異質な魔力
「ちょっと!聞いてるの?レオリア!」
ベッドに座って空を眺めたまま動かないユーリシアに、モニタは声を上げる。
昨日、夕刻に戻ってきてからのユーリシアの様子がどうもおかしい。悄然とうなだれて夕食もそこそこに部屋にこもってしまった。朝になってからもずっとうわの空で、珍しくキリの店にも行かないユーリシアを怪訝に思って部屋を訪ねてみたが、何を言っても耳に入っていないようで、ひどく無気力なように見えた。
「あ、ああ…。すまない……」
「…調子でも悪いの?医者に診てもらうなら呼ぶわよ?」
返答もひどく弱々しい。その姿にモニタは小さく息を落として、心配そうに様子を窺った。
「…いや、その必要はない。気を遣わせてしまったようだな、申し訳ない」
そう言って苦笑するが、目線は下げたままモニタを見ようともしない。今度は大きなため息をついて、モニタは腕を組んだ。
「…ユーリと何かあったの?」
「…ユーリ?」
体調が悪いわけではないのなら、思い当たる事はユーリしかない。あの子と何かあって落ち込んでいるのだろうと推察してみたが、帰ってきた答えは予想に反し唖然として鸚鵡返しで応えてきた。
「…違うの?」
「彼と何かあったわけじゃない。ただ…」
少しの間、言い淀む。どう伝えたらいいのか、思案しているようにモニタには見えた。
「…以前貴女は、私には工房は行けない、と断言していたな。…その通りだったようだ。ユーリから遁甲を渡る方法を聞いたのに、私ではどうやら遁甲を渡れないらしい」
「ユーリから聞いたの…!?」
「彼を責めないでくれ。私が強引に聞き出したのだ」
驚きのあまり声を荒げるモニタを宥めるように、ユーリシアはすかさずユーリを庇う。その懇願するような眼差しにモニタは一瞬狼狽し、ややあって小さく息を吐いた。
(ミルったら……。まぁ、こんな顔して迫られたら、誰だって口を割るわよね。ミルなら、なおさらだわ)
「…責めるつもりはないわよ。あの子は優しいもの。その優しさに、あなたはつけこんだんでしょ?」
「……手厳しいな」
「本当の事じゃない。___で?そうやって情報を手に入れたのに、結局無理だと判ったらすぐに諦めるんだ。なっさけないっ!それでも皇太子なの?っていうか男なの?そんなにあっさり諦めるなら、ミルの事なんて最初っから追いかけなければいいのよ!」
ひどく落ち込んだユーリシアの心に、あまりに容赦のない言葉の応酬が突き刺さる。図星を突かれたのでユーリシアは何一つ言い返す事ができず、だた閉口して耐え忍んでいたが、ふと気になる言葉を聞いた気がした。
「………ミル?」
妙に親しみの込めた呼び方に、違和感を覚える。
いや、そもそもミルリミナの名前を出してはいない。自分は『漆黒の髪の少女』と伝えたはずだ。
確かに皇太子の婚約者が漆黒の髪の少女だという事は周知の事実だ。『漆黒の髪の少女』と皇太子であるユーリシアが告げれば、誰でも婚約者の事だろうと推察できる。だがその名は未だ市井には発表されていない。本来、婚姻の儀で名を呼ばれるはずだったが、その前にミルリミナは凶弾ならぬ凶矢に倒れた。
なので市井ではもっぱらミルリミナの事を『聖女様』もしくは『ウォーレン公爵の公女様』と呼んでいる。
なのに、なぜモニタがその名を、それもずいぶん親しみの込めた呼び方で呼ぶのだろうか。
「……ミルリミナを、知っているのか?」
茫然自失と尋ねるユーリシアに、モニタの強い眼差しが返答する。
「ええ、知っているわ」
モニタに隠す意志は、もうない。決して怒りに任せて口を滑らせたわけではなかった。わざわざ名前を出したのは、ユーリシアを鼓舞するためだ。
たかが遁甲を通れないというだけで、あっさりと諦めさせるわけにはいかなかった。ミルリミナがどれほどユーリシアを想っているのか、傍目で見ていても良く判る。そのミルリミナの想いを簡単に裏切られては困るのだ。
「あの遁甲を抜けた先に、ミルがいるのよ。それでも諦めるつもり?」
「……だが、その遁甲を渡る術が……」
「だったら捨てなさいよ、憎しみなんて。それが無理なら別の方法を探せばいいじゃない!…ミルがどんな思いであなたから離れたと思ってるの!」
「!」
ユーリシアは目を瞬く。
「……まさか……ミルリミナは、自分からついて行ったのか?」
「ええ、そうよ。詳しい事は知らないけど、あの子は言ったわ。あなたを守るために、ここに来たって」
モニタの言に、ユーリシアは言葉を失う。
ずっと攫われたものだと思っていた。だが、そうではなかった。ミルリミナは自らの意志でここに赴いたのだ。それも他ならぬ自分を守るために。
(…私の命を盾に脅されたのか……?)
