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銀の皇太子と漆黒の聖女と  作者: 枢氷みをか
第二章 ユーリシア編 第五部 捲土重来(けんどちょうらい)

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兄弟決戦・後編

「ユーリシアさん……!!大丈夫ですか……っ!!?」


 怪我を負ったユーリシアをすぐさま天幕の中まで運んで、そっと寝台に寝かせる。天幕の中に入ったのはゼオン達一行とカルリナだけ。残りの騎士たちは天幕の外で不安げな表情を浮かべながら、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。


「……っ!!」

「…!ユーリシアさん…!!すぐに治療しますから、頑張って……!!」


 顔を歪めるユーリシアに悲痛な声を上げたユーリは、寝かせた拍子に怪我がある左腹部を隠すように覆いかぶさったマントを慌ててどける。そこにある、思った以上に赤く染まる衣服─────ユーリはその光景に、血の気が引くような感覚を覚えた。


 ─────『浅かったか』と、この傷をつけた張本人は言っていなかっただろうか。


 なのに、この出血量。

 ユーリは震える手を堪えて、傷跡を見ようと服に手をかける。その手を、ゼオンが静かに押し留めた。


「治療は必要ないぞ」

「…!?何を言ってるんです……!!?こんな大怪我を負っているのにっっ!!!」

「なーにが怪我だ。こんなの怪我の内に入るか」

「…いた!」


 言いながら腹部を軽くはたくゼオンに、ユーリシアはわざとらしく痛がる素振りを見せた。


「…ひどいな、ゼオン殿。怪我人をはたくか」

「ほお?どこに、どんな傷があるんだ?」


 にやりと笑って、ゼオンは有無を言わさず服をまくり上げ、傷があるであろう箇所を手ぬぐいで乱暴に拭き取る。そこには大怪我どころか擦り傷一つなく、ただ鍛え上げられた筋肉質の綺麗な腹部だけがあって、ユーリのみならずカルリナもまた目を丸くした。


 ただ一人、得心したように冷めた視線を向けるアルデリオを、ゼオンは半ば面白くないように視界の端に入れる。


「………やっぱりお前は驚かなかったか、アル」

「何となくそんな気はしてましたよ。ひどいじゃないですか、統括。俺まで観客に仕立て上げるなんて」

「観客は多いに越した事はないからな。敵を欺くにはまず味方からって言うだろう?」


 にやりと笑うゼオンを、アルデリオはやはり不満そうに膨れっ面を見せる。


 そんな二人を理由わけも判らず呆けたように眺めるユーリとカルリナに、ユーリシアは多少の罪悪感を込めた声音と、申し訳なさをふんだんに乗せた表情で声をかけた。


「……すまない、ユーリ、カルリナ。………その……騙すつもりはなかったのだが……本気で心配してくれる観客がいた方が真に迫っていて演技に箔が付くと…ゼオン殿が………」


 ユーリシアには珍しく、しどろもどろとバツが悪そうに言い訳をする姿に、ゼオンはたまらず抱腹絶倒の勢いで哄笑こうしょうを漏らす。


「と、統括…!!そんな大声で笑ったら外に丸聞こえですよ…!!」

「ああ…!いい、いい!!!気にするな、シスカが防音の結界壁を張ってる…!!それにしてもユーリの前ではお前もすっかり形無しだな…!!ユーリシア!!!」


 目の端に溜まった涙を指で拭いながら未だに腹を抱えるゼオンを、ユーリシアは軽く紅潮しながら拗ねた子供のようにじろりと睨み返した。


「誰の所為だと─────」

「……演技……だったんですか……?」

「…!」


 ぽつりと呟いたユーリの声が耳に届いて、ゼオンに反論しようとしたユーリシアの口がピタリと止まる。


「………今までの事全部……演技だったんですか……!!?」

「…!!?」


 何気なく視界の端に入れたユーリの、大粒の涙をぽろぽろと流す姿にさしものユーリシアも目を瞬いてぎょっとする。慌てふためくユーリシアをよそに、ユーリは駄々をこねる子供のように声を上げた。


「もう…っっ!!!どれだけ心配したと思ってるんですっっ!!!!ユルンさんを傷つけるような事になったら、ユーリシアさんは絶対自分を許せなくなるだろうって…!!!そう思って…っっ!!!だから……っっ!!!どうしたらユーリシアさんが傷つかないでいられるかって…!!!ずっと考えてたのに…っっっ!!!!!」

