ラヴィの失言
ラヴィはそもそも、嫌な予感がしていた。
街でダリウスの姿を見止めて、いつも通り後を尾けた先がキリの店であった時点で、尾行をやめるべきだったのかもしれない。いや、ユーリシアが店に入るのを止めてさえいれば、また違う結果だったのではないかと思う。
だが、ダリウスの隣にいる皇妃によく似た黒髪の男の存在がそれを許さなかった。
あれがおそらくユーリシアの言っていた『リュシテア』の首領だろう。すでにユーリシアとは顔見知りになっている。ここであからさまに避けては、いらぬ警戒心を抱かせるだけだ。
そう思ってラヴィは、キリの店に入るユーリシアをそのまま看過した。____否、してしまった。しばらくして半ば強制的に連れて行かれるユーリシアを見取って、自分の判断を大いに悔いる事になる。
連行されるユーリシアを、ラヴィは成す術もなくただ静観するしかなかった。自分の髪色は灰桜と呼ばれる、くすんだ桜色だ。有する魔力は少なくはないが、多くもない。考えなしに飛び出したところで、ユーリシアの足手まといになる事は目に見えていた。
だからこそ、静観するしかなかった。
遁甲に向かっている事は判っている。だが、そもそもユーリシアは遁甲を渡る事はできない。おそらく一人残されるだろう。その隙を狙って逃げればいい。ミルリミナの事は、ユーリシアを助けた後、また考えればいいのだ。
そう思っていたのに、なぜかあっさりと遁甲の中にその姿を消したユーリシアを見て取って、ラヴィはひどく周章狼狽した。
嫌な予感はしていたのだ。胸がしきりにざわついて、ひどく落ち着かない。手足がとめどなく震えて、全身でその先に行く事を拒んでいるような、そんな感じ。
だが、その直感に構っている余裕はすでにラヴィにはなかった。ただひたすら、連れて行かれたユーリシアを追って中に入ってしまった。それが罠だと気づいたのは、蒼白な顔で遁甲を出て行くユーリシアを見届けた、そのすぐ後だった。
中魔力者のラヴィには遁甲を感じる事はできない。ましてやどこからどこまでが遁甲の中なのかすら判断はつかなかった。唯一、ある、と判っていたのはユーリシアから教えてもらった、あの森の入口だ。だが今はそこに、ユーリシアを見送ったばかりのダリウスたちがいる。だから場所を移した。街に向かって歩けば、いずれは遁甲から出られるはずだろう、と疑いもせずに。
そう、なぜか盲目的にそう思っていた。入れたのだから出られるだろう、と。それはユーリシアが出て行ったところを見たからかもしれない。そうして自分も間違いなく出られると思ってしまったのだ。
まさか遁甲が、今や自分を捕らえる為の巨大な檻になっているとは思いもしないだろう。自分の前に立ちふさがる見えない壁に、ラヴィは成す術もなく唖然とした。
「…遁甲の中の居心地はどうだ?」
背後からそう声をかけられて、ラヴィは飛び跳ねるように振り返る。
「存外、悪くはないだろう?」
言って不敵な笑みを向けたのは黒髪の男。その後ろに控えるように、ダリウスとかつて皇宮医として仕えていたシスカの姿があった。
「…これは、私を捕らえる為の罠だったのですね?」
「目障りだったからな。皇太子を餌に使わせてもらった」
「……っ!不遜な…っ!仮にも皇太子殿下を餌などと____」
「偽の皇太子だろう?」
己の言葉を遮るように重ねてきた男の声は確かにラヴィの耳に届いたはずなのに、何故だか理解できなかった。そう、耳には届いたのだ、間違いなく。それも明瞭に、耳の奥で何度も反芻できるほど、はっきりと。
なのに、その言葉の意味を掴み損ねた。
ラヴィには何故か、男の告げた言葉の意味を把握する事ができなかった。
「あれは、偽の皇太子だ」
思考が停止したように茫然自失とするラヴィに、追い打ちをかけるように、そして噛んで含ませるように、男は言葉を重ねる。再度耳に届いた男の言葉を、ラヴィはようやく頭の片隅にではあるが入れる事に成功した。
「………何を……何を、言っている……?」
絞り出すようにようやく出た声は、かすれてひどく弱々しい。黒髪の男を見ているはずなのに、その焦点は定まらず、まるで宙を泳いでいるようだった。
「……偽の、皇太子……?…そんな……そんな事、あるはずがない……っ!…あの方は…っ、ユーリシア殿下は紛れもなく皇太子殿下です!あの方を侮辱しないでいただきたい!」
