殺した者と守れなかった者
そこはまるで廃墟のようだった。
フェリシアーナ皇国、皇都フェリダンの東に位置するこの一角に、低魔力者たちが住まう街がある。まるで追いやられるように作られた彼らの街は、同じ皇都フェリダンに存在しているのかと疑うくらい、粗末な建物であふれていた。
木造建てで今にも朽ちそうな家屋もあれば、壁にひびが入った石造りの家屋も少なくない。中には窓や扉もなく、布を垂らして扉の代わりにしている家屋もあった。そこに住まう低魔力者たちは日々食べていくのもやっとで、家屋の修繕にまわす余力がないのだろう。
煌びやかで綺麗な街並みから、わずか一本の道を隔てた所に位置するこの街を嫌って壁が作られたのは、つい七年前のこと。まるで汚いものに蓋をするように隔離されたこの壁は、反乱組織『リュシテア』にとって実に好都合だった。
反乱組織『リュシテア』_____。
彼らは元々、低魔力者の劣悪な環境を改善しようと立ち上がった、活動家たちの集まりに過ぎなかった。
そんな彼らが、国と決定的な確執が生まれたのは八年前のこと。
嘆願書を届けに役所に赴いた19歳の少女が、役所の男たちに輪姦され激しい暴行の末に命を落とした惨たらしい事件が発端だった。少女の亡骸には多くの痣や傷が無数にあり、顔はさらにひどく原形をとどめていなかったという。暴行の最中も誰一人助ける者もなく、笑っている者さえいた。ほとんど虫の息で、このまま放置すれば命を落とすだろうという事はその場にいた誰もが思ったそうだが、無残にも路上に捨て置かれたのだ。
その少女の死によって、彼らは訴える事の無意味さを悟った。
そうして生まれたのが、反乱組織『リュシテア』だった。
そのほとんどが低魔力者で構成され、一人一人の身体能力は低いが手先の器用な者が多いおかげでより強い武具が次々と開発された。殺傷能力の高い機械式の弓や、切れ味の鋭い剣、威力が凄まじい爆弾など、既存の物とは比べ物にならないほど良質なものが作られた。皮肉にもここで、低魔力者特有の能力が発揮されたのだ。
低魔力者の街の最奥にたたずむ石壁で造られた無機質な建物の中に、そんな彼らの姿はあった。
外観だけでなく内装も簡素で無駄な装飾はなく、冷たい印象を受ける。四階建ての意外に大きな建物ではあったが、家具は最低限でベッドが置かれている部屋もあるが基本はいくつかのソファと中央に小さな卓が置かれているだけの簡素な部屋が多かった。
そのソファに苛立たしく機械弓を放り投げ、男はかぶっていたフード付きの外套を投げ捨てる。その勢いで、束ねた長い黒髪が小さくたなびいた。
「…すまない、失敗した」
ため息をついて、男はソファに腰かける。
年は二十代半ばだろうか。
志の高さを表現しているかのような強く鋭い瞳と、すらりと通った鼻筋が凛々しい印象を与えるが、反面はっきりとした目鼻立ちに上品さも併せ持ち、その彫刻のように整った容姿は女性のような美麗さもある。華奢、と言うほどではないが、長身でありながらその細身の体型が、いかにも病弱な低魔力者である事を如実に物語っているようだった。
男はそんな綺麗な顔に渋面を取り、己の失敗に目を背けるように膝に肘をついて、文字通り頭を抱えた。
「ユルングル様が気になさる事ではございません。あれは誰にも予測不可能です」
傍に控えた金髪の男が、その場にそぐわない所作で水を満たしたグラスをテーブルに置く。ユルングルと呼ばれた男はそれを無造作に飲み干すと、忌々しい黒髪をかき上げた。
「ダリウス、いい加減、様を付けるのはやめろ。その畏まった態度もだ」
「いいえ、私は生涯貴方に仕えると誓った身。いくら主君の命でもそれには承服いたしかねます」
