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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第四部 リュシアの街編

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世界の名前

 彼は、穏やかな人物だった。


 いつも柔らかい微笑を称え、全てを慈しみ、そして全ての罪をゆるした。

 動物たちと戯れ、植物を愛で、太陽の日差しが燦燦と降り注ぐ、そんな穏やかな日常を彼は好んだ。たとえ誰かに傷つけられようとも決して怒れる事はなく、ただただ赦し、受け入れ、そして愛した。それが彼にとっての幸福だった。


 そんな慈悲の象徴であるかのような彼を、彼女は愛した。彼の隣で聖女のような微笑を称え、彼と同じように慈しみを与えた。共に過ごす事に幸福を覚え、彼の為に存在する自分自身を誇りに思った。


 そんな彼女を、彼もまた同じように愛した。共に過ごす事に幸福を覚え、だが次第に自分の為に彼女が醜く歪み始めた事を、彼はひどく後悔した。


 彼女の恋慕の情は、あまりに強い。

 彼だけを愛し、彼だけを慈しみ、彼を傷つける全てのものを憎んだ。全てのものを赦す彼にとって、その行為がどれほど浅ましく残虐であるかも知らずに。

 他ならぬ彼女によって、彼の幸福な日常は奪われたのだ。


 彼は嘆き、彼女に訴えたが聞き入れてはもらえなかった。

 彼をただ守りたい彼女と、その想いを理解しながらも受け入れる事ができない彼は、互いに自分の想いを受け入れてはくれない苦しみから逃れるように、互いを遠ざけた。彼は己の愛すべきものを守るため二人の『獅子』を作り、彼女はそれに対抗するため人形を二体作った。


 そうして彼は、とりあえずの日常を取り戻した。動物たちと戯れ、植物を愛で、太陽の日差しが燦燦と降り注ぐ、そんな穏やかな、幸福な日常。


 だけれども、心は満たされなかった。言いようのない寂寞感せきばくかんと喪失感が彼を襲う。とても長い時を共に過ごした。彼にとって彼女はすでに、日常となっていた。


 かつて自分に向けてくれていた彼女の笑顔を思い出す。もうあの笑顔を見る事はできないだろう。

 彼の頬を涙がつたう。

 彼の元にはもう二度と、幸福な日常が訪れる事はなかった。


**


 ダスクは見慣れた一室で目を覚ました。


 まだ軽く頭痛が続いてはいるが、割れるほどの痛みはもうない。それでも寝起きの為かひどく呆然として、頭が妙に鈍麻していた。


 これは、夢を見ていた所為せいだろうか。

 どんな夢だったか、もう覚えてはいない。目を覚ました直後はわずかに記憶に留まってはいたが、覚えようとしなければ保てないほど、まるで霞のように淡く儚い夢だった。


 ただ、自分ではない誰かの夢だった事は覚えている。

 自分ではないはずなのに、その感情がまざまざと自分の中に入っていく、違和感のない、違和感。そんな不思議な感覚に捉われた所為か、夢と現実が渾然こんぜん一体となって、自分が誰だったかさえ判らなくなる、奇妙な浮遊感があった。


 ダスクはまるで自分の存在を確認するかのように、見慣れたはずの自室を目線だけで見渡してみる。医学書や医療道具が所狭しと散乱していたはずだが、今は整然と片付けられていた。おそらくダリウスが整理してくれたのだろう。中央教会の何もない無機質な自室とは違って、物で溢れかえったこの自室には愛着があった。


(……ここは存外、居心地がいい…)


 自分でも驚くほど、ここでの暮らしを気に入っている。

 特別な事があるわけではない。朝起きて食事を摂り、診療所で患者たちと他愛もない会話を交わして、時にはミルリミナやユルングル、ダリウスと共に過ごす。そんなごく普通の日常がダスクにとっては特別で、幸福な日常だった。


(殿下にも、こんな穏やかな日常があるはずだろうに……)