「……!!?」


 まるでむずがる子供のように涙声で声を張り上げ、ユーリシアの胸元を何度も拳で叩くユーリのその言葉に、ユーリシアは目を見開いた。


 ──────頬が紅潮するのが判る。

 それを自覚して、ユーリシアは顔を隠すように口元に手を当てがった。


「…そ……それは……!…その……心配していたのは……ユルンではなく……私……か?」

「他に誰を心配するんですっっ!!!!なのに騙すなんてひどい……っっ!!!ユーリシアさんが大怪我を負ったと思って、心臓が止まりそうになるくらい怖かったのに……っっ!!!」


 これほど感情を露わにするユーリも珍しいだろうか。明るく快活な印象ではあるが、どちらかと言うと泣いたり怒ったりという負の感情は出来るだけ抑えて自制しているように見えた。ユーリが泣いたのは、後にも先にも自身が女であるとユーリシアに知られた時だけだ。


 そんな彼女がこれだけあからさまに感情をぶつけている姿が、いかにも自分の事を心配しているのだと訴えているようで、ユーリシアは申し訳ないと思いつつ胸の内に得も言えぬ幸福感で満たされるようだった。


 それを何とか胸の片隅に隠して、宥めるようにおずおずと謝罪の言葉を落とす。


「あ……その……す、すまなかった……ユーリ…!!……もう二度と騙すような事はしないと────」

「…………………どうして笑ってるんですか……?」

「…………え!?」


 どうやら隠しきれなかったらしい。


「い、いや…!!これは違う…!!!決して貴女を笑ったわけでは……!!!────ゼオン殿!!!いい加減もう笑うのはよしてくれ…!!!」


 渋面を取ってじとりとした視線を送るユーリになおさら慌てふためくユーリシアが愉快だったのか、またもや抱腹絶倒の哄笑を披露するゼオンに、ユーリシアは赤面を取って声を荒げる。何やら収拾がつかなさそうな様相を呈してきた現状に、カルリナとアルデリオはただ苦笑を漏らすに留めていた。


 ユーリシアは落ち着きを取り戻すために一度ため息を落とすと、不機嫌そうに膨れっ面を見せるユーリに、やはりおずおずと声をかける。


「あー……ユーリ。……実は先ほどから手の傷が痛んで仕方がないんだ………。できれば手当てしてもらえると助かるのだが………?」

「…………………」

「…………………」


 飛んできた矢を掴んだ時に負った怪我を見せるように、ユーリシアは掌を広げる。苦笑いを浮かべるユーリシアと膨れっ面を見せるユーリの間に一旦の沈黙が訪れてから、相変わらず膨れっ面を崩さぬまま黙々と手当てを始めるユーリに、ユーリシアは半ば安堵を、残りの三人は生暖かい視線と苦笑を送って、何とか収拾をつけたのだった。




「……それにしてもすっかり騙されました。一体いつユルングル殿下とそのような打ち合わせを?」


 ようやく場が和んできた頃、カルリナが手当てを受けているユーリシアに訊ねる。


 少なくともカルリナには、ユルングルが本気で剣を向けてきているように見えた。ユーリシアの腹部を貫いたその瞬間でさえ彼には鬼気迫るものがあったし、対するユーリシアも兄に剣を向ける事に戸惑いを見せつつ、猛攻を仕掛けてくるユルングル相手に手を抜いているようには見えなかった。


 あれは誰が見ても、『憎しみを持った兄と、そんな兄に不本意ながら剣を向ける弟』の対決だろう。


 同じく答えを待つようにこちらを見返すユーリとカルリナに視線を移して、ユーリシアはくすりと笑みを返す。


「打ち合わせなどしていない。私の独断だ」

「え…!!?」

「ユルンが決闘を申し込むだろうという事は事前にゼオン殿から聞いていたからな。父上の元に行くための決闘という事ならば、私が負傷して幕を閉じるのが一番だろうと思った。だからシスカに頼んで血のりを用意してもらったのだ。どこに仕込んだか言わなくともユルンなら察してくれるだろうと思っていたが、私の体にかすり傷一つ付けることなく寸分違わぬ場所を見事に貫いてくれた。……我が兄ながら、恐れ入る」


 感嘆の息を落としながら、ユーリシアはもう一度服をまくり上げ自身の左腹部を見せる。

 あの場に居合わせた誰もが、あたかもユーリシアの腹部をユルングルの剣が貫いたように見えた事だろう。服の上から血のりが入った袋だけを突き破り、ユーリシアの体をすり抜けてマントを貫いた─────その見事な手腕。


