世界の意志
ラン=ディアは決して一つの場所に留まらない、変わり者の神官だった。
大司教であるにもかかわらず、都市部にある大きな教会に着任する事を拒み、辺境にある廃れた教会を好んで転々とする、そんな神官だった。
それは辺境にこそ信仰と医療が必要、というラン=ディアの持論に基づく行為だったが、教会内では風来坊のように渡り歩くラン=ディアを、秩序を乱す行為だと非難する者も多かった。そんなラン=ディアに教皇からのお咎めが一切なかった事も、彼らを助長させる要因となったのだろう。本人を前に口汚く罵る場面も何度かあったが、当の本人は全く意に介さず堂々と振る舞う姿を、シスカは畏敬の念にも似た気持ちで見ていた事を覚えている。
彼の行為は称賛に値する、とシスカは思う。実際、辺境の土地では本来なら助かるはずの命が、医師や神官がいない為に失われるという事も多い。それを思えば、ラン=ディアが救った命は数知れないだろう。
ただ欠点を上げるならば、ラン=ディアと連絡を取るのが非常に困難な事だ。手紙を送っても着く頃には別の場所に移動している事も頻繁だった。それほどラン=ディアの居場所を掴むのは、雲を掴むのにも似て難しい。だが今回ばかりは様子が違ったようだった。
おそらくはシスカの腕を憂慮しているのだろう。シスカが目覚めてからラン=ディアの魔力が皇都から出る事はなかった。ただ皇都の端を転々と移動しているので、変わらず手紙が彼の元に届くことはないだろう。シスカはそんなラン=ディアの魔力を頼りに、皇都の南に位置する廃れた教会に赴いていた。
「…ようやく来たのか。ずいぶんと遅い訪問だな、シスカ」
礼拝堂の右端にひっそりとある扉を開けると、おざなり程度の椅子と卓が置かれた応接室とも取れない小部屋がある。その部屋で本を片手に腰を掛けるラン=ディアは、待っていたと言わんばかりに苦々しくそう告げた。
そんな様子にシスカは相変わらずだと苦笑して、被っていた外套のフードを取る。夏の日差しの中フードを被っていた為だろう。シスカの額には、今にも流れそうなほど汗が滲み出ていた。
「すまない、なかなか思うように時間が取れなくて」
申し訳なく告げながら、シスカは外套を脱いで椅子の背もたれにかける。
ラン=ディアはシスカが唯一言葉を崩せる相手だった。
二十四年の神官生活の中、すっかり板についてしまった敬語を崩すのは、思うよりも難しい。敬語でなければひどく居心地の悪さを感じてしまうほどだったが、ラン=ディアの前でだけは言葉を崩す方が妙に座りがよかった。それはラン=ディアの前でだけは、何一つ飾る必要がない事を無意識に自覚していた為だろう。
ラン=ディアは外套を脱いだ事で露になったシスカの左腕を視界に入れる。失った左腕はシスカが動くたび、ただ服の裾だけがひらひらと所在なく揺れていた。その痛々しい姿を複雑な表情で見ているラン=ディアの視線が、シスカにはひどく受け入れ難く映った。
「…そんな目で見ないでくれ、ディア。お前にだけは同情されたくない」
「……そうか」
言われて、ラン=ディアは息を吐く。
「…では、代わりに説教をご所望か?」
「…いや、それも遠慮願おう」
揶揄するラン=ディアに、シスカは心底、辟易したように丁重に断る。ラン=ディアへの訪問が遠のいたのは、この説教が一つの要因であった事は言うまでもないだろう。
「…まったく。今回ばかりは無茶をし過ぎだ。切り落とされた腕を見た時は肝が冷えたぞ」
「すまない」
持っていた本を忌々し気に卓に置くラン=ディアに、何の言い訳もできずシスカはただ申し訳なさそうに笑みをこぼしながら謝罪する。
「いいから腕を見せろ」
渋面を作りながら迫るので、シスカは不承不承といった感じで椅子に腰かけながら上着を脱ぐ。こういう時は決して逆らわず、言い訳をせず、させるに任せた方がいい事を、長年の付き合いで心得ていた。
「……ずいぶん都合よく、あの日皇都に戻ってきていたんだな…」
巻かれていた包帯を取って傷口を丁寧に診ているラン=ディアに、シスカは問いかける。