 彼が天寿を全うする事はない。あの欠陥品の魔力では難しいだろう。いつか彼の日常は、本人の意思とは関係のないところで驚くほど呆気なく終わるのだ。それを思うと何故だかひどく罪悪感に苛まれた。


「失礼いたします」


 聞きなれた声が聞こえて、ダスクは体を起こす。まだ気怠いが、気分は悪くない。


「ダスクさん、大丈夫ですか?」


 言って扉を開けたダリウスは、ダスクの顔を見るなり吃驚きっきょうして声を上げた。


「ダスクさん、どうしたのですか!?まだどこか痛みますか!?」


 何をそんなに驚いているのかと、茫然としていると、ダリウスは自覚していないダスクを察して言葉を続ける。


「なぜ、涙を流されているのです?」

「……え?」


 言われてダスクは自分の頬に手を当ててみる。頬を伝った一筋の涙に触れて、ダスクは目を瞬いた。そうして自覚したと同時に、とめどなく涙が溢れてきたのだ。


 この感情は、一体誰のものだろうか。少なくとも自分のものではない。なのに涙が止まらない。言いようのない寂寞感と喪失感で、胸が張り裂けそうだった。


「……ダスクさん、どうしたのですか…?」

「…判りません……。ただ、とても悲しい夢を見たのです……」


**


 中央教会の牢獄は、最奥にある礼拝堂の地下に存在していた。


 礼拝堂と言っても、ここで祈りを捧げる神官はいない。投獄されている罪人の罪をあがなう為だけに作られた礼拝堂だった。


 ラン=ディアは粥を乗せた盆を手に、礼拝堂の隅に追いやられた階段から地下に下りて牢獄へと向かう。あかり蝋燭ろうそくのみで昼間でも薄暗く、すすと埃で息苦しい。決して環境がいいとはお世辞でも言えないような場所に、彼は投獄されていた。


 階段を下りた先にある牢獄へと続く扉を、真鍮の鍵で開ける。シスカに渡した物とは別のものだ。

 ここに看守は存在せず、ただこの鍵だけを鍵司かぎしを兼任している神官が管理していた。この鍵は、全ての鍵の管理を担うその鍵司から正当な手続きを経て得た物だった。


 金属が軋む鈍い音が、静寂の中にこだまする。扉を開けた途端、むせ返るようなえた匂いに、ラン=ディアは思わず鼻口びこうを手で塞いだ。


(こんな所にもう十日もいるのか…)


 ウォクライの髪は淡緑色たんりょくしょくで比較的高魔力者の部類に入るが、食事も摂らずこれほど環境の悪い場所に閉じ込められれば、いくら高魔力者と言っても健康被害は免れないだろう。


 そもそもここの牢獄が使われる事は滅多にない。二十有余年にじゅうゆうよねん教会に在籍しているラン=ディアですら、ただの一度も使用された事実を知らない。神官や神殿騎士が過ちを起こす事自体が滅多にないので、ほとんど名目上とりあえず設置しているだけのお飾りに過ぎなかった。

 それゆえに、手入れや管理が杜撰ずさんなのだ。


長らく使われなかった牢獄はすっかり荒れ果て、煤や埃で空気は濁り、日が差さない地下特有の湿気であちこちにカビが跋扈ばっこする、清潔とは無縁の場所となっていた。


 ラン=ディアは左右に牢屋が連なる道を最奥まで進むと、牢中で目を閉じて力なく壁に身を預けている男を見つけた。その手と足には、鎖で繋がれた枷がつけられている。


「…食事を持ってきましたよ、ウォクライ卿」


 鉄格子越しに声をかけると、ウォクライはゆっくりと瞼を開いた。


「……ラン=ディア様が、ですか?」

「ええ、貴方の診察も兼ねて」

「ではご遠慮いたします。お引き取り願いたい」


 予想通りの返答に、ラン=ディアは小さく息を吐く。


 ラン=ディアとウォクライには、それほどの接点はない。ただシスカの護衛騎士としてよく傍に控えていた為わずかばかり見知った程度だったが、その少ない接触でもこの男が堅物な人物である事はすぐに見て取れた。


