もう一人のユルングル・四編
「で?どこに行くんだよ?ユルンちゃん」
共に歩き始めてすぐ、ミシュレイはユルングルの姿をしたユーリシアに訊ねる。それには思案する事もなく、ユーリシアは即答した。
「特に決めてるわけじゃない。ただ、昨日門前でソールドール側の傭兵と皇太子側の騎士団が一触即発の事態までいったからな。実際は終始睨み合いだけで、俺とユーリシアの一騎打ちが終わった後、両軍陣営に引き返したが、あれはある意味宣戦布告に近い。……それに対して住民が不安を募らせていないかが気がかりだ」
これからしばらくは緊迫した状況が続くだろう。ソールドール側と皇太子側で時折小競り合いを起こすつもりでもある。お互いに口裏を合わせている以上、大規模な戦闘に発展する事はないだろうが、それを街の住民たちが知っているわけではない。何度も小競り合いが起きれば、いつ大規模な戦闘に発展しソールドールの街が戦火に巻き込まれるか、住民たちはこぞってそれを不安に思うだろう。ユーリシアはそれが心配だった。
余計な不安が広がれば、いくら裏でソールドールと皇太子側で話が通っていても街に混乱が生まれることは必至だろう。最悪の場合、募り募った不安に突き動かされるように、住民たちによる暴動が起きかねないのだ。それだけはどうしても阻止しなければならなかった。
(……未来が視えているユルンなら、きっとその可能性を考慮して動いているとは思うが……)
だからと言ってあらゆる事のすべてをたった一人が把握するには限度がある。万が一に備えて、ユーリシアは実際に自分の目で街と住民たちの様子を見ておきたかった。
そんなユーリシアの心中などお構いなしにミシュレイは「ふーん」と気のない返事をした後、やはり関心がないように何気なく続けた。
「……なーんかユルンちゃん、皇子みてぇ」
「…!」
内心ぎくりとしつつ、ユーリシアは平静を装って反論する。
「………みたいじゃなくて、皇子だろうが」
「認めてんの?」
「そんなわけないだろ。……だがそれでも第一皇子と名乗った以上、気にしなきゃならない事は増える」
「んー……そりゃそうだろうけどさ……」
妙に歯切れの悪い同意を示しつつ、ミシュレイはわずかに考え込むように空を仰ぐ。
「何だろ……?間違ってねえんだけどさ……何かこう……違和感があるんだよな……」
そうして自身が抱く感情にぴたりと合致する言葉を見つけて、ミシュレイは声を上げた。
「ああ…!そうだ…!なんかユルンちゃんらしくないんだよ…!」
またもやぎくりと内心強張りつつ、ユーリシアはそれをおくびにも出さずにもう一度反論を重ねた。
「……俺が住民を気にかけるのがそれほどおかしいか?」
「おかしくねえよ。ユルンちゃんは特にそういうの気にかける奴だって知ってるし」
「なら─────」
「でもユルンちゃんは、わざわざ自分の足と目で確認しなくてもちゃんと視えてる」
「…!」
ミシュレイが何を言いたいのか、言外に含まれた言葉をすべて悟って、ユーリシアは思わず目を大きく見開いた。
彼と出会ってまだ数分と経ってはいない。言葉を交わしたのも数えるほど─────その短いやりとりだけで、まさか疑念を抱かれるとは。
(………見たところ確信を抱いているわけではなさそうだな)
原因の判らない違和感の存在に気づいているだけ。だとすればこのまま白を切るほうがいいのか、あるいは諸手を挙げて降参を示し、素直に事情を話すべきか。
自分が次に取るべき行動をユーリシアが思案している間にも、ミシュレイは何とはなしに視線をユーリシアからアレグレットへと移す。その探るようなミシュレイの視線に、内心ぎくりとしながら身構えたわずかなアレグレットの心の機微が思わず表出したのか、ミシュレイは悟ったように目を細めて、「ふーん」と口の中で小さく声を漏らした。そうしてもう一度、考え込むユルングルの姿をしたユーリシアを視界に入れる。
─────彼はどう見ても、ユルングルにしか見えない。
その声も、無駄に所作の美しいその立ち居振る舞いも、ミシュレイの知るユルングルそのものだ。
(……いや、そうじゃねぇな。今日のユルンちゃんは何もかもが整いすぎてんだよ)
ユルングルの所作が美しいのは、あの慇懃な態度を貫くダリウスの影響が強いからだ。彼はとにかく立ち居振る舞いが端正でそつがない。そんな彼を兄に持つユルングルの所作が同様に美しく洗練されたものになるのは、当然の成り行きだろう。
─────だが、ユルングルはそれをあえて少し崩しているようにミシュレイには見えた。それは市井の中にあって目立たないための処世術なのか、あるいは平民に歩み寄った結果なのかは判らない。それでもユルングルの所作の中にわずかに見え隠れする『平民らしさ』が確かにあった。
なのに、今目の前にいる人物にはそれがまったく垣間見えないのだ。
まるで生粋の皇族のように頭の天辺から足の爪先まで彼の所作にはまったく隙がなく、いつも以上に優美さに磨きがかかっている。それがまた彼の見目麗しい外見をなおさら際立たせていた。
─────そう、目のやり場に困るほど、今日のユルングルはいつにも増して美しいのだ。
(……昨日の決闘で頭打ったっけ?)
