決戦前夜・前編
ティセオが皇都にある低魔力者の街リュシアに着いてから、今日で三日が経った。
正規の道で行けば六日ほどで到着するはずだった旅は、追っ手を撒くため回り道や裏道を進んだせいで十日の行程となった。アレインと別れてから十日後、ティセオを連れて見事に目的地に到着したリーチェは、リュシアの街の最奥部にある森の前で足を止めてティセオに告げる。
「このまま森を進めばすぐに隠れ家が見えるわ。ユルンから連絡がいっていると思うから、みんな歓迎してくれるはずよ」
「…え?…リーチェさんは来ないんですか?」
「…入れないのよ、私は」
そう切なげな表情で微笑むリーチェに、ティセオは小首を傾げる。
「…?……入れないって……」
訝しげに呟きながら、視線をリーチェから森へと向ける。
その視界に映る、特段変わりのない森。壁があるわけでも出入りを規制するように誰かが立っているわけでもない。『入れない』という言葉の意味が判らず眉根を寄せるティセオを、リーチェはくすりと笑った。
「…遁甲というものを知ってる?」
「……いえ」
「魔力で結界の壁を作って、特定の人物だけ出入りを可能にした結界陣のことよ」
「…!すごい…!そんな事ができるんですか…!?」
「ここの遁甲は敵意を抱いている者だけ弾かれるようになっているの。森に入っても彷徨うだけで、永遠に隠れ家には辿り着けない」
「へえ…。でも低魔力者の街に一体誰がそんな凄い結界陣を……?」
少なくとも、その結界陣が張れるという事はそれを張った人物は高魔力者という事だ。低魔力者を蔑むこの国で、明らかに低魔力者を守ろうとする意志がこの遁甲から見て取れた。それを不思議に思ってもう一度森を見るティセオに、リーチェは柔らかに笑う。
「……世界で一番、優しい人よ」
「……え?」
この十日の旅で一度も聞いた事のない穏やかな声と柔らかい笑みに、ティセオは目を見開く。そのリーチェの様子がいかにもその相手に好意を抱いているように見えて、ふと十日前のアレインとの会話を彷彿とした。
─────(ユルンに伝言をお願い。大好きだと伝えて)
その『ユルン』という人物が、ここに遁甲を張ったのだろうか─────?
そう思案して、思い出す。
リーチェは先ほど、この遁甲の先には入れない、と言ったはずだ。
この遁甲の先に行けないのは『敵意を持つ者』だけ。
では、リーチェも────?
「あ……リーチェさんは……その…ユルンさんという人に敵意を……?あれ……?でも大好きだって……」
「…!…ああ、ごめんなさい。私の言い方に語弊があったようね。…正確には私も遁甲に入れるのよ。ただ入れるけど、出られないだけ。だから『入れない』の」
「…え?……出られないって…何で……?」
「私を捕まえておきたいからかしら」
「……誰が?」
「世界で一番優しい人とその弟」
「…?」
なおさら訳が判らなくなって目が点になるティセオを、リーチェはくすくすと笑う。
「誤解しないでね。あの二人はとても心配性なだけなのよ。でも心配されるのが嫌で私が逃げ回ってるから、強硬手段に出るしかなかったのね。…確証はないけど、わざわざ私に貴方をここまで連れて来させたのだから遁甲に細工を施している可能性が高いわ。…だから私が行けるのはここまで」
そう言って、リーチェは先を促すようにティセオの背中を軽く押して踵を返す。
「もしユルンが無事に帰ってきたら伝えておいて。捕まってあげられなくてごめんなさい、って」
そのままティセオの返事を待たず足早に去っていたリーチェの後姿を、ティセオは工房から隠れ家に戻る道すがらに思い出す。
(……結局、リーチェさんにお礼も何も言えなかった…)
ティセオは今更ながらそれに思い至って、たまらずため息を吐いた。
遁甲の中に入ると、リーチェが言う通り皆、歓迎してくれた。隠れ家だという建物の中にわざわざティセオの部屋まで用意してくれて、おまけに働き口まで斡旋してくれた。とは言っても、今はまだ工房での見習い職人だ。それでも、この幼い外見の所為で今までまともな職にありつけなかったティセオは、生まれて初めて真っ当な人間として扱われた事に、この上なく幸せを感じていた。それもこれも皇王が自分を助け、そしてアレインがリーチェに自分を託し、そのリーチェがここまで無事逃がしてくれたおかげだろう。