 ラン=ディアは牢につけられた魔道具の錠に手をかざし、魔力をわずかに流す。登録されている魔力に反応して施錠が解かれる特殊な錠だった。ガチャリと音を立てて開いた鉄格子をくぐって中に進むと、ラン=ディアはウォクライの前に膝をついた。


「ウォクライ卿、手を」

「必要ございません」

「手をお貸しください」


 今度は無言で返答する。その頑強なまでの意固地な態度に、ラン=ディアは内心辟易して大きくため息を落とした。


 これでは埒が明かない。正直この男を助ける義理は自分にはないが、シスカに明言した手前、放っておく事もできないのだ。ほとほと困り果てて、ラン=ディアは二度目のため息を落とした。


「…シスカの言う事ならば、素直に聞きますか?」

「……え?」

「私ではお嫌でしたら、シスカを連れてきましょう。その結果、貴方の代わりにシスカが投獄されるでしょうが、彼なら委細構わず駆け付けるでしょうね。…ああ、我ながら妙案だ」


 言って立ち上がろうとするラン=ディアの祭服をウォクライは慌てて掴んで、不承不承といった感じで手を差し出した。


「…どうぞ」

「…初めから素直に手を差し出せばいいのですよ」


 冷ややかに言い放って、ラン=ディアはウォクライの手を取り治療を始めた。ひどく弱った魔力に、己の魔力を入れて流れを促す。思ったほどひどい状態ではない事に、安堵しながらも感嘆を漏らした。


(…さすがは高魔力者か)


 ラン=ディアの髪色はうぐいす色と呼ばれる緑と茶色を混ぜたような色で、低魔力者に部類される。それゆえか、高魔力者の強靭な体力に畏敬の念を持つ反面、シスカも含めあまり自分の体を大事にしない高魔力者に、内心腹立たしくもあった。時折見せる冷ややかな態度は、この心情の表れだろう。


「…いつもそのように脅されているのですか?」

「人聞きが悪い。貴方のような強情な人間を従わせる時だけですよ。弱点を突くのが一番手っ取り早いですからね」

「…本気でシスカ様を連れてこられるおつもりだったでしょう」

「当たり前です。本気でなければ脅しにならない。…さあ、食事も摂ってください」

「…怖いお方だ。ご友人でさえ利用なさるとは」


 粥の入った器を手に取りながら、ウォクライはめつけるようにラン=ディアを見据える。

 この男の忠誠心は常にシスカと共にあった事を、ラン=ディアは承知していた。それゆえに、シスカに対する無遠慮なまでのラン=ディアの態度が気に入らないのだろう。以前から時折見せる敵意とも取れるこの視線を、ラン=ディアは承知しながらも軽く受け流していた事を思い出す。


 そんなウォクライを挑発するように、ラン=ディアは不敵な笑みを浮かべながら告げる。


「何か問題でも?」

「………っ!」

「実際のところシスカが投獄されたところで何も問題はないでしょう。シスカなら容易く抜け出せるでしょうし、彼の後ろには他ならぬ教皇様がついています。あえて弊害を上げるならば、せっかく殺したシスカの存在が生きていると知れて、多少動きが制限されるだけ。そんな事よりも、あの男にとっては貴方が傷つく方が何よりも苦痛と感じるでしょう。違いますか?」


 違わない、とウォクライは思う。


 それは身に染みて知っている。自分が隻眼になった理由が、まさにそこにあった。あの時ほど己の無力さを痛感した事はない。己に対する不甲斐なさと情けなさ、そしてシスカに対する忠誠心と償いは、あの日を境に生まれたのだ。


