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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第四部 リュシアの街編
23/144

魔力というもの

「ユーリシア殿下、お願いでございますから、お体をお休めになってください」


 もう何度目かの進言を、ラヴィは口にする。


 ミルリミナが攫われてからもう十六日目。未だに大きな手掛かりが見つからず、ユーリシアは政務を行いながらミルリミナの捜索にも時間を割き、わずかばかりになった睡眠時間でさえほとんど休むことなく、皇宮を抜け出しては一人捜索する、という毎日を送っていた。


 さすがにこれでは体を壊すだろうと何度も進言しているにも関わらず、ユーリシアは一向に休む気配がない。むしろ、そう進言されるほどに睡眠時間をさらにないがしろにするユーリシアに、ラヴィはほとほと困り果てていた。


 ミルリミナが攫われてから今日まで、一切の情報がなかったわけではない。

 ゼオンの動向を探らせていた諜者ちょうしゃから、頻繁に低魔力者の街に出入りしているという報告を受けた。あまりに露骨であったため、これが誤認誘導の可能性もあったが、『リュシテア』の存在を考えると彼らが拉致した可能性が高い。そう判断して低魔力者の街を捜索したが、ミルリミナの姿はおろか『リュシテア』がいる気配すら全く掴めなかった。


 結局、判ったのは『リュシテア』が関わっているであろう、という事だけで、その『リュシテア』の所在が掴めず捜索は振出しに戻った形となった。


 だからこそ余計、ユーリシアの心中に焦りが生じたのだろう。その焦りが、休むという行為をことさら拒んでいるのだと、ラヴィは思っている。


「このままではお倒れになってしまいます。そうなれば、ミルリミナ様の捜索にも差し支えましょう」


 返事なく書類に目を通すユーリシアに、ラヴィは再度、今度は多少語気を強めて訴えた。言われたユーリシアは書類から目線を外す事なく、小さく息を吐いた。


「……休みたくないのだ。休めば嫌な事ばかり頭をよぎる。…結局眠れないのなら、ミルリミナの捜索をした方が有意義だろう」


 まるで休むことに意義がないと言わんばかりの言いように、ラヴィは深いため息を落とした。


「…例えミルリミナ様がお戻りになっても、殿下がお体を壊していらしたら、どう思われますか?少しは周りの者の事もお考え下さい」

「…そうだな」


 その返事はどこまでも素っ気ない。ラヴィはユーリシアの生返事に再び息を落とした。


「本日の政務はここまでです。午後からは時間を空けておりますので、お休みください」


 この会話を一体何度しただろうか、とラヴィは思う。こうやって時間を調整して休む時間を作っても、一度として休んだ事はない。そしておそらく今日も休む事はないのだろう。それが判っていても、休む時間を作らずにはいられなかった。


「…いつもすまないな」


 力なく笑って、ユーリシアは政務室を辞去する。


 いつもこうやって謝意を伝えるくせに、部屋に様子を見に行くともうそこにはいないのだ。今までは皇都フェリダンをくまなく捜索していたようだから、今日あたり低魔力者の街に足を運ぶのだろう。できれば追従したいが、何かあれば自分は間違いなくユーリシアの足手まといになる。


 決して休んでくれないと判っているのに、それでも時間を作るのは、日中に捜索時間を作ればわずかばかりでも夜、体を休める時間ができるのではないかと期待しての事だ。それが本当に意味を為しているのかは定かではないが、それでもラヴィがしてやれる事はこれしかない。


 ラヴィは机の上に広げられた書類を片付けながら、幾度目かになるため息をついた。


**


 ここに来てからミルリミナの生活に、いくつかの小さな変化があった。


 一つは、わずかばかり砕けた口調が板についてきた事。まだやはり敬語は抜けなかったが、堅苦しい貴族敬語はもうなくなりつつある。時折その敬語すら出なくなる時が稀にあるので、ユルングルやモニタなどは次第に気安い関係になりつつある事を、素直に喜んでいた。


 そしてもう一つは、互いの呼び名が変わった事だ。ごく一部だった『ミル』という愛称は次第に浸透し、今ではもうその呼び名が主流となった。当初ミルリミナはその呼び名がわずかばかり気恥ずかしかったが、今では『ミルリミナ』と呼ばれる事の方が、他人行儀な気がして違和感を抱くほどだった。ここで未だに『ミルリミナ』と呼ぶのは、ユルングルとダリウス、そしてダスクの三人しかいない。


