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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第五部 ユルングル編

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遁甲の向こう側

「…一体何しに来たんだ?」


 ユーリシアは辟易しながら、ため息交じりにそう言葉を落とした。

 言った相手は、不遜な態度の黒髪の男と仏頂面の金髪の男。


 キリの店に行くと、まるで待ち構えたような二人の姿を店内で見止めて、そのまま意味もなく居続けるので、ユーリシアは内心気が気ではなかった。

 『リュシテア』の中心人物であろう二人が、まるで見定めるようにずっとこちらを窺っているのだ。居心地が悪い事この上ない。

 そんな状況に耐えかねて、たまらずそう問いかけたのだった。


「…来いと言ったのに、お前がいつまで経っても来ないからだろう」


 なぜか呆れたように、そしてことさら不愉快そうに黒髪の男、ユルンは告げる。なぜそんな顔をされないといけないのだ、と何やら釈然としないものを感じながらユーリシアは不承不承と言葉を続けた。


「まだ二日しか経ってないじゃないか。…だいいち体調が悪いんじゃなかったのか?」

「もう治った」

「まだ治っておりません」


 すかさず金髪の男、ダリウスが言葉を挟む。


「…どうしてお前が茶々を入れるんだ」

「貴方が無茶をなさるからです。何度休めと申し上げても聞いてはくださらないでしょう。少しはご自分の体調を自覚なさってください」

「だからこうやってお前も連れてきたんだろうが。小言を言うな」

「お倒れになる事を前提で、私を連れてきたのですか?」

「そうじゃない!いちいち言葉尻を捕らえるな!」


 どうやらダリウスの方はここに来る事にあまり乗り気ではなかったらしい。それはここに来ること自体を否定しているわけではなく、ユルンの体調をおもんばかっての事だろう。


  ユーリシアの存在もそっちのけで二人仲良く言い合う声を聞くともなく聞きながら、ユーリシアはユルンの髪に視線を向けた。


(…ミルリミナよりも少し明るいくらいか…)


 これほど黒い髪色ならば、おそらく有する魔力はたかが知れているだろう。無魔力者のミルリミナがそうだったように、こうやって起きて動く時間よりもベッドに横たわっている時間の方が多いかもしれない。それを思うと『リュシテア』の首領という立場も忘れて、憐れむ気持ちが出るのは何故だろうか。

  それはユーリの兄と判ったからかもしれなかったし、あるいは最愛の母の面影を持つからかもしれない、とユーリシアは忌々しげに息を落とした。


「あの二人はいつもああなんだよ。仲がいいだろう?」


 ため息を落とすユーリシアを、困惑している、と判断したのだろう。いつの間にかキリが後ろに立って、そう声をかけてきた。


 今は安堵したように笑ってはいるが、当初ユルンとダリウスが店内でユーリシアを待っていた時は、ひどく狼狽している様子だった。平静を装ってはいたが、ユーリシアが店の扉を開けた時のキリの顔は、顔面蒼白だったと認識している。


 だが一向に争う気配がない事に、次第に落ち着きを取り戻していったのだろう。今ではいつものキリに戻っている事に、ユーリシアは安堵した。

 敵地で皇太子である自分を匿うのは、常に緊張を強いる事だ。自分の所為で心労が絶えないだろう、とユーリシアはわずかばかりキリに申し訳ない気持ちになった。


「…あの二人はどういう関係なのです?」

「…さあねえ。実際のところどういう関係なのかは判らんが、ダリウスは侍従だと言い張って、ユルンは___」

「家族だ。侍従じゃない」

「って、言っているよ。いつも」


 その割に不遜な態度だな、と内心思いつつも、あえて言及は避けた。


「…ずいぶん似ていない家族だな。血縁はないのか?」

縁戚えんせき関係にはある」


 ならユーリとも血縁があるのか、と心中でひとりごちる。

 この男が母とも縁戚関係にあるとすれば、必然的にユーリやダリウスも自分と血縁があるという事だろう。


 だがその事実はない。その可能性は確実に否定された。なのに、なぜか胸に引っかかるものがあった。終わった話のはずなのに、頭は吟味する必要がない事をひたすら思い出させるかのように、ユルンの顔を見るたび肖像画の母を彷彿とさせる。

