシアーナ皇国皇妃ファラリス=フェリシアーナもまた、その保有者だった。血友病はそんな皇妃の命を奪った病名だ。忘れるはずがない。
「……お待ちください。では…ユルングル様も『万有の血』の保有者なのですが……?」
頭が混乱しそうになるのを必死に抑える。情報を整理しようと問うてはみたが二人からの返答はなかった。だがこの場合、沈黙は肯定だろう。
ふと、数日前のユーリシアが脳裏をよぎる。彼は反乱軍の首領と自身の母がひどく似ている事に困惑していなかっただろうか。他人の空似と一蹴したが、自分の目で見て初めて、ユーリシアがなぜ狼狽するのかが判った。
彼は皇妃の生き写しだ。性別は違ったが、それでもそう思えるほど面差しが強く濃かった。遺伝すると言われている『万有の血』を同じく保有し、そして彼は皇族なのだ。だとすれば、彼の出自は一つしかない。
「……あの方が……ユルングル様が、本来皇太子になられるはずだった第一皇子…なのですね……?」
陛下と皇妃の間に生まれた、正統な後継者_____。
だとすればダリウスのユルングルに対する態度も頷ける。ダリウスは皇族であると同時にフォーレンス家の令息だ。フォーレンス家は第一位皇位継承権を持つ皇太子の補佐官に命ぜられる。ダリウスは皇族の立場よりもそちらを優先させたのだろう。
ラヴィの言葉に二人は押し黙ったままだが、これもまた沈黙は肯定だ。病名を告げる事に逡巡したのは、そこからユルングルの出自を知られるからだろう。皇妃が血友病にかかった時、その病の説明を幼いラヴィにしたのは他ならぬシスカなのだ。
ラヴィは一度目を閉じた後、ややあってゆっくりと開き、拳を握る。あの頃からほとんどその容姿が変わらないシスカに、ラヴィは強い視線を向けた。
「…血友病の治療法はないのですか?」
「…一つだけあります。ですが現実的ではありません。ないものと思った方がいいでしょう」
「何故です…っ。その方法に縋るしかないのなら、それを模索すべきです…っ」
「他の方が持つ『万有の血』を大量に輸血する必要があるからです」
ぴしゃりと言われて、ラヴィは絶句する。言葉に詰まってただ茫然とシスカを見返した。
「…他の……『万有の血』の保有者……?」
声にならない声で、ラヴィはシスカの言葉を反芻する。
「…クラレンス卿はご存じですか?ユルングル様以外の『万有の血』の保有者を」
知らない。
知るはずがない。
ラヴィが知っているのは、亡き皇妃とラジアート帝国の皇帝、そしてその長兄だけ。だがラジアート帝国の皇帝に助力を求める事が無駄だという事は、皇妃の件で嫌というほど理解した。溺愛していたと聞いていた皇妃でさえ見捨てたのだ。その子であるユルングルを助けるとは到底思えない。
では探す?いるかどうかも判らない保有者を?
『万有の血』は非常に稀な血液だ。その保有者に出会えれば幸運、と言われるほどに数が少ない。それは砂浜に落ちた小さな宝石を探すよりも難しいだろう。
そして血友病はそれほど悠長にしていられるような病でない事も知っている。
それは今すぐ治療が必要なほど切迫している、というわけではない。出血が起こらなければ普通の生活を送る事はできるのだ。多少の倦怠感などはあるだろうが、健常者と変わらない生活ができる。運動もできるし、多少の無理くらいは問題がない。出血するきっかけが、それらに起因するものではないからだが、逆に言えば出血するきっかけは何もないのだ。
何もないのに、突然出血する。それが怖い。
きっかけさえあれば、それらを忌避すれば済む話だが、そうではない。いつ大きな出血を起こすのか予測が決してできないのが、この病の一番怖いところだった。それは一年後かも知れないし、あるいは明日起こるかもしれない。それを思えば、決して悠長に事を構えるなどできはしないだろう。
「…血友病は『万有の血』の保有者とは非常に相性の悪い病です。『万有の血』は自己血輸血しか受け入れられませんが、大きな出血ともなれば、それを行うこと自体が難しい。日頃から採血を行って充分な量を確保していても、出血が頻発すればいずれ必ず底をつきます」
シスカの言葉に、ラヴィは神妙に頷く。
他ならぬ皇妃がそうだった。輸血用の血液の在庫は充分に確保していたにもかかわらず、運悪く出血が頻発し在庫が底をついた。輸血するべき血液を失って、皇妃は治療の甲斐なく亡くなったのだ。
その当時、ユルングルはまだ7歳。皇妃にとって他の『万有の血』保有者は確かに存在してはいたが、採血できるほどの年齢に達してはいなかった。皇妃の病があと十年遅ければ助かっただろうし、皇妃が今も健在であればユルングルもまた助かったのだろうが、それは今考えても仕方のない事なのだろう。
「…在庫はあるのですか?」
ラヴィの質問に、二人は苦虫を潰したように眉間にしわを寄せる。
「…ありません。日頃から採血は行っておりましたが、在庫がある度に他の方にお譲りしておりました。つい先日採血したばかりの血液も今回輸血いたしましたので、本当に底をついた状態です」
どれほど貴重な物でも惜しげもなく分け与えるのは、ユルングルの好ましいところでもあるが、今回ばかりはそれが仇となった。ダリウスは今更ながらに後悔する。
「…大量にあった在庫は、おれに使ってしまったのですよ。ですが幸いと言うべきか、おれの体には大量にユルングル様の血液が流れています。ここから、ユルングル様の血液だけを採血いたしましょう」
「……!できるのですか…っ!」
ダリウスとラヴィの視線に、ダスクは笑顔で応える。
「ですがこの量では大量出血に対応できるのは一回限りです。折を見てユルングル様の体調を見ながら採血を行って、在庫を増やすしか現状手立てはありません」
採血を行うのも慎重に時宜を見定めなければならない。採血した直後に出血すれば、大量出血でなくても命に危険が及ぶ可能性がある。
この病は、ただひたすら運なのだ。
どの時期にどれほどの出血が起きるかで、その生死が大きく分かれてしまう。どれほど用意周到に構えても、ユルングルの生死は人智が及ばない所にある。
処置室の前で、ただ立ち尽くす事しかできなかった無力感と、ラヴィは再び対峙した。情けなく、不甲斐なく、自分の存在がいかに矮小であるかを知らしめているような、無力感。
ラヴィはただその無力感を受け入れたくなくて、背を向ける事しかできなかった。