いや、そうではない気がする。モニタのミルリミナに対する態度を鑑みるに、それはないだろう。ここではミルリミナを大切に扱っている事がモニタから見て取れた。
では、一体何から守るのだろうか。
そしてわざわざ離れる必要があったのだろうか。
疑問は幾重にも降って湧いてきたが、何よりも自分を想ってした決断だという事が嬉しく、鼓動が早鐘を打つほど愛おしさが増してくる。そしてそう思えば思うほどミルリミナに対する恋慕が際限なく膨らみ、その決断をせざるを得なかったミルリミナの心情を思うと、ただただ切なく胸が締め付けられるような気分だった。
「女に守られたままでいいの?情けない男のまま一生を過ごすつもり?」
挑発するように告げるモニタに、ユーリシアはようやく笑顔を向ける。
「…それはご免被りたいな」
そう告げるユーリシアの顔は、ひどく雄々しい。新たな決意を眉に乗せて、それでもまだ迷いはあるものの、ミルリミナへの想いが勝っているようにモニタは感じた。
「だったらシャキッとしなさいよ!」
言って、ユーリシアの背中を思いっきり叩く。ひどく落ち込んで丸まっていた背中は、今ではもう折り目正しく背筋が伸びている。
「モニタの叱咤激励は容赦がないな」
「当たり前じゃない。優しくしたら叱咤激励じゃないわ」
違いない、とユーリシアは頷く。
「…さて、行ってくるか」
言って、ベッドから立ち上がる。
「…どこに?」
「キリさんのところ。まだ倉庫の片づけが終わってないんだ」
**
昼過ぎになって、ようやく診察から解放されたダスクは、外套を片手に街へと足を運んでいた。
今の時分が一番、暑さが厳しい時間帯だ。フェリシアーナ皇国の夏は比較的過ごしやすいとは言っても、やはりこの時間の日差しは強い。髪色を操魔で変えてはいるが、念の為と持ってきた外套は正直羽織る気にはなれなかった。結局手に持ったまま街を移動するので、見知った住人から何度も声をかけられ前になかなか進む事ができず、渋々、外套を羽織る羽目になった事に辟易していた。
(…顔が広いのも考えものだな)
心中で一人ため息を落としながら、ダスクはキリの店に続いている裏道に足を踏み入れる。複雑なキリの店への道のりを迷う事なく進むのは、神官にとって造作もない事だった。
人が歩けば、その魔力がまるで残り香のように、しばらくその場に残る。魔力の探知能力に長けた神官は、その魔力を読んで後を尾ける事も簡単だった。
中央教会から逃げる時その方法で後を追われなかったのは、ダスクが意識を失う直前、場に残った魔力を操魔で散らしたからだ。その前に意識を失っていれば間違いなく追手がかかっていただろう。
特にユーリシアの魔力は甚大であるがゆえに、場に残りやすい。操魔の知識もないため常に放出している状態なので、なおさらだ。おまけに今日はどうやら昼前にキリの店へと向かったようなので、未だに濃く残っている。
どれほど複雑な道のりでも、ユーリシアが通った道ならば感知能力の長けたダスクでなくとも、容易に後を追う事ができるだろう。
(…相変わらずの魔力量だな)
場に充満するユーリシアの濃い魔力を感じながら、ダスクは半ば呆れたように感嘆する。これほどの魔力を有するのは、後にも先にもユーリシアただ一人だろう。それほど彼の持つ魔力は底が知れなかった。
銀髪と青銀髪、よく似ているが似て非なるものだ、とダスクは痛感する。たかがわずかに青みがかっているというだけで、有する魔力の差は歴然だった。
「……ここか」
膨大な魔力に包まれたキリの店を、ダスクは総毛立つ思いで見上げた。
用があるのはキリの店ではない。なぜ、聖女はユーリシアの魔力を忌避するのか、その原因を探るべく、ユーリシアに直接会おうとしているのだ。そしてもう一つ、大事な事をユーリシアに教える為に。
今のダスクにとって、どちらかというと後者の方が重要事項だったが、その過程で彼の魔力に触れる事になるので、どちらでも同じだろう。
(…こうして見ても、別段変わったところはないが……)
量が多いというだけで、ごく普通の魔力に思える。
(とにかく診てみるしかないか…)
軽く息を吐いて店の扉を開いた刹那、殺気にも似た鋭い魔力に悪寒が走った。