 押し黙ったまま、何に対する怒りか拳を強く握っているウォクライを見て取って、ラン=ディアは言葉を続ける。


「シスカの気性は貴方も嫌というほどご存じでしょうに、なにゆえ自ら進んで投獄されたのです?」

「……あの方は自ら計画なさった事で、誰かに害が及ぶ事をひどくいとわれます。あの一件の所為で罪もない騎士が罰せられたと聞けば、お心を痛めるでしょう」

「シスカから計画を?」

「いいえ、何も仰られてはおりません。ですが何かを画策しておいでだという事は、すぐに判りました」

「…あれは存外、隠し事が下手ですからね」


 呆れたように、ラン=ディアは軽く息を吐く。


「…貴方は先ほど、誰かに害が及ぶ事をひどく厭うと仰いましたが、貴方ご自身は数には含めないのですね」

「…私は、あの方に返すべき御恩と、償うべき罪がございますから」


 その言葉を聞いて、ラン=ディアの治療の手が止まる。


「…なるほど、だから自分はどうなっても構わないと?…貴方はどうやら、恩を仇で返すお方のようですね」


 そう告げるラン=ディアの声音は、恐ろしく低い。

 ウォクライを見据える鋭い視線には、怒気とも憎しみとも取れる感情が滲み出ていた。


「恩を仇で返したいのならお好きになさい。七日後、貴方を助けに来たシスカが貴方の亡骸を見た時、どんな顔をするのかさぞ見ものでしょうね」

「……!…シスカ様がここへ……っ!?なぜあの方に告げたのです!」

「教皇様も貴方の救済をお望みになられたからです。…ですが、貴方の命は貴方だけのものなのでしょう。でしたらお好きなようになさったらどうです?その命が誰に救われたものなのか、貴方はもう覚えておいでではないようですので」

「………っ!」


 ラン=ディアの中に、言いようのない怒りが込み上げてくる。


 もともと命を粗末にする者が何より嫌いだった。理不尽な死を迎えた遺体を、ラン=ディアは嫌というほど見てきた。彼らは皆、生きたいと願ってなお、それが叶わなかった者たちばかりだ。


 シスカのように己を犠牲にして他者を救おうとする行為にも嫌気がさしていたが、それよりもなお腹立たしいのは、己の命に何の価値を見いだす事もせず、『忠誠心』や『償い』などの言葉を着飾って命を差し出す事を美徳と勘違いしている行為だ。これほど愚かで、滑稽な事はないとラン=ディアは思う。


 何よりウォクライの命はかつてシスカが重傷を負いながらも救った命だ。あの時のシスカの無残な姿を思い出すと、今でもウォクライが憎らしい。

 そうやって救われた命を、ウォクライはあっさりと手放そうとしているのだ。これほど腹立たしい事はないだろう。


「正直、貴方がどこで死のうが私の知った事ではありません。死を願っている者を救いたいと思うほどお人よしではありませんし、そんな人間にかまけている時間があるのなら、一人でも多くの人を救いたいですからね。ですが、いい加減自覚されたらどうです?ご自分の命が何を犠牲に成り立っているのか」


 言って、ラン=ディアは立ち上がる。ウォクライは返す言葉もなく黙ったままだ。


「明日またこちらに伺います。診察を拒むのならどうぞ。私は以降こちらへは伺いません」


 そう言い放つラン=ディアの表情は、どこまでも冷たい。まるでウォクライの命など取るに足らないと言わんばかりに冷ややかだった。そうしてウォクライを一切視界に入れる事なく、告げる。


「貴方が死んだら私が埋葬いたしましょう。シスカには貴方が上手く逃げおおせたと伝えておきますよ」



 牢獄のある礼拝堂を出た足で、ラン=ディアは教皇の住まう宮へと向かう馬車に揺られていた。それはシスカとの連絡係として定期的な連絡を義務付けられていた事もあるが、何よりラン=ディア自身、教皇に問いただしたい事もあったからだった。


