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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第五部 ユルングル編

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何者でもない者

 ラヴィはひどく困惑していた。


 自由にしていい、とは言われたが実のところ自分は捕虜扱いだ。決して言葉通り自由にはさせてもらえないだろうと覚悟していたが、ふたを開けてみれば本当に自由にさせてもらえたので、かえってどうすればいいのか判らず周章狼狽してしまった。


 監視を付けられることもなく、衣食住まで完備され、遁甲の中を散策する事も、そしてあれほどひた隠しにしていた工房に入る事すらも許可された。あまりの好待遇にかえって畏縮いしゅくして結局どこにも行けず、終始ダリウスの後をついて回るのが、やっとだった。


 そうやって無為に過ごす事、二日間。あの日失言してひどく傷つけてしまったであろうユルングルは、何一つ態度を変える事なく普通に話しかけてきて、さらにラヴィを困惑させた。謝罪したいが言葉が見つからず、なのに普通に接してくれるので、ラヴィの中の罪悪感だけが日ごとに増していった。そうやって、もう何度も会話を交わしているので、謝罪しようにもすでに時機を逸してしまった感が否めず、なおさら途方に暮れてしまったのだ。


「どうしました?ラヴィ」


 もう幾度目かになるラヴィのため息を見止めて、ダリウスは問う。


 ここに来て最初に驚いた事は、皇族であるダリウスがユルングルやシスカの食事の準備を一手に担っている事だった。


「慣れたものです」


 そう言っててきぱきと準備するダリウスは、確かに様になっている。


 ここでは料理人がいるわけでも使用人がいるわけでもない。当然誰かが準備しなければならないのだが、ユルングルの侍従として仕えているのであれば当然の役回りだろうか。


 ラヴィの食事までダリウスが用意していると知って、さすがに恐縮してしまい、手伝いを買って出たものの、正直役に立っているのか邪魔をしているのか判らない有様で、結局、簡単な雑用だけをこなしながら何度もため息をつくので、たまらずダリウスがそう尋ねてきたのだった。


「……ユルングル様は、お怒りになってはおられないのでしょうか……?」


 呟くように悄然と告げるラヴィに、ダリウスは目を瞬く。


 ここでは『殿下』の敬称を禁止された。ユルングル的には敬称のみならず畏まった物言いも禁止にしたそうな勢いだったが、反乱軍の首領とは言え、曲がりなりにも皇族相手に態度を崩すわけにはいかない。なのでダリウスやシスカに倣って『殿下』の敬称だけを取り払うに留めた。


 問われたダリウスは一瞬何のことか判らず返答に困っていたが、ややあって一昨日のラヴィの失言に思い至る。


「…まだ気にしていたのですか?ユルングル様は貴方を責めたりはなさらないでしょう?」

「だからです。…だからこそ、罪悪感がいつまで経っても拭えないのです。むしろ罵倒してくださる方がまだましでしょう…」


 ラヴィの言に、同意にも似た表情で苦笑しながら、小さく息を落とす。


「…ユルングル様はきっと、誰かにご自分を罰してほしかったのでしょう」

「………え?」

「今のユルングル様にユーリシア殿下を害するお気持ちはありません。とはいえ、一度でも殺意を抱いてしまわれた事を悔やんでおられるのでしょう。かと言って『後悔している』とはっきり言えるほど、まだ心の整理がついてはおられない…。だから、ああいう言い方をなさったのです。貴方を挑発して、貴方に罰してもらうために」


 正確にユルングルにその意思があったかは定かではない。いや、おそらく自覚はしていないだろう。念頭にその想いがわずかばかりあったとしても、今のユルングルにはまだそれを受け入れるだけの余裕はないはずだ。きっとその想いが頭をもたげては、否定する事を繰り返す。

 それでも自分を罰してほしい時、わざと相手を挑発して怒りを買うユルングルの癖を、ダリウスは承知していた。


「ユルングル様がラヴィを責めないのは、ご自分に非があると承知しておられるからです。ユルングル様も貴方を挑発されたのですから、おあいこだとでも思いなさい」


 穏やかな笑みを浮かべて告げるダリウスを、ラヴィは羨望にも似た思いで視界に入れた。


 ダリウスは時折、主であるユルングルに対してひどく気安くなる時がある。それは侍従というよりも、親や兄に近い。実際、ダリウスはユルングルの実兄なのだから、時折その顔を覗かせても仕方がないのだろう。だが、ラヴィにはその関係がひどく羨ましく映った。