反射的に後方に高く飛んだダスクの体を、小型のナイフを握った手がかすめる。ダスクはそのまま勢いに任せて一回転すると、重力を感じさせないほど身軽に地面に足を付けた。
「…ずいぶんなご挨拶ですね、ユーリシア殿下」
まるで何事もなかったような涼しい顔で口を開くダスクを、ユーリシアは憎しみにも似た表情で睨めつけた。
「シスカ、お前が生きているという事は、やはり手引きしたのはお前か…っ」
「ご推察の通りですが、だからと言って有無を言わさず切り付けるのはあんまりでしょう。私でなければ間違いなく死んでいましたよ」
「殺す気で切りつけたのだ、当たり前だろう」
ダスクの見事な体さばきに見惚れて呆けていたキリだったが、ユーリシアの物騒な言葉に我に返って慌てて止めに入る。
「おいおいっ。こんなところで暴れんでくれよ!殺生沙汰はご免だぞ!」
「申し訳ありません、キリさん。殿下は気が高ぶっておられるようです。二階をお借りしても?」
「それは構わんが…先生一人でも大丈夫かい……?」
「ええ、問題ありません」
不安そうなキリを宥めるように笑顔で答えてユーリシアを促したが、その態度はやはり頑なだった。魔力を尖らせて隙あらば再び襲う機会を窺っているユーリシアに取り付く島もない。
これでは埒が明かないと、ダスクは大仰にため息をついた。
「…貴方をお守りするために来たのですよ。貴方に何かあれば、ミルリミナが悲しみますからね」
「!」
ミルリミナの名前を聞いた途端、あれほど尖らせていた魔力が一瞬で丸みを帯びる。憎悪に満ちた顔は、いつもの穏やかな表情に変わり、その瞳にはわずかばかりの切なさが見て取れた。
ユーリシアは高ぶった気持ちを落ち着けるように小さく息を吐くと、持っていたナイフを懐にしまってキリを見返した。
「…すみません、キリさん。二階をお借りします」
心配そうに頷くキリを見届けてから、ユーリシアを先頭に二人は二階へと上がる。
ダスクが動くたび所在なさそうにひらひらと動く左袖を、ユーリシアは視界の端で捉えていた。
「…腕がなくなったのは本当なのだな」
二階にある椅子に腰かけながら、ユーリシアは吐き捨てるように言う。初めに比べて態度は軟化したが、それでもシスカという存在を警戒しているようだった。
「偽物に見えましたか?」
「本物に見せる事くらい、お前には造作もないのではないか?シスカ」
「…信用がありませんね」
ダスクは苦笑する。
「当たり前だろう。間者として皇宮医に納まっていた男の何を信じればいい?おまけにその身のこなし、ただの神官ではないな」
「…少しばかり荒事に長けただけの神官ですよ。…と言っても、もう神官ですらありませんが」
ダスクの表情から一抹の寂しさを見て取って、ユーリシアは小さく息を吐いた。
「…教皇様が、ひどく気落ちしていらしたぞ」
思いがけない言葉にダスクは目を丸くし、申し訳なさそうに悄然と俯く。
「それを言われると…弱い」
体を大切に、と言った教皇の顔が脳裏をよぎる。
落ちた自分の腕を、教皇はどんな気持ちで見たのだろうか。それを思うと心中穏やかではいられなかった。
「…お前にも、そうやって慮る相手がいるのだろう。なのになぜ裏切った?」
その問いかけに、ダスクは答えなかった。ただ物悲しそうに微笑んだのがひどく印象的だと、ユーリシアは思った。その表情から何か事情があるのだろうと察して、ユーリシアは何も言えなくなったのだ。
思いがけずダスクの急所を突いてしまって黙して語らないダスクの代わりに、ユーリシアは言葉を続ける。
「__それで?死んだ事になっているお前が危険を冒してまで私に会いに来たのは何故だ?私を守る為と先ほど言っていたが…それにお前のその髪色、どうした?」
青銀髪だったダスクの髪は、それと判らぬほど黒々としている。ずっと怪訝に思ってはいたが、ようやく心が落ち着きを取り戻してきたので訊ねる余裕ができた。もちろん答えを期待しての質問ではなかったが、ダスクの反応は意外にも待っていたと言わんばかりに頷いて見せた。
「…察しが良くて助かります。私は貴方に髪色を変える術をお教えしに来たのです」
「……私に…?」
ユーリシアは目を瞬く。
「まだこちらにご滞在されるおつもりなのでしょう?」
「当然だ。…ミルリミナに会うまでは、この街からは出ない」