「ほんっとに芸達者ですよね、ユルングル様は。お芝居だろうとは思っていましたけど、それでも本当にユーリシア殿下の腹部を貫いたのかと思いましたよ」

「あれは人を騙す事に長けているからな。どうすれば人の脳が騙されるのかをよく判ってる。決戦前に見せた、あの距離を正確に矢で射抜くという演出もその一つだ。本来なら『歴史上最も魔力を有する皇太子を低魔力者が負かす』なんて誰も信じないからな。それこそ八百長だろうと疑うところを、あの演出で誰もが『あってもおかしくない事実』だと認識させたんだ」

「ああ、あの矢は私も驚いた。本当に私の目を狙っていたからな」


 笑い含みにさらりとそう言うユーリシアに、カルリナとユーリは目を丸くする。


「何を悠長な事を仰っているのです……!?本気で狙っていた……っ!!?それでよくユルングル殿下を信用なさいましたね…!?」

「そうです…!!もし本当にユルンさんがユーリシアさんの命を狙っていたら─────」

「それはない」


 ユーリの言葉を遮ってはっきりとそう断言するユーリシアに、再び二人は目を丸くした。そうして続く言葉を持つように二人仲良く呆けた視線を寄越すユーリとカルリナに、ユーリシアはにこりと微笑む。


「だってユルンは私たちに言っただろう?『自分は与えられた役を演じる』────と」


 その言葉に、今度はアルデリオも含めて三人仲良くきょとんとした顔を披露する。それにユーリシアはくすくすと笑みを返して、ゼオンは呆れたように鼻で笑った。


「……え……っと……いつ、ユルンさんが言ったんですか……?」

「……申し訳ございません、殿下。私にも覚えが……」

「カルリナはその場にいなかったからな、知らなくて当然だろう。だがユーリは私と一緒にその場にいた」

「アル、お前も俺と一緒に隣の部屋にいたはずだぞ」

「…!」


 アルデリオはゼオンの言葉で、ようやく示唆するものが何かに思い至る。


「─────『演技ができてなんぼだろう』……!」


 明朗な声で告げるアルデリオの言葉に肯定を示すように、ユーリシアはやはりその顔に微笑みをたたえた。


 それはユーリとライーザの拉致騒動が起こった後、ダリウスの口から告げられた、ユルングルからライーザへの伝言────。


「あれはライーザだけに向けられた言葉ではない。あの場に居合わせた全員に向けられた言葉だ」


 敵を欺くために、各々与えられた役を演じろ─────皇王を助けたければ、それが出来て当然だろう、と。


「ここは大きな一つの舞台だ。そして演目は、『皇族による謀反勃発』─────。悪心を抱き、皇王を亡き者にしようと企むデリック=フェリシアーナと、それを阻止しようとする者たちの物語。ユルンの役どころは当然、『皇族に恨みを持つ葬られた第一皇子』だ。そして私は、『謀反の罪を着せられた、哀れな皇太子』。この演目の最後はまだ決まっていない。それぞれ与えられた役を演じる私たちの行動如何によって、最後が決まる。『謀反成就』か『謀反鎮圧』か、選ぶのは私たちだ。天などではない」


 ユーリシアは明瞭に告げて、強い意志を乗せたその瞳で皆の顔を見渡す。

 皆その顔に、ユーリシアと同じく強い意志と堅固な覚悟が見て取れて、ユーリシアはそれに応えるように笑顔を返した。


「─────さて、と」


 そうして治療を終えた右手を確認するように二、三度開いては閉じてを繰り返してから、ユーリシアはおもむろに寝台から立ち上がる。その左手には、あの森で自ら引き千切ったはずの変化の腕輪がきらりと光っているのがユーリの視界に入った。