ラン=ディアにはこういう事が多々あった。普段はほとんど皇都に寄り付かないくせに、シスカがひどい怪我をする時に限って、皇都や中央教会に戻ってきているのだ。本人曰く、偶然が重なった為だと言い張っているが、どう考えても偶然がそう何度も重なる事などあるはずがない。かと言って、ラン=ディアに教皇のような予見の能力があるようにも思えなかった。
「あの日は教皇様から日を指定されて戻ってくるようご指示があった。ただそれだけだ」
「…ギーライル様が?…なら今までも___」
「言っただろう?あれは全て偶然だ。俺が帰るたびに毎度毎度、大怪我をするから、てっきりわざと怪我をしているのかと勘繰ったぞ」
シスカの言葉を遮るように、ラン=ディアは告げる。どうやら今回もまた、はぐらかされたようだとシスカは小さく息を吐いた。
「経過は良好そうだな。…痛みはあるか?」
ひとしきり傷口を観察した後、包帯を再び巻きながらラン=ディアは問う。
「…いや、痛みはもうない。ただ___」
「幻肢の症状があるんだな?」
シスカが答えるより早く、ラン=ディアは尋ねる。シスカはただ頷いた。
医術に関して、教会内でラン=ディアの右に出る者はいない。それは日頃の勤勉さもさる事ながら、あらゆる僻地で様々な症状を目にした経験則が大きい。教会で安穏としている神官よりも、圧倒的に経験値が高いのだ。
「あれはかなり痛むだろう…。痛みを抑える薬がラジアート帝国にあるが、手に入れる術がないからな」
ラジアート帝国は医療の進歩が著しい事で有名だった。とりわけ怪我や手足の損傷に対する医療技術が高かったが、それは帝国の歴史が戦争と密接な関りがある事に他ならない。
今でこそ他国と友好な関係を築いてはいるが、一昔前までは戦争の絶えない国だった。皮肉にもその時の経験が、飛躍的に医薬を進歩させたと言わざるを得なかった。そして、そうやって得た医薬の技術を惜しげもなく他国に流すほど、厚情のある国でもなかったのだ。
医薬のほとんどは門外不出として決して他国に出回らない事を、ラン=ディアは承知していた。
苦々しく告げるラン=ディアに、シスカはポケットから一つの小瓶を取り出し、卓に乗せる。
「これは…幻肢の薬か…?」
「…ゼオンからの手向けだそうだ」
「あの御仁は相変わらずお前にべた惚れなんだな」
「…そういう言い方はよしてくれ…っ」
感嘆にも似た声を上げるラン=ディアに、心底、不満そうに身震いしながらシスカは全身で否定する。
ラン=ディアが感嘆する気持ちも判らなくはない。門外不出と言われる薬を惜しげもなく渡したのだ。仮にも皇弟である、ゼオンが、である。
だが揶揄されるにしても、この類の揶揄はどうしても受け入れ難かった。この外見の所為で男女問わず無駄に好意を寄せられる事も多かっただけに、なおさらだ。
そんなシスカを失笑しながら、ラン=ディアは小瓶を手に取ってみせた。
「一粒貰っても構わないか?」
「ああ、できれば調べて同じものを作ってくれると助かる」
ラン=ディアは薬剤にも明るい。服を片手でたどたどしく羽織りながらシスカが告げると、ラン=ディアはさもありなん、といったふうに尋ねた。
「わざわざこの為にここまで来たのか?」
「それもあるが、もう一つお前に訊きたい事がある。こちらの方が本題かな」
「…何だ?」
「創世神話をおれに教えてくれないか?」
意を得ず小首を傾げるラン=ディアに、シスカは事の経緯をつぶさに説明した。
夢に捕らわれていた時の事、その夢で聖女と邂逅した事、自分とユルングルが『あの方』に作られた『獅子』という存在である事、そして、『あの方』の存在が何かを知るために、創世神話を教えてほしい事。
聞きながら遅いお茶出しをしたラン=ディアは、何かを考え込むように押し黙ったまま、耳を傾けていた。
「…なるほど」
全て聞き終えたあと、何に対する言葉か、ラン=ディアはひとりごちる。
「…結論から言おう。創世神話に該当する存在はない」
きっぱりと言い放つラン=ディアに、シスカは目を瞬く。