「俺は捨てられた身だ。忠誠も従者もいらない。ただでさえリュシテアの中にあってお前の髪色は目立つんだ。これ以上悪目立ちするな」
ダリウスと呼ばれた男の年は三十代半ばだろうか。
ひときわ目立つ金の髪が、低魔力者集団『リュシテア』の中では、より一層輝いているような気になって仕方がない。
『リュシテア』の人間が怖がるからと一度ユルングルはダリウスに髪を染めるよう提案してみたが、当然のごとく金の輝きがなくなる事はなかった。
それは『髪色を変える事はできない』という常識があるからだ。
それが魔力由来のものである為なのか、または別の要因なのかは定かではない。だが生まれ持った髪色を変える術はないと言われている。
リュシテアに入った当初、金髪のダリウスを多くの者が恐れた。高魔力者に対する恐怖が体に染みついていた事もあったのだろうが、何よりもその金髪があまりに高すぎる魔力を有している証左に他ならなかったからだ。
実際、ダリウスはあまりに強い。
身体能力は桁外れで魔法の発現も行える。二十四年間共に過ごしてきたが、戦闘においてかすり傷一つ付いたところをユルングルは見た事すらなかった。
そのダリウスがいつも傍に控えて守ってくれるおかげで今の自分がいる事は承知の上だが、低魔力者が高魔力者を恐れる気持ちも判る。できるだけ目立つなと何度も言い聞かせたが、目立っているという自覚がない上に、朴念仁のダリウスにはどうすればいいか判らない様子だった。
「…できるだけ目立たないようにしているつもりではございますが?」
…お前のその態度だ。
ユルングルは呆れた顔でダリウスを見る。どこに低魔力者に頭を垂れる高魔力者がいる。
だがかえってその態度を貫いているおかげで、この街の人間と打ち解けた事を知っている手前、あまり強くも言えない。
ユルングルは小さくダリウスを一瞥した後、諦めとも取れる嘆息を落とす。
「…もういい。それよりも…あの少女はどうなった?」
あの少女__自分の手から放たれた矢に倒れたあの少女だ。
「…治療の甲斐なく亡くなられたそうです」
一瞬、真実を告げる事をダリウスは躊躇った。ユルングルが赤ん坊の頃から傍にいたのだ。今何を思い、何に胸を痛めているのかは手に取るように判る。だが、どうせ嘘をついたところですぐに耳に入ってしまうだろう。皇都ではその話で持ち切りだった。
己の不始末は己で尻拭いをする。決して責任を放棄しないユルングルが、こういった噓を何よりも嫌う事をダリウスは承知していた。
「…そうか」
短く言い放ち、自らの右手に目線を向ける。
あの少女には悪い事をした。決して許されることではない。
「…他の奴らも落胆しているだろうな」
彼女は低魔力者の希望となるはずだった。無魔力者の彼女が皇族に入る。低魔力者のほとんどが国が変わる事を期待したに違いない。自分はそれを奪ってしまった。何より魔力を持たない者をこの手で殺してしまった罪悪感で、身を切られる思いだった。
彼女はこちら側の人間だ。同胞を、この手で殺めてしまったのだ。
「…ここに貴方を責める者はおりません」
口下手なダリウスにはこういう時どう慰めればいいのか判らない。精一杯考えてようやく出た言葉がこれだった。
それが判って、ユルングルはかすかに笑みをこぼす。
「なんて顔をしてるんだ。安心しろ、責任を感じて自害するような事はしない。今はまだ、やる事がある」
もう後戻りはできない。彼女の為にも、低魔力者たちの為にも、成し遂げなければならないのだ。
それが己の責務なのだから。
右手を強く握るユルングルの瞳には、決意の光が宿っている。そんなユルングルの姿に、ダリウスの心はざわついた。
(…では、事を成した後はどうなさるおつもりなのだろうか?)
