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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第一章 始まり 第二部 中央教会編

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聖女の力

 穏やかな陽だまりの中でお花見を楽しんでいたシスカが、遠く離れた聖堂から異様な殺気を感じたのは、討議会が開始されてしばらく経った頃だった。


 突き刺さるような殺気がシスカの全身を覆い、思わず悪寒が走る。暖かかったはずの陽だまりはまるで雪国にいるのではないかと錯覚するほど寒く、全身を鳥肌が立った。


 これは皇太子の殺気だ。

 これだけ距離があってなお、ここまで感じる殺気を放てるのは膨大な魔力を有する皇太子しかいない。


(…珍しいな。あの殿下がここまで殺気をあらわにするのは……)


 理由はおおむね想像がつく。おそらく聖女であるミルリミナとの婚約を周りから咎められでもしたのだろう。


 庭園に戻った時のミルリミナの表情から察するに、おそらく二人の仲違いは改善されたに違いない。ようやく関係を修復できたのに、そこに来て婚約解消を迫られれば、それはひどく不快だろう。

 婚約者である事を隠す事もできるが、あそこには一人厄介な人物がいる事もシスカは承知している。こうなる事は自明の理だろうか。


「シスカ様?どうされたのですか?」


 突然黙りこくったかと思えばひどく寒そうにしているシスカの顔を、ミルリミナは心配そうに覗いてみる。見れば顔面蒼白な様子に、さらに不安になって思わず声を上げた。


「シスカ様!ご体調が優れないのですか…っ?」

「…いえ、少し寒気を感じただけです。もう平気ですよ」

「ですが顔色が優れません…。ティーナ、暖かい飲み物をお願い」

「かしこまりました!」


 持ってきた暖かい飲み物はすっかり冷えてしまったので、ティーナは慌てて暖かな飲み物を取りに給仕室に向かう。


 ここから給仕室までは程々に遠い。湯を沸かしてここに戻ってくるまでにはかなりの時間を要するだろう。ちょうど計画実行の為にそろそろティーナを離したかったシスカにとって、図らずも絶好の機会が訪れる形となった。


「…ミルリミナ様。少し付き合っていただけませんか?庭園を散歩して少し体を動かせば、この寒気も落ち着きましょう」

「…シスカ様のお体に障らないのでしたらご一緒いたします」


 もう寒気は感じなかったがミルリミナの同情を誘う為、弱々しく尋ねてみる。そんなシスカにミルリミナは何の疑念もなく微笑み快諾した。


 その純粋な笑顔が、シスカの罪悪感を強く刺激する。せめて怪訝そうな顔でもしてくれればわずかでも罪悪感が薄れようものなのに、信用しきっているのが手に取るように判るから、なおさらたちが悪い。これほど全幅の信頼を寄せてくれている少女を騙し、拉致しようとしている現実がシスカにはたまらなく辛かった。


 ミルリミナには勘付かれぬよう平静を装い、シスカはミルリミナを抱えて車いすに乗せると、そのまま庭園の奥に歩みを進めた。思った通り護衛の二人は少し離れた所から一定の距離を保ち追従してくる。それを確認して、シスカはユルングルから指示された場所へと向かった。


 その道中、シスカの内心は自分でも驚くほど緊張と不安に駆られている事を悟った。


(…何をいまさら)


 自嘲気味に笑みをこぼし、心中でひとりごちる。


 あの日確かにシスカの心は一度死んだ。あれほど様々な色に満たされていたシスカの世界は、あの日を境に闇へと転じた。すべてがどす黒く、吐き気がするほど醜い。

 温厚篤実おんこうとくじつだと評され、自分でも疑う事なく受け入れていたが、その内実は抑えきれないほどの憎悪が渦を巻いている事に心底驚いた。


 その日以来、人を欺く事に何の躊躇いも感じなかった。

 罪悪感とは無縁で、表向き温柔敦厚おんじゅうとんこうな人物を演じながら人を欺く事に快感すら覚えた。


 なのに、この感情は何なのだ。

 誰を騙そうが嘘をつこうが決して揺るぐ事のなかった罪悪感が、シスカの心内こころうちを支配する。シスカを苛み、シスカを責め立てた。


 その理由を、シスカは嫌というほど理解していた。今目の前にいる少女が、自分が闇に落ちた原因…最愛の妹にひどく似ているからだ。

 顔が似ているわけでも性格が似通っているわけでもない。妹は平民の生まれだ。ミルリミナのような淑女という言葉とは無縁で、むしろ年頃の娘とは思えぬほどお転婆だった。何度娘らしくしなさいと注意したかしれない。似ているなどとおこがしいほどだった。


