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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第五部 捲土重来(けんどちょうらい)

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もう一人のユルングル・終編

「ミシュレイから見て、街の様子はどうだ?」


 ようやく要塞から出立して街に向かう道すがら、ユルングルに姿を変えたユーリシアは街で暮らすミシュレイにそうたずねた。


 そんな彼をちらりと一瞥したミシュレイの視界に映ったのは、外套のフードを目深に被った友の姿をしたユーリシア─────目深に被せたのは、他ならぬ自分だ。


「んー…まあ、それなりには動揺してんじゃねえの?浮足立ってるっていうかさ。みんな今後の成り行きがどうなるかって固唾を呑んで見守ってる感じ?」

「………やはりそうか」


 言って、市街地に入ったばかりの街並みを見渡す。

 ミシュレイが目深にフードを被せたおかげで、見える視界はかなり狭い。その狭い視界の中にも、皆不安そうに集まって何かをしきりに言い合っているのが見て取れた。中には口論に近い声や、不安に促されるように声を荒げるような者も見受けられる。


 街の実情は、ユーリシアが思っているよりも切羽詰まっているようだった。


「……早急に対処する必要があるな」


 緊張感を伴ってぽつりと呟いたユーリシアの言葉は、だが緊張感のないミシュレイの言葉に呆気なく否定される事になる。


「そんなに深刻に考えなくても大丈夫だってば」

「……え?」

「ソールドールの連中はそんなにやわじゃねえし、何よりユルンちゃんがいるからさ」

「…?……だが─────」


 ミシュレイの言葉の意図を図りかねて、ユーリシアは小首を傾げながら反論しようと口を開く。─────刹那、街の中心から男の怒鳴り声と悲鳴に近い喧騒が唐突に響き渡って、ユーリシアたちは弾かれるようにそちらに顔を向けた。


「行ってみよう!!」

「───殿下!!?」

「待てって…!!!」


 ユーリシアは二人の制止も聞かず、喧噪の真っ只中に足を踏み入れる。訪れた先にあったのは、商人らしき者たちと街の住人とおぼしき者たちが、二手に分かれて真っ向から言い争っている光景─────。その中心となっているのは、まだあどけない少女のようだった。


「だから大丈夫だって言ってるじゃない!!街の人たちの不安を煽るような真似はやめてよ!!」

「煽ってるんじゃない!!!これが事実だろうが!!!」

「そうだ!!大体、何の根拠があって大丈夫だって吹聴しているんだ、お前は!!!」


 臆する事なく声を上げるその少女の姿が人だかりのわずかな隙間から垣間見えて、アレグレットとミシュレイは目を瞬いた。


「…!アーリア…!?」

「………何やってんだ、あいつは…!」

「知り合いか?」

「ああ…!正確にはユルンちゃんのな…!」

「…!ユルンの?」

「……ユルングル様が盗賊から乗合馬車を守られた話は昨日お伝えしましたでしょう。彼女はその乗合馬車の乗客の一人です」


 潜めた声でそう教えてくれるアレグレットの言葉に、ユーリシアは自身の記憶の中に合致する存在を見つける。


「まさか……カルリナと一緒に行動していたという……?」


 その時の当事者でもある二人は、半ば呆れながら無言のまま頷く。カルリナの報告と二人の様子を見るに、どうやら彼女は無意識に厄介ごとを引き寄せてしまう体質の持ち主らしい。


 ミシュレイは諦観したようにため息をくと、半ば面倒くさそうに人ごみをかき分けた。助けに入るつもりだったミシュレイの足は、だが彼よりも先に間に割って入った影にぴたりと歩みを止める。


「……まあまあ。よさないか、大人げない」


 仲裁に入ったらしき男は身なりから見ても、おそらく商人だろう。言い合う彼らの間に割って入って仲裁を買って出たていを装ってはいるものの、明らかにアーリアを小馬鹿にするような嘲笑をその顔にたたえている。


「子供が判った風な口を利いて楽観視しているだけだ。理解してないんだよ、現状を。─────それともまだ子供だから、恐ろしくて現実が見られないのかな?」


 そう言って、にやりと笑う商人の顔が腹立たしい。

 アーリアはそのあまりに失礼な物言いに、眉をひそめて明確に不快さを表した。


「────…ああ、そう。……そうよね、私まだ子供だもの。戦争が本当に起こるかなんて子供の私には判らないし、上の人たちが何考えてるかなんてもっと判らないわよ。でもおじさん達は私と違って大人だから、きっと何でも判ってるんでしょうね。……判った上で怖がってるんだ?────ばっかみたい!!」