覚悟を決めたように拳を握るユーリシアを見取って、ダスクは頷く。
「貴方が皇太子たる所以は、その銀の髪だけです。間近で拝謁した者でない限り貴方の御尊顔を判別できる者はこの街にはいないでしょう。付け焼刃になるので四六時中、というわけにはいきませんが、帽子が外れた時など一瞬の事ならごまかしが効くでしょう」
「…どういう事だ?言っている意味がよく……」
怪訝そうに尋ねるユーリシアの言葉を、ダスクは静かに遮る。
「操魔、と申します」
「………操魔?」
「読んで字のごとく、魔力を操る術でございます。髪から魔力を抜く事ができれば、髪色は変わりましょう」
「!…そんな事ができるのか…っ」
ダスクは頷いて、ユーリシアの手を取る。
「一度しかいたしません。貴方の魔力を私が操作いたします。殿下はその魔力の流れを、よく覚えていてください」
言って目を閉じるダスクに、ユーリシアはややあって小さく尋ねる。
「…ミルリミナは、どうしている?」
「…つつがなく暮らしておりますよ」
「なぜミルリミナが彼らについて行ったのか、訊ねても教えてはくれないのだろうな…」
「…いずれ、ミルリミナ本人の口から聞けるでしょう」
教えるのは容易い。だがミルリミナが聖女の力を忌み嫌っている事を知っている。身の内に悪魔を宿している事実を慕っているユーリシアに知られる事は、ミルリミナの本意ではないだろう。
これは自分から告げる事ではない、
ダスクはミルリミナを慮って明言を避けたが、ユーリシアにはその返答がひどく篤実なように思えた。
「…そうか」
必ず会えると言ってくれているようで、心強い。ユーリシアはその返答に満足したように、小さく頷く。
そんなユーリシアの表情を見届けて、ダスクは再び目を閉じた。そうして、いつものように相手の体の中に己の魔力を注いでユーリシアの魔力を操る____はずだった。
(!?……なんだ、これは……?)
魔力を動かそうにも、まるで岩でも動かしているかのようにビクともしない。
最初は、ただ膨大な魔力ゆえに重たいのだと思った。これほどの魔力を動かすのだから、それに必要な力も自然と大きくなる。
そう思ったのだが、違う。
遠目にはごく普通の魔力に思えた。
だが、そうではない。
これは、魔力ではないのだ。
(これは…魔力に似せて作られた、偽物………!?)
偽物、という表現が正しいのかは判らない。現にユーリシアはこの魔力で生を与えられている。だが、既存の魔力とは明らかに全くの別物だった。異質の魔力なのだ。だからこそ、操魔の力が働かないのだろう。
ふと、聖女の言葉が脳裏をよぎる。もう一人、聖女が作った者がいると言ってはいなかっただろうか。
(…あれは殿下の事か…っ)
この推察が正しければ、おそらくユーリシアの魔力は聖女が似せて作った偽りの魔力だろう。今は世界に供給する魔力が底を尽いている状態だ。その貴重な魔力を、ましてやこれほどの魔力をユーリシア一人に渡すはずがない。
聖女にとって慈しむべき相手は世界だけなのだ。己の作った人形に渡すくらいなら、迷う事なく世界への供給に魔力を使用するだろう。
「…どうした?シスカ」
眉根を寄せるダスクを、ユーリシアは怪訝そうに見返す。
何も知らずダスクの顔色を窺うユーリシアは、この偽りの魔力で生を与えられた。だがあの無慈悲な聖女の事、それがいつまで続くかは判らない。
この偽りの魔力で生を全うできるのであれば、世界にも同じものを供給すればいいのだ。それをしない、という事は間違いなく欠陥品の魔力なのだろう。ユーリシアの生殺与奪の権利は、聖女が手にしている。それを思うと目の前にいるユーリシアがいっそう哀れに映った。
「……申し訳ございません、殿下。…殿下の魔力はその量が尋常ではない為、通常のやり方では動かぬようです。少々強引に動かしますので、おそらくある程度の痛みが伴うでしょう。…それでも、よろしいですか?」
魔力の特質はよく似ている。それに合わせてやり方を少し変えれば、おそらく操作する事は可能だろう。
だが触れた感じ、ひどく動かしにくい魔力のように見受けられた。そもそも操作する事を前提にはできていないのだろう。そんな魔力を無理やり動かすのだから、どうしても痛みが伴う。その痛みがどれほどのものか、ダスクには全く予想ができなかった。