なのに結局、礼を言いそびれてしまった。
また彼女に会えるだろうか、と再び小さくため息を落としたティセオの視界に、もう日が暮れ始めた茜色の中に隠れ家の前で座り込む人影がある事に気が付いた。
「…ライーザさん?どうしたんですか、こんなところで…?中に入らないんですか?」
「…!ああ、ティセオか。おかえり」
言いながら、ライーザは座れと促すように自分の隣を手のひらで軽く叩く。
ライーザはこの比較的大きな建物である隠れ家に、自分以外で住んでいるただ一人の住人だ。他の部屋にも人が住んでいた形跡はあるが、今は不在なのだと教えてくれたのはライーザだった。
「…どうだ?ここでの暮らしは?何か不便はないか?」
「いえ、皆さんよくしてくれるので何も。…ライーザさんも工房で働いてみたらいいのに。楽しいですよ?」
「…俺は遠慮しとく。手先が器用ってわけでもないし、ユルンみたいに物作りに興味もないからな」
心底嫌そうに苦虫を潰したような表情を取るライーザを、ティセオはくすりと笑う。
「…ライーザさんって普段何をしてるんですか?」
「普段は情報収集であちこち回ってる」
「…?…情報収集?」
「あれこれ必要な情報を必要な時に取って来いって無茶を言ってくる馬鹿がいるんだよ、ここには。…まあ今は、この遁甲の中から出られないんだけどさ」
「…!……え…っと、リーチェさんを閉じ込めようとしたみたいに、ライーザさんもこの遁甲の中から出られないんですか…?」
「いや、違う違う…!俺は命を狙われてるから出られないだけ!…ってか、そんな事考えてたのか、ユルンは。そりゃ、リーチェさん入ってこないわけだよ…」
呆れたようにため息を落とすライーザの言葉に、ティセオは軽く目を見開いた。
「……ライーザさんも…?……俺みたいに命を狙われてここに……?」
「……原因を作ったのも、あの馬鹿だけどな…!」
思い出したのか、やはり苦虫を潰したように眉間にしわを寄せるライーザを、ティセオはもう一度くすりと笑う。ライーザが『馬鹿』と付けるのは十中八九ユルングルと言う人物である事を、ティセオはこの三日で学んでいた。
「…………一体いつになったら自由になれるんでしょうね、俺たち……」
途方に暮れたようにぽつりと呟くティセオに、ライーザはさもありなんと答える。
「いつって…まあ、この謀反が終わるまでだろうな」
「……いつ終わるんでしょう?」
「さあな。でもユルンが帰ってくる頃には落ち着いてるだろ」
「……?……どうしてユルングルさんが帰ってくると謀反が落ち着くんですか?」
怪訝そうに小首を傾げるティセオに、やはりライーザはさもありなんと答える。
「どうしてって、あいつが第一皇子だからだろ?」
「…へえ……だいいちお──────────…………第一皇子っっっ!!!!!?」
当然のように落とされたその言葉に、ティセオはこれ以上にないくらい目を見開いて思わず立ち上がる。ライーザはその声の大きさに驚きつつ、目を丸くした。
「まままままま待ってください…!!第一皇子って……皇太子殿下の事…っっ!!?」
「ああ、違う違う。そっちは弟。ユルンはその皇太子さんの兄貴だよ」
「あ、兄……?………いましたっけ……?」
「表向きは死んだ事にされてるな。でも正真正銘ユルンは第一皇子だよ。──ってか何も聞かされてなかったのか?」
それには大きく何度も首を縦に振る。
頷きながら、ティセオはふと思い出した。追っ手から逃げる最中、道に詳しい事を不思議に思って訊ねた自分に、皇王シーファスは息子の話をしていなかっただろうか。
────(私の息子は私以上に物知りでね。あの子の言う通りにすれば間違いはない)
思えばこれが皇太子の事だとしたら、おかしな話だろう。皇王でも知らないような隠された道を、なぜ同じように皇宮で暮らす皇太子が知っているのだろうか────?