 だがその心根はひどく似ていた。自分の事よりも相手を心配する優しさや、苦しくても心配をかけさせまいと気丈に振る舞う心遣い。その所作や表情には違いがあれど、相手を思う一つ一つの優しさが妹と重なり、何よりその笑顔が妹を彷彿させた。


 自分が騙されたと判れば、この笑顔はどうなるだろうか?

 シスカにはただこの事だけが、たまらなく不安だったのだ。


「…シスカ様?やはりお体の具合がお悪いのでは……」


 ずっとだんまりを続けるシスカを心配して、ミルリミナはシスカの顔を覗き込む。

 この少女を騙す事は、おそらく自分にはできないだろう。シスカは後ろから追従する騎士たちを目線で押し留め、声が聞こえぬ距離まで離れるとミルリミナの目線に合わせるように跪いた。


「…ミルリミナ様。今まで貴女を欺いていたこと、どうかお許しください。そして今からお話しする事を彼らに気取られぬよう平静を装っていただきたいのです」

「……!」


 思わず後ろの騎士たちを振り返ろうとして、ミルリミナは何とかその衝動を抑える。何の話か判らず困惑したが、その真摯な瞳にミルリミナは頷いた。


「…時間がございませんので率直に申し上げます。私は反政府組織であるリュシテアの間者です」

「……!?」


 思いがけない告白にミルリミナは文字通り言葉を失った。


 『リュシテア』という組織を間近に感じたのはつい最近のこと。それまではそういう組織があるという噂だけ、幾度か耳に入ってきた程度だった。ただの噂が実在すると実感したのは、他でもない自分が一度彼らに殺されたからだ。


 己自身も無魔力者ゆえにその組織に対して好ましい感情があった事は確かだ。だが殺されてから、何よりそれが他ならぬ皇太子の命を狙っていたと知って以降は彼らに対して複雑な感情が芽生えていた。


 そんな『リュシテア』の間者だと、シスカは告白したのだ。

 どう受け入れていいか、ミルリミナには判らなかった。


「……なぜシスカ様が…?高魔力者でいらっしゃるのに……」


 当然の疑問だろう。

 狼狽しながらもミルリミナは騎士たちに気取られぬよう声を潜めて問うてみた。


「…私に妹がいたという話を覚えておいでですか?」

「…はい。お亡くなりになられたと……」

「…私の妹は低魔力者であったがゆえに暴行されその命を落としました」

「!?」

「その時から、私はただ復讐する事だけを願い生きてきたのです」


 そう告げたシスカの表情が恐ろしいほど憎しみに満ちた顔に歪む。それはもうミルリミナの知る大司教シスカではなかった。あまりに恐ろしく、体の芯から震えが込み上げてくる。


 そしてそれと同時にミルリミナは、最愛の妹を亡くしたシスカの心情をおもんばかった。

 どれほど辛かった事だろう。シスカの為人ひととなりはよく知っているつもりだ。いつも優しく誠実に接してくれたのは決して演技ではないと確信している。これが生来のシスカという人物なのだろう。だからこそ教皇をはじめ、ここ中央教会に従事する者たちは皆シスカを慕っているのだ。


 そんなシスカがあれほどの憎悪を募らせるほど、妹を失った悲しみは計り知れない。それを思うと例え己を殺した組織の一員でも憎む気持ちにはなれなかった。


「…貴女にはどのように詫びても謝罪しきれません。一度貴女のお命を奪ってしまったのですから。そして、貴女を欺いてしまった事も…」


 そこまで告げたところで、シスカは驚きのあまり息を吞んだ。視線の先のミルリミナの瞳から涙がぽろぽろと落ちているのが見えたからだ。そして騎士たちに気取られぬよう、必死に声を押し殺そうとしているのが判って、シスカは愛おしい気持ちになった。