 そして呼び名が変わったのは、そればかりではなかった。ミルリミナからユルングルへの呼称も、皆と同じく『ユルン』に変わり、シスカに至っては『ダスクお兄様』と、その呼称も随分様変わりした。


 『シスカ』から『ダスク』へと、その呼称を変える事に全く抵抗がなかったわけではないが、腕を落としてまで神官シスカの存在を殺そうとした事を知っている手前、『シスカ』と呼ぶことに、わずかばかりの逡巡があった。


 おそらく本人に問えば、どちらでも呼びやすい方を、と答えが返ってきたに違いない。だが、答えが判っている質問をする事は、まるで『シスカ』と呼ぶ為の免罪符を貰う行為のような気がして、ミルリミナは堪らなく卑怯な気分になった。かと言って『ダスクさん』と呼ぶ事も、なおいっそう知らない誰かを呼んでいるような寂寞感せきばくかんが込み上げてきたので、わずかな抵抗として、お兄様、を付けたのだ。


 加えて何より嬉しい大きな変化も、同時にミルリミナに訪れていた。皇宮にいた頃には感じなかった、だがここに来て、もどかしさを感じずにはいられなかった歩けない足が、再び自分の意志で歩けるようになったのだ。


 それは足が治ったというわけではない。足は変わらず感覚がなく、依然として他人の足を無理やり付けられているような感覚だ。だが、そんな足でも歩けるすべをダスクから教わったのは、彼が目覚めたあの日、八日前の事だった。



「___操魔、ですか?」


 聖女に抗うすべとしてまず最初に教わったのは、己の体の中にある魔力を自在に操る為の技術___操魔だった。


「…ですが私の中に操るべき魔力はありません」


 悄然しょうぜんうつむくミルリミナに、ダスクは頷く。


「ええ。ですから操るのは自身の魔力ではなく、大気に漂う魔力です」

「…大気にある魔力だって?できるのか、そんな事」


 訊いたのは傍で見守っていたユルングルだった。目を丸くして食い入るように問うてきたのは、初めて耳にした事実だったからだ。


 あくまで操魔は自身の魔力を操るすべで、それすら常識の範疇を逸した技術だが、さらに大気にある魔力まで操るなど、あまりに現実離れしていて夢物語を聞かされているような気分になった。


「ええ、できます。ただしこれは大気にある魔力を視覚化できている、という大前提の上に成り立った技術ですが」


 途端に興味を失くしたように息を吐くユルングルを、ダスクは僅かに失笑する。


 ユルングルに大気の魔力を視覚化できる能力はない。こればかりは生まれ持った能力で、訓練などでどうにかできる代物でない事を、ユルングルも承知していた。


 ダスクは改めてミルリミナに向き直る。


「覚えておりますか?ミルリミナ様。聖女に魔力を奪われそうになった時、おれが大気の魔力を操った事を」


 問われてミルリミナは記憶の糸を手繰り寄せてみた。

 正直あの時の事は思い出したくもない。思い出せばあの時感じた恐怖までもが蘇ってくるからだ。混乱の中でひどく不確かになった記憶を、それでも必死に探ったのは、聖女に対抗するすべがそこにあったからだった。


 そしてふと、一つの情景が鮮明に脳内に蘇った。聖女の力が相殺される直前、ダスクの右手に魔力の渦が見えなかっただろうか。


「…あの渦」


 口の中で小さくひとりごちた言葉に、ダスクは大きく頷いた。


「…ですが、私にできるとは思えません。魔力というものを感じた事がないのです。ましてや操るなど___」

「できます」


 不安を口にするミルリミナを、ダスクはぴしゃりと制した。


「貴女の中にいるのは、他ならぬ聖女です。魔力の扱いは誰よりも長けているでしょう」


 聖女が魔力を創造しているかどうかは別にしても、奪うという事は魔力を操っているという事だ。操れなければ奪う事などできるはずがない。そして奪った魔力を世界に循環する事も、やはり操れなければできないだろう。ミルリミナと同様、自身に魔力を持たない聖女は、むしろ大気の魔力を操る事に特化していると言ってもいい。