それともあの強い発作で頭のネジが一本緩んだのだろうか。
いやいや、そんなもので美しさに磨きがかかるのなら、これほど簡単なことはない、とミシュレイは思う。
(……美人だよなあ。めっちゃ綺麗なんだけどさ……)
自慢ではないが、自分は美人には目がない。弱いと言ってもいいだろう。そこに性別は関係ないのだ。女は当然の事、男だろうと見目が良ければ目の保養になる。そう思えるほど極度な面食いであると自負していた。
それでも、とミシュレイはいつもより三割増しの美貌を有する目の前の人物を視界に収める。
胸に湧いた違和感の正体────アレグレットの挙動不審な様子を鑑みても、その可能性は一つしかない事は明白だろう。これを放置したままというのは、いささか気に入らない。
ミシュレイは名残惜しそうに、あるいは諦観するようにため息を落として、こちらをようやく見返した友と思しき別人の行く手を阻むように、おもむろに街路樹に手をついた。
「────で?あんた一体誰だよ?」
「────え?」
「よりにもよってユルンちゃんの外見を、本人の承諾なしに使うってどういう了見だ?事と次第によっては、俺が許さないんだけど?」
その怒りを多分に含んだミシュレイの瞳に、ユーリシアは目を瞬いた。瞬いたその瞳を、今度は覆いかぶさるように自分に詰め寄るミシュレイの肩越しから覗くアレグレットに流す。
「…………アレグレット、俺は何か失言をしたか?」
「……いいえ、特には」
「…………なら私が失態を犯したか?」
「……それもお見受けいたしましたところ、これと言って思い当たるものは何も」
「…………ならなぜ彼は判ったと思う?」
「……恐れながら、先ほども申し上げました通り、この男の鼻は犬以上に利きますので」
「はあ!?何だそれ!!?人を獣みたいに言うなよ!!この馬鹿アレグレット!!!」
街路樹に手をついたまま後ろで聞き捨てならない言葉を吐くアレグレットに怒鳴り返したミシュレイは、だがその耳に嫌に心地のいいふわりとした笑い声が聞こえてきて、思わず目を大きく見開くことになる。
「…そうか、貴方はユルンと同じく勘が鋭いのだな」
そう言ってふわりと笑う彼の姿に、ミシュレイは目が釘付けになった。
─────これは、ユルングルが決して人には見せない表情だ。
当然、中身がユルングルでない事は百も承知している。だがそれでもユルングルの外見でこの穏やかで柔らかな微笑みを見せられて、心が揺れ動かない人間などいるのだろうか─────そう思えるほど奇跡に近いその光景に、ミシュレイは見開いたままの瞳をゆっくりと後ろにいるアレグレットへと向けて、ユーリシアを指差しつつ唖然と告げる。
「…………何これ?めっっちゃ可愛いんだけど?」
「…………可愛いと言うな。指も差すんじゃない」
呆れと辟易をふんだんに乗せたため息を落としながら、アレグレットはミシュレイを窘める。終始予想通りのミシュレイの反応に、もはや頭を抱えて諸手を上げるしかない。肝心のユーリシアが状況を把握できず小首を傾げている事だけが、唯一の救いだろうか。
そんなアレグレットの気苦労など露知らず、ユーリシアはあっさりと偽物であることを見破られた事実に自嘲気味な嘆息を落としていた。
「……ユルンほどではないにしろ、それでも人を騙せるくらいには演技ができると思っていたが…。……なぜ気づいた?私のどこがいけなかった?」
まだしばらくはユルングルの姿を取って彼を演じ続けなければならない。後々の参考にしようと訊ねたその質問には、すかさず答えが返ってきた。