「─────ユーリシアさん、それ……?」

「シスカももう行ったようだし、私もそろそろ行くとしようか」

「え?」


 見渡せば、確かにダスクの姿はない。思えばこの天幕の中に入って以降、ダスクの姿を見た覚えがユーリにはなかった。


「……いつの間に」


 呟くユーリの隣をするりと通りすぎるユーリシアの姿に、ユーリとカルリナは目を丸くして慌てて声を掛けた。


「ユーリシアさん……っ!!?」

「お、お待ちください…!殿下…!!一体どちらに行かれるのです…!?」


 訊ねられたユーリシアは一度足を止めて振り返り、くすりと笑みを返した。

 そうして、まるで悪戯を思いついた子供のような顔で告げる。


「もう一つの役を演じに」


**


 ユルングルは失いそうになる意識を何とか保ちながら、アレグレットに支えられて要塞の中を歩いていた。


 支える人間がミシュレイからアレグレットに代わったのは、他ならぬ領主ベドリー=カーボンが、ミシュレイの要塞への立ち入りを禁止にしたからだ。不満そうにしながらも不承不承と従ったのは、ユルングルの体調をおもんばかったからだろう。これ以上時間を費やすほどの余裕が、ユルングルにはないように見受けられたからだった。


 ベドリーが先導して向かう先は、この要塞の主であるガーランドでさえ立ち入りを許されなかった、最上階。


 そこに向かう階段の一番上には、まるで待ち構えたように一行を見下ろすピアーズの姿があった。


「……誰の許可を得て、この低魔力者をここに入れるおつもりです?カーボン卿」


 不服そうに告げるピアーズの表情は、いかにも気に入らないと言っているように渋面を深く刻んでいる。


 ─────この低魔力者が、五体満足で皇太子との決闘を終えるとは思っていなかった。


 いや、五体満足という表現は適切ではない。実際今目の前にいる第一皇子は、立っているだけでやっとの状態だ。だがその体に、決闘で付いたとおぼしき傷はどこにも見当たらなかった。


 ピアーズは決闘をその目で直に見たわけではない。見るほどのものではないと思っていた。それほどの価値があるとは想定していなかったのだ。


 だが決闘が終わった直後、一部始終を見張らせていた部下の報告に、ピアーズは我が耳を疑った。


 『第一皇子が皇太子の腹部を剣で貫いたが、心臓の持病により敢え無くそのまま撤退』─────。


「……………皇太子は、実兄ゆえに手を緩めたか?」

「いえ、そのような様子はなく。確かに最初の内こそ躊躇いは見られましたが、第一皇子の猛攻に手を緩める余裕もなく─────」

「そんなはずがないだろうっっっ!!!!お前の目は節穴かっっ!!!」

「で、ですが……!!」

「あの皇太子がたかが低魔力者相手に手を緩める余裕がないだとっっ!!?そんな事、見ていなくとも嘘だと判るっっ!!!どうせ我々が見ていないところで口裏を合わせたのだろう!!!」


 憤慨して言葉を荒くするピアーズに困惑して、一部始終を見ていた部下二人は互いに顔を見合わせる。そうしてそのうちの一人が、おずおずと口を開いた。


「………お言葉ですが、ピアーズ様。ピアーズ様は弓で四百メートル先を射抜くことができますでしょうか?」

「…………何だ?突然……。……四百メートル先を射抜ける強弓など、扱えるのは高魔力者でもごく一部だろう」

「…はい、私でも扱うことは叶いません。それを第一皇子は、見事に射抜いて見せました」

「…!!?何……っ!!?」

「何かしら細工を施していた形跡も見当たりませんでした。それほどの実力があるのなら、この結果も決してあり得ない事ではないかと」

「─────…」


 ピアーズの脳裏に、荷馬車から逃げ出した皇王の姿が浮かぶ。


 魔力を封じたはずの皇王はいとも容易く荷馬車から逃げ出し、そして三人の高魔力者の命とピアーズの矜持を容赦なく奪っていった。


(……皇族─────それも直系にだけ受け継がれる能力か何かがあるのか……?)


 常人では計り知れない、何か─────。

 それを推し量るべく、ピアーズはここに来るであろう第一皇子を待ち伏せ、そして今まさに対峙しているのだ。


 ピアーズは騎士に抱えられて辛うじて立っている第一皇子を視界に入れた。


(………確かに噂通り、見目はいい)


 これほど見目麗しい外見をしていれば、男色家であるベドリーのみならず彼に傾倒する者は後を絶たないだろう。

 だが─────。


(だが、それだけだ。髪色を見れば判る。これはただの、取るに足らない低魔力者だ)


 彼の髪色は、闇を思わせる、黒。低魔力者の中でも最下層の人間だ。現に、今まさに病に苛まれている。


 その虫けらでも見るような蔑む目を向けるピアーズに、ユルングルは苦痛に歪む顔に深く刻んだ渋面を向ける。


「─────誰に物を言っている…?」

「…!!?」

「お前は皇族よりも偉いのか…?……それとも、礼儀を知らないただの犬か?」


 額に脂汗を流しながら、それでもにやりと笑って侮辱の言葉を吐くユルングルを、ピアーズは冷ややかな目で見下ろした。そしてすぐさま、にこりと作り笑いを浮かべて恭しくこうべを垂れる。


