残された者
聖女誘拐の報が教皇に届いたのは、ちょうど討議会を終えた頃だった。
魔力枯渇の件は結局解決の糸口が見出せず、しばらく情報収集の期間を設けて再び討議会を開く事が決議され、解散となった頃に慌てて神殿騎士が伝えに来たのだ。
教皇への耳打ちであったため何が起きたか出席者には判らなかったが、神殿騎士の慌てぶりに聖堂内はざわついた。
「…ユーリシア殿下。少しお時間よろしいかな?」
教皇にそう問われ、ユーリシアは無言で頷く。皆の視線が注がれる中、聖堂を出て行く教皇と大司教筆頭に、訳も判らずユーリシアとラヴィは追従した。
聖堂を出ると馬車が聖堂前に回され、御者が深々と頭を下げる。乗るよう促され、ユーリシアとラヴィは怪訝に思いながらも馬車に乗り込んだ。
「…一体どちらに向かわれるのです?」
馬車が走り出してすぐ、たまらずユーリシアはそう問いかけた。馬車が必要だという事はある程度距離が離れているのだろう。だが、これは中央教会の敷地内を走る馬車のように見受けられた気がして、結局のところ、どこに向かっているのか推察できず、その現状がたまらなく不快で出た言葉だった。
「…気を確かに持って、落ち着いて聞いてほしい」
重苦しい空気の中、口火を切ったのは大司教筆頭だ。念を押したのは先ほど人目も憚らず殺気を向けた前科があるからだろう。
「…聖女、いやミルリミナ殿が攫われたらしい」
「!?」
その言に、言葉を失う。ユーリシアは目の前が真っ白になるのを、忌々しいくらいに感じた。
会おう、と約束したのだ。討議会が終わったら、また会おうと。なのに、そのような事態になるなど誰が想像できるだろうか。
ユーリシアは、すぐにはその言葉が理解できず混乱して、頭が上手く回らず、結果、聞き間違いではないかと大司教筆頭の顔を見たが、そうではない事を確認するに至っただけだった。
「…どういう事です……?…一体…誰に攫われたのですか…っ!?」
必死に平静を装いながら、できるだけ穏便に問うてみた。だが、膝の上で握った拳が震えているのをラヴィは見逃さなかった。
「…庭園で花見とやらを楽しんでいたそうだが、途中、侍女が湯を沸かしに庭園を離れたらしい。しばらくして戻ってきた時には、いたはずの場所には誰もおらず、探し回った結果、庭園の奥で倒れた神殿騎士と血溜りがあったと報告を受けた」
「!?血溜り…っ!怪我を…っ、…怪我をしたという事ですか…?」
怒りに任せて声を荒げてしまいそうになる衝動を必死に抑える。
「…まだ判らない。我が教会の大司教シスカもまた行方が判らないと聞いている。…とりあえず庭園に向かっているから詳細は着いてからにしよう」
大司教筆頭がそう告げてから、いくらも経たずに庭園に到着する。馬車から降りると、むせ返るような血の匂いが庭園の入口にまで漂っていた。
「…ユーリシア殿下……」
不安そうに声をかけるラヴィに、ユーリシアはかろうじて頷いて見せる。
「大丈夫だ。……大丈夫だ、ラヴィ…」
そう言い聞かせたい相手はラヴィだろうか、それとも自分なのだろうか。
逸る気持ちを抑えて、ユーリシアは教皇と大司教筆頭に追従して件の場所へと足早に向かう。
庭園の奥に行けば行くほど血の匂いは濃く強い。それがなおさらユーリシアの心を不安に駆り立てた。この血はミルリミナのものだろうか?これほどの匂いがするという事は、相当の出血をしているという事だ。それがミルリミナではない事を、ユーリシアはただひたすら祈っていた。
庭園の最奥に着くと、泣きじゃくるティーナの姿が見えた。
そしてその前に広がる凄惨な現場は、ユーリシアのみならずその場にいた誰もが息を呑んだ。
血溜りと聞いてはいたが、これはそんな生易しいものではない。辺り一面血の海で、一人の人間からこれほどの血液が流れては到底生きてはいないだろうと思ったのが第一印象だった。
そして同時に嫌な記憶が蘇る。ミルリミナが命を落とした現場はまさにこんな感じではなかっただろうか。
ぞっとして血の気を失いそうになったが、すぐにこの血液がミルリミナのものではない事をユーリシアは悟った。血の海の真ん中に、男の腕が落ちていたからだ。この中にミルリミナの血も混ざっている可能性も否定できないが、腕を切り落とされた事を鑑みるに、十中八九、腕の持ち主の血液が大半だろう。その事実でわずかばかり落ち着いて、多少の安心感を確保する。