「何……っ!!?」

「この街には第一皇子────ユルンがついてるのよ!!あのユルンが!!この街も!!街の住人も!!放っておけるはずないじゃない!!!」

「そうだそうだ!!!ユルンはどんな事があっても必ず守ってくれる!!!我々の事だって絶対に見捨てなかったんだ!!!」

「そうよ!!アーリアちゃんの言う通りよ!!たとえ戦争になったとしてもユルンは必ずこの街を守ってくれるわ!!あの時みたいに!!!」


 アーリアの言葉をきっかけに声を上げ始めたのは、ユルングルが守ったという乗合馬車の乗客たちだろう。我先にと第一皇子に対する信頼を口にする彼らの様子に、胸中にくすぶっていた不安が徐々に払拭され始めたのか、住人たちの表情が先ほどとは打って変わって次第に明るくなっていくのが見て取れた。まるで伝染するように、アーリア達がいる人だかりの中心部から外に向かって、螺旋を描くように人々の表情に嬉々とした感情が広まっていく。そうして瞬く間にそこかしこから希望の声が上がり始めたその光景を、ユーリシアは瞠目して唖然と眺めていた。


 そんな彼を振り返り、ミシュレイはにやりと笑う。


「だから言ったろ?」

「…!」

「ユルンちゃんがいるから大丈夫だって」


 ─────ああ、そうか。


 ユーリシアは見開いた目で、ここに集まった人だかりを見渡す。

 ユルングルが救ったのはきっと、乗合馬車の乗客だけではないのだろう。彼らは盗賊から守ってもらったその時、ユルングルに対する信頼と希望の光が胸に宿ったのだ。その希望が、乗客たちを介してソールドールの住人たちの、不安に包まれた心をも明るく照らし出した。そうしてまた街のどこかでこうやって不安に駆られた誰かが騒動を起こすたび、今度はここにいる住人たちの誰かが、不安な心に光を灯すのだ。


(……そうやってソールドールの住人たちの心を不安から守る『火種』を作ったのか)


 ようやく得心して、ユーリシアはくすりと笑う。


「……相変わらず、我が兄ながら恐れ入る」


 諸手を上げるようにそう呟いたユーリシアの言葉は、もはや歓声に近い住人たちの声にかき消されることになる。


 その中心で、面目を潰された商人たちが苦虫を潰したような表情で切歯扼腕せっしやくわんと拳を握りしめていた。彼らの面目を潰したのが、自分たちが生きた年月としつきの半分もまだ生きていないような一人の少女─────それがまた腹立たしい。


「……まるで第一皇子に会った事があるような口ぶりだな…!!」


 歓声を破って、商人の一人が声を荒げる。


「……『まるで』じゃないわ。私たちはユルンと同じ乗合馬車に乗って皇都からソールドールに来たんだもの」

「は…っ!嘘ならもっとましな嘘をけ!!仮にも第一皇子が庶民と同じ乗合馬車などに乗るものか!!」

「…!嘘じゃない!!ソールドールの騎士団長の師父も同じ乗合馬車に乗ってたもの!!」

「騎士団長!?またずいぶんと大口を叩いたものだな!!そもそも謀反に乗じて名乗りを上げるような皇子が、この街を救おうなどとは思わないだろ!!このお嬢ちゃんはホラ吹きだぞ!!みんな騙されるなよ!!」


 一度は収まりかけていた剣呑な空気が再び────それも強制的に巻き起こり始めた様子に、ユーリシアは険しい表情を取った。どうも街によくない空気をもたらしているのは、この街の住人というよりも、たまたまこの街に滞在していた商人たちのようだ。


「我々は嘘などついていない!!言いがかりはよせ!!」

「嘘ではないと証明できるのか?」

「…!……そ、それは……!」

「ほら見ろ!!騙されるなよ、みんな!!この街はいずれ戦禍に巻き込まれるぞ!!第一皇子が守ってくれるなんて淡い期待は持つな!!戦禍に巻き込まれる前に決起して、我々は謀反とは無関係だと領主たちに─────」

「何も判ってないのは貴方たちじゃない!!!!」


 商人の言葉を遮って、アーリアは自分が出せるだけの声量で声を張り上げる。その少女の怒号に一瞬場が静まり返り、商人たちは驚きから一転、自分たちを否定する言葉に不快げに眉をひそめた。


「………何?」

「……会った事もないのにユルンの事知ったような口利かないで…!!ユルンは皇族とか庶民とかそんな事少しも思ってない…!!目の前で困ってる人がいたら、自分がどれだけ傷ついていても迷わず手を差し伸べる事ができる人よ…!!判った気になって嘘ばっかり挙げ連ねてるのはおじさんたちの方だわ…!!!!」