「……これはこれは、失礼いたしました、第一皇子殿下。ですがここは、皇族であらせられるデリック=フェリシアーナ殿下の許しがなければ、お通しすることは叶わないのですよ」

「…どけ……っ!!デリック様には私から話を通してある!!」

「…!」


 横柄な態度でそう言い放って、ベドリーはピアーズの体にデリックからの書状を押し当てる。ピアーズはそれを黙したまま一読してから、冷たく鋭い視線を一度ベドリーに向けた。


「…!」


 びくりと体を震わせるベドリーを冷ややかに一瞥してから、ピアーズは改めてユルングルに向き直り、威儀を正しているふりを装う。


「……失礼いたしました。お通りください」

「……ふん!さっさと素直に通せばいいのだ!─────さあ、こちらです…!ユルングル殿下…!」


 そのまま階段を上り最奥の部屋へと向かおうとする一向に、ピアーズは再度声を掛けた。


「────お待ちください。そこの騎士はここを通る許可が下りておりません。彼はこちらで待機を」


 唐突に矛先が自分に向かった騎士────アレグレットは、足をぴたりと止めてピアーズを振り返った。

 ここにいるのは、領主とユルングルと、そして部外者とも取れる自分だけ。この先には彼らが必死にその存在を隠した人物がいる。確かに完全な部外者である自分を、おいそれと通すわけにはいかないだろう。


 だが─────アレグレットは思って、自身が支えているユルングルを視界に入れた。

 彼が今、自分の足で歩くことが出来ないのは明らかだ。今自分が彼の傍を離れれば、その体を支えるのは領主しかいない。


(……この領主に……ユルングル様を預けるのか……?)


 できない、それは。

 ユルングルは今、体が弱り切っている。自身の足で歩く事さえ叶わないのだ。この状態で何かあれば、彼はおそらく抵抗さえできないだろう。


 ─────離れるわけにはいかない。だが下手に彼らに抵抗すれば、力づくで引き剥がされる。


 二進も三進もいかない現状に、アレグレットは苦虫を潰したような表情で無意識にユルングルを支える手に力を込めた。それを受けて、ユルングルが後ろのピアーズを振り返った。


「……この騎士は連れて行く」

「…!なりません。許可が下りてはおりませんから」

「許可なら俺が出す……」

「……ここは貴方の権限が及ぶ場所ではございません」

「……お前の主デリック=フェリシアーナは、俺の復讐を成し遂げるための舞台を用意したのではなかったのか……?」

「…!」

「……ここは、俺の舞台だ……すべての采配は…俺が決める…!」


 異論は認めない───そう言いたげな強固な視線を寄越す第一皇子を見据えながら、ピアーズは先ほどベドリーが押し当ててきたデリックからの書状を思い起こす。


 ─────『できるだけ第一皇子の意に添うように行動しろ』


 その書状には確かにデリックの筆跡でそう書かれていた。こう指示を出されては、例え蔑むべき低魔力者が相手でも、デリックの意に反する事は出来ない。


 ピアーズは諸手を上げるように、不承不承とため息を落とした。


「……承知いたしました。ですが、その騎士にはこれから目にする事の一切を口外しないと誓っていただきたい」

「……ユルングル様のお傍にいられるのでしたら、いくらでも誓います。口外はいたしません」

「よろしい。それと、私もご一緒に追従する事をお許し願いたい。デリック様から事の一切を洩れなく報告せよとご指示を頂いておりますので」

「……好きにしろ」


 そのまま踵を返して、一行は再び足を進めた。向かう先は、皇王が捕らわれているであろう、最奥の部屋。その部屋の扉の前で、一行は足をぴたりと止めた。そうして最後尾を歩いていたピアーズが、その扉に手をかける。


(………ここに……陛下が……)


 アレグレットは固唾を呑んで、扉がゆっくりと開く様を視界に収めた。

 ガーランドが何度も侵入を試み、だがその姿を一度たりとものぞむ事の出来なかった、人物。その尊き姿が、この扉の向こうにある。


 アレグレットは次第に開けた扉の向こうに広がる光景に、だが目を大きく見開いた。


 アレグレットの視界に真っ先に入って来たのは、王が滞在するに相応しい華美な部屋の内装と、だが王には相応しくはない、鎖で繋がれ壁にもたれるように地べたに座り込む、自国の王の姿─────。


(……何て事を……っ!!)