不安げに尋ねたダスクに、ユーリシアは迷う事なく頷く。
「ああ、やってくれ。その力は私には必要なものだ」
決意を込めた眼差しにダスクも意を決して頷き、三度瞼を閉じる。
同じように己の魔力をユーリシアの体内に流し、今度はユーリシアの魔力と己の魔力を融合させてみた。
まるで溶け合うように渾然一体となった魔力を、ダスクは操作する。少しずつ、少しずつ、ゆっくりと、岩のように重い魔力を動かす。そうするたびに、ダスクの体を突き刺すような痛みが走った。おそらくユーリシアが感じる痛みとは比べ物にならないだろう。目を開けば、苦痛に顔を歪めているユーリシアがいるに違いない。
早く終わらせてやりたかったが強引に動かしている手前、急げば急ぐほど痛みはより激しくなるだろう。今でも相当の痛みを感じているのに、これ以上の苦痛は憚られた。
ダスクはゆっくりと、だが確実に魔力を操作し髪色を変えていく。
銀色から灰白色へ、灰白色から亜麻色へ、次第に色が移り変わっていく。そうして薄藍色になったところで、ダスクはようやく操魔の手を止めた。もうこれ以上は、ユーリシアの体がもたないと判断したからだった。
「…っ、はぁ、はぁ…。……終わった……のか………?」
息も絶え絶えに、ユーリシアはやっと、という感じで何とか声を絞り出す。座っている事さえ困難で、ユーリシアはたまらず地面に膝をついた。
「…殿下、大丈夫ですか…?」
問うたダスクの顔色も悪い。ユーリシアの魔力と融合させた結果、ユーリシアが感じていたであろう苦痛も一緒に味わう事になった。
操魔が終わった今でも絶え間なく頭痛が起こり、強い吐き気まで感じる。ユーリシアの苦痛はこの比ではないだろう。それほどこの魔力は、操作するには不向きだった。
「……魔力の流れを、覚えましたか……?」
「……ああ、覚えた…。だが……頭が、痛い……割れそうだ……っ」
完全に頽れて地面に臥すユーリシアに、ダスクは為す術がなく立ち尽くすしかなかった。
神官の治療は体内の魔力を操作し、整える事で完結する。その方法がユーリシアには通用しないのだ。魔力を操作しようものなら余計この苦痛を増長させる結果に終わってしまう。
そういう意味では、この時点で欠陥品の魔力であろう事は、変えようもない事実だろう。
ダスクは痛みで気を失ったユーリシアの体を支えると、自らも不調の身体を押して何とかキリのいる一階に下りた。
「ど、どうしたんだ!?何があった!?」
意識のないユーリシアと、ひどく顔色の悪いダスクを見止めて、キリは慌てて二人に近寄った。
「……キリさん、申し訳ありませんが、殿下を家まで運ぶのを手伝っていただけませんか…?」
ダスクの額から一筋の汗が流れ落ちるのを見つけて、キリはそれが暑さから来るものではない事を瞬時に察する。慌ててダスクからユーリシアの体を預かると、まるで脱力したようにダスクの体は力なくその場に倒れた。
「!?おい、先生!大丈夫か!?」
「……おれは、大丈夫です…。それよりも、まず殿下を……」
指一本動かす事すらひどく億劫で、焦点が定まらない。意識が飛びそうになるのを必死に堪えて、ダスクは言葉を続けた。
「…殿下が目を覚まされたら……伝えてください…。毎日…操魔の鍛錬を怠らぬようにと……。…ただし、慣れるまではゆっくりと……体に不調がわずかでも出た時は、すぐ中断するようにと……」
「操魔!?彼に操魔を教えたのかい!?…いやいや、そんな事はどうでもいい。…とにかく!レオリアをモニタに預けたらすぐ戻ってくるから!待っててくれ!」
そう言い残して出て行くキリとユーリシアを、焦点の定まらぬ目で視界に何とか留める。
(…この分だと、せっかく操魔を教えたが使いものにはならないだろう……)
ただ苦痛を与えただけになってしまった。何も得られず、彼はまた落胆するに違いない。
ユーリシアが背負っている運命は、あまりに残酷で儚い。
それは本人の意思とは関係なく突然奪われるのだ。彼の命が尽きる時は、まるで桜の花が一斉に散るように、あっさりと潔いまでに消えるのだろう。
(……なんて無慈悲な事を……)
幾度目かになる独白を最後に、ダスクの意識はゆっくりと途絶えた。