「創世に関わる神は、魔力を司る聖女リシテアと、世界を構築した、火、水、風、土、の四大元素をそれぞれ司る四人の神だけ。それも聖女より神格の高い神は存在しない。お前は『あの方』をおそらく神だろう、と言ったが、神であれば聖女よりも神格は下になる。下の者に『あの方』と改まった呼び方をするか?」
「それは……確かに」
「おそらく『あの方』は神じゃない。聖女リシテアが仕えるべき存在が、神以外にあるだろう?」
それは、と言いかけてシスカは口を噤む。
「……世界…?」
「そう、世界、だ」
聖女は言った。世界を守り慈悲を与えるのが務めだと。
守る、という事は捉えようによっては、仕える、と同義だろう。もしくは庇護するべき対象なのかもしれない。どちらにせよ、聖女にとって世界は、慈しみ守る唯一無二の存在なのだ。ならば当然、敬うべき相手ではないだろうか。
「世界に意志があるのなら、人間を擁護して当然だ。人の死に絶えた世界など存在する意味がない。人も世界もそれぞれが互いに拠って立つべき場所だ。世界は人に立脚し、人は世界を拠り所とする。聖女はそこを理解していない」
言って、皮肉めいた笑みを浮かべる。
「面白い構図じゃないか。世界を守るために人間を淘汰しようとする聖女と、自らの存在意義を奪われない為に、聖女に抗い人間を擁護する世界」
シスカは頷く。
ラン=ディアの仮説は妙に腑に落ちた。違和感なく胸の内にすとんと落ちて、確信めいたものが広がる感じ。
「……そして、人間を擁護する役割を担う『獅子』を作った…?」
「そう考えると、お前の存在が腑に落ちるな」
虚を衝かれ、シスカは意を得ずラン=ディアを見返す。
「……どういう意味だ?」
「お前は人を憎めない。例え何をされようとも、最終的に人に拠って立とうとする。それは性格に因ったものではないだろう。そんな次元の話じゃない。…昔から不思議だった。なぜあれほど人に寄り添えるのか。人がいい、を通り越している。皆、お前の事を聖人君子だと褒め称えたが、俺にはそうしなければいけないという、何かしらの見えない意図に従っているように見えた。妹を殺された時がいい例だろう」
妹の話を持ち出されて、シスカはぎくりとする。
「確か、あのダリウスという侍従に妹を預けていたな。妹が殺された時、お前はあの侍従を責められたか?ほんのわずかでも憎いと思えたか?妹を殺した連中はさすがに憎んだだろう。だがその感情はいつまで続いた?確かにあれ以降、お前は人を寄せ付けなくなった。心を閉ざして、人を欺く事もあっただろう。だが、それだけだ。お前ができるのはせいぜいそこまで。それ以上、人を突き放す事がお前にはできないんだ。人を寄せ付けなかったのも人間不信に陥ったからじゃない。例え最愛の者を奪われても許そうとしてしまう。それが嫌で抗った結果、人から離れただけじゃないのか?」
ラン=ディアの言葉が否が応でも突き刺さる。
(……確かにその通りだ)
妹が殺された時、確かに自分の中には醜いほどの憎悪の感情が溢れていた。だが幾ばくも経たぬうちにその感情が薄れていく自分を、ひどく嫌悪した事を覚えている。十日も経つ頃には意識して憎しみを呼び起こさないと、その感情を維持するのが難しくなっていた。それでも忘れまいと、必死に憎しみを保ってきたのだ。
人を欺く事に罪悪感を感じなかった事も、快感を覚えた事も嘘ではない。だがラン=ディアが言うように、それだけだ。それ以上は決してできなかったし、善人に対して欺こうと思った事すらなかったと思う。ただ悪人を罰した気分に浸っていただけなのだろう。その悪人にすら、それ以上の事はできないのだ。
妹が殺された日、確かにシスカの心は闇へと転じた。初めは妹を失った憎悪から、そしてその憎悪を抱く事が難しくなってきた頃からはおそらく、最愛の妹を殺されても許そうとする、情の欠けた無慈悲な自分を嫌悪したからなのだと、今更ながらに思う。
そんな心情の何もかもを見透かされているような気がして、シスカはラン=ディアの顔をまともに見る事ができなかった。