 思わず駆け寄りそうになる自身の体を、アレグレットは何とか押し留める。見れば、皇王の前には食事が散乱しているのが見て取れた。それが皇王を捕えている者たちの所業なのか、あるいは皇王自身がした事なのかは判らない。それでも衰弱しきったように壁にもたれかかるその姿を見れば、数日間食事を摂っていない事は明らかだろう。


 自国の王に対する不敬に苦虫を潰したような渋面を取るアレグレットを尻目に、ユルングルはその彼の手から離れて、覚束ない足取りで皇王の前へと歩み寄った。


「………何の用だ……?……ピアー……ズ─────……」


 そこでようやく顔を上げた皇王は、想像とは違った目前にある光景に我が目を疑った。


「……いいざまだな、皇王……!」

「─────……ユルングル……!………何故……ここに……?」


 目を大きく見開いて、皇王はユルングルを食い入るように見つめた。


 幾日ぶりかに見る、我が子の姿。最後に見たのは、ベッドに横たわる痛々しい姿だった。


 これは、己の願望が見せている幻だろうか?

 それとも、教皇の予言通り自分を殺しに来てしまったのだろうか?

 もう、その時がやって来てしまったのか─────。


 思って皇王は、すぐさま心中でかぶりを振った。


 いや、違う。

 ピアーズは昨日、ユルングルとユーリシアが決闘をすると言ってはいなかっただろうか─────?


「………決闘……!ユーリシアと決闘をしたのか…!?ユルングル…!!?怪我は…っ!!どこか怪我をしたのか…っっ、ユルングル……!!!!」

「……黙れ…っっっ!!!!言ったはずだぞ…!!!俺を心配するふりはやめろとっっっ!!!!」

「違うっっ!!!!私は─────!!!」

「何が違う…!!!!!!」


 皇王の叫びを遮って、ユルングルは喉の奥から声を絞り出す。その声は、表情は、明らかに皇王に対する恨みを色濃く表していた。


「……二十四年だぞ…?……二十四年間、ただの一度もあんたは俺を振り返らなかった……!!!俺が何も思っていないと思っているのか……!!?何も感じていないと、本気で思っているのか……っっ!!!」

「……っ!!」

「……ベドリーから聞いた……!!……あんたは、皇妃の腹に宿った俺を……堕胎しろと言ったそうだな……?」

「…!!?それは─────!!!」

「あんたが大事なのは、俺じゃない……!!!!……あんたが家族だと思っているのは……ユーリシアと皇妃だけだろうが…っっっ!!!!!!」


 そうではない─────そう叫ぼうと開いた口は、だが突然胸を抑えてうずくまるようにその場に膝をつくユルングルの姿に、あえなく閉ざされる事になる。すぐさま体を起こしてユルングルの元へと駆け寄ろうとした皇王は、だがやはり腕と足に繋がれた鎖が無情にも邪魔をした。


「ユルングル……っっ!!!!!?」

「…!!?ユルングル様…!!!もうお止めください!!!これ以上はお体に障ります……!!!」


 代わりにアレグレットが慌ててユルングルの元に駆け寄り、蹲るユルングルの体を支える。その光景を、皇王はただ成す術もなく見つめるしかなかった。─────見つめる事しかできない自分が、何よりも腹立たしいと思う。


 ユルングルが今しがた口にした事は、本当の事だ。確かにあの時、腹に宿った我が子よりも皇妃を優先した。これは覆えようのない事実だろう。


 何も言い訳できない実情と、病弱なユルングルを介抱する事さえできない現状に、皇王はただ拳を作った。そんな皇王をわずかに視界の端に捉えながら、アレグレットは不承不承とユルングルの体を支えて踵を返し、扉へとユルングルを促した。


 ユルングルはアレグレットに促されるまま足を進め、だがちらりとめつけるように、呆然と立ち尽くしている後ろの皇王と、その前に散乱する食事を視界に留める。


「……二十四年は、恨みを募らせるには……十分過ぎるほどの時間だ……!!……餓死しようとしているようだが………それを俺が許すと思うなよ…!!」


 皇王はただ、去っていく我が子の背と閉じていく扉を、打ちひしがれたように見つめる事しかできなかった。

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