「……っ!この…!!下手に出てればいい気になりやがって……っ!!!!」


 口の減らないアーリアに、ついに堪忍袋の緒が切れたのだろう。怒り心頭に発した商人の振り上げられた拳は、だが慌てて駆けつけようとしたミシュレイやアレグレットよりも早く群衆の間をかいくぐって躍り出た一人の青年によって、容易く妨げられることになる。


「─────本当に大人げないな」


 目深に被っていたはずのフードがはらりと落ちて、一つに束ねた黒く長い髪がふわりとたなびく。振り下ろされた商人の拳を受け止めたのは、凛々しく美しい顔立ちに盛大に眉間のしわを寄せている、低魔力者の青年だった。


「不安を抱くのは勝手だが、それを周囲に強要するのがお前たち商人のやり方か?」

「─────ユルン……!!!」


 恐怖に思わず瞳を閉ざしていたアーリアは、だが耳に届いたその愛しい声に嬉々とした表情で青年の名を呼ぶ。その声音から、見なくとも彼女が燦々とした瞳を向けているのだろうと判って、ユーリシアはくすりと笑いながら後ろのアーリアを振り返った。


「遅くなったな。怪我はないか?アーリ─────」


 名を最後まで呼び終わる前に、ユーリシアの声は再び群衆から巻き起こった歓声に見事にかき消されることになる。


「見ろ!!第一皇子殿下だ……っ!!!!」

「殿下が来てくださったわ……!!!」

「あの子が言ったことは本当だったんだ……!!!」


 そのあまりの歓待ぶりに、ユーリシアはたまらず目を丸くした。─────というよりも、彼らの期待に満ちた爛爛とした瞳に思わず後ずさったと言う方が的を射ているかも知れない。


 瞬く間にユーリシアの周囲には人だかりができて、もはや後ずさることすらできない状況に、ユーリシアは助けを求めるようにアレグレットとミシュレイの姿を探す。ようやく視界に入ったアレグレットは状況が把握できず呆気にとられたように硬直して目を瞬き、ミシュレイはこうなる事を予測していたのか、げんなりとした表情に頭を抱えていた。


 ─────『だからフードを目深に被せたのに………』


 ミシュレイの目がいかにもそう訴えているようで、ユーリシアはようやくなぜ自分の顔をフードで隠されたのか、その理由を得心して諸手を挙げたのだった。


**


「……アーリアはいつ俺が第一皇子だと知った?」


 ようやく群がる民衆から逃げおおせて人目のつかない場所で人心地ついた後、ユーリシアは軽く息を弾ませているアーリアを振り返ってそうたずねる。訊ねられたアーリアは、何とも言えない複雑そうな笑みをユーリシアに返した。


「……だって、ユルンはもう人気者だもの。どこに行っても第一皇子の話題が耳に入って来るのよ?」

「ユルンちゃんはもう、この街の英雄だからな」

「…!─────…英雄」


 目を見開いて、ユーリシアはぽつりと呟いた。


 確かに皇太子である自分と手合わせをしたあの一件を思い返すと、ユルングルが『英雄』と称されるのは身に染みてよく判った。あの時のユルングルの強さは、高魔力者である自分をも圧倒するほどだった。低魔力者が高魔力者を凌駕しているという信じがたい事実を目の当たりにして、あの場にいた全員が誰一人として疑いの目を向けなかったほどだ。あれほどの実力を見せつけられれば、魔力の差など誰も気にも留めないのだろう。


 あの時の一件が街の住人に伝わっているのだとすればなるほど、先ほどの住人たちの反応も頷けるだろうか。ユルングルが褒め称えられるのは大いに大歓迎だが、とはいえ『英雄』というからにはおそらくソールドールを襲いに来た謀反の皇太子から街を救ったからこそ付いた名だという事は容易に想像がつく。そう思うと何とも複雑な気分になって、ユーリシアは心中で苦笑を漏らしながら、口を開いた。


「……いや、だが……俺と第一皇子を結ぶものがないだろ?」

「何言ってるのよ!!」

「何言ってんだよ!!」


 それにはアーリアとミシュレイが仲良く反論する。


「黒髪長髪で見惚れるくらいの超絶美人で!!」

「動きが優雅でめちゃくちゃ強くてかっこいい、心臓病持ちの低魔力者なんて!!!」

「ユルンちゃんしかいないだろ!!!」

「ユルンしかいないじゃない!!!」

「…………………あー………そうか……?…そう……だな…?」


 肯定していいのか否定すればいいのか判らないが、とにかく二人の剣幕がすごいので、ユーリシアはとりあえず肯定する事に決める。それに満足そうな笑みを返す二人を、ユーリシアはくすりと笑った。