 ラヴィは、ユーリシアに対して強く言えない時が多々ある。

 それはユーリシアに問題があるわけではない。軽い冗談や揶揄を含んだ物言いをしても、ユーリシアは嫌な顔など決してしない。冗談には笑ってくれるし、揶揄には苦笑しながら応えてくれる。ラヴィに対して横柄な態度を取った事も、皇太子の権力を振りかざしてラヴィに無理難題や言いがかりをつけた事もない。なのにラヴィはどうしても、ユーリシアに対して『主従関係』という一線を越えられないでいる。


 普段はそれでいい。むしろその姿が正解なのだろう。だがユーリシアが自分の体調を省みず、無茶をする時が困るのだ。それはここ最近のユーリシアで、身に染みて感じた事だった。


 睡眠をほとんど取らず、毎日のように体を酷使してミルリミナを探し続けるユーリシアを、ラヴィはどうしても強くいさめる事はできなかった。それはユーリシアの気持ちを斟酌しんしゃくした結果だと言えば聞こえはいいが、実際はそうではない。確かにそれもあったが、実際のところ侍従である自分が、主の意志や行動を妨げてもいいのだろうか、という思いの方が強かった。


 自分はただの侍従だ。諫めるべきところは諫めなければならないが、主が強く要望する事は通すべきなのだと思う。それが侍従のあるべき姿だと思うし、実際今まではそうしてきた。だからこそ、ここぞという時ユーリシアに遠慮してしまうのだ。


 だが、ダリウスとユルングルに遠慮はない。それは兄弟という前提の上に成り立った関係性なのだろう。それが判っていても、なお羨ましく感じるのは、自分のユーリシアに対する態度にどこかしら不満を感じているのだろうか。


「…ラヴィ?大丈夫ですか?」


 押し黙ったまま己の内実を彷徨うラヴィに、ダリウスは声をかける。小さく体を震わせて我に返ったラヴィは、申し訳なさそうに苦笑した。


「…申し訳ございません、ダリウス様。そのように思う事にいたします」


 心許ないラヴィの笑顔に何か言いたげな表情を見せたが、結局口を噤んで、ダリウスは小さく笑んで見せた。


「…さあ、朝食ができましたので、運んでくれますか?」


 言われて運んだ先は、調理室の隣に併設された、食堂というには少しばかり狭い一室だった。大き目の卓と五人分の椅子が置かれ、その奥にはソファも備え付けられている。大きく窓が切られているおかげで日当たりもよく、観葉植物も置かれているので、冷たい印象の石壁の一室がひどく居心地のよさそうな部屋に様変わりしていた。食堂というよりも談話室と言った方がいいかもしれない。


 ちょうど食事を運んでいる最中に、気怠そうなユルングルと涼しい顔をしたシスカが入ってきて、軽く挨拶を済ませる。朝食の皿を置きながら、ラヴィは主と侍従が同じ卓について食事を摂る風景に、何とも言えない不思議なものを感じていた。


 そうして何度目かになる疑問が、頭をもたげる。

 皿が一つ足りない。


 ここにいるのが四人で、皿は四つ。ぴったり合うが、そもそも一人少ない。ユーリシアは、遁甲の中に確実にミルリミナがいる、と言ってはいなかっただろうか。


 だがこの二日、ミルリミナの姿を見てはいない。それどころかダリウスが食事の準備をしている気配すらなかった。それが単にミルリミナが暮らす場所がここではなく、食事も他で摂っているのか、もしくはどこかしらに幽閉され食事も満足に与えられていないのか、その判断を下すだけの材料がラヴィにはなかった。


 あるいは自分の目に触れぬよう一時的に他に移されたのかもしれないと思うと、ミルリミナの話題を振る事すら難しく、いつも空席となっている椅子を暗澹あんたんたる気分で眺めるしかなかった。