「本物より美人すぎだし可愛すぎ」
「…??すまない……意味がよく判らない……?」
「その反応がまず可愛すぎ。ユルンちゃんはそんな素直そうな顔はしない」
「………す、素直そうな顔……?……いたって普通にしてるつもりだが……?」
「もう中身が誰でもいいや。一生ユルンちゃんの姿でいてくれないか頼んでくんない?アレグレット」
「…………お前はもう黙っていろ」
これ以上この愚弟を放置すると、それこそ不敬罪に問われかねない。アレグレットは頭を抱えるように額に手を当てて、これ以上愚行を重ねないように愚弟の口を黙らせる。─────とはいえ、これで素直に黙る愚弟だとも思っていないが。
「よかったらさ、俺の弟になんない?大事にするけど?」
「……お前という奴は…!!盛りのついた犬か…!!少しは節操を持て、お前は!!!」
「だから人を獣扱いすんなよ!!馬鹿アレグレット!!」
収拾がつかない様相を呈してきた状況に、ユーリシアはたまらず苦笑を漏らす。天真爛漫なミシュレイを見ればなるほど、確かに彼の振る舞いを知っているガーランドやアレグレットが、彼と会わせる事に躊躇する気持ちも判らないではない。
仲良く応酬を繰り返す二人を失笑と共に視界に入れて、ユーリシアはそれでも生真面目にミシュレイの提案に返事を返した。
「……すまないが貴方の申し出は受けられそうにない。私にはもう、兄がいる」
「…!……兄貴?いんの?……え?誰?」
嫌な予感がミシュレイを襲う。自然と顔が引きつるのは、彼の兄だという人物が誰なのかを無意識に頭の片隅で理解したからだろうか。
そんなミシュレイを嘲笑うかのように、ユーリシアは答える代わりに自分ではない姿をした自分自身を指差して、にこりと屈託のない笑顔を見せた。
「……………」
「……………」
「………え?…………まさか……?」
茫然自失と呟きながらアレグレットに顔を向けるミシュレイに、義兄は頷きを返して潜めた声で返答する。
「……兄君はユルングル様────つまりこの方は、皇太子殿下だ」
「…!!!?まじで!!!?だったら最初っから言えよ!!この馬鹿アレグレット!!!」
「…?……珍しいな、お前が身分を気にするのは」
そのあまりの狼狽えように、アレグレットは小首を傾げる。このミシュレイという男は、良くも悪くも身分を気にしない。相手が貴族だろうが皇族だろうが、彼はどこまでも態度を変えず自分を貫き通す。そんなミシュレイの想像とは違った反応に、訝しげに眉根を寄せたアレグレットをぎろりと睨んで、ミシュレイはわずかに声を潜めながらも声を荒げた。
「身分なんかどうでもいいんだよ!!!問題は兄貴が誰かってこと!!!……ユルンちゃんは家族愛が強いんだよ!!よりにもよって可愛がってる弟を俺が問い詰めたなんて知ったら……っ!!」
それにはユーリシアは目を丸くした後、すぐさまくすくすと笑い声を落とした。
「笑い事じゃないぞ!!気に入らない事したら頬を思いっきり引っ張ってくるんだからな!!!」
その痛みは通算二度体験したおかげで、嫌というほど体が覚えた。あの細い体から信じられないくらいの力強さで引っ張っるので、しばらく痛みと赤みが消えないほどだ。ミシュレイは記憶に刷り込まれた痛みがぶり返したように、しきりに頬をさすって、笑うユーリシアに渋面を向ける。そんなミシュレイに、ユーリシアは困ったような笑みを浮かべた。