 ならばミルリミナにそれができないはずはないのだ。


「まずはおれが手本をお見せいたしましょう。おそらく貴女には口で説明するよりも、実際に体感された方が判りやすいはずです」


 言ってダスクは、目覚めたばかりの気怠い体をベッドから降ろそうとする。ベッドの端から足を下ろし、力を入れて立ち上がったつもりだったが、実際はどうやらわずかばかりの力も入っていなかったらしい。そのまま倒れそうになったダスクの右腕を、ユルングルは慌てて掴んだ。


「おいっ、無茶をするな。八日ぶりに目覚めたばかりだぞ」

「お体に障ります…っ。またお元気になってからでも…」

「…いえ、早ければ早い方がいい。…ありがとうございます、ユルングル様。もう大丈夫です」


 力なく言い放つダスクの顔色は、わずかに悪い。それでもベッドに戻る事はなく、ミルリミナの足元に膝をつこうとしているのが判って、ユルングルはそれを見届けてから掴んだ右腕を離した。


「…見ていてください」


 言葉と同時に、周囲の魔力が大きく弧を描きながらダスクの右手にゆっくりと集まっていく。まるで風を纏うように右手に集まったそれを、ダスクはミルリミナの両足にかざしてみせた。


「!」


 それは不思議な感覚だった。何も感じなかった足にまるで命が吹き込まれたような暖かさを感じる。だがそれは決して、感覚が戻った、というわけではなかった。変わらず他人の足を付けられたような不快感はそのままで、触れても触ったという感覚はまるでない。ないのに、感じるのだ。ほのかな暖かさと、まるで誰かが足を支えているような感覚が、ミルリミナの胸の中を満たしていくようだった。


「ユルングル様。ミルリミナ様にお手をお貸しいただけますか?」


 傍らで何が起こったかも判らず、ただ見守っているユルングルに、そう声をかける。次いで、ミルリミナに告げた。


「ミルリミナ様。ゆっくりと立っていただけますか」


 なぜ、とは訊かなかった。ミルリミナ自身、立てそうだと思ったからだ。


 差し出されたユルングルの手をミルリミナは迷う事なく手に取ると、ゆっくりと、だが確実に力を込めて足を動かしてみる。長らく動かなかった足は、まるで見えない誰かが手助けするように、容易たやすく動いた。そして、しっかりと地を踏みしめ足全体に力を入れる。いや、入れたふりだろうか。感覚は変わらず皆無なので、実際に力を入れる事が出来ているのかは判らない。判らないが、足は確実に、だがゆっくりとミルリミナの体を上げていった。


「………立った…」


 まるで自分に言い含めるように、ミルリミナは小さくひとりごちる。ユルングルの手を取ってはいるが、おそらくなくても立てるだろう。そう思えるほど、足は決して揺らぐ事なく堅固にミルリミナの体を支えていた。


「…一体、何がどうなってるんだ?ダスク、お前何をした?」


 目の前で起きた事象が理解できず、ユルングルは眉根を寄せて驚嘆にも近い声を上げる。

 視覚化されないユルングルには、ミルリミナの足を支えるように作られた魔力の足衣あしごろもが見えなかった。


 そう、これは衣だ。足全体を覆う衣。靴と言ってもいい。それもミルリミナの体を十分に支える事のできる堅固さと、足を動かす筋肉の代わりを務める柔軟さまで兼ね揃えた、第二の足。


「大気中の魔力を集めて、ミルリミナ様の足に魔力の衣を纏わせてみました。まるで誰かが足全体を支えているようでしょう?」


 ミルリミナは嬉々として頷く。


「歩いてみましょうか」


 ユルングルの手を取ったまま、ミルリミナはゆっくり足を動かす。感覚がないのに動かせるというのは、いかにも不思議な事だと、ミルリミナは思う。


 一歩、歩みを進めるたびに、誰かが操り人形を動かすように自身の足を動かす。まるで足自体が意志を持ったかのように動く様は、喜びよりも奇妙な気分にさせた。


「思った通りには動きますが、多少の時間差があるでしょう?」

「…はい。今までのように無意識に動かせる、というよりは頭で考えてから動く、という感じです」

「今はおれが魔力を操っていますので、どうしても時間差ができてしまいます。徐々にご自分で動かせるようになれば、その時間差もなくなり走る事もできましょう。しばらくは杖が必要になりますね」