(………彼らが、ソールドールでのユルンを支えてくれているのか)


 彼らだけではない。騎士団のアレグレットやガーランド、そして乗合馬車に一緒に乗っていたという乗客たち、当然ラン=ディアやラヴィ、アレインと、そしてダリウスもユルングルを支えてくれているのだろう。今はそのダリウスがユルングルから離れているようだが、それでもきっとユルングルのために奔走しているはずだ。


 思って、ユーリシアは街へと視線を流す。


(……街はもう心配ない。私が気を回す必要もなかった)


 だが、来てみて正解だった。もし自分が街を見て回りたいと申し出なければ、ユルングルを支えてくれている大事な友人が怪我をしていたかもしれない。そんな自分の行動すら、ユルングルならば計算に入れていてもおかしくはないか、とユーリシアは人知れず思って小さく笑う。


「……アーリア」

「…?何?ユルン」

「もう二度と無茶はするなよ。お前に何かあれば、守れなかった俺自身を一生許せそうにないからな」

「…!」


 言われてアーリアは、以前にも同じ台詞を彼の口から聞かされた時の事を思い出す。


 ─────『俺の傍にいてお前に何かあれば、俺は二度と自分を許せなくなる』


 盗賊に乗合馬車が襲われた直後、馬車に置き去りにするユルングルと一緒に自分も残ると駄々をこねたアーリアを説得した時の言葉だ。


 その時の事を思い出して、アーリアは心配をかけた申し訳なさでたまらず項垂れるようにこうべを垂れた。


「……心配かけてごめんなさい……今回だけじゃなく、カルリナさんと一緒にいた時の事も……」

「判ってくれたならそれでいい。……それと、礼も言っておかないとな」

「…?……礼?別に……ユルンに礼を言われるようなことは何も─────」

「そんなことはない」


 言いながらユーリシアは、アーリアの頭にその大きな手のひらを優しく置く。


「俺を侮辱した商人に言い返してくれただろう?あれは本当に嬉しかった。ありがとう、アーリア」


 言って、ふわりと笑うユルングル─────もといユーリシアの笑顔に、アーリアは人生で一番の赤面を披露したことは言うまでもない。


**


「……そろそろユルンは目覚めた頃だろうか?」


 アーリアをミシュレイに託して要塞に戻ったユーリシアは、隣を歩くアレグレットに声を潜めてそう声をかける。


 日はもう大きく傾き、そろそろ夜の帳が落ちる頃合いだ。シスカの見立てが確かならば、早ければそろそろ目覚める頃だろう。それにはアレグレットはわずかに思議を経てから、同じく潜めた声で返答した。


「……どうでしょう?かなり弱っておいででしたから、明日の朝になるやも─────」


 そこまで言い差して、ぴたりと口を閉ざしたアレグレットを、ユーリシアは訝しげに見返した。そのアレグレットの表情は不快さを押し隠しているせいかひどく冷ややかで、緊張感を伴った視線を前に向けている。アレグレットの見据えているその先────廊下の向こう側からこちらへと歩みを進めている一人の人物に、ユーリシアはわずかに胡乱な目を向けた。


「………彼が『ピアーズ=ガーデン』です」


 足を止めぬまま同じように廊下を進むユーリシアの耳元で、アレグレットは小さく囁く。その名を口の中で小さく反芻しながら、両者の距離が近づいた事で次第に露わになっていくその人物の容姿を、ユーリシアは強い視線で見返していた。


「……これはこれは、ユルングル殿下。昨日の今日でずいぶんと体調が戻られたようで何よりです」


 ちょうど廊下の中頃で相まみえた両者は、どちらからともなく歩みを止めて、それを合図にピアーズが深々とこうべを垂れる。その表情からは低魔力者に対する侮蔑と共に、明らかな猜疑心が見て取れた。


「……俺の体調が、お前にはよく見えるか?」

「……ええ、とても。昨日の弱々しいお姿からは考えられないほど、とてもしっかりとした足取りでいらっしゃる。─────まるで、別人であるかのように」


 仕草だけはうやうやしく、だがその表情はいかにも張り付けたような微笑みを乗せて、最後の言葉を強調するようにピアーズはゆっくりと告げる。そんな彼をしばらく見据えた後、ユーリシアは軽く鼻で笑って見せた。