 そのたびにユーリシアは何故だか認めたくはない事実を突きつけられているような気になって、ひどく陰鬱な気分になるのだ。


「…そんなに俺の顔は誰かに似ているのか?」


 ユルンの言葉に、ユーリシアは驚きのあまり体を小さく震わせて我に返る。無意識のうちにユルンの顔を凝視していたのだろう。

 もう何度目かになるユーリシアの視線を受けて、ユルンは辟易したようにため息を落とした。


「…いい加減、俺の顔を見るのはやめろ。落ち着かないだろう」

「あ…すまない」


 ユーリシアは慌てて視線を背ける。


「…ユーリも俺と似た顔をしているだろう。なのになぜ俺ばかり見る?」

「………え?」


 問われて初めてユーリシアは自覚して、目を丸くする。


 確かに何故だろうか。ユーリとユルンが並び立った時、よく似ていると思った。なのにユーリと相対あいたいした時には感じなかった母への懐古の念が、なぜだかユルンにだけ沸き起こるのだ。その理由が、ユーリシアには全く見当がつかなかった。


「…それとも、俺がいないときはユーリの事もそうやって見ていたのか?」

「…いや、ユーリを似ていると思った事はない。確かに何故だろう………」

「……は?…自分の事なのに判らないのか?」

「……判らない…」


 困惑したように呟くユーリシアを視界に入れて、ユルンは呆れたように再び息を落とした。


「…その似ているという相手は、よほど憎い相手なのか?」


 ユーリには似ていると感じなくて自分にだけそう感じるのであれば、つまりはそういう事なのだろう、と自分たちの関係性を加味した上でユルンは告げる。彼の性格上、揶揄も含んでいる気がして、ユーリシアは素直に答えるのがひどく躊躇われた。


「…誰に似ていても貴方には関係ないだろう」


 突き放すように告げながら、ユーリシアは子供のような自分の対応に内心呆れ返っていた。


 自分は多分、悋気を起こしているのだ。

 子供の頃から肖像画の母と似ていない自分に落胆していた。その母に似ている人物がよりにもよって『リュシテア』の首領で、そのうえ本人に、母に似ている、などと死んでも口にしたくはなかったのだ。


(……我ながら馬鹿げているな…)


 心中で自嘲しながらユルンの腹立たしげな返答を待っていたが、返ってきたのは想像とずいぶん違った台詞だった。


「…そうか。余計な詮索をして悪かったな」


 その言葉に揶揄が一切含まれていない事に、ユーリシアは瞬く。


 ユーリシアの心情に配慮したユルンの対応が、子供じみた自分の態度をなおさら強調しているようで、いたたまれない。

 一人で勝手に悋気を起こして忌々しく突き放した自分を恥じ入るように、ユーリシアはユルンから顔を背けた。


「…体調がまだ優れないんだろう。ダリウスさんも心配しているようだし、もう帰ったらどうだ?」


 バツが悪そうな自分をごまかすように、ユーリシアは告げる。


「…お前はもう来られるのか?」

「……?…一体何の話だ?」

「言っただろう。お前がなかなか来ないから来た、と」


 ユルンの言葉に、ユーリシアは再び目を瞬いた。


「まさか……俺を待っていたのか?」

「何のためにここに居続けていると思っていたんだ」

「…てっきり監視しているのかと……」


 あながち間違いではない、と内心思いつつも、ユルンは目に見えて狼狽するユーリシアを一瞥して、大仰にため息を落とす。


「それほど暇じゃない。…キリ、悪いがこいつを借りるぞ」

「あ、ああ…構わんが……」

「え…ちょっと……っ!」


 ユーリシアの返答を待たず、ユルンは半ば無理やりユーリシアの腕を掴んで店を出る。おそらくこのまま遁甲のところまで連れていかれるのだろう。そして、遁甲を抜けた先にある彼の隠れ家まで連れていかれるのだ。

 それだけはどうしても避けなければならなかった。


 ユーリシアはまだ、遁甲を抜けられない。

 せっかく皇太子という事が暴かれる事なくレオリアとして潜入しているのに、遁甲を抜けられない事実を彼らが知れば、全ては水泡に帰してしまう。ミルリミナに会う算段が未だ付いていない今、その事態だけはどうしても避けたかった。


「待ってくれ…っ!俺は別に礼も詫びもいらない…!」

「それは俺の気が済まない」


 ユーリシアを視界に入れる事なく、ユルンは告げる。


「なら別の日でも構わないだろう!何も体調が悪い時でなくとも…!」

「だからだ。俺はまたいつ倒れるか判らない。動ける時が少ないんだ」


 無理やりユルンの手を振り解こうと動いた手が止まる。

 風でたなびくユルンの長い黒髪がユーリシアの視界に入った。その姿が、否応なく病弱だったミルリミナの姿と重なる。


(……この言い方は卑怯だ…)