 言って、ダスクはユルングルに視線を向ける。意を得て、ユルングルは頷いた。


「用意しよう。…他に必要な物は?」

「…そうですね。ではオパールの首飾りなどは作れますか?」

「オパール?…問題ないが…何をするつもりだ?」


 ミルリミナを一旦、車いすに座らせながら、ユルングルは怪訝そうにダスクを振り返る。ダスクは応える代わりに、悪戯っぽく、だが不敵とも思える笑みをユルングルに返した。


「…また何か企んでいるな?」

「人聞きの悪い」


 ひどく渋面を作るユルングルを、ダスクはくすくすと笑う。それがことさら機嫌を損ねたようだが、それでも膝をつきっぱなしのダスクを、ユルングルはベッドに座らせようと手助けするあたり、人がいいのだろう。あるいは、腕を落とした罪悪感からの行動なのかもしれない。


 ダスクは謝意を伝えてから、車いすに座るミルリミナに視線を向けた。


「ミルリミナ様、明日から毎日、操魔の鍛錬をいたしましょう。すぐに魔力を扱えるようになりますよ」



 いつもの柔らかい微笑でそう告げられてから、今日で八日目。


 なかなか体力の戻らないダスクの部屋に通い操魔の鍛錬を続けたおかげで、今ではもう車いすがいらなくなった。杖は変わらず必要だが、それでも足衣のほぼ半分はミルリミナの操魔で維持している。


 これほど早く習得できたのは、ダスクの教え方がひどく的を射ていたからに他ならなかった。


 ダスクとの鍛錬は、一切の言葉がない。そして単純明快だった。ただミルリミナの体を通して、ダスクが魔力を操るのを感じるだけなのだ。たったそれだけで、どうすればいいのかが判った。頭ではなく、体がやり方を覚えていくような感覚だろう。


 これが『同調訓練』だと教えてくれたのは、ユルングルだった。


「比較的、低魔力者は魔力を感じにくいからな。口で説明されても感じた事がないものを理解しろという方が無理があるだろう。なら感覚に訴えた方が判りやすい。理にかなった教え方だろう」


 少し不満そうにそう説明したユルングルも、やはり同調訓練で操魔を覚えたらしい。低魔力者の中でも極端に魔力の少ないユルングルにとって、魔力はひどく不確かで、その実相を理解するのはひどく困難だ。同調訓練はそんな出来損ないに教える為の苦肉の策で、魔力がないという現実を否が応でも突き付けられるような気がして好きになれないのだろうと、ミルリミナは思った。


「私は好きですよ」


 虚をかれて、ユルングルは目を丸くしながらミルリミナの顔を見る。


「ダスクお兄様は真っ先にこの教え方が念頭に浮かんだと言っていました。誰にでも判りやすく、そして体に一切の負担がかからないやり方だと。ダスクお兄様らしい、優しい教え方です」


 言われてユルングルは目を瞬いたのち、小さく息を吐く。

 内心を悟られた事に気恥ずかしさもあったが、ユルングルはこの考え方が妙に好ましかった。


 確かにダスクらしいといえばそうなのだろう。ダスクの為人ひととなりを熟知しているわけではないが、以前ダリウスが『神官はこうあるべき、というのをまさに体現しているような人物』と評した事がある。

 実際、体を悪くした人がいると聞けば、わざわざ部屋に呼んで治療を行い、今ではもうダスクの部屋が診療所さながらの様相を呈しているところを見ると、その評価は正しいのだろう。