(…あれは、ユルングルさんの事だったんだ……)
ひどく狼狽した後、呆けたように立ち尽くすティセオを、ライーザは大きく笑い飛ばした。
「それは災難だったな!あいつはいっつも何も言わないから!」
「あ…いえ…!俺、直接ユルングルさんに会ったわけじゃ……」
「そうなのか?なら会えばきっと驚くぞ」
「…?…驚く?」
「あいつ顔だけは馬鹿みたいに綺麗だから」
「……そんなに綺麗なんですか?」
「男にしておくのは勿体ないくらいな。特にあいつの女装姿は破壊力が半端ない」
「じょ、女装……?」
なぜ第一皇子が女装する事になったのか、その経緯は大いに気になるところだが、あまり深入りしてはいけないような気になってティセオは苦笑するに留める。
「あいつには言うなよ。意外と女顔を気にしてるからな」
「………ライーザさんはユルングルさんと仲がいいんですね?」
ライーザのユルングルに対する態度は、皇族に対するものというよりも長年共に過ごした友人のように気安く親しい。ライーザの言葉の節々からそれが見て取れて、ティセオは何気なくそう訊ねる。
それには想像と違ってやはり苦虫を噛み潰したような表情が返ってきて、ティセオは思わずぎょっとした。
「……どいつもこいつも仲が良いって言いやがって…!俺がどれほどあいつの傍で苦労したと思ってるんだ…!!」
「……ええ……っと……ごめんなさい……?」
何やらひどく機嫌を損ねたようなので、ティセオはとりあえず謝罪しておく。
仲が悪いなんて知らなくて…と小さく零したティセオの言葉に、ライーザはどことなく気まずそうに返事をした。
「……別に仲が悪いってわけじゃない。……まあ、好かれてるかどうかも怪しいけどな。ユルンはそういうの、いちいち言葉にしないから」
どこか遠い目で呟くライーザが少し淋しげに見えて、かける言葉に窮して俯くティセオにライーザはにやりと笑って告げる。
「…でもお前はユルンに気に入られるだろうな」
「!!?え…!?え!?な、何で…!?」
「あいつは子供好きだからなあ」
「…!……………俺、子供じゃないけど……?」
今度はティセオが苦虫を潰したような表情を取るので、ライーザは思わず吹き出すように笑う。
「ははっ、判ってるよ!その反応込みで気に入られるって言ってんだよ」
「えぇ…────………ユルングルさんって一体どういう人なんですか……?」
聞けば聞くほど癖の強そうな人物のようで、ティセオは思わずうんざりしたように訊ねる。第一皇子というだけでも恐れ多いのに、子供好きで女装が似合うほど綺麗で癖の強い人物に気に入られても心臓に悪いだけだろうか。
そんなティセオの内心を悟って、ライーザはくすりと笑いながら答えた。
「…馬鹿みたいに人間臭い奴だよ」
「……え?」
「…天才のくせにその自覚はないし、嫌味なほど頭が切れるし、人を揶揄うのが好きで本気かどうか判らない冗談ばっかり口にするし、かと思えば本気で実行に移すし、態度が悪い癖に人を怒鳴るのが苦手だし」
褒めてるのか貶しているのかよく判らないライーザの月旦評に、ティセオは返す言葉に困って、ただ苦笑を浮かべる。だが途端にライーザのその表情が穏やかになって、ティセオは目を見開いた。
「…おまけに体が弱いのに無茶ばっかりするし、自分の気持ちに鈍感で、珍しく気付いても素直に言わないし、なのに他人の痛みには馬鹿みたいに敏感だし、困ってる奴は絶対に見過ごさないし……ほんと、面倒くさくてやたら人間臭いんだよな、あいつは…」
「…………」
「……また無茶してなきゃいいけど」
遠くを眺めながら、そうぽつりと呟くように言葉を落としたライーザを、ティセオは視界に入れた。
(……ああ、そうか……)
リュシアの街に来てから三日、隠れ家の前でこうやって何をするわけでもなくぼんやりと遠くを眺めるライーザの姿を、ティセオはよく目にしていた。何をしているのか訊ねてもライーザはいつも別の話ではぐらかして、決して真面目に答えてはくれなかった。
ティセオはその答えが判ったような気がして、ライーザが眺める遠くの景色に視線を移す。
(……ライーザさんは待ってるんだ……。ユルングルさんが無事に帰ってくるのを────…)
ライーザが眺める方角には、リュシアの街とこの隠れ家とを隔てるあの森が存在する。ティセオが遁甲を越えてここにやって来た時も、真っ先に気づいたのはライーザだった。
きっとライーザが見つめるその先にあるのは、無事に帰ったユルングルの姿なのだろう。
無事に帰ってくるといいですね、と言えば、ライーザはまた苦虫を潰したような表情で反論するのだろう。それを想像して小さく笑った後、ティセオもまたライーザが見つめる先を慈しむように眺めた。
**
「シュタイン卿、またこちらにおいででしたか」