 病弱な者を相手に力づくで何かをしようと思えるほど、自分は傲慢にはなれない。


 自分よりも背は高いはずなのに、視界に入った腕を掴むユルンの手は自分のそれよりも細く骨ばっているように見えた。その手が、その腕が、ユルンの虚弱な体を物語っているようで、ひどく痛々しい。視界に入るユルンの存在そのものが儚く弱々しいものに思えて、ユーリシアは強く拒否する事ができなくなった。


 押し黙ったユーリシアを視界の端に捉えて、ユルンは遁甲の前で一度足を止めた。


「…こっちだ」


 なぜか腕を離さないまま、ユルンは再び歩みを進めて遁甲に近づく。


 ユーリシアはされるがままになっていた。それは諦めからではない。ただ、抗えなかったのだ。ユルンに対する憐憫の情が、抗う気持ちを奪っていった。この時のユーリシアにはおそらく、遁甲を渡れるかどうかなどという不安は念頭にすらなかっただろう。


 なのになぜ、腕を離さないのだろうか。

 ユーリシアは何とはなしに思う。今はもう嫌がってはいない。素直について行っているはずなのに、一向に腕を離すつもりがないユルンに、ひどく違和感を覚えた。


「…ついたぞ、ここだ」


 言ってようやく腕を離したユルンを、ユーリシアは我に返って言葉の意が掴めず呆然と見返す。


「どうした?まるで夢でも見ているような顔だな」


 呆けたようなユーリシアの表情に、ユルンはいつもの意地の悪そうな笑みを落とした。そんなユルンの向こう側に見える景色は、何度も遁甲を渡ろうと挑んだ時のそれとは、明らかに違っていた。

 森を抜けた先にある石壁で造られた無機質な建物と、さらにその奥にかすかに見える工房らしきいくつもの建物。


 おそらくここは、願っても叶わなかった場所だろう。

 ユーリシアは思わず後ろを振り返った。そこにあるのは、忌々しく感じたあの森だ。


(……遁甲を、渡ったのか……?)


 それは自覚できないほど、あまりにあっさりとユーリシアの通行を許した。渡った記憶も感覚もない。だが確実に遁甲の中に自分はいる。ユルンの言葉ではないが、自分はまさに白昼夢でも見ているのではないかと疑いたくなるほどだった。


「レオリア。いつまでも呆けていないで行くぞ」

「あ…ああ」


 未だに整理はつかないが、とりあえずユルンの後を追う。


 なぜ遁甲を渡れたのかは判らない。判らないが、今はどうでもいい事だ。どうやって渡れたかは後で考えればいい。今はそんな事を悩むよりも、やらなければならない事がある。


 ここには、ずっと探していたミルリミナがいるのだ。当然、大っぴらに探す事は無理だろう。この二人がそこまでの勝手を許すとは思えない。だが、ある程度の地理を覚える事はできる。そしてミルリミナがいるであろう場所の当たりを付ける事も。


 気がはやるが、じっくり事を進めなければならない。事を急いて警戒心を抱かれては困るのだ。ユーリシアはこの機会を逃さぬよう、視界と記憶にあらゆる情報を留めようと努める事にした。


「どうぞ」


 通された一室で、ダリウスは淹れた紅茶をユーリシアの前に差し出す。


 連れて行かれたのは石壁で造られた建物の四階にある、応接室らしき一室だった。建物自体はあちらこちらにひび割れや損傷などが無数にあるが、この一室に限ってはソファや卓などそれなりにいい調度品で彩られていた。おそらくはあの工房で造られた物だろう。


 あの工房の調度品は貴族の中でも愛用する者が多いと聞く。ユーリシア自身初めてその品を見たわけだが、愛用者が多い理由も頷けた。


(…悪くない。質もいいし丁寧に造り込まれている。何より品は保ちつつあまり華美になり過ぎない意匠が好ましいな…)


 何とはなしに思いながら、ユーリシアは差し出された紅茶に口をつける。


「…!美味しい……」

「だ、そうだ」

「恐れ入ります」


 後ろに控えていたダリウスが軽く頭を垂れる。その姿はまさに侍従そのものだと、ユーリシアは思う。


 思えばユルンの家族だという三人の関係性は、あまりに異様だ。家族だと言いつつ、かたや侍従のように振る舞い、かたや兄の事を『ユルンさん』と、妙に他人行儀な呼び方をする。その在り方が、違和感を通り越してひどく不思議なもののように映った。