「…今でも自分の事は二の次にして、あの侍従の事で何かしら心を砕いてるんじゃないのか?見たところ彼はひどく不安定なように見えた。侍従だけじゃない。あのユルングルと言う御仁の事もだ。俺は事情は何一つ承知していないが放っておけ。二人とも大の男だ。自分の事は自分で解決させろ」
「…ディアは存外、そういうところが冷たいな」
目線を合わせず、自嘲めいた笑みをこぼしながら告げる。
「冷たいんじゃない。これが普通の感覚だ。誰もがまずは自分を優先させる。その次に他人だ。だがお前は違う。何をおいてもまず他人だ。そうやっていつまでも他人ばかりにかまけて自分を疎かにする。なおざりにして、どれだけ傷つけられても結局は人に拠って立つんだ。…不思議だろう?まるで世界の在り方を体現しているみたいじゃないか」
静かに告げるラン=ディアの顔を、シスカはようやく視界に入れた。
(……その通りだ)
人間は世界を拠り所としながらも、世界を汚染させ、資源を貪り、疲弊させる。だが世界は決して、人間を拒否しない。それどころか人を擁護しようとする。どれだけ傷つけられても、蝕まれても、人に拠って立つ事を決して辞めないのだ。それはまさに、シスカのそれと同じものに他ならない。
「お前はきっと、世界の意志を模して作られたんだろうな」
ラン=ディアの言葉に、シスカは胸がわずかにチクリと痛むのを感じた。
作られた、と心中で小さく呟く。この言葉が、自分を人ではないとたらしめているようでひどく耐え難い。
そんなシスカの心中を察したのだろう。ラン=ディアは小さく息を吐いた。
「シスカ、それはただの『言葉』だ。そんなものに何の意味もない。肝心なのは『シスカ』という人間が、今まさに現実に存在している、その事実じゃないのか?それが判っていれば、普通に生まれていようが、誰に作られていようが、その存在意義に大して差はないだろう」
ずいぶんと豪胆な考え方に、シスカは一瞬呆然とし思わず笑みをこぼす。そういえば昔、ラン=ディアが口汚く罵られた際、なぜ動じないのかと尋ねたら同じ答えが返ってきた事を思い出す。
(あんなものはただの『言葉』だ。肝心なのは俺が何をしたいかだろう。たかが口汚く罵られたところで、やりたい事を曲げるつもりはない)
ラン=ディアにとって『言葉』とは、ただその事象を表現する為だけのものなのだろう。どんな『言葉』で飾ったところで、その本質が変わる事はない。ラン=ディアはその事を、重々承知しているのだ。
普通に生まれた存在と、誰かに作られた存在にはやはり大きな差があると思う。それは存在意義ではなく、存在そのものの在り方についてだろう。だがラン=ディアを通して見ると、何故だかあまりに些末な事のようで、悩むのが馬鹿馬鹿しくなってくる、とシスカは思う。
昔からラン=ディアは、そういう男だった。
「…相変わらずお前は、豪胆な物の考え方をするんだな」
「そこが気に入ってるんだろう?」
違いない、とシスカは心中でひとりごちた。
シスカが帰路に就こうとしたのは、辺りをそろそろ本格的に闇が支配しようかという黄昏時だった。日は完全に落ちたようだが、まだ西の空にはわずかばかりの茜色が見て取れる、そんな時分だった。あと幾ばくもしないうちに、宵の口になるだろう。
夏とはいっても、この時間になるとすっかり涼しくなる。昼間あれほど汗をかいた外套も、この時分ではさほど苦痛にはならなかった。
「相変わらずお前は不器用だな。そんな事で本当に片腕でやっていけるのか?」
外套を羽織るのに手間取って、結局は見かねたラン=ディアが手伝ってくれた。その事を揶揄して、見送りに外に出たラン=ディアは呆れたように息を吐いた。
「…まあ、そのうち何とかなるさ」
申し訳なさそうに、自嘲めいた笑みをこぼす。
「すっかり長居をして、すまなかったな。…もう皇都を出るのか?」
「いや、お前の腕が完治するまでは皇都にいるつもりだ。教皇様からの使者もしきりに来るからな。これじゃあ離れるに離れられない」
「ギーライル様から使者が?」