 そう考えると卑屈になって同調訓練を嫌っていた自分が急に愚かに思えて、思わず笑いがこぼれた。


「…ユルンさん?」

「なんでもない」


 ユルングルは照れ隠しに、ミルリミナの頭を大雑把に掻き撫でる。


「…もう!髪がぐしゃぐしゃになるじゃない!」

「そうか?あんまり変わらないぞ」


 いつも通り揶揄して笑うユルングルの向こう側に、ふと見知った姿が視界に入った。


「…ダスクお兄様?」


 ミルリミナの言葉に反応して、ユルングルもミルリミナの視線の先を追う。確かにそこには、なかなか体力が戻らず、ずっとベッドの上にいたはずのダスクの姿があった。


「おい、一人で歩き回るな。また倒れるぞ」


 声をかけられて、ダスクは軽く笑いながら振り返った。


「さすがにもう倒れませんよ。患者も退いたようですし、なまった体を動かしがてら散歩でもしようかと思いまして」


 言って、髪を整えているミルリミナに視線を向ける。


「またユルングル様にやられたのですか?ミルリミナ」

「ユルンさんったら、すぐに頭を掻き撫でるんです。いつか髪が全て抜け落ちそう」


 ミルリミナの言に二人は思わず声を上げて笑った。


 ここに来てからのミルリミナは、目に見えて変わったとダスクは思う。皇宮にいた頃は常に気を張って、令嬢とはこうあるべきだ、という固定観念に雁字搦がんじがらめになっているような印象を受けた。


 だが、ここに来て気さくな住人に影響を受けたのだろう。常に凛とした公爵令嬢の仮面を外して、目まぐるしく表情が変わる様は、ようやく年相応に映った。


「__で?どこに行こうとしていたんだ?」

「あれを近くで見てみようかと」


 問われたダスクは、言いながら何もない宙を指差す。


「あれは……」


 ミルリミナはようやく、それが存在することを認識した。


 かろうじて見えたそれは、今いる場所を大きく囲うように存在する、穹窿きゅうりゅう状の透明の壁。それはあまりにひっそりと存在していた為か、いつも必ず視界に入っていたはずなのに、今に至るまで認識することはかなわなかった。この大きさならおそらく、隠れ家と工房の辺りまで囲っているだろう。


「…あれが判るのか」


 呆れたようにユルングルは息を吐く。

 ユルングルにそれは見えていない。だが存在は知っていたので、すぐに察したようだった。


「…こっちだ」


 ユルングルが先導して二人を連れて行った先にいたのは、何か見えないものを確認、あるいは今まさに生成しているのだろうか。両目を閉じ、見えない壁に手をかざしているダリウスの姿があった。


「邪魔をして悪いな、ダリウス」


 声をかけられて、ようやく三人の存在を認識したのか、慌てて佇まいを正す。


「どうされたのですか?」

「ダスクが、お前が作ったそれを近くで見物したいそうだ」

「やはりダリウスが作ったものでしたか」


 ダリウスは軽く驚き、わずかに笑って息を吐いた。


「お気付きでしたか。…元より貴方に隠せるとも思ってはおりませんでしたが」

「いえ、なかなか見事ですよ。これならよほどの者でもない限り容易く騙せるでしょう」


 三人の会話について行けず小首を傾げているミルリミナに、ユルングルが言葉を続けた。


「これはいわゆる遁甲とんこうと言われるものだ。人目をくらまし身を隠す魔術と思ってくれていい」

「身を隠す…?では隠れ家や工房は…」


 言わんとしている事を悟って、ユルングルは頷く。


「ああ、この壁に囲まれた一帯は簡単に出入りができない。…正確には俺たちに敵意を持った人間に限っては、だな」


 ああ、なるほど、とミルリミナは頷く。この壁より向こうに住むモニタや工房の職人たちは、ここの出入りに制限はないのだろう。制限がつくのはあくまで敵意を持ってここに入ろうとする者だけ。


 そういえば以前、工房の品物が高価になれば外から高魔力者たちがこぞって盗みに入ったり襲ってきたりはしないのかと尋ねた事があった。女たちはまるで危機感もなく、こぞって笑い飛ばしていたが、こういう事だったのかと合点がいった。


「では、敵意を持った人間にはここはどう映るんですか?」

「何もないんだよ。ただ森があるだけ。面白いだろう?」


 まるで悪戯をした少年のように笑うユルングルは、いかにも得意げだった。


「かなり複雑ですね。これほどのものを作るのに、何年もかかったでしょう?」

「…ええ、六年かかりました。全てユルングル様の設計です」


 言われてダスクは目を瞬く。


 最初に発案したのもユルングルだった。

 魔力というものを理解していない割に、その使い方に関して天才的なものがあったと言わざるを得ない。魔力を数式のように計算し、かなり精密に魔力の網を張った。それを少しずつ幾重にも重なるように、だけどもわずかにずらしながら繊細に構築していく。そうやって出来たのが、堅固な穹窿きゅうりゅう状の魔力の壁だった。