「…ユルンはここに住んでいるのか?」


 とりあえず話題を、と当たり障りのない質問をしたつもりだったが、問われたユルンのみならずダリウスもわずかばかり驚いたような顔をこちらに向けていた。


「…何か、気に障る事でも言ったか?」

「…いや、別に好きに呼んでくれて構わない」

「……?」


 一体何の話かと小首を傾げているユーリシアを見取って、ダリウスが口を挟む。


「レオリア様。ユルングル様です。『ユルン』は愛称です」


 ユーリシアは目を瞬く。自分は会って間もない男を愛称で呼んだのか、と気恥ずかしさでいたたまれない。


「すまない…みんなユルンと呼ぶものだからてっきり……」

「構わない、好きに呼べ。ユルングルは呼びづらいから誰彼構わず愛称で呼ぶんだ。今更一人増えたところで問題はない」


 言ってユルン、いや、ユルングルもバツの悪そうな顔で軽く息を吐く。

 確かに呼びづらいな、と内心でユーリシアも同意した。


「では、ユルン、と…」


 それには、ああ、と短く返す。

 ユーリシアは仕切り直しに、再び同じ質問をユルングルに尋ねた。


「…ユルンはここに住んでいるのか?」

「ああ、ダリウスもユーリもだ」

「…ユーリは今日は?」

「工房に行ってる。会いたいなら呼んでくるぞ」


 工房に行こう、とならないあたり、自分を連れ回す気はないらしい。


「…いや、そこまでしなくても構わない。いつでも会えるだろう」


 言いながら紅茶を口に含み、言葉を続ける。


「…他に住んでいる者はいないのか?一階がずいぶん騒がしかったが…」

「ああ、あれは診療所だ。最近できた。おかげで誰でもここに入れるようになって、正直騒がしくて落ち着かない」


 辟易したようにユルングルは嘆息する。


「その診療所の主も、ここに住んでる。ダスクという元神官だ」


 ダスク、と怪訝そうに心中でその名を呟く。


(…シスカではないのか……?)


 それともシスカのここでの別称だろうか。


「…他は?」

「…ずいぶんとこの建物に興味があるようだな?」


 含みのあるようなユルングルの言に、ユーリシアはぎくりとする。あまりに質問攻めにしたせいで勘ぐられたのだろうか。何かいい言い訳を、と内心狼狽したが、意外にもあっさりとユルングルは警戒心を解いた。


「まあ、別に誰が住んでいるか知られても、特に問題はないがな。ここに住んでるのはそれだけだ」


 嘘はないように見える。ならばミルリミナは別の場所にいるのだろうか。

 警戒した様子のないユルングルに、ユーリシアは内心安堵したように胸を撫で下ろした。


「他に聞きたい事は?」

「…別に質問攻めにしたいわけじゃない」


 これ以上はさすがに不審だろう。気が急いて警戒心を抱かれても困るので、ユーリシアは一旦、質問をやめる事にした。何より、揶揄を含んだこの笑みが腹立たしい。


 そんなユーリシアを弄ぶかのようにくつくつと笑いながら、ユルングルは紅茶に口をつける。その瞬間、ユルングルは口に含んだ紅茶を吐き出すように、突然激しく咳込み始めた。


「ユルングル様!?」

「ユルン…っ!」

「…ゲホッ、ゴホッ…!……ダリウス、お前…薬を入れたな……?」


 慌てて駆け寄るダリウスをめつけるように、口元に手を当てながらユルングルはわずかに枯れた声で告げた。


「………薬?」


 鸚鵡返しするユーリシアを尻目に、ダリウスは肩を落としてため息を一つ落とした。


「…貴方はどうしてそんなに敏感なのですか。紅茶の味で薬の味などしないでしょうに…」

「する!しっかりとするぞ!」

「元々この鉄剤はほとんど味がしないように配合されています。気付かれるのはユルングル様くらいですよ」

「いいから勝手に薬を入れるな!最初の三日は我慢して飲んだんだ!約束は過ぎただろう!」

「貴方が素直に鉄剤をお飲みにならないからでしょう。いつまで経っても治りませんよ」

「鉄剤って…怪我でもしたのか?」


 蚊帳の外に放り出されていたユーリシアが、遠慮がちに声をかける。


 鉄剤は足りない血を補うための薬だ。こればかりは神官の治療ではどうにもならないので薬に頼らざるを得ない事を、ユーリシアは承知していた。


「…怪我じゃない。自己血輸血用の血を採取しただけだ」

「…自己血輸血…?」

「俺の血は『万有の血』だからな。この血は____」

「自分の血液以外は受け付けない…」


 ユルングルの言葉を遮って、ユーリシアは答える。


 この珍しい血液を、ユーリシアは知っていた。足りない血が薬ではないと補えない事も、この『万有の血』が自分の血液以外を受け付けない事も、知っているのは他ならぬ自分の母がその保有者だったからだ。