 いつもは教皇の執務室での報告だったが、このところ体調が思わしくないという事で教皇の自室での報告となった。年も年なだけに、目に見えて体のあちこちにガタが来ているのだ。最近はまず教皇の体を診察してから報告に入る事が多くなった。シスカがこの事を知れば、何をおいてでも中央教会に行くと言い張るだろう。


「失礼いたします、ラン=ディアです」


 教皇の自室の部屋を遠慮がちに叩いて声をかける。入りなさい、と答えたのは大司教筆頭だった。


「いつもすまないね、ラン=ディア」


 ベッドに座ったまま労をねぎらうその姿は、弱々しいながらも威厳は一切損なわれてはいない。ラン=ディアは左手を胸にあててこうべを垂れ、ひとまずの敬意を示した。


「それで?シスカはどうかね?」

「…はい、貴方の思惑通りウォクライ卿を助けるつもりのようです」

「ラン=ディア!口を慎め!」


 含みのあるラン=ディアの言に、脇に控えていた大司教筆頭が一喝する。教皇はそんな大司教筆頭を宥めるように、くつくつと笑みをこぼした。


「構わんよ。今日はとりわけ機嫌が悪いようだね?私に何か言いたい事でも?」


 何が言いたいのか、すでに察しているのだろう。その余裕がなおさら癪に障った。


「では僭越ながら申し上げます。教皇様はシスカが世界の意志の体現者だと知りながら、今まで利用なさっていたのですか?」


 ラン=ディアは半ば咎めるように告げながら、教皇の表情の一切を見逃さないように鋭い視線で視界に留める。何の事か判らず呆然としている大司教筆頭とは対照的に、教皇はただ笑みを称えたままラン=ディアを見返していた。その意が掴み切れず、なおさら不快になる。


「…ふむ、何故そう思う?」

「シスカが教会に来て間もない頃、貴方はシスカを『若獅子』と呼ぶ事がたびたびございました。ですが当時のシスカは遠慮がちで気が弱く、その外見も少女のようで決して『獅子』という言葉が似つかわしい存在ではなかった。にもかかわらず『若獅子』と呼んだという事は、最初から彼が『獅子』という名の、世界の意志の体現者であった事をご存じだったのでしょう」


 教皇の表情は依然変わらない。ラン=ディアは言葉を続けた。


「何より貴方は初めからシスカを寵用なさっておいででした。そして重要な案件は全てシスカに任せるようになった。それはシスカに与えられた『世界からの寵愛』を利用なさったからなのではありませんか?」


 その問いにわずかばかり教皇の表情が曇った事を、ラン=ディアは見逃さなかった。


 シスカは世界の意志を模して作られた存在だ。それは言い換えれば世界そのものと言ってもいい。だからこそ、世界から愛された存在だった。そう思える事象が、シスカの周りには多々あった事をラン=ディアは覚えている。


 大怪我を負っても他者に比べて治りが早く、そもそも怪我を負わないよう目に見えない何かに守られているような節さえあった。それは今まで高魔力者ゆえの幸運だと思っていたが、そうではない。世界が、シスカを守っているのだ。


 いつも自分が皇都に戻っているときに限ってシスカが怪我を負うのも『世界からの寵愛』ではないかと、ラン=ディアは思う。

 シスカは何かしら疑っているようだが、あれは紛れもなく偶然だ。何となく気が向いて皇都に帰ってみたら、シスカが大怪我を負っているのだ。そんな偶然がそう何度も起こるはずがない。自分もまた世界の意志によって、シスカを助けるよう知らず知らずのうちに動かされているのだろう。 


 教皇はそんなシスカの持つ『世界からの寵愛』を利用したのだ。全てを理解した今、教皇の言動を振り返ればそう思える事が多々あった。ウォクライが片目を失い、シスカもまた重傷を負ったあの一件も、その一つだろう。