「……はっ!『別人』…ね。仮に俺が別人だったとして、何かお前たちに不都合でもあるのか?」

「……ええ、それはもちろん。これは貴方のためだけにご用意した舞台ですから、貴方以外の方が舞台に上がられては困ります」

「たかが低魔力者だろう?一人『別人』が増えたところで、お前たちにとっては取るに足らない低魔力者が一人増えるだけだ」

「『たかが』ではございません。貴方には『第一皇子』という冠がございます」


 薄ら笑いを張り付けて、いけしゃあしゃあと告げるピアーズを、ユーリシアはめつけるように強く見据えた。


(……結局はその冠が付いていなければ、たかが低魔力者と侮っているのだと言っているようなものだな)


 そう、彼にとってユルングルは、『第一皇子』という冠をかぶっただけの『利用価値のある低魔力者』というだけなのだ。他の低魔力者と何一つ違わない。彼の物言いから、明らかにユルングルに対して何もかもが劣っている低魔力者なのだと侮っているのがよく判った。

 きっとこの冠が必要な間は大人しくいう事を聞くが、必要なくなれば容易く手のひらを反し虎視眈々とその命を狙うつもりなのだろう。薄ら笑いを浮かべ、だが何一つ笑ってなどいないその瞳からそう暗に告げているのが見て取れて、ユーリシアは目を細めて彼のその薄ら笑いをしばらく眺めてから、にやりと笑う。


「……そうか。そんなに怖いか?『第一皇子の冠をかぶった低魔力者』が」

「……!……怖い────ですと?」


 薄ら笑いがぴたりと止んで、ピアーズの眉がわずかに動く。


「俺を取るに足らない存在だと思っているのなら、俺が何を画策しようがお前は気にも留めないだろう。……そんなに俺の動向が気になるか?」

「……ご冗談を。貴方が何を企んでいようとも、たかが低魔力者ごときが考え付く事など所詮はおままごとに過ぎません。何より低魔力者などに状況を覆せるほどの力があるはずもない」

「本音が出たな」


 くつくつと笑う第一皇子になおさら不機嫌そうに眉根を寄せるピアーズを、ユーリシアは見逃さなかった。


「……我々が貴方にひざまずくのは、貴方に第一皇子という身分があるからだ。高魔力者である貴方のお父上や弟君とは違って、貴方自身にはその身分以外何もない事をお忘れか?─────そんな貴方を怖がる?この私が?……貴方はずいぶんと思いあがっておられるようだ」

「────『弱い犬ほどよく吠える』……とはよく言ったものだな」


 ユーリシアのその応酬に、ピアーズの心がなおさらざわめく。内心穏やかではなかったが、ここで取り乱しては第一皇子の思う壺だろう。どうにか平静を装いつつ、ピアーズは得意の薄ら笑いを浮かべて再び威儀を正すふりをした。


「……よろしい。では貴方が何を画策しようが、多少の事は目をつむりましょう。たかが貴方ごときの方が足掻いたところで、多少手を煩わせる程度の事でしょうから。……ですがあくまで『多少の事は』です。あまり度が過ぎないようご注意ください。その時はご容赦いたしませんよ」


 にこりと微笑んで恭しくこうべを垂れ、ピアーズは歩みを進める。そのすれ違いざま、ユーリシアは彼を振り返る事なくピアーズの背に言葉を送った。


「お前ごときが俺を御せるとは思うなよ」


 明らかな挑発とも取れるその発言を受けて、ピアーズは足を止めて後ろのユーリシアを振り返る。そのピアーズの視界に、同じくこちらを振り返ってにやりと笑う憎らしいほど不遜な態度の第一皇子が映って、ピアーズはたまらず眉根を寄せた。


「………なるほど、貴方はどうやら口が減らないようだ。『弱い犬ほどよく吠える』というのは、貴方自身の事のようですね」

「俺は喋るのが好きなんだよ。お喋りついでに、ひとつ面白い話をしてやろう」

「…?」

「何年前だったか、お前によく似た男が社交界に現れた。新興貴族でどういうわけかデリック=ファリシアーナの後ろ盾を得、鳴り物入りで社交界入りした。男は高魔力者だったが、何に対してか劣等感を抱き、それを悟られぬよう虚勢を張って自分を大きく見せる事に必死だった」