激情に任せて、ラヴィは声を荒げる。
そう、そんな事があるはずがない。フェリシアーナ皇国の皇太子はユーリシアただ一人だ。別の人間がその座にいていいはずがない。いてはいけないのだ。
そう信じるだけの確固たる真実がラヴィの中に確かにあるはずなのに、目の前の男を見るたびに揺らぐのは何故だろうか。憎らしいほど皇妃に似た男の顔が、ラヴィの中の真実を少しずつ浸食していくような気がしてならなかった。
男はややあって、小さく息を吐いた。
「…この男は何も知らないようだな」
「…仕方がありません。貴方の存在は、ごく一部の人間にしか知られておりませんので」
後ろに控えていたダリウスが、遠慮がちに言葉を挟む。男は再び息を落として、もう一度ラヴィに向き直った。
「…では話を戻そうか。なぜダリウスをつけ狙う?お前の狙いは何だ?」
問われたラヴィはしばらく男を睨めつけた後、重々しく口を開いた。
「…貴方こそ、ダリウス殿下に何をしたのです…っ!この方は!寡黙だがとても穏やかで優しい方です…っ。例え己の命を盾に取られたとしても、自ら進んで他人を傷つけるような方ではない!ましてや反乱軍に入って皇族の命を狙うなど、ダリウス殿下が望んでなさっているはずがありません!一体ダリウス殿下に、何をしたのですか!?」
ダリウスの気性を考えれば、たとえ失踪の経緯が何であれ、ここまでの暴挙に出るはずがない。この十六年でダリウスに何らかの変化があったとすれば、間違いなくこの男が原因だろう。
皇妃に似たあの顔に騙されているのか、あるいは何かを盾に取られているのか。どちらにせよ、皇族であるダリウスが傅かなければならない理由が、この男にあるはずなのだ。
だが激情のままに吐き出したラヴィの言葉に、黒髪の男だけでなくダリウス本人も目を瞬いているようだった。
「…ダリウス、お前の知り合いか?」
「…え、いえ……私は……」
問われたダリウスは言葉尻を濁して、記憶をまさぐるように視界を宙に移す。その様子に、ラヴィは少しばかり気落ちして言葉を続けた。
「…もう、十六年も経ちましたから。当時私もまだ幼く、今ではすっかり面変わりいたしましたので、私の事など判らぬでしょう…」
悄然とうなだれるラヴィの姿に、なぜか黒髪の男が反応する。
「…その髪色」
ぽつりと呟いた男の言葉に、今度はダリウスも弾かれるように反応した。
「ラヴィ、ですか?」
「ラヴィ=クラレンスか?」
答えたのはほぼ同時だった。
二人は互いに顔を見合わせ、そんな二人をラヴィも訝しげに視界に入れた。
ダリウスはまだしも、何故この男までが自分の事を知っているのだろうか。
「…よく覚えておいでですね。ユルングル様もまだ幼かったでしょうに…」
半ば呆れたようにダリウスは告げる。その言葉の中に、聞き覚えのある名が聞こえたような気がした。
「俺を見るこいつの目は、いつも悋気を含んでいるような目だったからな。お前の弟という立場がひどく気に障ったらしい」
くつくつと笑いながら、男はラヴィを揶揄する。
その姿が、その態度が、ラヴィの知っているであろう人物とあまりにかけ離れていたので、なおさら困惑した。
ダリウスの弟である令弟殿下は、わずか5歳で薨去したはずだ。そしてその人柄は、ひどく引っ込み思案で実兄であるダリウスの後ろに常に隠れているような、弱々しい子供だった。
その『彼』なのだろうか。
ラヴィは男の言葉の中に出た、弟、という言葉を、口の中で小さく反芻する。
目の前の男に、弱々しさは微塵もない。むしろ不遜だ。自分自身に絶対的な信頼と、確固たる信念を抱いているからこその態度だろう。威風堂々と言ってもいい。人の上に立つべくして立ったような目の前の男と、幼い皇子の姿がどうしても重ならなかった。
「………ユルン殿下、でございますか……?」
たどたどしく尋ねたラヴィの言葉に、ユルングルと呼ばれた男がわずかに不快そうに眉根を寄せる。その姿がなおさら幼い皇子と遠く、だがその黒々とした髪色が弱々しかった皇子を彷彿させた。
「…ユルン殿下なのですか……?…あの……?」
「十九年も経てば、性格ぐらい変わるだろう。ましてやあの頃はまだ五歳だ。いくらでも変わりようはある」
あからさまに不快を露にして、ユルングルは吐き捨てるように告げる。どうやら『あの』という言葉がことさら気分を害したらしい。