「……安心してくれ、ミシュレイ。ユルンは私を弟とは思っていないし、ましてや可愛がってもいない」
「はあ!?何言ってんだよ!ユルンちゃんが今無茶してでも守ろうとしてんのは、あんたの事だろ!?」
「…!」
ミシュレイの言葉に、ユーリシアは既視感を覚える。
これは以前、ライーザが漏らした言葉だ。
────(いや、ユルンの口ぶりでは多分、守りたいのは───)
そう言葉尻を濁して彼が視線を向けたのは、他ならぬ自分だった。
ユーリシアは心中でそうではないと頭を振りつつも、仄かな期待を乗せて面映ゆそうにミシュレイに訊ねた。
「……それは、その……ユルンの口からそうだと聞いたのか……?」
「…?あのひねくれ者が素直に自分の気持ち言葉にするわけないだろ?」
「…………そうか……そう、だな……」
そうして期待を裏切られて、落胆したように肩を落とす。
この結末を判っていたのに、それでも期待を抱かずにいられないのは、きっと自分が思う以上に実兄に自分が弟である事を認めてほしいからだろう。そしてそれ以上に、それが叶わない事だと理解しているからだろうか。
ユーリシアは落胆した心に自嘲めいた笑いを落として、ミシュレイにもう一度言葉を重ねた。
「……それならば、なおさら安心してくれていい。ユルンがもし本当に私を守るために奮闘してくれているのだとしても、それは私が弟だからではなく別の理由があるからだ」
ユルングルが自分を守る理由はただ一つ。
─────彼が『獅子』で、自分が『人類の祖』となる存在だから。
それ以上でも、それ以下でもない。
「……貴方が私にどういう態度を取ったとしても、それでユルンが怒る事はない」
「…?何言ってんだよ?だってユルンちゃん─────」
なぜか落胆を示しつつ頑なに自分を軽んじるユーリシアに訝しげに眉根を寄せて、ミシュレイは言葉を切りながらユルングルの言葉を思い出していた。
─────(……兄貴なんてそういうものだ………弟に何かあると判れば……いてもたってもいられなくなる……)
アレグレットに対して、兄貴はなぜあれほど自分勝手なのかと愚痴を漏らしたミシュレイにユルングルが言った言葉だ。
ミシュレイはこの言葉を、互いの義兄であるアレグレットとダリウス、そして弟がいるというユルングル自身の事も含めて言った言葉なのだと理解していた。それは今まさに無茶ばかりをするユルングルの状況とひどく合致したからだ。弟の危機だからこそ、いてもたってもいられず無茶ばかりしているのだと、何の疑いもなくそう思っていた。
(……見てりゃ判る。ユルンちゃんは家族愛が強いし、何より身内だと決めた相手は何があっても守ろうとする。情が厚いんだ、ユルンちゃんは)
聞いた話では、短い期間ながらも弟と共に過ごした時間があるという。ほんの数回顔を合わせただけの実父を助けるためと言われるよりも、まだ弟のためと言われた方が腑に落ちるのだ。
「…?ミシュレイ?ユルンがどうした?」
言葉を切ったまま思索に耽るミシュレイに、ユーリシアは先を促すように声をかける。ふと我に返って何気なく視界に入れたこちらを見返すユーリシアの瞳には、怪訝そうな光と共にその奥に隠れるように存在する小さな期待という光がわずかに見て取れて、なおさらミシュレイは続く言葉を失った。
「あー…」とバツが悪そうに声を落としながら、ミシュレイは思う。
あのひねくれ者で素直ではないユルングルが、自分の気持ちを自分ではない別の誰かが代弁して、あろうことか弟に告げたと知ればどんな顔をするだろうか─────?