神殿騎士に介抱されながら泣きじゃくっていたティーナは、ユーリシアとラヴィの姿を見つけると、咄嗟に走り出し二人の前で深々と頭を下げた。
「申し訳ございません…!私が離れたばかりにこんな…っ!」
「ティーナが悪いわけではない。むしろ君まで巻き添えを食わなくてよかった」
できる限り穏やかな声で、ユーリシアはティーナの無事を喜ぶ。
そう、ティーナが悪いわけではない。ミルリミナを護衛していた神殿騎士の落ち度だ。護衛対象を攫われるなど職務怠慢も甚だしい。あまりに情けない体たらくに、炎のようにふつふつと怒りが込み上げてきた。
「…とりあえず今日は自室に戻って休みなさい」
「皇太子さま…!お嬢様は…っ!」
「…必ず見つけ出す」
泣きじゃくるティーナをラヴィに預けて、ユーリシアは教皇の元に歩みを進めた。
例え個人の失態でも、ここでの責任者は教皇だ。一言言ってやらないと気が済まない。そう思ってしまうほど、ユーリシアはやり場のない怒りの矛先をどこかにぶつけたかった。
だが、それは一瞬にして灰燼に帰す事となる。
血の海の真ん中で跪き、物憂げに落ちた腕を撫でる教皇の姿を見てしまったからだ。
確か皇宮医であるシスカもまた、行方が知れないと大司教筆頭は言ってはいなかっただろうか。その皇宮医は教皇の秘蔵っ子だと、ずいぶん昔に聞いた記憶がある。あの腕は間違いなく皇宮医の物だろう。だとすれば生きている可能性は限りなく零に近い。
反面ミルリミナが生きている可能性は非常に高かった。それは彼女が『聖女』であるからだ。攫った理由は間違いなくそれであると考えれば、死んでしまっては何の利用価値もなくなるのだ。生きているであろうミルリミナを奪われた自分も哀れだが、死んだと確定せざるを得ない皇宮医を想う教皇が、いっそう哀れに映った。
ミルリミナの事ばかり念頭に置いていた自分が、途端に恥ずかしくなる。自分と同じように、いや、それ以上に、この情景を目の当たりにした教皇の心情を思うとその悲しみは計り知れない。
勢いに任せて教皇に歩み寄ったが、かける言葉もなくただ立ち尽くすしかなかった。
「…もう近くにはいないだろうが、神殿騎士団を招集して探させよう。何かしらの痕跡が見つかればすぐに報告するように」
大司教筆頭へそう告げる教皇に覇気はない。目線は皇宮医の腕に向けたままだ。
「…我がフェリシアーナ皇国の騎士団も、捜索に参加する事をお許し願えますか?」
「…ああ、是非とも」
そこでようやくユーリシアに視線を向けて、弱々しく笑う。
ユーリシアは教皇に一礼すると、踵を返して足早くラヴィの元に向かった。ティーナの姿がないのは、おそらくラヴィが自室に戻らせたのだろう。
「ラヴィ、今すぐ皇宮に戻る。騎士団を招集しろ」
「はい…!」
馬車に向かう歩みを止める事なくラヴィに告げるユーリシアに、ラヴィは追従する。
庭園からユーリシアの馬車がある場所まではかなり近い。庭園を出て左折すると神学校に通う学生の寮が見え、その角をさらに左折してまっすぐ行けば馬車がある場所だ。時間にしてものの五分もかからない距離だが、学生寮の角を曲がったところで、その馬車の前で待ち構えている人物が見え、ユーリシアはあからさまに不快感を露わにした。
「…ゼオン殿。今は貴方のお相手をしている暇はございません。ご用がおありなら日を改めてください」
「聖女が攫われたって?」
「!」
ユーリシアは目を丸くする。討議会中の聖女降臨の事といい、ゼオンは以前から普通ならば知り得ないような情報でも迅速に掴んでいる節があった。それはラジアート帝国の情報局統括という立場であれば当然だろうか。各地に諜報員を配し国内外を問わずありとあらゆる情報を扱っていると聞く。おそらくはこの国の皇族であるユーリシアよりも、この国の事に詳しいだろう。
「…貴方には関係のない事です」
「手伝ってやろうか?」
決して善意の言葉ではない事を、ユーリシアは了解している。
「貴方が彼女の行方をご存じならば、喜んでお申し出をお受けいたしますよ」
「知っていると言ったら?」
ユーリシアは間髪入れずゼオンの胸ぐらを掴んだ。
「知っているのか…!」
「…いいねえ、その表情」
くつくつと笑うゼオンの胸ぐらを、より一層強く締め付けた。
「…おいおい、それ以上は勘弁してくれ。ご覧の通り、この国で言うところの低魔力者だからな。お前さんに本気を出されちゃ敵わん」