その決意が何を意味しているのか、ダリウスは一抹の不安が頭をもたげた。
**
礼拝堂は静まり返っていた。
あれだけ歓声が鳴り響いていた教会はその面持ちを変え、闇の中に静かに佇んでいる。
誰もいない礼拝堂の中央には一つの棺と、その前に立ち尽くす一人の青年の姿があった。
青年は棺の中で眠る少女の頬にそっと手を添えた。
氷のように冷たいその体が、少女はもうこの世にいない事を告げている。色とりどりの花に囲まれ、少女の漆黒の髪は異様なほど綺麗に輝いていた。
「…なぜ私を助けた?」
誰もいない礼拝堂の中を青年の声だけが、かそけく鳴り響く。
「…私の事を、嫌っていたのではないのか……?」
顔合わせのあの日以来、ユーリシアはミルリミナを避け続けた。
ミルリミナを嫌っているからではない。
確かに顔合わせの時のミルリミナの言動は、あまり好ましいものとは思えなかった。だがあれ以来、妙に胸につっかえるものがユーリシアの心を支配した。
(聞き及んでいる事と、知っている事は違う…)
確かにその通りだ。
人伝に聞いた事で判ったつもりになっていた自分が急に恥ずかしくなった。
ならば、この目で見るしかないだろう。自分の目でしっかり見て現状を把握し、彼らの劣悪な環境を改善した上で、ミルリミナに貴女のやり方はやはり間違っていると言いたかった。やり返したりしなくてもいい世の中を作る事はできると、そう伝えたかったのだ。
だが彼らの現状はそんな甘いものではなかった。
銀の髪を帽子に入れ深々とかぶり、皇太子とばれないように市井におりたユーリシアは、低魔力者たちがまるで奴隷のように扱われている事を知る。
まだ日も昇らぬ時分から過酷な労働に従事し、鞭で打たれ、日が沈んでも働かされる。それだけ働いても貰える賃金はその日の食事を賄うには足りず、腹を空かせてまた働かなければならなかった。働く場所によってはさらに過酷で、逃げられないように足枷と手枷をはめられ、夜は牢屋に入れられている者も少なくない。見渡せば女子供関係なく、傷のない低魔力者はいなかった。
(……これほど劣悪な環境だったとは…)
いかに自分が安穏と暮らしていたのか、嫌というほど思い知らされた。これでは彼らの現状を見ながらも侮蔑の目を向け嘲笑っている傲慢な高魔力者と同じではないか。
市井ほどひどくはないだろうが、貴族の間でもこのようなことが横行しているのであれば、やり返すしか己を守る術はないだろう。
何も知らず、ミルリミナの行動をただ否定していた自分があまりに愚かに思えた。
その日からユーリシアは、低魔力者たちの環境改善に乗り出した。
ミルリミナとの茶会の席が何度か設けられたが、ユーリシアは政務を優先した。一刻も早く低魔力者たちの日常を改善する事が、ミルリミナを守る事に繋がると考えたからだった。
時折、皇宮の廊下でミルリミナとすれ違う事があったが、ユーリシアはミルリミナの顔を直視する事はできなかった。それは愚かにも、彼女に侮蔑にも似た感情を向けてしまった罪悪感によるものでもあり、自分への戒めでもあった。
まだ自分にはミルリミナの横にいる資格はない。事を成し遂げた後、自分はようやくミルリミナと向き合える。堂々と会う事ができる。
ミルリミナに対して恋愛感情と呼べるものはおそらくなかっただろう。だが、ミルリミナの心に寄り添いたいと思った。それが顔合わせの時、彼女を侮辱した罪滅ぼしだと自分を戒めたのだ。
それがかえってミルリミナを傷つけているとは思いもせずに。
顔合わせから二年が経つ頃、ミルリミナが皇宮を訪れる事がふいに途絶えた。
聞けば体調が芳しくないという話だったが、自分を嫌って顔を出さないのだろうとユーリシアは理解した。
(……当然だろうな。もう二年もの間、口を利いていない…)