考えるまでもなくその綺麗な顔の眉間に最大級のしわを寄せて、不機嫌を露わにするだろう。もしかしたらまた頬を引っ張られるかもしれない。いや、もしからしたらなんて甘い考えではいけない。十中八九、あのユルングルならそうするはずだ。─────となると、選べる選択肢はもはや一つしかない。
「………何でもない」
「……え!?」
「今のはなし。聞かなかった事にして。じゃないと俺のほっぺが血を見る事になる」
「???」
急に旗幟を翻して、ミシュレイは頬を引っ張られてわけでもないのに、しきりに頬を撫でながら貝のように口を閉ざす。理由も判らず小首を傾げるユーリシアを一度見て取って、ミシュレイは期待を持たせてしまった事にわずかに抱いた罪悪感を払拭するように、にやりと告げた。
「……まあ、そのうち判るって。ユルンちゃんは感情が顔には出ないけど、態度には嫌というほど出るからさ」
それでなおさらユーリシアは、眉根を寄せるしかなかった。
**
「……第一皇子を外に出してもよろしかったのでしょうか?ピアーズ様」
要塞にある、ピアーズにあてがわれた一室の窓から凝視するように下を見下ろすピアーズに、配下の男は遠慮がちに訊ねた。そのピアーズの視線の先には、要塞から出たところで何やら話し込んでいる第一皇子と、その連れらしき男二人の姿。一方は昨日第一皇子を支えていた騎士だろう。その彼らの姿を、ピアーズは睨めつけるように見つめていた。
「……いいも悪いも、デリック様から第一皇子の好きにさせろと言われたのだ。お前はデリック様に逆らえと私に言いたいのか?」
視線を第一皇子に留めたまま、ピアーズはいかにも不服だと言わんばかりに渋面を取っている。その言葉や態度の節々からなお一層の不機嫌を感じ取って、配下の男はびくりと体を強張らせた。
「……いえ、そういうわけでは」
たまらず自分から目を逸らす配下の男に不快げに鼻を鳴らして、ピアーズはもう一度第一皇子を視界に入れる。
「………お前はどう思う?」
端的にそう問われて、配下の男は小首を傾げた。
「……どう、どは?」
「……昨日の今日だぞ?自身の足で歩けないほど弱り切っていた第一皇子が、一夜明けてまるで何事もなかったように歩いている。……不思議だとは思わんか?」
「…!それは……確かにピアーズ様のおっしゃる通りです」
ピアーズと同様に窓に歩み寄って第一皇子を見下ろした配下の男も、目を見開いて同意を示した。
昨日見た第一皇子は、もう意識を保っている事さえ難しいと思うほど、ひどく弱々しかった。何とか気力だけで意識を保ち、あの騎士に体を支えられてようやく動けている─────そんな体たらくだった。
(……なのに今見る限り、弱々しさが微塵もない。───いや、むしろ力強ささえ感じられる……)
あれほど心許なかった足取りは、今や力強く地を踏みしめどこを探しても弱々しさが見当たらない。ふらつく事もなく、歩くのに介添えが必要といった様子でもない。その体躯は依然として痩せ細って見えるが、それを除けば彼はいたって健常者に見えた。
(……ここからでは見えないが、おそらく顔色も悪くないのだろう)
それがなおさら解せない。
報告では第一皇子は二つの病に罹患していると聞いた。一つは皇妃と同じ『血友病』、そしてもう一つは『心臓病』。それも後者はかなり重く、その心臓は一度無茶をすれば、昨日のように強い発作が起きるほどだ。それでなくとも、心臓を患えば平常時でも顔色は青白くなる。なのに大きな発作が起きた昨日の今日で、あれほどの回復が見込めるものだろうか。─────それも、あれほどの低魔力者が。
(……それとも、皇族の直系にはやはり何か身体的機能を増幅させる何かがあるのか?)
ピアーズの脳裏に浮かんだのは、魔力を封じられてもなお平然と動く皇王シーファスの姿。きっと皇王に魔力封じが効かなかったように、第一皇子もまた病弱な体を一時的に回復させる何かがあるのかもしれない。
それとも─────。
ピアーズは念頭に浮かんだ一つの可能性を吟味するように、街の方に足を進める第一皇子たちを視界に留めながら配下の男に命令を下す。
「念のため第一皇子を監視しろ。手を出す必要はない、あくまで監視だけだ。……判ったな?」