「…なぜ、ミルリミナ様が泣いているのです?」

「…シスカ様がとてもお辛いのに、涙を流せないでいらっしゃるからです…」

「!」


(……貴女という人は)


 シスカは小さく微笑み息を吐く。


「…私の代わりに泣いてくださるのですね」


 騎士たちに見えぬよう、ミルリミナの涙を拭う。そういえば遠い昔、妹にも同じように言われた事をシスカは思い出した。


(お兄ちゃんが泣かないから私が代わりに泣いてるんじゃない…っ!)


 その言い方も表情も決して似ているとは言えない。だがやはりその心根がとても似ているとシスカは改めて感じて、穏やかな気持ちになった。


「…ありがとうございます。ミルリミナ様」


 謝意を伝えて、シスカはミルリミナの手を取る。

 間違いではなかった。例え『リュシテア』に来る事を拒否されても、すべてを告白した事を後悔はしないだろう。この心優しい少女を騙すよりずっとましだ。


 そう思った時だった。

 ミルリミナの周囲を渦を巻くようにゆっくりと流れている魔力の流れが急激に変化した。シスカに握られている左手周辺に渦が集中する。それは急激に速度を増し始めた。


「!?」


 渦は魔力を吸引する際にできる大気の流れだ。大気中に漂う魔力が空気の流れに乗って、それが視覚化される事によって渦を巻いているように見える。その流れが速くなったという事は何かを吸引しようとしている事に他ならない。


 そしてその狙いが何なのかを、シスカは瞬時に理解してしまった。己の中にある魔力を根こそぎ持っていかれる奇妙な感覚に襲われたからだ。


 不躾に自分の中に入り込んで体の奥底から魔力という魔力を引き抜こうとする。その威力はすさまじく、少しでも気を抜けば一瞬のうちに吸い尽くされる勢いだった。


 ミルリミナも何を吸引しようとしているのか気付き、慌ててシスカの手を振り払おうとするが、まるでシスカの手が石になったかのように固く握られていて振りほどけない。シスカも手を離したかったが、そちらに意識が移るとその隙に魔力を奪われてしまいそうでできなかった。


(……っ)


 引っ張られる己の魔力を操魔で何とか引き留める。加えて右手で大気に漂う魔力を使って渦を作り、左手に集中する渦に当ててみた。一か八かの賭けだ。これが通用しなければもう手立てはない。ただ体力が尽きて魔力を根こそぎ奪われるのを待つだけだ。


(………頼む…っ!)


 祈りにも似た気持ちで成り行きを見守る。

 渦と渦は強く反発しあい何度か小さく弾む。それをさらに押し当てると、渦は突然強く弾けた。いや、弾けたように見えた。実際はどうなったのか判らない。


 ただ、もう渦はない。シスカの右手にあった渦も、ミルリミナの周囲を取り巻いていた渦さえも綺麗にその姿を消していた。


 静寂が場を包む。シスカの魔力を吸い上げるあの不快な感覚はもうない。石のように硬かった左手を、シスカは右手で小さくさすった。気付くのがあとほんのわずかでも遅ければ一瞬のうちに魔力を吸い尽くされていただろう。それはすなわち死に直結する。どうやら己の魔力を死守できたと小さく息を吐いた。


 次いで、傍で控えている騎士たちに目線を向けた。軽く怪訝そうな顔はしていたものの、何が起こったかはまるで理解していない様子だった。

 それもそのはずだろう。これは大気に流れる魔力の流れを見る事のできる者にしか認知できない事象だ。この場ではミルリミナとシスカの二人にしか見えてはいない。


「……シスカ様……これは一体……?」


 消え入りそうなほど小さな声でミルリミナは問いかける。顔面蒼白で視線は小刻みにうつろい、見ればシスカに握られていた左手を握る右手が小さく震えていた。


 これは何と説明したらいいのだろうか。

 おそらくこの力はずっと機会を窺っていたに違いない。常に気を張っていたわけではないが、隙を作った覚えもない。だからこそ今まではこの力が鳴りを潜めていたのだろう。それがわずかに油断してしまった。