己の意地を優先させ、結果的にミルリミナを遠ざけてしまった。低魔力者の為、ひいてはミルリミナの為と言いながら、内実は己の矜持の為だという事をユーリシアは知っている。知っていてもなお、止められなかった。ミルリミナを侮辱してしまった事、低魔力者の実情を知ってしまった事、いろいろな事がユーリシアの中で糸のように絡まりあい、すでに前進すること以外の一切を許さなかった。
我ながら愚かだと思う。
思ってもなお進むしかない自分が、さらに愚かに思えた。
そうして迎えた婚姻の儀。
あれから五年経ったが、低魔力者の待遇改善は思うように進まなかった。官吏たちを説得し、皇王の力添えもあって奴隷のような扱いを受けていた低魔力者たちの解放は成し遂げたが、彼らの貧しさが改善されたわけではない。
せめて日々の食事だけでもと炊き出しを毎日行う程度の支援は始めたが、ユーリシアにとっては不満だった。
そんな状態で迎えた婚姻の儀だからこそ、ユーリシアは憂鬱だったのだ。
どんな顔をして会えばいいのだろう。顔合わせから五年、一度も口を利いていない。ミルリミナはそんな自分を嫌っているのだろう。それが判ってさらに憂鬱になった。
そんなユーリシアの心とは裏腹に民たちの歓声は時を追うごとに増していった。目の前にある礼拝堂に続く扉が開けば、さらに大きくなるだろう。
そんな事を考えていると、ふと後ろから司祭が声をかけてきた。
振り返るとそこには、純白のウェディングドレスに身を包んだ漆黒の髪の少女が立っていた。まだ少し幼さが残るものの、透き通るような肌に薄桃色の頬紅と深紅に塗られた唇に一瞬どきりとする。ヴェールから覗く漆黒の髪が純白のウェディングドレスと対比してひときわ目を奪った。
綺麗だと言いたかった。
だがどの口が言うのだと自嘲した。五年放っておいて今更いい顔をするのか。
ユーリシアは己を律し、できるだけ表情に出さないように努めた。のちにこれが大いに後悔するとは思いもせずに。
「…言えば貴女はどんな顔をしただろうか?」
私があの時微笑んだなら、貴女も笑ってくれただろうか。
もう、どれほど考えても意味はない。彼女は死んでしまった。こんなつまらぬ男を守って。自分が守ると誓ったのに、手の届く場所にいたのに、守るどころか自分のせいで彼女を失った。もうどれほど後悔しても、彼女は戻ってこないのだ。
「ユーリシア殿下」
ふと後ろから声をかけられて、ユーリシアは内心ぎくりとする。振り向かなくともそこに誰が立っているのか容易に想像できたからだ。
今一番会いたくはない人物、そして今一番謝罪をしなければならない人物だ。
「…ウォーレン公」
「娘の為に長い間祈りを捧げてくださっているとお聞きいたしました。娘に代わり感謝申し上げます」
頭を下げる公爵夫人の瞳は真っ赤に晴れている。その姿を見るのが、今のユーリシアにはひどく堪えた。
「…頭を上げてくれ。感謝の言葉など必要ない。頭を垂れて許しを請わねばならないのは私の方だ。…あれだけ傍にいながら守ってやる事ができなかった。本当に申し訳なく思う」
「…!…おやめください!ユーリシア殿下…っ!」
深々と頭を垂れるユーリシアに、公爵夫妻は慌てて頭を上げるよう促す。
「娘もきっと満足している事でしょう。ユーリシア殿下がこうしてご無事でいるのですから」
…そうだろうか?
むしろこんな事になって悔いているのではないだろうか。
思えば彼女の人生はあまりに哀れだった。魔力がない事で幼い頃から病を繰り返し、挙句の果てに私から避けられ嫌われていると思ってこの世を去った。きっとこの婚姻も彼女にとっては苦痛だっただろう。私はただ、彼女を苦しめただけの存在だった。
…では、なぜ彼女は私を守ったのだろう?