夜もすっかり更けて人々が寝静まる頃、ラン=ディアは家から少し離れた場所で遠くを眺めるアレインに声を掛ける。アレインは一度視線をラン=ディアに向けた後、再びまた同じ場所へと視線を戻した。
「…ええ、ここからならよく見えますから」
彼が見つめる先は、ダリウスが『皇王が捕らわれている場所』と明言した要塞の最上階、一番右奥の部屋だ。アレインはソールドールに着いてから欠かさず、眠りにつく前にこの場所で皇王がいる場所を見上げる事が習慣になっていた。
季節はもう冬になろうかという時期。しかも夜更けなので気温は昼に比べるとずっと低い。それでも彼はまるで神を崇拝するように、毎日必ず皇王がいるであろうあの一室を、哀愁と渇望を込めた眼差しで長い間眺めてようやく眠りにつくのだ。
(…忠誠心というのは度し難いものだな……)
兄殺しの罪を着せないために自らユーリシアの剣を受けたラヴィといい、どこまでもユルングルに尽くすダリウスといい、これほど身を粉にして誰かに尽くそうと思える忠誠心に畏敬の念を抱きつつ、どこか愚かにも思えてラン=ディアはため息を落とす。それはきっと自分にはその忠誠心がない事への不理解からくる感情ではなく、医学を以て命を救えるのだと盲信的なまでに確信を抱き、目の前の命を助けずにはいられない愚かな自分と重なって見えるからだろうか。
ラン=ディアは自嘲気味な笑みを一つ落として、祈りを捧げるように見上げるアレインに声を掛ける。
「…大人しく待っているのですね」
「…?」
「てっきりソールドールに着けばなりふり構わず陛下を助けに行かれるかと思いましたが」
何が言いたいのかを察して、アレインは恥じ入るように俯く。
「…その節はお見苦しいところをお見せいたしました。申し訳ございません……」
「いえ、お構いなく。被害を被ったのは俺ではありませんから」
にこりと微笑んで悪びれもなくそう言うので、アレインはなおさらバツが悪そうに俯くしかない。ラン=ディアはそんなアレインをくすりと笑って、もう一度訊ねた。
「…陛下を助けに行かれないのですか?」
行きたい気持ちをアレインが必死に自制している事も、この言葉が彼のそんな気持ちを助長し唆しているように聞こえる自覚もある。それでもラン=ディアは訊かずにはいられなかった。
問われたアレインは、憮然とした表情でゆっくりと視線をラン=ディアに移す。
「……まるで、けしかけているようですね……」
「けしかけている自覚はありますよ」
「…!」
「正確には、けしかけている気持ちが半分、貴方が本当に行ってしまわないか試しているというのが半分です」
「…?……行ってほしいのか、ほしくないのかどちらなのです…?」
まるで禅問答をしているような気分になって眉根を寄せるアレインを、ラン=ディアは少し困ったように視界に入れる。
「…貴方が本当に陛下を救い出せるのでしたら、是非とも行ってこのくだらない謀反を終わりにしていただきたいですよ。ですが、どうにもそう簡単な話ではなさそうですからね。ユルングル様の計画通りに事が進まないと、陛下はきっと助からない。だとすれば、貴方が事を急いてしまわないように釘を刺す必要がある」
「……ではこれは、私に釘を刺しておられるのですね…?」
「…ええ、貴方のその姿は不安を助長する」
「…!」
「次に見た時、貴方の姿がここになければ、ああ、やはり行ってしまったのかと落胆するのが、俺は嫌なんですよ」
その正鵠を得た言葉に返す言葉もなく、アレインは口を噤んで視線を要塞の一室へと向ける。
ずっと、助けに行きたい気持ちを抑えてきた。
皇王がいる場所はもう目と鼻の先だ。手を伸ばせば今にも手が届きそうなほど近い。なのに助けに行けない事がもどかしく、苦しかった。
そんなアレインの気持ちを悟ったかのように、ユルングルはウォクライと共に傭兵たちの取り纏めをするようアレインに命じた。
いずれソールドールの私兵としてユーリシア率いる騎士団たちとの戦闘が始まる。あくまでデリックたちを騙すための偽装だが、それは決して悟られてはならない重要事項だった。ミシュレイの助けを借りて信頼できる傭兵たちにのみ事の経緯を話し、他の者達へは一切の報告を行わず彼らには本当に戦をしているのだと思わせる。それは彼らに裏切る時間と隙を与えないための処置なのだろう。
それに於いて最も重要な事は、決して死者を出さない事。
そのために綿密な計画を練る必要があった。おかげで幸いと言うべきか、日中は食事を摂る時間を作る事も困難なほど慌ただしく時間が過ぎていった。そうやって過ごす間は、皇王の事を念頭から消す事が容易にできたのだ。
だが一人になった途端、頭の中は皇王の事でいっぱいになった。
きちんと眠っておられるだろうか。
ひどい事はされていないだろうか。
怪我は?食事は?