「─────……」

「だがその日、デリックの紹介で拝謁した皇太子に男は愕然とした。まだ十を過ぎたばかりの皇太子に対して、あろうことか恐怖を抱いたからだ」

「…!」

「その男の名は─────『バロック=ウォーデン』」


 ピアーズは大きく目を見開いた。第一皇子が口にしたその内容が、一体誰の事を言っているのか理解したからだ。


「────以来、その男は表舞台から姿を消し、二度と社交界には顔を出さなかった。破産したからだと言う者もいたし、死んだという話もあったようだが─────」


 言って、ユーリシアはこちらを強く見据えているピアーズを、ゆっくりと振り返る。


「今俺の目の前にいる男は、果たして『ピアーズ=ガーデン』か、それとも『バロック=ウォーデン』か……一体どっちなんだろうな?」


 ピアーズの顔にはもう、わずかの笑みも窺えない。余裕がないのか、あるいは自尊心が傷つけられたのか、めつけるように第一皇子を見据え、握った拳をわずかに震わせている。


 わずかに流れた沈黙の後、ユーリシアは一人狼狽えたように会話を聞いていたアレグレットに声をかけた。


「行くぞ、アレグレット」

「…!は…はい…、殿下……!」


 そのまま廊下を進む二人の背が見えなくなるまで、ピアーズはただ切歯扼腕せっしやくわんするように鋭い視線で廊下の先を眺めていた。




「……殿下、あれは一体誰の話なのですか…?」


 ユルングルの部屋に入ってから、わけも判らず放置されっぱなしのアレグレットがすぐさまたずねる。

 この部屋は元神官のシスカがガーランドの執務室同様、防音の結界を張ってくれたので外に声が漏れる事はない。それでも自然と声を潜めて訊ねたアレグレットのその問いに、ユーリシアはわずかに思案しながら答えた。


「……彼は『バロック=ウォーデン』だ、間違いない。少なくとも八年前、彼はデリックに連れられて、そう私の前で名乗っていた」


 廊下の先からこちらへと近づくにつれて、ピアーズのその容姿がどこかで見た覚えがあるような既視感に捕らわれた。彼と言葉を交わした事で、その独特な言い回しや張り付けたような薄ら笑いが、ユーリシアの記憶を大いに刺激した。


 従兄伯父のデリック同様、低魔力者に対して侮蔑的な発言を繰り返し、同時にいかに高魔力者が素晴らしいかを説いていたその男が、子供心に嫌に鼻についた事を覚えている。魔力至上主義国家であるフェリシアーナ皇国では、あまりに見慣れた光景────だが一つ違った事は、その高魔力者である自分に対して畏怖と嫌悪の感情を向けてきた事だろう。彼がなぜそれほど自分に対して嫌悪の感情を抱いたのか、その理由は今に至るまで判ってはいない。


「……わけが判りません。では彼は『ピアーズ=ガーデン』ではなく、『バロック=ウォーデン』という新興貴族だという事でしょうか?」

「その名と身分も、デリックが用意した偽物という可能性が高いがな……」


 そう、皇族であるデリックならば、名と身分を新たに作る事など造作もない事だ。それを思えば、ピアーズの本当の正体を探る事は、砂浜に落ちた小さな宝石を探すよりも難しいだろう。


 思ってユーリシアは、未だ眠っているユルングルを視界に入れる。


「……彼の正体を探る事は我々だけでは難しい。だがおそらく、ユルンはすでに承知しているだろう。……なら私たちは彼の正体など気に留める事なく、ただユルンの指示通り動けばいい」


 きっとそれが、この謀反を鎮圧へと導くはず─────。

 そう瞳に強く宿すユーリシアに、アレグレットはただうやうやしく頷いた。


**


 体が嫌に重かった。


 今自分がどういう状態なのか、全く理解できなかった。ただ判ったことは、自分が今瞳を閉ざしている事と、体が思うように動かない事。どれほど体を動かそうと思っても、まるで鉛のように指一本さえ動かす事が出来なかった。


(……一体何があった……?)


 記憶がずいぶんとあやふやだ。

 こうなる前、自分は一体何をしていただろうか─────?


(……そう……何か重要な事をしていたはずだ……)


 それも、決して失敗をしてはいけないような、まさに綱渡りを渡るような状況だったはずだ。手探りをしながら、慎重に事を進めていたような気がする。


(……ダリウスが来たら、聞けば判るだろう……)


 思って、心中でかぶりを振る。

 ダリウスはもういないはずだ。他ならぬ自分が彼を遠ざけた。

 なぜだっただろうか?