 本来この世界の気候は比較的安定した状態にある。

 それは魔力を世界に充分行き渡らせる事によって自然災害が起こりにくい状態を作るからだ。


 だがそれでも時折、災害が起こる事は稀にあった。それはもちろん、教会がその勤めを果たさなかったからではない。起こるべくして起きた自然災害なのだが、普段が災害と無縁なだけに行き場のない怒りと悲しみを抱えた被災者たちが、その矛先を神官に向ける事もままある事だった。


 二十二年前のあの日も、そんな自然災害によって住民が暴徒と化し、教会を襲う事態にまで発展していた。


 それは皇都から東に百キロほど離れたアリアドネという街で起きた。

 アリアドネは三角州に作られた街でその両側を河川に挟まれ、それゆえに水害が起こりやすい地域だったが、起きても例年はわずかに河川が氾濫する程度で抑えられていた。だがこの年は、長らく続いた雨の所為で河川の水かさが増し、ついには堤防が決壊。その結果、多くの家屋と人が流された。

 家を失い、家族を失った被災者たちが教会を弾劾し、それでも怒りは収まらず、この地域を担う教会を襲ったのだ。


 その教会に赴任していた大司教と司教の二名が死亡。その事態を収拾するため教皇が選んだのは、まだ教会に在籍して二年も経たない当時19歳のシスカと年若い騎士ウォクライ、そしてわずか数名の神殿騎士のみだった。それは住民たちを刺激せぬよう、教会に敵意がない事を示す為であったが、ラン=ディアに言わせれば無謀もいいところだろう。


 神官二名を殺害しても興奮冷めやらぬ住民たちは、シスカ達を見咎めると有無を言わさず襲ったと聞く。いくら暴徒とはいえ民に剣を向けるわけにもいかず、防戦一方の中ウォクライが左目を負傷。それを見たシスカは、喧騒激しい中ひときわよく通る声を上げたという。


「鎮まりなさいっ!!!」


 まるで、つんざくように耳に残るその声に、暴徒たちは一瞬その手が止まり、騎士たちもまた普段の遠慮がちな態度とは違うシスカを唖然と見ていた。シスカはそんな彼らを尻目に暴徒たちの前に歩み寄ると、ひときわ通るその声で毅然と告げた。


「それほど怒りが抑えられぬというのなら私を好きなようにしなさい!私は教皇様の代理としてこちらに赴きました。教会に対して不満があるのなら、私が甘んじてお受けいたしましょう!ですがそれ以降の暴挙は許しません!私を最後に怒りを鎮めなさい!」


 それは人身御供になる決意を宣言したのだろうと、のちにウォクライが呟いた事を覚えている。

 無謀を止めようとするウォクライや騎士たちにただ笑顔を向けて、シスカは暴徒の中に自ら入り、宣言した通り彼らの暴行を甘んじて受けたのだ。


 彼らの怒りが収まったのは、それから幾らか経った頃。どれほど傷つけられてもただ前を見据えて立ちすくみ、その瞳の輝きが失われないシスカの様子に次第に暴徒たちの手が止まったそうだ。

 全身血にまみれ白い祭服が赤に染まった頃、落ち着きを取り戻した住民たちに、シスカは笑顔を向けて穏やかに告げた。


「……気が済みましたか?」


 怒りも恨みもないその様子に、暴徒は一気に沈静化したという。あげくその状態で怪我をした住民たちの治療に当たっていたのだから、彼らには神そのものに映った事だろう。ラン=ディアが暴徒鎮圧にシスカが任命されたと聞かされ、急いで馬を走らせてアリアドネに着いたのは、ちょうどそんな時だった。


 ラン=ディアの姿を見つけるとまるで安堵したように意識を失い、十日もの間、昏睡状態に陥った。右腕と左足を骨折、肋骨も四本折られそのうちの二本が内臓を傷つけていた。とりわけ頭部の損傷が激しく、例え高魔力者であっても生きている事が不思議なほど、その有様はあまりに無残だった。おそらくシスカでなければ、間違いなく命を落としていただろう。