何より陛下は、今もご存命なのだろうか────?
そうやって溢れ出る不安を抑えるために、ここであの一室を眺める事が習慣になった。
あの場所に、陛下がおられる。
窓から顔を出せばその姿が確認できるほど、近い。
いつか必ず、あの場所に赴いて陛下をお助けする。
必ず────。
そう噛んで含めるように、何度も何度も己に言い聞かせた。
それでも抑えきれない不安に突き動かされるように、日に日に一歩ずつその距離が短くなっている。
その自覚があっただけに、ラン=ディアの言葉に反論する術をアレインは持たなかった。
諦観するようにため息を落として、アレインはラン=ディアに視線を向ける。
「……ラン=ディア様は、本当にユルングル様が陛下を助けてくださると思っておられますか?」
「ええ、必ず」
「……ユルングル様にはかつて、皇族を憎んでおられたという過去があったとしても?」
「当然です」
「……ダリウス様と仲違いをされたと伺いました。きっと彼らが、ユルングル様の恨みを助長するような事実を突きつけたのでしょう。現にユルングル様はこの家を出て行かれた。まだその時ではなかったにもかかわらず、です。……その事実があっても、ラン=ディア様の確信を揺るがす事はございませんか」
「ありませんね」
何を言っても間髪空けずに肯定だけを示すラン=ディアを、アレインは唖然として見開いた視界に入れた。
長く傍にいたダリウスが盲目的にユルングルを信頼するのは判る。だが、それほど長い付き合いでもないラン=ディアがこれほどまでにユルングルに信頼を寄せる理由に、アレインは思い当たる節がなく訝しげに眉根を寄せた。
「……なぜそれほどまでにユルングル様を信頼なさっておられるのです…?」
その問いかけには、わずかに思案するように一拍開けてから答える。
「…そうですね、確かに俺はユルングル様との付き合いは短い。シュタイン卿とさほど変わりはないでしょう。ですが俺は、シスカとの付き合いは腐れ縁と言ってもいいほど長いんですよ」
「……?……どうして急にそこでシスカ様が出てくるのです……?」
唐突にシスカの名前が出てきて、アレインはなおさらラン=ディアの意が汲めず怪訝な顔を深くする。
「シュタイン卿もシスカとは付き合いが長いでしょう?」
「え、ええ……十年ほど前からシスカ様には操魔を教えていただいております。師にも等しい方ですが……?」
「では、あれがどういう人間か嫌と言うほどご存じでしょうね」
「……?…当然です。あの方はいつも他人のために奔走し、ご自分の身を差し出してでも救おうとなさる方です。私は人伝に聞いただけではありますが、アリアドネの街で暴徒を収めた時がいい例でしょう。…いつもご自分の事は二の次にして、ご自分の私怨よりも人を救う事を優先し、犠牲になる事を厭わない────……」
妹を殺された直後、一時的に人から離れようと故意に人を遠ざけている節はあった。だがそれでも、やはり人を救うという事を止める事が出来なかったのだろう。シスカの葛藤が見て取れたが、結局は人を守り救う選択を選んだのだとアレインは思っている。
思って、アレインはふと気づく。
自分で口にしたその一つ一つが、何か妙に心に引っかかりを覚えた。
(……何だろう……?……これは、どこかで────……)
「誰かに似ているとは思われませんか?」
「…!」
まるで自分の独白に応えるようなラン=ディアの言葉に、アレインは目を見開く。
────そう、確かに誰かに似ている。
自分の身を二の次にして、誰かを救う事を何よりも優先する、その姿。
「…………ユルングル様……?」
ぽつりと呟いたアレインの答えに、ラン=ディアは肯定を示すように微笑みを返した。
「…彼らの行動原理はとてもよく似ております。…同じ獅子だからでしょうかね?彼らの根幹には、人を救うという事しかない。たとえ『私怨』という感情が身の内にあったとしても、それすら凌駕するほどに強い」