 いや、そもそも今まではミルリミナの体に馴染むまでの準備期間だったのかもしれない。いよいよという時期に隙が見えて、ここぞとばかりに襲ってきたのだ。


 教皇ギーライルの言葉が、シスカの胸に一筋の光を落とす。


(お前は優しい子だからね。決して放ってはおけないだろう)


 …ああ、その通りだ。

 これは見過ごす事はできない。おそらく操魔に長けた自分でなければ魔力は残らず奪われていただろう。そしてまたこのような事態が起こっても自分であれば対処できる。いや、自分でなければ対処できないのだ。


 そして何より、小さな肩を震わせて一人必死に恐怖と闘っているこの少女を放ってはおけなかった。


(……ギーライル様はすべてお見通しなのですね…)


 教皇ギーライルの傍から離れないと誓った。それが果たされない事はひどく心苦しい。だがそれ以上に、ミルリミナの傍から離れる不安感がシスカの心を支配した。


 シスカは意を決したようにミルリミナの瞳を見つめて口を開いた。


「ミルリミナ様、気をしっかりお持ちになってお聞きください。…この力はおそらく、高魔力者を標的にしております。ここにいては危険です。……この意味が、お判りですね?」


 判らないはずがない。ここにいては間違いなくユーリシアが標的にされる。あれだけ膨大な魔力だ。この力にとっては格好の餌食だろう。危険なのはミルリミナではない。他ならぬユーリシアなのだ。


「もう時間がございません。ここに貴女を迎えにリュシテアの人間が訪れます。何も聞かず彼らについて行ってください」

「!」


 ミルリミナの脳裏を聖女の言葉がよぎる。


「…シスカ様が、導く者だったのですね……?」

「導く者……?」


 聖女は導く者が現れれば自分の為すべき事が判ると言った。

 では、あれが自分の為すべき事なのか。あのおぞましく、あさましい行為が。

 それを思うとあまりに恐ろしく虫唾が走った。


 あれではただの強奪ではないか。高魔力者から無理やり魔力を引き剥がし奪う。その魔力を一体何に使うのかは知らないが、その結果奪われた者の命がついえる事など一切の配慮がない。この力が聖女の力などあまりにもおこがましい。これは、悪魔の力だ。


 そう思ってなお、ここを離れる事に一抹の躊躇いが生じたのはユーリシアの顔が脳裏をよぎったからだ。


 離れたくない。

 だが離れなければならない。

 ユーリシアを守るために。


 不安で押し潰されそうになる心を、シスカを見る事で落ち着かせようとする。それが判ってシスカは柔らかく微笑んで見せた。


「ご安心ください。私も共に行きます」


 まるでシスカのその言葉が合図だったかのように、身を潜めていた二人の男が一斉に飛び出してきた。


「!?」


 決着がついたのは一瞬の事だった。騎士たちは突然の事で対応が遅れ、身構え剣に手を添えた頃にはすでに意識を失い地面に倒れていた。


「ふぅ…」


 黒髪の男が小さくため息を落とす。


「お出来になるではありませんか、閣下」


 意地悪そうな視線を送るシスカを、ユルングルは小さくめつける。


「できないとは言ってないだろう。それとその閣下はやめろと何度も言ったはずだ」

「これ以外の呼び方を存じ上げませんので」


 ああいえば、こういう…とユルングルは閉口する。そんなユルングルをミルリミナは怪訝そうに見つめていた。


 どこかで会ったような気がする。だがそれがどこかも判らないし、もしかしたらただの気のせいかもしれない。思い出せない事がひどくもどかしく、不思議な既視感をユルングルに感じていた。