苦しそうにしながらも軽口を叩いて、己の赤黒い髪を一束持ち上げる。ユーリシアは忌々しげに掴んだ胸ぐらを離すと、ひやひやしながら成り行きを見守っていたラヴィはほっと胸を撫で下ろした。
「…彼女の行方をご存じなのですか?」
「さてね。どうだったか」
この態度がユーリシアの神経を逆撫でするのだと、ラヴィは思う。むろん、判ってやっているのだろうが。
「どうやら手伝いは不要のようだ。健闘を祈るよ」
そう言って、くつくつと笑いながら去るゼオンの背中を、ユーリシアは横目で睨めつける。そして声を潜めてラヴィに告げた。
「…あの男を監視しろ。彼は間違いなく彼女の行方を知っている」
だからこそわざわざここに来たのだ。
俺は知っている。悔しければ見つけてみせろ。
そう、挑戦状を突き付けるために。
おそらくそうだ。…そうであってほしい。
おそらく、多分。
**
怒涛の一日を終え、大司教筆頭はすっかり疲れ切っていた。
騎士団に捜索させたが、結局何の手がかりもなく徒労に終わった。当分の間は魔力枯渇の件と並行して、聖女誘拐の情報収集も行わなければならない。それを思うと、シスカの喪に服す事もできないのかと、げんなりした。
ふと、神殿に目をやると明かりが灯っていた。もう夜半過ぎだ。普段なら怪訝に思うところだが、今はあそこにシスカの腕が置かれている。誰が訪れているか、大司教筆頭はすぐに理解した。
「ギーライル様」
静かに神殿の扉を開け、中にいる教皇に声をかける。教皇は振り返らず、ただシスカの腕だけを見つめていた。
「…こんな時間まで。お体に障りますよ」
「…可哀想になあ」
軽く息を吐く大司教筆頭に、教皇は小さく呟く。
「さぞ痛かった事だろう…。体を大事にと言ったが、約束を守らん子だ」
大司教筆頭には最初、何を言っているのか理解できなかった。
死んだシスカを憐れんでいるようにも聞こえるが、そうではない。これではまるで生きている者に対して軽く叱責し、呆れているように聞こえる。
「…ギーライル様、シスカはもう……」
「生きておるよ」
ようやく目線を大司教筆頭に向けて、もう一度告げる。
「あの子は生きておる」
そして大仰にため息をついた。
「もう少し穏やかに出て行ってほしかったのだがねえ。…これでは心配で心臓が持たん…」
「…お待ちください…!ですがこの腕に残された魔力はもう死んでいるではありませんか!?」
「あの子の操魔が長けているのは、お前さんも知っているだろう?」
そうにこやかに言われて、大司教筆頭は腰が抜けたように、へなへなとその場に座り込んだ。
「…私はてっきり、シスカは死んだものかと……」
「お前さんもシスカには甘いからのぉ」
くつくつと笑う教皇を、大司教筆頭は軽く睨めつけた。
「貴方ほどではございません!こんな無謀な計画を容認なさったのですか?」
「…腕を切り落とす事は、容認した覚えはないがねえ」
「無茶をするのはあの子の専売特許だとご存じでしょう。…まったく、私の涙を返してもらいたい気分です」
「ほう、泣いたのかい?」
思わず言ってしまった事に、大司教筆頭は大いに後悔する。バツが悪そうに赤面して、軽く咳払いをした。
「…なぜ二人を外に出したのです?」
立ち上がってシスカの腕を見ながら大司教筆頭は教皇に問いかける。
「あの子たちに必要な事だからかね。こんな狭い世界にいては何が正しくて何が悪かなど判らんだろう。…それはあの二人に限らず、だ」
「殿下にとっても、という事ですか?」
「彼もそうだな。そしてゼオン殿やリュシテアにいる者たちにとっても」
教皇の告げる事は時に難しく、理解しがたいと大司教筆頭は思う。だが、確かにあの二人が外の世界に出れば、おのずと周りの人間も外に目を向けるだろう。大司教筆頭には、それを察するだけで精いっぱいだった。
何が正で何が悪か、それを判断せねばならない時がおそらく来るのだろう。それを下すのはあの二人か、それともまた別の者なのか。そして何についての正と悪を判断せねばならないのか。大司教筆頭には判らない。
だが、それは確実に世界に影響する事象だという事は判る。シスカは片腕を失った状態で、その重責まで担ってしまうのか。
自分がしてやれる事がない事にもどかしさを感じながら、大司教筆頭はただシスカの腕を見つめていた。