 重要な事だったはずだ。


 ─────そう、皇王を助けるのに必要な事。


「……!!!」


 ユルングルは慌てて目を開いた。その視界に真っ先に入ったのは、見た覚えのない天井だった。

 鼓動が早鐘のように波打つのは、おそらく急激に目覚めたからというよりも、ユルングルが内心でひどく焦っていたからだろう。


 ユルングルは波打つ心臓を抑えるように、あるいは弱った心臓が波打つ鼓動に耐えきれずわずかに伴った痛みを抑えるように、胸の辺りを強く抑えた。


(……ここはどこだ……っ!?どれくらい眠っていた……!!?)


 ─────失態を犯した。

 自分にゆっくり休める時間などないはずだ。見える未来には絶え間なく動く自分の姿しか見えなかった。本当であれば、要塞に居を移した後もやるべき事があったはずなのに─────。


 ユルングルは鉛のように重い体を何とか起こして、肩で息をしながら周囲を見渡す。

 ここはきっと要塞にあてがわれた自分の居室だろう。窓の外はちょうど逢魔が時を迎えた時間か、黄金色に色づくソールドールの街並みが見える。


(…くそ……っ!休み過ぎた……!!)


 この日はアーリアが商人たちと争っていたはずだ。他ならぬ自分がそれを助けるはずだった。時刻はもう夕刻、アーリアの安否が気になる。


 ユルングルは息も絶え絶えに、動かない体を気力を絞って何とか動かし、足をベッドの端から下ろす。このままこの足を地面につけて、果たして立っていられるだろうか─────?


 そんな不安を払拭するように一度頭かぶりを振って、意を決したように立ち上がろうとした瞬間────。


「……!ユルン……!!?」


 がちゃりと扉が開いたかと思った瞬間、そこから目を丸くして自分の名を呼ぶ男の姿に、ユルングルはたまらず目を瞬いた。そこにあったのは、紛れもなく自分自身だったからだ。


「ユルン……っ!!まだ体を起こすな……!!」

「…………お前……?」

「いいから横になってくれ……っ!!体に障る!!」


 自分の姿をした自分ではない誰かは、慌てて蒼白な顔のユルングルの体を支えて、少し体が起こせるように背にクッションをあてがう。そこにゆっくりとユルングルの体を寝かせる彼の言動と心配そうなその表情に、ユルングルの脳裏に一人の人物の姿が彷彿とした。


「…………お前……ユーリシア………か?」


 依然として目を瞬きながらぽつりと呟くユルングルに、ユーリシアは微笑みながら首肯を返す。


「………ここで何をしている……?」

「何って……ユルンの手助けをしに」

「………手助け……?まさか……今日アーリアを助けたのは……?」

「ああ、彼女には傷一つついていない。安心してくれ」


 にこりと笑う自分の姿をしたユーリシアに、ユルングルはようやく全てを得心したのか、思わず吹き出すように笑い声を上げる。それにはさしものユーリシアもわけが判らず、ただ唖然と笑うユルングルを視界に入れて小首を傾げていた。


「……?…ユルン……?」

「……いや、悪い…!そういう事か……!」


 どうりで要塞に移ってからの未来に映る自分の姿が、嫌に足取りがしっかりしているように見えたはずだ。皇太子との手合わせを終えた体で、あれほど足取りに不安もなく歩けるだろうかと、ずっと不思議だった。虚勢を張るのは得意だが、あれはさすがに限度を超えている。それでも見える未来には平然と歩く自分の姿があるのだから、そうせざるを得ないのだろうと諦観していた。


(……なるほど、あれは俺じゃなく、俺の姿をしたユーリシアだったのか)


 そう思えばなるほど、すべての事において合点がいった。

 ユルングルはようやく気を張っていた気持ちを落ち着かせるように、大きく深呼吸をしてクッションに身を預ける。それはしばらく休めるという事実にひどく安堵したのと同時に、後を託せるのが他ならぬユーリシアだという事が大きいだろうか。


(……弟に頼る兄貴なんて、情けない事この上ないがな)


 わずかに自嘲気味な笑みを落とすユルングルを心配そうに眺めて、ユーリシアは声をかける。


「……大丈夫か?ユルン……」

「……ああ、大丈夫だ。お前が手助けに来たという事は、しばらく休んでもいいという事だな?」

「ああ、とりあえず最低でも三日は休んでほしい。それ以上休みたければもう少し私が─────」

「いや、三日も休ませてもらえるなら十分だ……」


 そう言って人心地つくようにもう一度大きく息を吐いて、ユルングルは瞳を閉じる。そんなユルングルを不安と心配を多分に含んだ表情で見つめるユーリシアの視線に気づいて、ユルングルはくすりと笑った。