「ミルリミナなら工房に泊まり込んでるぞ」

「……え?」


 そんなラヴィの心情を察したのか、食事を口に運びながら、ユルングルは言う。


「だから工房に行ってもいいと言っただろうが。遁甲内は自由にしろと言ったんだから、気になるなら好きに探せばいいだろう」


 そうは言っても、捕虜の自分が本当に自由にしてもいいとは誰も思うまい。


「大口の注文が来たので、皆さん納期に追われて工房に泊まり込んでいるのです。ミルリミナ様も手伝いを買って出て下さったのですよ」

「ミルリミナ様が、ですか?……ですが、あのようなお体では満足に手伝いなど………」


 ダリウスの言に、ラヴィは目を丸くして言葉を濁す。


 ミルリミナは歩けないはずだ。移動するだけでも車いすが必要だが、ユーリシアが贈った車いすは中央教会に置き去りにされていた。そんな体で一体何を手伝うのか甚だ疑問だったが、そんなラヴィの言葉に何故だか三者三様に驚いている様子だった。


「……ああ、そうか。あいつは歩けないんだったか」

「…久しく車いすなど使ってはおられないですからね」

「最近ではもう杖も必要なくなりましたよ。もうそろそろ走る事もできるでしょう」


 ラヴィを置き去りに、どんどん話が進むので、理解が追い付かない。これではまるでミルリミナが歩けるような言い方だ。


 だが皇宮医は確かに言ったはずだ。それも神妙な面持ちで、もう二度と歩けないと。

 そう、他ならぬ今、目の前にいるシスカがそう診断したのだ。


「お待ち下さい…っ!…まさかシスカ様、嘘の診断をされたのですか…っ!?」

「人聞きの悪い。あの診断は確かですよ。現にミルリミナの足は未だに感覚が戻ってはいません」

「……では…?」

「…実際にお会いしたほうが早いでしょう。ユルングル様」


 言って、シスカはユルングルに視線を送る。


「お前はいつも俺を小間使いのように使うな」

「そうは言っても、おれもダリウスも診療所がございますから。どのみち今日も工房に行かれるのでしょう?」


 全く悪びれないシスカに、ユルングルは盛大に渋面を作って大きくため息をつく。


 シスカもどういういわれがあるのかは判らないが、ユルングルに対して全く遠慮がない。対するユルングルも何だかんだと小言を言うが、結果、受容しているようで、これもまた不思議な関係性だとラヴィは思う。


「…準備ができたら言え」

「…あ、はい。承知いたしました」


 まだ食事を摂るラヴィに、ぶっきら棒に短く言って早々に席を立つユルングルを見取って、ダリウスとシスカは怪訝そうに、そして少しばかり険しい表情を浮かべた。


「ユルングル様、食事はもうよろしいのですか?」

「…ああ、悪いな。あまり食欲がないんだ」

「…どこか具合が悪いところでも?」

「ただ食欲がないだけだ。そう過敏になるな」


 詰め寄らんばかりの勢いで二人が問いただしてくるので、ユルングルは辟易した様子で手を振って、足早に奥のソファへと逃げ出す。


 見れば確かにユルングルの皿には、まだ半分ほどの料理が残されていたが、どうにも過保護な感が拭えない。幼少の頃のユルングルを思えば過敏になるのも判らないではないが、それにしても過剰な反応のようで、ラヴィは心中で苦笑した。


「ラヴィ。工房の皆さんに差し入れを持って行ってください」


 朝食を終えて片付けもそこそこに、ソファで待っているユルングルの元に向かうラヴィを呼び止めて、ダリウスはいつの間にやら作った差し入れを手渡す。もともと世話好きな人物だったと記憶してはいるが、十六年経った今でも健在なようで、ダリウスらしい、と心中でひとりごちた。