何度問うても、この答えが返ってくる事はなかった。
「…ユーリシア殿下は、娘の良くない噂をご存じでしょうか?」
ふいに思いもしない事を訊かれ、怪訝そうにウォーレン公の顔を見る。
「…知っている。本当の事だと彼女から直接聞いた」
「…やはり、そのように伝えておりましたか」
小さく嘆息を漏らして、ウォーレン公は一呼吸おいてから、ゆっくりと頭を下げた。
「…娘の名誉の為に申し開きする事をお許しください。その噂は事実であって真実ではございません」
「…どういう意味だ?」
ユーリシアは目を瞬く。
「それらの娘の行為は、己を守るためではなく、すべて貴族の低魔力者を守るために行った事にございます」
事の発端はミルリミナがまだ十一の頃。
その日は体調も良く、久しぶりに父に連れられ皇宮に出向いていた時の事だった。父が急遽発生した政務をこなしている間、ミルリミナは父の邪魔にならないよう護衛の騎士と共に外の空気を吸いに庭園に行く事にした。
ミルリミナは皇宮に来ると、いつも人目を避けるように行動する。
身体も弱くまだ社交界に出てはいなかったミルリミナだが、公爵という高い地位とその漆黒の髪で誰もが一目でウォーレン公爵令嬢だと認識し、視線を集めてしまうからだ。
その日も見知らぬ者から何度も声をかけられ、ミルリミナはいい加減うんざりしていた。頭を垂れて挨拶をしてくるが、顔が見えないその裏で無魔力者の自分を嘲笑っている事が、子供ながらに見て取れたからだ。
辟易しながら庭園に入ると、突如大きな音と不快な笑い声が耳に届いた。
視線をやると、そこには数人の令嬢が地面に座り込んでいる令嬢を取り囲むように立っていた。周りの薄い髪色の中にあって、座り込んでいる令嬢の濃い茶色の髪がよく目立つ。一目で低魔力者の彼女を嘲笑していることが推察できた。
「あら、オルギア子爵令嬢。どうなさったの?地べたに座り込んで」
「ふふっ。どうやらこちらの椅子が、貴女に座ってほしくはないみたいですわね」
「…そうね、貴女に皇宮の椅子など勿体ないわ。低魔力者には地べたがお似合いではないかしら?」
皆が一様にくすくすと笑い出す。何度見ても虫唾の走る光景だった。
これが貴族令嬢のする事だろうか。品格も何もあったものではない。遠巻きに当惑した様子でただ見ているだけの者たちも、ミルリミナにとっては同じように不快に思えた。
「…では私も地面に座らなければなりませんね」
護衛の騎士が制止するのを目線で押し留め、ミルリミナは嘲笑の輪に入る。貴族令嬢たちは一瞬どきりとしたが何とか平静を装った。
「…これは公女さま。ご機嫌麗しゅうございます。この者は好き好んで地面に座っております。どうぞ公女さまは椅子をお使いください」
丁寧に挨拶をしているが、無魔力者である自分に対して礼を尽くさねばならない不満や理不尽さが見て取れた。
「…あら、私には魔力がありませんから、彼女同様きっと椅子が嫌がってしまいますね」
「!……そのような事は、ございません。魔力がなかろうとも椅子に座る事はできますわ」
不本意ではあったが公爵令嬢にそう言われてしまっては、もうこう返すしかない。
「ではオルギア子爵令嬢も椅子に座れますね。…さあ、座りましょう」
そう言って、身を竦めて怯えるように地面に座り込む令嬢に近づき手を差し伸べる。その時になってようやく令嬢の頬が赤く腫れている事、そしてドレスが破れ足から出血している事に気が付いて、ミルリミナは自身の体が硬直するのを感じた。
「…魔力のない者同士話も弾みましょう。我々はここで失礼いたします」
己の所業がミルリミナに気づかれた事を悟ったのだろう。バツが悪そうにそう告げて、まるで逃げるようにそそくさとその場を去ろうとする令嬢の足元に、ミルリミナは逃がすまいとすかさず自らの足をスッと延ばした。その思いがけない行動に、令嬢は面白いほど盛大に転んで目を丸くした。