「…知っているか?教皇様がお前との連絡係に俺を使われるものだから、何も知らない連中は俺がシスカの後釜に収まったと思っているそうだ。この異端児が、だぞ?迷惑な事この上ない」
大仰にため息をついて心底呆れたような顔をするラン=ディアを、シスカは同情めいた視線で見て思わず笑みをこぼす。
「…その教皇様からお前に伝言だ。お前に伝えるべきか迷ったが……」
珍しく言葉尻を濁すので、シスカは怪訝そうにしながらも先を促した。
「…ウォクライ卿が、投獄されている」
一瞬躊躇ったのち口から出た言葉に、シスカは目を丸くする。
「ウォクライ卿が…っ!?なぜ……っ」
「彼は神殿騎士団団長だ。元々、聖女ミルリミナが誘拐された事で、警護を一任されていたウォクライ卿に責任追及の声が上がっていたが、当時警護に当たっていた騎士への処罰が下された際、彼らを庇って自ら牢に入った。教皇様は処罰は必要なしとお考えだが、神官たちや各国の要人達の手前、大っぴらには公言するわけにはいかないんだろう。おまけにウォクライ卿自身も頑なで、食事もまともに摂られていないそうだ」
あの頑固なウォクライなら確かにあり得る、とシスカは頷く。
「…ありがとう」
言って踵を返すシスカの腕を、ラン=ディアは慌てて掴んだ。
「待て!助けに行くつもりか?」
「ギーライル様もそれがお判りになって、おれに伝えさせたんだろう。…彼には何一つ非はない。巻き込んだのは、おれだ」
迷いのないシスカの眼差しを見て取って、ラン=ディアは諦めたように、一つため息を落とす。
「……だから、伝えたくなかったんだ」
言って懐から何かを取り出し、シスカに差し出した。
「……これは…?」
シスカの手に落とされたのは、真鍮でできた鍵だった。
「牢に続く扉の鍵だそうだ。教皇様から頂いた。十日後、四半期に一度の定例会議が執り行われる。人も出払うからその隙を狙え」
四半期に一度の定例会議は、その規模がかなり大きい。他国に渡っている神官たちも報告をする為にこぞって中央教会に集まってくる。その準備に追われ、会議を行う聖堂周辺は人の往来が激しいが、代わりに他の場所は閑散とする。死んだ事になっているシスカが忍び込むにはうってつけだった。
「だが十日後だと遅い。ウォクライ卿は何も食べていないんだろう?」
「それに関しては俺が診る。頼むから焦燥感に駆られて時期を見失うな」
ラン=ディアの手を振り解こうとしているシスカを必死に押し留めながら、ラン=ディアは説得するように告げる。その様子に、シスカはようやく自分が我を失っていた事に気付いた。
とりあえず心を落ち着けようと、シスカは小さく息を吐く。
「…判った。お前の言うとおりにしよう。それまではウォクライ卿を頼む…」
ラン=ディアは多少落ち着きを取り戻したシスカを見て取って、頷きながらようやく腕を掴む手を離した。
「いいか、気が逸るのも判るが必ず十日後だ。それまでは中央教会に忍び込もうなどと決して考えるんじゃないぞ」
何度も念を押すラン=ディアにシスカは承諾の意を示すと、すっかり闇に閉ざされた道を、家路へと急いだ。
道中、シスカの心中はひどくざわついていた。
周りに迷惑が掛からないよう、シスカと言う神官を殺したはずだった。だが結局は、そのしわ寄せが他者に向かう。こういう時は、自分の行いがあまりに短絡的で愚かしく思えて仕方がない。
シスカはラン=ディアから渡された真鍮の鍵を握る。
焦りが出てはラン=ディアの言葉を思い出し、落ち着いたと思えばまた焦る。これほど焦燥感に駆られるのは、己の行為に責任を感じているからなのだろうか。それとも人を擁護しようとする世界の意志がそうさせているのだろうか。シスカにはもう判らなかったし、そのどちらでも構わないと思った。
今はただ、ウォクライの無事を祈るしかない。他ならぬラン=ディアがついてくれるそうだから、命の危機まではないだろう。そう思える事だけが救いだ。
シスカが地面を踏みしめる音だけが、かそけく響く中、ただただ自分の愚かさを悔いていた。