 この時もやはり『世界からの寵愛』で命を取り留めたのだと、今になってラン=ディアは思う。だからこそ目覚めて以降、後遺症で二年半ほど視力を失ってはいたが、怪我の治り自体は驚くほど早かった。


 任命されたのがシスカでなければ、さらに多くの犠牲者が出ていたであろう事はラン=ディアにも理解できる。だからこそ教皇はあえてシスカを向かわせたのだ。

 それは理解できるが、あの時の無残のシスカを思い出すと教皇の無慈悲な選択が何より腹立たしく思うのだ。それは無条件に教皇を慕うシスカの心を利用しているようで、堪らなく不快だった。


 そんなラン=ディアの心情を察したのだろう。教皇は肩を落とし、小さく息を落とした。


「…お前さんは相変わらず聡明な男だね。そこまで判っているとは…」


 その弱々しい姿にわずかばかりの罪悪感が見て取れて、ラン=ディアはようやく我に返る。

 自分が今まさに我を失っていた事に、ようやく気付いたのだ。


「そうだね…私はあの子を利用したのだろう。あの暴徒の一件もそうだ。私はあの子と数人の命を天秤にかけて、後者を取ったのだ。あの子には酷い事をした…」


 それが当然の選択なのだろうと、ラン=ディアは今更ながらに気付く。人の上に立つ以上、私情を挟むわけにはいかない。より多くの命を救えるのであれば、たとえ大切な人間を天秤にかけても他者を選ばざるを得ない時は往々にしてあるのだ。


 ラン=ディアは感情的になった自分を恥じ入るように、こうべを垂れた。


「無礼を申し上げました、謝罪いたします。決して教皇様を弾劾するつもりはなかったのです。ただ事実を確認したかったまでのこと。叱責は甘んじてお受けいたします」


 これほど感情的になったのは、ウォクライと面会したからだろう。シスカが救った命をあっさりと捨てようとするウォクライに腹を立て、あの時の無残のシスカの姿を思い出して当時の感情が呼び起こされたのだ。

 あの一件の時もシスカを任命した教皇に詰め寄った事を、今更ながらに愚かだったとラン=ディアは自嘲する。


 教皇は頭を上げるように促すと、意に介さぬように笑ってみせた。


「構わんよ。あの子を想っての事だ。シスカは良い友を持ったようだね」

「…教皇様。最後に一つお聞かせください。彼に『シスカ』という神官名をお与えになられたのは、神語しんごで『世界』を表わすからでございますか?」


 問われた教皇は目を瞬く。そして声を上げて笑い出した。


「…本当に聡明な男だな、お前さんは。神語を読み解いたのか。…残念ながら私に神語は判らぬよ。私はただ、世界の意志に名がある事を知っていただけのこと」

「世界の意志に名が……?」


 教皇は頷く。


「そして『シスカ』という名にはもう一つ意味がある。…『夜明け』___夕暮れを意味するダスクにちなんで命名した。夜の嫌いなあの子にはうってつけの名だろう?」


 たとえ夜が来ても必ず朝が訪れるように、心が闇に閉ざされても必ず光が差す事を祈ってつけた名だった。


「…ラン=ディアよ。お前は心が強い。シスカは心が弱いが、お前さんから強さを学んでいるようだ。…どうか、シスカをよろしく頼む」


 言って深々とこうべを垂れる教皇に、ラン=ディアは目を丸くした。自分が今まで、どれほど教皇を誤解していたのかがまざまざと突き付けられたようで、いたたまれなくなる。

 ラン=ディアは愚かな自分を吐き出すように息を吐くと、教皇の手を取った。


「顔をお上げ下さい、教皇様。さあ、診察をいたしましょう」

「今日はもう、診察はしてくれないものだと思ったよ」


 言って屈託のない笑顔をラン=ディアに向ける。その顔はもう教皇ではなく、ただ子を想う老人の顔になっていた。

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