シスカは妹を殺した人間に対する恨みを身の内に抱きながら、それでも人間を見放すことが出来なかった。
ならば同じ獅子であるユルングルもまた、自分を捨てた実父に対する恨みを抱きながら、きっとそれでも見放す事は出来ないのだろう。
「…あの二人はうんざりするくらい、人間が好きなんでしょうね」
獅子としてそう作られたのか、あるいはそういう人間だからこそ獅子に選ばれたのか────。
後者であってほしい、と願うのは、彼らにとっては酷な話だろうか。そう憐れむような表情で小さく笑むラン=ディアを視界に入れた後、アレインはもう一度要塞の一室に視線を戻した。
「……ユルングル様は、本当に陛下を────……?」
「…シスカと違ってああいう態度しかお取りになりませんからね、あの方は。誤解を振り撒かれるし、信じてももらえないでしょう。…ですが、あの方の近くにいる我々だけでも、信じてもいいのではないですか?きっとそれくらいならば、神様も許してくださいますよ」
疑心を抱けと、ダリウスに言われた。
それが皇王を救える唯一の道だと。
だがラン=ディアはもとより疑うつもりなど微塵もなかった。
シスカをよく知るラン=ディアだからこそ持ち得る確信なのだろう。
確信を抱いてしまった以上、今さら疑心など育つはずもない。
ならば、このまま確信を抱いたままでも、さほど弊害はないのではないかとラン=ディアは結論付けた。ユルングルは疑心の種を蒔くために、いつも以上に悪びれた態度を取っている。きっと彼を信じる者の数など、疑心を抱いている者の数に比べれば取るに足らない数だ。
何より、あのダリウスだけはユルングルを信じる側にあっても容認されている。おそらく彼だけはユルングルを疑う事など天地がひっくり返っても決してあり得ないからだろう。そしてもしそれが裏切られたとしても、ダリウスのユルングルに対する信頼が決して失われる事がないからだ。それはつまり、何があっても揺るがない確信を抱いた者だけは、ユルングルを信頼しても容認される、という事に他ならない。
(……暴論だと言われても仕方がないかもしれないが……)
だがそう思えば思うほど、自身の中の確固たる確信がなおさら堅固になっていくのだ。
ラン=ディアはどこか自嘲気味な笑みを人知れず落として、未だ要塞の一室を眺めるアレインにもう一度問いかけた。
「…どういたします?陛下を助けに行かれますか?」
行かれては、正直困る。
これ以上事が長引けば、きっとユルングルの体はもたない。
そして彼が倒れれば、きっとこの謀反を止める事はもうできなくなるのだろう。
(…ユルングル様は何度も言っておられたな)
皇王を助けられるかどうかはアレインの行動にかかっている、と。
それはきっと、アレインがティセオを迎えに行ったあの時だけの話ではないのだろう。
アレインが勝手な行動を取れば、間違いなく破滅に向かうのだ。
固唾を呑んで返事を待つラン=ディアに、アレインはただ無言を返して未だ要塞の一室を見る。その一室に触れるように、アレインは手を伸ばした。
あそこに、我が主が捕らわれている。
手を伸ばせば届きそうなほど、近い。
なのに助けに行けない事がもどかしく、苦しい。
────だが本当に苦しいのは、捕らわれている陛下ではないだろうか?
その陛下を救うことが出来るのならば、何でもすると誓った。
たとえ泥水をすすっても、誇りを捨てる事になっても、陛下が助かるのであれば大した事ではない。
それに比べれば、ただ待つだけなど苦ですらないのだ。
アレインは皇王がいるであろうその一室を捕まえるように、掲げたその手を握りしめる。
そして己の中に決意を固めるように、その強い眼差しをラン=ディアへと向けた。
「ユルングル様が機を作ってくださるというのなら、私はそれを待ちましょう。その時は必ず、私が陛下をお迎えに上がります」