「……訊きたい事が山のようにあると言いたげな顔だな?」

「…!それは……まあそうだが……」

「念のため言っておくが、俺は皇王を自害に追い込むぞ?」

「…!」

「手助けするならそれを理解した上で手助けしてくれ。それに納得がいかないようなら手助けは不要だ……」


 突き放すように言い捨ててバツが悪そうに視線を背けるユルングルをしばらく視界に留めてから、ユーリシアはくすりと笑みを落とした。


「それは心配していない」

「…!」

「ユルンのする事だ。必ず意味がある事だと信じている」


 その一点の曇りもなく、ただひたすら純粋なまでに己を信用している瞳を向けてくるユーリシアに、ユルングルは目を瞬く。そうしてすぐさま照れて顔が赤面している事を自覚して、ユルングルはそれを悟られまいと慌てて顔を背けた。


「……ダリウスみたいなことを言うな…!!」

「それは……すまない」


 自分の兄がひどく照れ屋だという事を失念していた。心臓に不安がある今、彼を動揺させるのは控えた方がいいだろうか、とユーリシアは心中で小さく失笑する。


「……ユルン、一つだけ訊きたい。この要塞を牛耳り父を幽閉しているあのピアーズという男の正体を、ユルンは知っているのか?」


 そう、皇王を助けるという事は彼をここに幽閉しているピアーズを、どうしても攻略する必要があるという事だ。彼をどうにかしない限り、皇王を助ける事は叶わない。それが嫌というほど判るから、ユーリシアはピアーズの存在をどうしても無視する事は出来なかった。


 真っすぐにこちらを見つめてくるユーリシアの瞳を受けて、ユルングルは一拍置いたのち、ゆっくりとその口を開いた。


「……あの男を上手く挑発してくれたようだな。お前にしては上々だ」

「……彼は『ピアーズ=ガーデン』なのか?それとも『バロック=ウォーデン』なのか?答えてくれ、ユルン…!」


 はぐらかそうとするユルングルには構わず、ユーリシアは静かに問い詰める。彼の体の事を考慮するとあまり尋問するのもはばかられたが、これだけはどうしても知っておきたかった。


 逼迫したようなユーリシアの様子に諦める気がない事を悟って、ユルングルは諸手を上げるように一度ため息を落とした。


「……どちらでもない」

「…!……どちらでもない?彼はピアーズでもバロックでもないという事か?」

「……ああ。─────あれは俺と同じで、『何者でもない者』なんだよ」

「…!?」


 ユーリシアは目を大きく見開く。

 それは、ピアーズがユルングル同様、その存在を消された者だという事だ。

 それを悟って、ユーリシアは茫然自失と目を瞬いた。


「……あれは、俺がなっていたかも知れない存在そのものだ。俺にはダリウスがいてくれたが、あいつのように拾ったのがデリックのような人間だったなら、俺もピアーズのように歪んだ人間になっていただろう」


 そんなことはない、と言いかけて、ユーリシアは口を噤む。

 存在を消された者の心の痛みなど、自分ごときが理解できるはずがない。その痛みを真に理解できる者は、同じ境遇に置かれた者だけなのだ。それを判ると言ってしまうのは、不遜な行為に他ならないだろう。


 返す言葉もなく悄然と俯くユーリシアに、ユルングルは続ける。


「あの男のことは俺に任せてくれ。あれとは俺が決着をつける。お前は手出しをするな───判ったな?」


 わずかに思案して頷くユーリシアを満足そうに見て取ってから、ユルングルは早々に話を打ち切って別の話題に変えることに決める。


「それよりも、お前にはやってほしい事がある」

「…!それは何────…だ………?」


 頼られているのだと判って嬉々とした瞳を向けた先に、にやりと笑う実兄の姿があって、ユーリシアはたまらずたじろいだ。こういう時の彼の不敵な笑みは、大体良からぬ事を考えている時だとすでに学習してるからだ。


 わずかに喜んでしまった自分を後悔しつつ、それは何だと訊いてしまった手前、引くに引けない状況に諸手を挙げるしかなくなったユーリシアは、前進する事も後退する事もできず硬直してぎこちない笑顔を浮かべている。そんなユーリシアの心中が手に取るように判って、ユルングルはなおさら嬉々とした表情を向けて、思わぬ言葉をユーリシアに投げかけた。


「ここの領主べドリー=カーボンを誘惑して味方につけてくれ。もちろん、その格好でな」


 いつも以上ににこやかな笑顔を浮かべるユルングルを視界に入れながら、そのユーリシアの想像のはるか斜め上をいくユルングルの言葉に、もはや笑顔を取る余裕もなくなった事は言うまでもない。

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