「……一体どういうことです…?ユルン殿下は薨逝されたはず…。畏れ多くも、私もご遺体を拝見させていただきましたが、あれは間違いなくユルン殿下でございました。そして間違いなく、お亡くなりになられていたのです。貴方がユルン殿下であるはずがない…!」
記憶を掘り起こすように、そうして確認するかのように、ラヴィはゆっくりと言葉を選ぶ。そうしているうちに、当時の記憶がより鮮明に脳裏に蘇った。
あれはまさしく、ユルンの遺体だ。似た者、ではない。あれが別人であればユルンに双子でもいない限り説明がつかないだろう。そして間違いなく死んでいたのだ。あの血の気の失せた土色は生きている者には到底出せる色ではないし、遺体を見た時の臓腑を鷲掴みにされたような、背筋がひやりとする感覚もまた、生きている人間には決して感じない感覚だ。
ならばやはり、ユルンだと偽ってダリウスを騙しているのだろうか。
そんなラヴィの疑心を知ってか知らずか、ユルングルは何かに思い至ったように、シスカに視線を向けた。
「ダスク、お前の仕業か」
ダスクと呼ばれたシスカは特に返事するでもなく、ただ肯定の意を含んだ笑みを一つこぼす。そのやり取りの意味を掴みかねて呆然とするラヴィに、ユルングルは軽く息を落とした後、口を開いた。
「その遺体にはオパールの装身具が付けられていただろう?首飾りでも腕輪でも何でもいい」
問われて鮮明に残る、棺の中で眠るユルンの姿を思い出す。綺麗に着飾ったユルンの右腕には確かに、オパールの放つ独特な七色の輝きがあった。
「…ああ、ええ……確かにオパールの腕輪を付けておられました。それが……?」
「あれはダスクの造った魔装具だ。任意の姿に変化できる。…お前も豪胆な奴だな。魔装具は高級品だぞ。それをたった一度限りで墓に入れられると判ってて使うか、普通」
一度ラヴィを視界に入れた後すぐにシスカに向き直って呆れたように告げるユルングルに、シスカはくすくすと笑みを返した。
「貴方のお命がかかっておりましたからね。確実に死んだと思わせる必要がございました。その為ならば魔装具の一つや二つ、惜しくなどございません」
シスカの言葉を受けて、ダリウスは頷く。
「…暗殺者から身を隠すために、やむなく亡くなったふりをしていただく必要がありました。あの棺に入っていたのは、背格好の似た身寄りのない子供の遺体です。ユルングル様ではありません」
シスカの言を補完するように、未だ茫然自失とするラヴィに向けてダリウスは穏やかに告げる。
「……では、この方は……」
「間違いなく、ユルン殿下_____いえ、ユルングル殿下です」
言われたが、ラヴィの中の釈然としないものは一向に解消されたわけではなかった。むしろ、なおいっそう深まったと言ってもいい。
仮にダリウスの弟が生きていたとして、だから何だというのだろうか。反乱軍にいる理由にも、ユーリシアの命を狙う理由にも、決してなり得ない。何より実兄であるダリウスがなぜ、弟であるユルングルに傅かなければならないのかも説明がつかなかった。
「……私には判りません。ユルン殿下が、…いえ、ユルングル殿下が生きていらしたとして、なにゆえ反乱軍に身を投じていらっしゃるのです?ユルングル様のお命を狙っているのが、よもや皇族だとでもおっしゃるのですか?」
その問いに、ダリウスは答えない。その押し黙った様子が肯定を意味しているように思えて、ラヴィは背筋にひやりとした感触が走ったのを感じた。
「……まさか……そんなはず…一体どなたが……。いえ…それとユーリシア殿下のお命を狙う事とは、また別でしょう…。あの方はユルングル殿下の存在すらご存じではない」
「…そうだな」
この話題がことさら不快だと言わんばかりに、ユルングルは眉根を寄せて相槌を打つ。
「……では、なにゆえ反乱軍に入ってまでユーリシア殿下のお命を狙われるのです?ユーリシア殿下には何一つ落ち度はございません。あの方は清廉潔白です。人に恨まれるような事など____」
「そんなに知りたいなら教えてやる」
ラヴィの言葉を遮るように、ぴしゃりと言い放ったユルングルの態度は変わらず不遜だ。ただ一つ違ったのは、その顔に溢れんばかりの怒気を滲ませていた事だった。
「俺が皇太子の命を狙うのは、ただの私怨だ。俺が得られるはずだったものを、あの男が全て奪った。それは俺が低魔力者で、あいつが高魔力者だったからだ。だから奪い返してやろうと思った。…当然の権利だろう?」