「承知いたしました」


 言って、差し入れを受け取ろうとしたラヴィの耳元に、小さな声でダリウスが告げる。


「…少し、ユルングル様のご様子に留意していてください」


 一瞬、何のことか判らず返答に逡巡したが、すぐに先ほどの会話が脳裏をよぎる。

 目線だけをユルングルに向けて、ソファに座る姿を視界に入れたが、ラヴィには取り立てて体調が悪いようには見えなかった。


「…ご不調があるようにはお見受けいたしませんが…?」

「ユルングル様はどちらかというと、よく召し上がる方なのです。ですが体にご不調がある時は必ずと言っていいほど食欲をなくされる…。これは判りやすい前兆なのですよ」


 ああ、なるほど、とラヴィはひとりごちる。あの髪色を見れば、わずかな不調でさえ大病に繋がるのは目に見えている。だからこれほどまでに二人が過敏になるのだろう。


「…承知いたしました。気にかけるようにいたします」


 言って頷くラヴィにダリウスは安堵して、ソファで待つユルングルに声をかけた。


「ユルングル様、お待たせいたしました。ラヴィに差し入れを持たせておりますので、皆さんにお渡しください」

「お前は相変わらずマメだな…」


 半ば呆れたように告げて、ラヴィが傍まで来たことを確認してから踵を返す。


「ああ、あと、ラヴィを苛めないであげてくださいね」

「…お前は俺を何だと思ってるんだ。大体ラヴィの方が年上だろうが」

「立場は貴方の方が上です」


 見送りの言葉で何を言い出すんだ、と面倒くさそうに返答するユルングルに、ダリウスはぴしゃりと言い放つ。不本意だが的を射た言葉に、ユルングルはすっかり閉口した様子だった。


「ユルングル様」

「あー、判った判った。…行くぞ、ラヴィ」

「…あ、はい」


 返事を促すダリウスに、辟易した様子で面倒くさそうに返答した後、ラヴィを伴ってユルングルは足早に隠れ家を後にした。




「ダリウス様には頭が上がらないのですね?」


 工房に向かう道中、くすくすと笑いながら揶揄するラヴィに、ユルングルはバツが悪そうに頭を掻く。


「……俺はあいつに負い目があるからな」

「……え?」

「俺の所為であいつは皇族を出る羽目になった。皇族を出てからダリウスが背負う事になった苦労も面倒も、全て俺が起因するものばかりだ。……正直、お前には痛い所を突かれたと思ったよ」


 言われて、ラヴィは自分の失言を思い出す。


「…あ、あれは…っ!」

「謝るなよ、謝罪が欲しくて言ったわけじゃない」

「ですが…っ!」

「謝るな。謝ればユーリシアに対する忠誠が嘘になるぞ」


 狼狽するラヴィに、ユルングルは固く告げる。こう言われては、もう謝罪するわけにはいかない。

 謝罪する機会を永遠に奪われてしまった事で、胸の内にある罪悪感をすっかり持て余してしまったラヴィは、侍従に負い目があると告げた主を視界に入れた。


 あの時自分は何と言っただろうか。怒りに任せて放った言葉が、図らずも一番触れてはならない部分に抵触してしまった。よもや、あれほど不遜な態度を取る人物が、これほど負い目を感じて胸の内に大きな罪悪感を抱いているなど、誰が想像できるだろう。彼が抱く負い目や引け目は、おそらくこれから先もなくなる事はないのだろうと思うと、ひどく息が詰まる思いがした。


「……負い目を感じる必要など、ないと存じますよ」


 ぽつりと呟いたラヴィを、ユルングルは視界に入れる。


「ご兄弟なのでしょう?弟の為ならば、兄はどれほどの苦労もいといません。兄とはそういうものです。きっとダリウス様も、そう思っていらっしゃるでしょう」


 ラヴィの言葉に、ユルングルは目を瞬く。しばらく何かを考えるように俯いて、そうして誰にともなく呟いた。


「…本当の兄弟なら、そう思えたのかもな……」

「……え?」


 瞬くラヴィに、ユルングルはにやりと笑う。


「信じ込んでるところ悪いが、俺とダリウスは兄弟じゃない。身を隠す場所を作る為に、いもしないダリウスの弟を作っただけだ」

「……え!?いえ…ですが……っ!」


 突然の告白に、ラヴィは周章狼狽した。話について行けず、理解が及ばない。

 ダリウスの弟でなければ、彼は一体何者だと言うのだろうか。


「…では…貴方は一体、誰なのです……?」

「言っただろう?俺は存在を消された人間だ。何者でもないんだよ」


 告げたユルングルは、いつものように不敵な笑みをその顔に浮かべている。

 なのに、その表情に、わずかばかりの寂寞せきばく感が垣間見えたのは見間違いだろうか。


 『リュシテア』の首領として多くの人間に慕われている彼は、それでもその内面に大きな孤独を飼っているのだと思うと、ラヴィはひどくやるせない気分になった。

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