 そして、この『万有の血』が遺伝で受け継がれる事も______。


「…よく知っているな」


 言いながら、顔がみるみる青ざめていくユーリシアを怪訝そうに見つめる。


「…おい、どうした?顔色が悪いぞ?」

「……すまない。気分が優れないんだ…今日はもう失礼する」


 言って、ユーリシアは口元に手を当てながら、ふらふらと立ち上がる。ユルングルとダリウスはそんなユーリシアをとりあえず遁甲のところまで見送って、帰る姿を見届けた。


「…皇妃さまです」


 怪訝そうにユーリシアの背中を見送っていたユルングルに、ダリウスは小さく告げる。


「何の事だ…?」

「ユルングル様と重ねて見ていらっしゃったのは、皇妃さまの事でしょう。面差しがとてもよく似ていらっしゃいますので。…そして皇妃さまも『万有の血』の保有者でした」


 なるほど、とユルングルはひとりごちる。

 別に誰に似てようが、正直自分にとってはどうでもいい話だ。それで勝手にいろいろと推察して、ほんのわずかでもこちらに情を抱いてくれれば儲けものだろう。


 ユルングルにとってそれは、その程度の興味しかそそられないほどの些事だった。


「…それにしても貴方は策士ですね。ユーリシア殿下には貴方がよほど病弱で弱々しく映った事でしょう」


 ユーリシアが去っていった場所を視界に捉えながら、ダリウスは告げる。その言葉には、若干のたしなめる色が窺えた。


「同情心を煽るのがうまい、と言ってくれ。だいいち嘘は言っていない」


 そう、事実を述べただけだ。

 ただ、いつもは見えないように袖で隠している瘦せ細った腕があえて見えるよう、袖を軽くまくり上げただけだった。たったそれだけで、人は簡単に同情を寄せてくれる。特にユーリシアのように情に厚く、正義感の強い人間には効果覿面こうかてきめんだろう。


 普段なら人になど見せたくない虚弱な腕を自ら見せたのは、ユーリシアに遁甲の中で暴れられては困るからだ。あれほどの高魔力者で、今は婚約者を脇目も振らずに探している。そんな人物を遁甲の中に入れるには、保険が必要だった。


 その保険の為に、ユルングルは自らの醜く痩せ細った体を利用した。同情心を煽り、自分を庇護すべき対象であるとユーリシアに印象付けたのだ。


 弱者に対して強く出られない性格である事は、聞こえてくる皇太子の人物像からある程度推察できた。例え『リュシテア』の首領と思った相手でも、常に病と背中合わせの痩せ細った人間を、力づくでどうこうしようとは決して思わないだろう。


「…ですが、あまり同情心を煽り過ぎますと敵意が失せて遁甲を渡れるようになる可能性がございます。ほどほどになさってください」

「それは確かに困るな。気を付ける」


 言ったところで背後から、ユルングル様、と呼ぶ声に視線を移す。


「どうやら鼠が餌にかかったようですよ」

「…やはり皇太子の関係者だったか」


 ダスクの言葉に、ユルングルはにやりと不敵な笑みをこぼした。


 ダリウスをつけ狙う鼠は、意外にすばしっこく警戒心が強い。いつも遁甲の外までは尾いてくるが、その先は決して追ってはこなかったと、ダリウスから聞いていた。


 それは、そこに遁甲があると判っている者の行動だ。通常であれば遁甲がある事にすら気づかない。もっと言うならば、遁甲は渡れない、という先入観を持っている人間でしかあり得ない。鼠自身にはこちらに対して敵意を持ってはいないのだ。通れるはずなのに、通れない、と思い込んでいるのだろう。


 現時点で遁甲は渡れない、という情報を持っているのは皇太子のみだ。ユルングルがその存在を知らないだけで、全く別の人間である可能性もなくはないが、思い当たるのが皇太子しかいなかった。だからとりあえず、皇太子を餌にした。


 他ならぬ皇太子が半ば無理やり遁甲に連れて行かれる姿を見れば、嫌が応にも遁甲を渡ってくるだろう。そして実際、渡ってきた。それが罠だとは気づかずに。


 今頃は遁甲から出られず右往左往している事だろう。それを想像しながら、ユルングルは踵を返して嬉々として告げる。


「さあ、鼠の顔を拝みに行こうか」


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