「な…っ、何をなさるのです!?」
声を荒げてミルリミナを振り返った刹那、休む暇もなく今度は令嬢の顔に液体らしき何かが勢いよくかけられる。何が起こったのかすぐには理解できず、令嬢は呆然自失と目の前のミルリミナを視界に入れた。
その公爵令嬢の手にある、空になったグラスには見覚えがあった。
あのグラスには、確か赤ワインが入っていなかっただろうか。
そこに至ってようやく自分にかけられたものが何かを悟って、令嬢は怒りを表すように眉間のしわを盛大に増やした。
「…無礼な…っ。これが公爵令嬢のなさる事ですか…っ!!」
辺り一面むせかえるようなワインの香りに包まれ、憤慨して声を荒げる令嬢のドレスは赤く染まっていた。
そんな令嬢に彼女よりも憤慨した、だが静かな怒りを含む視線を、ミルリミナは向ける。
「無礼?ではオルギア子爵令嬢に暴力をふるう事は無礼ではないとでも?」
「そ…それは……」
「よかったですね。魔力の多い貴女は盛大に転んでも大した怪我にならなくて。…ですが、魔力の少ない彼女や私にとっては大怪我に繋がりかねないのです。それに比べれば貴女の痛みなんて些細なものだわ」
見下すような目線を向けて、ミルリミナは冷たく言い放つ。震駭して言葉を失う令嬢たちを尻目に、ミルリミナは踵を返してオルギア子爵令嬢に歩み寄った。
「…ああ、そのドレスの弁償はいたしますので公爵家に請求してください。もっとも、今の方が貴女によくお似合いですけれど」
もう何も言えなくなった令嬢たちを一瞥して、子爵令嬢を支えながらミルリミナは庭園を後にする。
やり過ぎたような気もする。
だがこれだけやっても、彼らが変わる事はないと知っている。ならばやれるところまでやるしかない。平気で人を傷つける者は、自らが傷ついても己の行いを改める事はないのだ。
父の執務室に向かう道中、ミルリミナは胸にふつふつと沸く決意を自覚した。
事の顛末を聞いていたユーリシアは、目を瞬きながら半ば呆れたようにため息をついた。
ユーリシアの事を正義感が強すぎると揶揄する者もいるが、ミルリミナもまた、人道に悖る行いに対して何よりも厳格な人間なのだろう。彼女には、見て見ぬふりをする、という事ができないのだ。
これほど好ましい人物もそうはいないだろう、とユーリシアは思う。
「…ならばなぜそう弁明をしなかったのだ」
ひとりごちたユーリシアにウォーレン公は静かに答えた。
「真実ではないが、事実ではあるからと」
「!」
「どれほど言い訳をしても、した事に違いはない。ならば甘んじて受けるとそう申しておりました。間違った事はしていないと自分が知っていればそれでいい、と。…我が娘ながら潔い子です」
「…女にしておくのは勿体ないほどだ」
つい口をついた言葉に、ユーリシアは慌てて口元を手で覆う。
「すまない…!今のは失言だった。心から詫びよう」
「いいえ、私も同じように思っておりました」
くすくすと穏やかに笑う公爵夫妻に、ユーリシアは思いを馳せた。
守る事ができなかった自分を責めるわけでもなく、こうやって穏やかに接してくれる。この公爵夫妻だからこそ、思いやりのある娘に育ったのだろう。
だが自分は、この好ましい人物を一生失ってしまったのだ。上辺だけを見て彼女の為人を誤解し、傷つけてしまった。
今更ながら、己の行いがあまりに愚かでいたたまれない気持ちになる。
「…私がいては最期の別れができぬだろう。ここで失礼しよう」
急に己が矮小な存在に思えて仕方がなかった。
一国の皇太子と言いながら、婚約者一人守れなかった情けない男。
どれほど魔力があると誉めそやされても、一番大事な時に己の伴侶の命をこの手から取り零した、不甲斐なく愚かな男____。
そんな自分を見せたくなくて、ユーリシアは逃げるように教会を後にした。