 そんな視線に気付き、ユルングルはミルリミナに視線を向ける。


「…彼女か?」


 ユルングルは純白のドレスに身を包んだ姿しか知らない。何よりあの時の標的は皇太子で彼女ではなかった。顔を覚えていなくとも仕方がないだろう。


「ええ。ですが時間がございません。挨拶は後回しにいたしましょう」

「そうだな。…なら、覚悟はいいか?」


 言って、ユルングルは持っていた剣で一度空を切る。


「それほど深手にはしないぞ」

「いえ、申し訳ございませんが計画を変更いたします。おれも共に行きましょう。その為に、今ここでおれを殺してください」

「!?」

「もちろん本当に殺されては困ります。おれにはまだやらなければならない事がございますから」


 そう言ってミルリミナに視線を移す。小さく笑って再び視線をユルングルに向けた。


「ですので、おれの左腕を落としてください」

「!?」

「ダスクさん!何を考えているのですか!?」


 あまりの提案に、たまらず傍で控えていたダリウスが口を挟んできた。


「左腕を落とすなど、下手をすれば命まで落としますよ!」

「ダリウスにしてはうまい言い回しですね」

「ダスクさん!」


 くすくすと笑うシスカを、ダリウスは忌々しそうにたしなめる。


「判っています。おれも冗談で言っているわけではありません。ですが腹立たしい事におれの顔は多くの者に知れ渡っているのです。死んだ事にしなければ、例えここを出ても身動きが取れぬでしょう。…その為には対価を支払う必要があるのです」


 切れと言った左腕をシスカは右手で強く握る。この腕がなくなれば、今までと同じにはいかないだろう。日常生活が不便になる事は全くいとわないが、それでも両腕が必要な時は必ず来る。先ほどの魔力を奪われそうになった時でさえ、両腕があったからこそ助かったのだ。それを思うと、左腕を失う代償はあまりに大きい。


 だが常人よりも魔力の感知能力に長けている神官たちを欺くにはこの方法しかなかった。ただ大量の血痕を残すだけでは足りない。それに加え魔力の流れを完全に断ったシスカの左腕が現場に落ちていれば、誰しもが死んだと思ってくれるだろう。


 そして、多少の違和感はおそらく教皇が何とかしてくれる。ただ、体を大事にと言ってくれた教皇の気持ちを裏切る事だけが、ひどく心苦しかった。


「お待ちください!シスカ様…っ!私は一人で大丈夫です!ですから…!」

「ミルリミナ様。私が貴女のお傍にいると決めたのです。どうか決して、ご自分を責めたりなさらないでください」


 泣きそうなミルリミナをなだめるように、できるだけ不安を隠しつつ最大限、柔和な笑顔でミルリミナに応える。そんなシスカの姿を見受けて、ずっと無言で成り行きを見守っていたユルングルがようやく口を開いた。


「…本当にいいんだな?」


 最後まで反対するだろうと思っていたユルングルが、一番落ち着き払っている事にシスカは内心、驚嘆する。殴ってでも止めに来るだろうと思っていただけに、拍子抜けしてしまった気分だ。


「ユルングル様!何をおっしゃっているのです!」

「ダスクが以前のように己の体を粗末に扱っているのなら殴ってでも止めている。だが、今は守りたいものがあるんだろう?左腕を失ってでも」


 左腕を失う恐怖と不安を見透かされているのだと、シスカは自嘲気味に笑う。


 内心逃げたくなるほど怖い。左腕を失って気を失わないでいられるだろうか?操魔で多少、痛覚を鈍くする事はできるが、完全に痛みを感じないわけではない。激痛に絶えながら、切り落とされた左腕に残る己の魔力を、操魔で完全に死んだ魔力に変えなければならないのだ。それは気が遠くなるような作業のように思えた。


「…時間がありません。お願いいたします」


 決意を込めた瞳で視線を返すシスカに、ユルングルはただ頷く。そしてミルリミナの座る車いすを、シスカが見えないよう背を向ける位置に持っていくと、荒々しく告げた。


「いいか、決して見るんじゃない。そしてよく覚えていろ。あいつの腕を奪うのは俺だ。あんたじゃない」


 シスカはただその心遣いに感謝し、振り返ったユルングルにこうべを垂れる。


 背を向けさせられたミルリミナは、どうしようもなく体が震えるのを感じていた。止めようと思っても体は小刻みに震え、それでも抑えようと自身の肩を強く抱きしめる。

 ユルングルの足音が自分から遠ざかっているのが判る。シスカに歩み寄っているのだろう。背を向けてはもらえたが、耳に届く音だけでその情景がまざまざと心に浮かぶ気分だった。