「…驚きですね。魔力を計算されたのですか?」

「俺には魔力がどういうものか判らないからな。とりあえずダリウスから魔力の特質を聞いて計算してみたんだが、思いのほか上手くいったようだ」


 上手くいったという程度の話ではない。おそらくそんな芸当ができるのは世界中探してもユルングルただ一人だろう。魔力の扱いに長けていると自負しているダスクだが、もしこの男に魔力があればおそらく足元にも及ばない。


(…だからこそ、創造主はこのお方から魔力を奪ったのか)


 ふと、そんな考えが頭をよぎる。

 奪った魔力はもう一人の獅子に。おそらくそういう事だろう。


「あら?みんなお揃いでどうしたの?」


 そう声をかけてきたのは、工房から帰る途中のモニタだった。


「ああ、ミルもいたのね。よかった。ずっと探していたのよ」

「私を?」

「ええ。ユルン、彼女を借りてもいいかしら。リュシアの街を案内したいのよ」


 リュシアの街、とはモニタが住む低魔力者の集落のことだ。彼らは侮蔑を込めたその名称を嫌って、自分たちだけの通称としてそう名付けた。この魔力の壁を抜ければ、すぐそこにリュシアの街はある。


「二人だけでか?それは危ないだろう」

「何が危ないのよ。フェリダンに行くわけじゃないのよ。いつもいつもあなた達が張り付いていたら、ミルも気が休まらないでしょ」


 もっともな言い分に、ユルングルは閉口する。ずっと付きまとわれている窮屈さは、誰よりもユルングルが一番理解していたからだ。


「…行きたいか?」


 ユルングルの問いに、ミルリミナは目を輝かせながら大きく頷く。


 ここに来て約半月ばかり、ずっと隠れ家と工房の往復では確かに物足りないだろう。だが、リュシアの街には低魔力者だけがいるわけではない。遁甲で守られているのはあくまで隠れ家と工房だけで、街には誰でも自由に出入りができる。何より、ミルリミナが聖女だと外の人間に気付かれれば、皇宮の騎士団が押し寄せてくるのは目に見えていた。


「行っておいで、ミルリミナ」


 言葉に窮したユルングルの代わりに、そう答えたのはダスクだった。


「おいっ」

「その代わり、男装してください」

「男装、ですか?」

「そして必ず、これを身に着けていてほしいのです」


 そう言って渡したのは、八日前にユルングルに依頼した、小さなオパールの首飾りだった。


「……これは?」


 オパールが太陽の光に反射して、七色に光る。動かすとその色も様変わりして、いかにも幻想的な輝きを見せた。


「おれの魔力をオパールに注いでいます。これを身に着けている限り、貴女は少年にしか見えません。いいですか?例え相手が誰であろうとも、決してこれを取ってはいけませんよ」


 何か含みがあるように念を押すダスクに、怪訝に思いながらもミルリミナは頷く。


「はい、約束します」



 モニタと共に立ち去るミルリミナの背を見つめながら、ユルングルは小さく呟いた。


「…どうしてオパールなんだ?」

「ご存じありませんか?オパールには『創造』という意味があるのですよ」


 オパールの七色の輝きは、場所によってその色を変えていく。まるで光を屈折して見え方を変えるその様は、姿をくらます魔力とひどく相性が良かった。


「……ずいぶん念を押していたが、誰がいるんだ?」


 密やかに言い放つその声は、どこまでも低く冷たい。察しが良すぎるのも考えものだと、ダスクは心中で人知れずため息を落とす。


 先ほどから、この街にひどく大きい魔力が降り立った。これほど大きな魔力を有するのは一人しかいない。できればミルリミナとして会わせてやりたいが、そうもいかないだろう。これはダスクのささやかな贈り物だった。


 ただ不安な事を一つ上げるならば、聖女の力が発動しないかという一点のみだ。これはできれば杞憂に終わってくれる事を祈るしかない。


 ダスクからの返答を冷たい視線を以って待っているユルングルに、ダスクは構うことなく不敵な笑みを向ける。


「…さあ、誰でしょうね」


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