「…当然の……権利…っ!?」
ユルングルの言葉を聞きながら、ラヴィは知らず知らずのうちに拳を固く握った。あまりに自分勝手な言い分に、顔が紅潮していく。何より少しも悪びれない不遜な態度が、ことさら腹立たしい。それがラヴィの嫌悪感をよりいっそう刺激した。
「ユルングル様…っ!そのような言い方は…っ!」
「何も間違ってなどいない。お前にはすべて話したはずだぞ、ダリウス」
「それは……そうですが…それではあまりにも………」
「…ふざけるな………っ!!!!」
喉の奥から無理やり絞り出したような低い声で、ラヴィは叫ぶ。その表情には明らかに怒気が含まれていたし、相手が皇族だからとそれを隠すつもりもないようだった。
その怒りの対象は、他ならぬユルングルだろう。
「そんなくだらない感情の為に、ユーリシア殿下のお命を狙っていたのですか!?あの方がっ!何の苦労もなく皇太子の座にいたとでも思っているのですか!あの方は幼い頃から、皇太子であろうと努力し続けていらっしゃいました!決して弱音を吐かず、苦労も見せず、ひたすら前を向いて頑張っていらっしゃったのです!何も知らない貴方が、軽い気持ちで愚弄していい相手ではない…っ!」
憤怒するラヴィを、ユルングルはただ見つめる。その表情に一切の動揺も怒りもない。ただ、静観しているだけだった。
その様子がことさら忌々しい。反論されても腹立たしいが、何一つ感情を揺れ動かさないのも、まるで取るに足らない事と言われているようで、なおさら癪に障った。
「…貴方は、そのような事の為に実の兄を無理やり修羅の道に引きずり込んだのですか!ダリウス殿下の優しさに付け込んで、侍従のように扱って、何も言わない事をこれ幸いと兄弟の情を利用したのではないのですか!どれだけ自分勝手に振舞えば満足するのです!貴方の我儘にどれだけ_____」
「ラヴィっ!!!!」
穏やかなはずのダリウスの怒号に、ラヴィのみならず罵倒されていたユルングルやシスカまでもが驚き一瞬、身を竦ませる。その顔には明らかな不快さを表わしてはいたが、一呼吸おいてその感情を落ち着かせるように、ダリウスは軽く息を吐いた。
「…ラヴィ、これ以上のユルングル様に対する暴言は許しません。我が主を、侮辱しないでください」
いつもの落ち着き払った抑揚のない声で諭すように告げると、今度はちらりと視界の端でユルングルの姿を捉える。
「…ユルングル様も、ラヴィを挑発するのはおやめください。……それから、ご自分を卑下なさるのも」
言われたユルングルは、バツが悪そうにダリウスから視線を外す。その姿を見届けて小さくため息を落とすと、再びラヴィに向き直った。
「ラヴィ。私は強制されてユルングル様にお仕えしているわけではありません。ましてや私の意に添わぬ事を無理強いなさった事など、ただの一度もない。ユルングル様にお仕えしているのは私の意志です。ユルングル様がお生まれになったあの日に、生涯お仕えすると、小さな手に誓ったのです。…お願いですから、私の意を汲んでください、ラヴィ」
抑揚のない声なのに、ひどく穏やかに聞こえるのは何故だろうか。これほど穏やかに、そして懇願するように言われては、否とは言えない。
返答に困って口を噤むラヴィを視界に入れて、先に動いたのはユルングルだった。
「もういい」
言いながら踵を返す。その表情を窺い知ることはできなかった。
「もういい、ダリウス。話は終わりだ。ラヴィは捕虜として遁甲内にいてもらう。皇太子にいらぬ情報を渡されても困るからな。遁甲の中は自由に歩き回っても構わないが、ここの連中に少しでも危害を加えたら容赦はしない。…ラヴィの面倒はお前が見ろ、ダリウス。遠縁とは言え親戚は親戚だ。お前が責任を持て」
「…ご配慮、感謝いたします」
頭を垂れるダリウスに一瞥をくれる事もなく、ユルングルはそのまま歩みを進める。その姿が、何故だか妙に寂寥感を彷彿させた。
ラヴィは一切の動揺も窺えないユルングルの顔を思い出す。あれは湧き出る感情を悟られまいと、必死に抑えている表情ではなかっただろうか。
立ち去るユルングルの背中を視界に入れながら、ラヴィはまるで失言してしまったような罪悪感に、頭をもたげて仕方がなかった。