「できるだけ痛みのないようにはするが、覚悟はしてくれ」


 剣を構える音が聞こえる。シスカの返答はない。

 そして一呼吸置いた後、剣が空を切る音が聞こえた。次いで何かがゴトンと地面に落ちる鈍い音と、シスカがくずおれる音。それから大量の血液が地面に流れ落ちる音がミルリミナの耳に届いた。


 ここから先はもう覚えていない。

 ミルリミナの意識はその音を最後に、恐怖に耐えきれず潰えたからだ。


 シスカは激痛に絶えながらも遠巻きにミルリミナが気を失った事を確認する。


「おい!早く止血しろ!できるんだろう!」


 思った以上の速さで流れ落ちる血液に、ユルングルは焦った。シスカの顔は顔面蒼白で急速に血の気を失っているように見える。外套を破って急いでシスカの腕を体ごと強く巻きながら、シスカを鼓舞するように強く怒鳴る。


 シスカは何とか意識を保ちながら、魔力を操って痛覚を鈍くし、血液の流れを腕の手前で遮断する。ほんのわずかではあるが痛みが和らいだ事で、わずかばかりの気力が蘇った。


「……閣下……おれの…腕を……」


 最後まで言う事はできなかったが、ユルングルは続きを察して切り落とされた左腕をシスカの前に持ってくる。


 通常体の一部を切り落とされても、本人が生きていれば切り落とされた体の一部に残る魔力の流れはついえる事はない。生きていれば魔力は体内を絶えず流動しているからだ。これで生きているか死んでいるかの判断を下すのだが、シスカは操魔でこの流れを断ち、死んだ魔力に変えようとしているのだ。


 残された右腕で、左腕にそっと手を添える。入念にゅうねんに魔力の流れを読み、その流れを少しずつ緩やかにしていく。わずかでも取りこぼしがあってはならない。そうでなければ左腕を失った意味がなくなってしまう。


 時間にしてわずか二、三分の事だったが、シスカには気が遠くなるほど長い時間のように思えた。


「………行きましょう……」


 絞り出すように告げる。もうほとんど意識はない。目が虚ろで、気力のみで己を奮い立たせているのが判る。もう痛いのかどうかもシスカには判らなかった。ただひどく左腕が疼き、熱があるかのように熱い。その反面、体はひどく寒かった。


 ユルングルは残されたシスカの右腕を己の首の後ろに回すと、シスカを支えて立ち上がる。


「しっかりしろ。ここで死なれちゃ後味が悪い。まるで俺が殺したみたいだろうが…!」


 憎まれ口を叩くユルングルに、シスカは内心笑みをこぼした。


「彼女は私が連れて行きましょう」


 そう言ってミルリミナに近寄ろうとするダリウスの腕を、シスカは無意識のうちにユルングルの肩から右腕を外して、掴んだ。


「……いけません……ダリウスは…彼女に触れないでください……他の、高魔力者もです……彼女は……閣下に………」


 もうほとんど消え入りそうな声でシスカは告げる。


 理由は判らなかったが、この状態ではけるはずもなく、ユルングルとダリウスはお互いの顔を見合わせて頷き合う。支えていたシスカの体をダリウスに預け、車いすの上で気を失っているミルリミナを抱きかかえた。


 その場を離れる道すがら、シスカは大量に残された己の血液とその中心に無造作に置かれた左腕を振り返る。


 この光景を見れば、教皇はその心を痛めるだろうか。

 言葉では言い尽くせないほどの恩を受けたのに、仇で返してしまった。


 薄れゆく意識の中、ただただ教皇への後ろめたさで、懺悔の言葉だけがシスカの心を反芻していた。

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